第40話 休息(5)

 なんとか鹿を背負って山を降りることができた。

 山特有の湿った土と濃密な草のにおいが消えると、人里に帰ってきたという感覚が強くなる。

 知っている道に出てほっと一息つくと思っていたよりもだいぶ日が傾いていることに気がついた。

 山に入っていると時間の感覚がズレるのはよくあることだ。


 山を降りている途中で脛の筋肉が痛くなってしまって非常に困った。

 平らな道に出ても歩くのはすこしきつい。

 斜面を下るときに踏ん張ったせいでいつも以上に力がかかったのだろう。

 明日も作業があるのに筋肉痛になったらしんどいだろうなと思った。


 家に着くと、ソフィーが出迎えてくれる。


「ただいま」


「おかえり!すごいね!鹿?」


「そう。初めて仕留められた」


「すごい!すごい!レインはほんとにすごいね!綺麗に皮を剥がしたら敷物にできそう!」


 ソフィーが喜んでくれたら、俺も嬉しい。

 わざわざ頑張って狩りをしてきた甲斐があるというのものだ。


 背負ってきた鹿をゆっくりと地面に降ろす。

 腰が少し痛くなっていることに気がついた。


「一応血抜きはしたけど、細かいところはガウルおじさんに聞いてからにしよう」


「うん!私もおじさんに鹿の解体の仕方を習いたい!」


 ソフィーは刃物の扱いも上手いからすぐに覚えるだろう。

 魚の捌き方は見ていて惚れ惚れするほど手際がいい。

 ソフィーは物覚えがいいし、なんでも器用にこなせるから村の人たちにも気に入られていた。


「さすがに今日は疲れたな……」


「お疲れ様。山から背負って歩いて来たんだもんね」


「斜面を降りるのは結構大変だったけど、意外となんとかなったよ」


「dさfkまsp;?」


「え?」


「dさおんmpぐぁ/れび」


 俺にはソフィーがなんて言っているのか分からなかった。

 ああ、これは夢なんだなと俺はそこで気がついた。


 ソフィーは『疫病』で亡くなった。

 彼女の最後を俺は看取ったし、遺体は焼いて彼女の両親の墓の隣に葬った。

 ソフィーはもういない。


 夢だと気がついたらもうここにはいられない。

 俺の意識は浮上を始めているから、夢の中のソフィーとは波長が合わなくなっている。

 それでソフィーの言葉が理解できなくなったのだろう。


 もっと声が聞きたい。

 ソフィーの存在を感じたい。

 伝えたいことがあったはずだ。

 言ってほしい言葉があったはずだ。


 違う。

 これは過去の記憶に過ぎない。

 ソフィーはもう亡くなっている。


 いやだ。


 覚醒しようとする大きな波に抗おうとしたがほとんど無意味だった。

 圧倒的な力でどんどん引き上げられていく。

 景色がグニャリと歪んでかき混ぜたシチューのような渦になる。


 夢と現実の間で俺は手を伸ばした。


「ソフィー……」


「え……?」


 手がソフィーの頬に触れたと思った。

 しかし、それは間違いだった。

 そこにいたのは俺のことを覗き込むリーリアだった。

 夢の中ならあった俺の右手はなく、ただ包帯をぐるぐる巻かれた腕があるだけだ。


「……」


 俺はリーリアになんて言ったらいいのかわからなかった。

 寝ぼけて他の人に間違えました、なんて言うのはさすがに失礼だろうと思ったからだ。


 それに死んだ人間にいつまでも囚われているとは思われたくなかった。

 でも、リーリアにどう思われているかなんて気にする必要があることか?

 ただ、リーリアはすごく傷ついた顔をしていて、俺は謝ったほうがいいのかな、と考えてしまう。


 何を謝る?

 ソフィーと間違えたことか?

 頭の中が全然まとまらない。


 俺が黙っていると、リーリアはなぜかベッドの上に乗ってきた。

 なんで???

 俺にはリーリアが何をしたいのかぜんぜんわからない。


 依然として全身が激痛に悲鳴をあげている。

 そのせいで身体はうまく動かない。

 戸惑っているうちにリーリアは俺の腹の上に跨って座り、顔を近づけてきた。


「な、……なに……を……」


 声もうまく出ない。

 口の中がカラカラに乾いていて舌が張り付いていた。


 殺すつもりか?

 血の誓約の腹いせに?

 それならもっと早くやっていただろう。


 おそらく俺が戦闘の反動で倒れてからかなりの時間が経っているはずだ。

 わざわざ目を覚ますのを待つ必要はない。


「……私じゃだめなんですか?」


「……は……?」


「私じゃだめなんですか? 血の誓約まで結んでそのまま捨てるつもりなんですか? 私がどういう覚悟で誓いを立てたと思ってるんですか?」


「……なに?」


 リーリアの目は据わっていた。

 早口で何かをまくし立てている。

 俺にはリーリアが何を言っているのか分からなかった。


 俺が黙り込んでいると、リーリアは俺の両腕を押さえつけた。

 傷口が包帯で擦れて痛みが走る。

 完全にリーリアに馬乗りになられて、俺はされるがままだった。

 出力を絞った魔法で吹き飛ばし、リーリアを跳ね除けるか迷った。

 だが、戦闘経験がなさそうなリーリアだと『空撃』でふっ飛ばしでもしたら怪我をする可能性が高い。

 頭をぶつけでもしたら最悪死ぬんじゃないかと考えて躊躇ってしまう。


 リーリアは顔を近づけてくるとそのまま俺に口づけをした。

 最初、俺はリーリアが何をしたのか分からず混乱した。

 リーリアの唇の柔らかさ、温かさが伝わってくる。

 しかも口づけしてからすぐに離れるのかと思ったら、リーリアは舌を入れてきて一緒に唾液が流し込まれる。

 以前、シアンが淹れてくれたお茶の味がした。


 俺はリーリアに口づけをされながら、ソフィーのことを思い出していた。

 ソフィーが亡くなったあの日、俺は最後にお別れのキスをした。

 そっと顔を寄せたソフィーからは花のような甘い香りがした。

 眠り続けているかのようなその顔は世界で一番美しかった。


 不思議と涙は出なかった。

 ソフィーとの約束が胸にしっかりと刻み込まれ、俺は決意に満ちていたからだろう。


 リーリアがようやく離れる。

 上気した頬。

 潤んだ瞳。

 唇は唾液で濡れていた。


「……私じゃだめですか」


「……俺は、まだ諦めていない」


 今度はすんなり声が出た。

 そして本当の気持ちもするっとそのまま出てきた。

 嘘偽りない思い。


 そうだ。俺はまだ諦めていない。


 魔法に不可能はないのだから。


「諦めていないってなにを……」


「レイン様、邪魔するわよ!!!!」


 リーリアが俺に問いかけたとき、大きな音を立てて部屋の扉が開いた。

 そこにいたのはルイアンと赤い髪の少女だった。

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マジック・リヴァイヴ・ホロウネス 海森 樹 @kaimori-itsuki

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