第20話 我儘
私だって前の恋人に未練がないわけではないし、凪子さんもきちんとけじめをつけるべきだ、とナナは意外にもそう言った。
ナナがそう言ってくれなくとも、凪子は美月に会うつもりではあった。しかし、そう言われて少し安心した心持で凪子は美月に会うことを決めることができたのだった。
美月はいつものように凪子のアパートに朝早く来た。
授業の準備があると言って朝早く家から抜け出してくるのは容易らしく、昔から美月が訪ねてくるのは早朝が多かった。
まるでしばらく凪子を拒絶していたのを感じさせない雰囲気を美月は醸し出していた。
「久しぶりね。この頃ネイルサロンの方はどう?」
美月はにこりと笑ってそう言った。ベージュ色のスーツがよく似合っていた。少し見ない間に、髪が伸びていもいた。
「そんな世間話をするために来たのかしら。」
凪子は不思議と冷めた気持ちで美月を見つめていた。確かに美月は綺麗だし大切な人だったけれど、もう関係のない人だ、利用されるのはごめんだ、と凪子は内心強く思っていた。
「あら、久しぶりだっていうのにつれないわね。」
美月は凪子が注いだアップルルイボスティーを一口飲み、そう言った。薄いピンク色のリップが少しカップに付着する。付着した形さえどこか品があるのはひいき目なのだろうか。
「弟がね…性転換手術を受けたっていうの。」
本題をはっきりと話し始めるあたりが、やはり美月だ。
「だからどうしたの。あなたは、純くんとはもうとうの昔に縁を切った、と言っていたでしょう。」
凪子はどこか中性的な美月の弟、純を思い浮かべながらそう言った。
昔から、美月と純の仲は悪かった。優秀な姉と出来損ないの弟だと、近所で噂されているのも知っていた。
美月は純が性同一性障害であるということにおそらく誰よりも早く気付き、誰よりも早く彼を蔑んだ目で見ていた。気持ち悪いと、そうも言った。
美月は純の性別に関する感情を抑圧しようと様々な手を使ったみたいだった。それは最初は説得から始まり、何とか自分という異性に興味を向けようとしかけたりもしていたらしい。
残念ながら幼少期から自分を蔑んできた姉に何を言われようと何をされようと純の気持ちは揺るがなかったみたいだった。当時それを聞いていたときは美月を困らせるようなことをする純に凪子もまた苛立ちを覚えていたのだが、高校卒業後すぐに家を出た純のことなどすっかり忘れてしまっていた。結婚式でちらりと見かけて、少し懐かしい気持ちになったくらいだった。
「本当に気持ちが悪いの。それで、もしかしたら両親が私のことも疑うかもしれないでしょう。」
美月は目を伏せながらそう言った。
長い前髪が少し目にかかって、きっと彼女はこれから私にとても酷いことを言う、それが分かっているのに凪子は美月を美しいとさえ思っていた。
「あなたとのこと、世間にばれたら絶対にまずいじゃない。」
ふう、と美月はため息を少しついた。
「そのためにあなたは臣吾さんと結婚したんでしょう?ひなちゃんもいるのに、疑われるはずがないわ。」
凪子はそう言って美月を励ました。
「それに、私はもうあなたに執着する気もないから安心してほしいの。」
凪子は本心からそう伝えていた。
「安心なんてできないわよ。」
美月はぞっとするほど冷たい目を凪子に向け、そう言い放った。
「だってあなたが私を脅すことだって考えられるわ。黙っていてあげるから、とお金を請求されたって私は払うしかないじゃない。」
美月は淡々という。本当にそう言った状況を危惧しているような、そういった切迫感は彼女からは全く感じられず、彼女はただ黙々とそう説明しているだけだった。なぜなら、きっと彼女の中での結論はもう出ているからだ。
「そんなこと、私がするわけないじゃない。」
気休めに凪子は言う。次に美月が何を言うのか、大抵予測はついているのに。
「分からないわ。そんなの信用できない。私があなたとの関係を完全に終わらせることができるとしたら、どちらかが死んでしまうという状況を作り上げるという方法だけなの。」
静かに美月はそう言った。
その言葉は凪子の中に鉛のように重く重く沈んでいき、凪子はそれに引っ張られて沈んでいきそうだった。
「私に死ね、というわけね。だいたいの予想はついていたけれど。」
凪子はため息とともに吐き出すように言った。自分勝手どころの話ではない。
「ただでとは言わないわ。最期は見守ってあげるし、あなたの望むことなら何でもしてあげるから。」
澄ました美月の顔を歪ませたい、という気持ちで凪子は思わずこう言っていた。
「そうね、最後に私と寝てもらおうかしら。」
そう言い終わった凪子が見た先には、美月の微笑みがあり、
「そんなことでいいのね。」
と言って美月は凪子に噛みつくようにキスをしたのだった。
地獄より辛く甘い場所に君を堕としたい~不倫した妻を殺してしまった夫の狂愛劇~ かどめぐみ @mogumaru
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