4
猿島くんは目を見開き、眼鏡のフレームに手をかけたまま、少し前のめりになって静止している。ちょっと嬉しそうな表情で頬をうっすら赤くしていて、僕にはそれだけでわかった。瞬時に猿島くんへの突入を開始する。
僕が起こした突然の風圧に「うわっ」となっている猿島くんのその耳の穴へと体をねじ込ませて外耳道を滑り降り聴神経を突破、そのまま側頭葉の深部にまで一気に突き進んでその到達点へ体当たりし、猿島くんの海馬を表面から内部構造まで凌駕して機能そのものを奪う。視神経からの伝達物質を、僕自身の体、つまり海馬自体を揺り動かすことによって弾き飛ばし、発生するイレギュラーな刺激で大脳辺縁系から大脳皮質までを掻き混ぜて正常な認知機能の妨害を行う。ほんの一瞬。それで十分。僕は海馬機能を手放し、来た道と同じ回路を辿って外へ出る。これで猿島くんの脳における、『美々ちゃんのパンツを見た』という記憶は有耶無耶になり、夢か幻かもわからないくらいのぼやけた像しか結ばなくなった。よかった。
僕は僕の姿に戻り、地面の上へ降り立った。
そこでもう一つのやり残しを思い出し、立ち尽くして眼鏡の奥の目をぐるぐるさせている猿島くんをそのままに、とたとた走っている美々ちゃんを追いかける。
足音に、美々ちゃんが振り返る。
「あ、風野くんおはよう! 今日も寝坊したの?」
とても焦っているとは思えない伸びやかな笑顔で尋ねてくる。僕は、美々ちゃんだってまたまた寝坊したくせに、と思いながら頷いて見せた。
「そうだ風野くん聞いて! 私さっきね、空を飛んだの! ほんとにほんとに、ふわぁ~って、飛んだんだよ!」
両手を羽のように動かしながら目をキラキラさせて美々ちゃんが言う。喋ることに夢中になってしまい、もう走ることを忘れている。その口元にはまだ、いちごジャム。
今朝のおっちょこちょい回収はこれでおしまい、と思いながら、僕は指でそれを拭き取る。
「ふぇっ!?」
驚いて喋るのをやめた美々ちゃんを見て、僕は僕の指でそれをしてしまったことにやっと気付く。直後、頭に熱が登って、火山みたいに勢いよく噴き出した。
言い訳しようにも何をどう言えばいいかわからないし、してしまったことは取り消せないし、とにかく急に変なことをしてしまってごめんと言えばいいのか、僕はその場で足をじたばたさせながらあわあわしてしまって。
でも美々ちゃんは、そんな僕を見て言うのだった。
「ありがと!」
それからはっと思い出して、遅刻しちゃうよ! と走り出す。
上空にはスズメたち。鳥文字を作っているらしい彼らに向かって、美々ちゃんが大きく手を振る。
「行ってきまぁす!」
振り返った美々ちゃんが僕を呼ぶ。僕も慌てて後に続く。
校門に入ったところでチャイムが鳴った。僕はここから『隣のクラスの風野くん』としての一日を始める。
美々ちゃんの見ている世界に溶け込んで、その一部になりきって。
〈了〉
僕は光より速い風 古川 @Mckinney
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます