半月

七咲リンドウ

あなたのぜんぶがほしかった

 夜空には半分の月が出ていた。明るすぎる半月はんげつは星の光を掻き消して、晴れた夜空は半月と夜空だけのものだった。まるでわがままな私と黙ってお願いを叶えてくれる彼みたいだ。

 半月はんつきに一度、私は人ではなくなる。

 身体が自分のものじゃないみたいに重くなって、至るところが痛み、たくさんの血が出る。心が不安定になって、世界中の何もかもが敵に見えて、尋常ではない破壊衝動に襲われて、生きるのが辛くなる。

 半月に一度、彼は私に優しくなる。

 いつもはどんなに甘えても面倒くさそうな顔をして、淡々とお願いを聞くクセに。無茶苦茶な命令もやれやれだなんて言いながら聞くクセに。半月に一度、私が弱った日にだけは、彼は柔らかな笑みを浮かべて私を温めてくれるのだ。


 だから許せなかった。


 たとえば深夜、私がプリンを買ってきてと言ったら、彼は嫌そうな顔をしながら近くのコンビニまでおつかいに行ってくれる。そのとき、彼は画面越しのあの子を見ていた。

 たとえば夕方、私が髪を乾かしてと言ったら、彼は小さく溜め息を吐くなり長すぎる黒髪に指を通しながらドライヤーの冷風をじっくりしっかり当ててくれる。そのとき、彼は偶然繋がったあの子とゲームをしていた。

 たとえばお昼、私がトイレまでおんぶしてと言ったら、彼は気だるげに重い腰を上げて私をお姫様だっこしてくれる。そのとき、彼は電波の向こうにいるあの子と通話していた。


 半月に一度しか私に向けてくれない笑顔を、月に三十回以上、彼は他の女に向けている。


「ねえ、わからない? 私が怒ってるって」

 いつも刺々しい態度をとってしまう私は、いつも怒っているように見えるだろう。実際、友達にはよくそう言われた。けれど彼は、半月に一度の日をわかっているから私以外に微笑むのだ。

「わからないよ。言ってくれなきゃ」

 本当は全部わかってるクセに。

 だから、なんだかんだで許してしまうのだ。本当は全部わかってて、本当は優しい人で、本当は私のことが一番だと思っていたから。

 それは勘違いだった。


 それは半月に一度の日だった。一日ずれていたから彼でも気づけなかったのだ。そうに違いない。昨日の夜からいなかったのは関係ないはずだ。

 私は辛くて、怠くて、死にたくて、壊したくて、抱きしめて欲しくて、彼の名前を呼んだ。何度呼んでも背伸びした子どもみたいな声は返ってこなかったから、身体を壊すような思いで毛布を跳ね除けて、血を吐く思いで彼の名前を呼んだ。彼はどこにもいなかった。

 何回電話をかけてみても、彼は出てくれなかった。どれだけ待っても彼からの返信はなかった。彼以外に甘えるという選択肢が、私にはなかった。汗と血に塗れて起き上がり、覚束ない足取りで外に出た。近所のコンビニに彼の姿はない。

 途中、ゾンビみたいな女を見た。ぼさぼさに乱れた長い黒髪。濃い隈。真っ赤に充血した目。青白い顔。汗と雨で身体にべったりと張り付いた少女趣味なパジャマ。裸足に履き古した安物のサンダル。ショーウィンドウに映った私だった。

 

 彼を見つけたのは、それから三回ほど偽善者に声をかけられたあとだった。でも、私は彼に声をかけられなかった。彼も私を見つけてくれなかった。彼は、知らない女と笑い合っていた。聞き覚えのある声だった。私は雨に打たれて世界の終わりのような気分なのに、硝子の向こう側には別の世界が広がっているようだった。

 そのとき、私は本当の意味で人間ではなくなってしまったのだと思う。


 それから半月で、全ての準備が整った。

 夜空には半分の月が出ていた。明るすぎる半月は星の光を掻き消して、晴れた夜空は半月と夜空だけのものだった。まるでわがままな私と何も言わずにお願いを叶えてくれる彼みたいだ。

 半月に一度の日なのに私が平気そうな顔をしてでかけたものだから、彼は心配しているだろうか。それとも、お荷物がいないのをいいことに他の女にへらへら笑っているだろうか。無駄なのに。

 崖の上にある公園は台風を受けてなお秋の色を残していた。明るい半月のおかげで鮮やかな朱色がよく見える。公園の周囲に植えられた楓、東屋の下、崖の下、これからベンチの上にもう一つ増える。冷たい風の匂いを嗅ぐと、しばらくお肉を食べにくくなってしまったなと思う。これからはもっといっぱい食べなくちゃいけないのに。

 あと一歩、というところで彼から電話がかかってきた。気分がいいから駆け引きをせずに三回のコールで出てあげた。もしかしたらアレが見つかってしまったのかもしれない。あえてすぐには見せずに、先に不安要素を排除してから教えてあげようと思ったのに。

 案の定だった。震えるほど嬉しそうな声を聞いて、彼の微笑みを思う。続いた言葉に、少し吐き気がした。それさえも何だか彼と私を繋ぐ証明のように思えた。なんでも今目の前で手足と口を封じられている女と話していたのは、私の半月に一度の日に関する相談だったらしい。

 気づけば下腹部をさすっていた。そこに彼の温もりが残っているような気がして思わず頬が緩んでしまう。どこにいるのかと聞かれたから、この町で一番高いところと答えた。私の身を案じてくれる彼に、私は大丈夫と答える。


「だって私、今はもう辛くないもの」

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半月 七咲リンドウ @closing0710rn

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