第39話 休息(4)

 弓に矢をつがえる。

 心臓は高鳴って、呼吸が荒くなっている。


 落ち着け、呼吸を整えろ。


 焦っている気持ちを押さえつける。

 ここで逃がしたらもったいない。

 こんなチャンスしばらくないだろう。


 大きく息を吸って呼吸を整える。

 それでも手の震えは収まらなかった。


 矢が飛んでいくイメージを作る。

 右手で弓を引いた力が矢に伝わり、手を離したと同時に矢は鹿を目掛けて飛んでいく。


 鉄で出来た鏃が鹿の柔らかな皮を、弾力に飛んだ肉を貫いて命を断つ。

 そのイメージに意識を集中させ、命中することだけを考える。


 鹿は動こうとしない。


 集中が極限に達したその瞬間、俺は矢を放った。

 あれだけ狙ったのに、矢は鹿から逸れてすぐ近くの地面に突き刺さった。

 驚いた鹿は飛び跳ねて逃げていく。


 俺は慌てなかった。

 素早く二本目の矢をつがえて射る。

 一度外しているせいか、もはや緊張はなかった。

 鹿の動きから一秒先を予測して放った矢は見事に鹿の首を射抜いたのだった。


(やった……! 初めて仕留めた!)

 俺は嬉しかった。

 小さい頃に父さんから狩りの仕方を教わって以来、何度も山に入って狩りをしてきたが鹿を仕留めたのは初めてだった。

 これまで幾度か遭遇したことはあったが射ることはできずに逃げられてしまっていた。

 喜びで一杯になった心を落ち着かせながら、俺は仕留めた鹿に近づく。

 首を綺麗に射抜かれた鹿は地面に倒れ、血を流しながら痙攣していた。


 思っていたよりも鹿は暴れなかった。

 だが、悲痛な鳴き声をかすかにあげていた。


 俺は鹿を哀れに思った。

 頭を振ってその思いを打ち消す。

 このまま放って置くほうが苦しむことになる。


 近くにあった手頃な大きさの石を拾う。

 勢いをつけて鹿の頭に思い切り石をぶつけた。


 鹿は静かになった。

 俺は近づいて鹿の身体を足で押さえつけ、首に刺さっていた矢を引き抜く。

 傷口からすこしずつ血が流れ出してくる。

 鹿の足は規則的に痙攣し続けていた。


「はぁ……はぁ……」


 激しく動いたわけでもないのに俺の息は上がっていた。

 石を持ち上げ、投げつける。

 たったこれだけの動作をしただけで俺は急いで走った後のように息切れを起こしていた。


 身体が震え、指先から血の気が引いているような感じは続いていた。

 呼吸が落ち着くと鳥と虫の鳴き声が戻ってくる。

 集中しすぎて鹿の鳴き声と暴れる音しか聞こえていなかったのだ。


 俺は鹿から少し離れたところに座り込み、恵みをくださった神に祈りを捧げた。

 組んだ手に涙が落ちる。


 先程まで生きていた命を俺は奪ったのだ。


 生きていくためには仕方がないことだと分かっている。

 仕方がないことではあるが、俺を見つめる鹿の瞳、助けを求めて鳴く声が頭にこびりついて離れなかった。


 仕留めた鹿を持って帰るには背負うしかない。

 だが、急な斜面を結構な重さがある鹿を背負って降りるというのは難儀なことだった。

 鹿の中では小さなほうではあるとはいえ、できれば少しでも軽くしていきたい。

 俺は近くの木に鹿を引っ掛けて吊るし、ここで血を抜いていくことにした。


 ゆっくりと木を伝って血が流れ、根本に溜まっていく。

 先程までの緊張と動揺は収まってきていた。

 鹿の血で手が汚れていたので湖で洗う。


 幸いなことに服は汚れていなかった。

 服に血がつくとなかなか落ちないため、ソフィーの手を煩わせることになる。

 そういうときは自分でやると申し出るのだが、洗濯は奥さんの仕事だよと言っていつもソフィーはやらせてくれない。


 鹿の血を抜くのにはまだまだ時間がかかりそうだった。

 今日の狩りはもう終わりだからついでにきのこや野草を採っていくことにした。

 きのこの中には毒きのこもあるため、俺がよく知っている種類のきのこしか取らない。


 ここの湖はリクリエト村では滅多に見かけることがないきのこが生えていた。

 触っただけで手が腫れるようなものもあるので見知らぬきのこには触れないように気をつけて慎重に採っていく。


 今回はポケットや背嚢に入る程度しか採れないのでほどほどのところで切り上げる。

 野草も少し摘もうと思って湖の近くを歩いていると、うっすら光を放つ植物が生えていることに気がついた。


「これはルーデン草……か?」


 見たのは初めてだった。

 どんな病にも効く薬草で売ればかなりの額になるという話は聞いたことがあった。

 死にかけの王族や大富豪が欲するせいで一般人の手に渡ることはない。


 その代わりに見つけさえすればとんでもない金が手に入るため、ルーデン草を探して各地を渡り歩くことを生業にしているものもいると聞く。

 これを一本見つけただけで10年は働かなくても家族全員が生きていけるほどの金が手に入るのだ。


「こんなところに生えていたなんて……」


 俺はそっとルーデン草を摘む。

 摘むと光が弱くなった。

 それでも暗いところなら目印になる程度には輝いている。


 俺はルーデン草を見つけたことはそれほど嬉しいとは思わなかった。

 嬉しさで言ったら鹿を仕留めたことのほうが余程嬉しかった。

 鹿を狩ったと村の人達に伝えたらみんな祝福してくれるだろう。


 だが、ルーデン草を見つけたと伝えたら?

 これがかなりの金になるということはみんなが知っている。

 リクリエト村の人たちはいい人ばかりだが、もしかすると妬んで酷いことをされるかもしれない。

 俺はルーデン草をそっとポケットにしまった。


 今後、俺かソフィーが病気になる可能性は十分にある。

 売らずに持っておいて、万が一病気になった場合に使おう。

 ルーデン草なら『疫病』にも効くかもしれない。

 そう思った俺はソフィーにもこのことは秘密にしておこうと決めたのだった。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る