3


「あっ、かわいい!」


 緩く長いカーブ沿いの歩道。美々ちゃんが声を上げた。ガードレールになっている僕の足元を覗き込む。猫がいる。


「おいで~」


 猫に近付こうと、一歩踏み出した美々ちゃん。その時、靴の着地点にてんとう虫がいることに気付き、片足を空中に浮かせたまま一時停止。しかし、もう始まっていた前方への体重移動を止めることを忘れてしまい、美々ちゃんは頭からガードレールを飛び越え、車道へのダイブを開始する。

 僕はすぐにガードレールから手を伸ばして美々ちゃんの体を掴み上げる。ついでに襟元のヘビを摘んで、結び目をほどいて引き抜き、放り投げる。代わりに学校指定のリボンをそこに結び直す。美々ちゃんは僕の行った修正の速度についてこれず、二、三歩よたよたした後、体勢を整えて真っ直ぐに立った。


「なんか、世界がひっくり返りそうだったなぁ。あ、てんとう虫くん、踏まなくてよかった~。あれ? 猫ちゃんは……」


 美々ちゃんが顔を上げるのと同時に、ブレーキ音が空間を裂く。トラックだ。路上には、猫。僕が解放したヘビを追いかけ、猫が車道に飛び出したのだ。


「危なぁい!」


 こんな時の美々ちゃんには迷いがない。美々ちゃんにとって、生き物の命は皆尊いもので、それが何かの間違いで失われてしまうかもしれない瞬間には、迷わず自分の命を差し出そうとする。

 そんな強い気持ちが瞬時に発動して、美々ちゃんは発射される弾のようにガードレールを飛び越える。


 僕は美々ちゃんを抱えようとするけれど、猫を救おうとする美々ちゃんの気持ちは強くて、僕の手をすり抜ける。美々ちゃんは転げるように車道へ出ると、手を伸ばして猫へと飛びかかる。

 僕は迫り来るトラックの回転するタイヤ部分へと飛び込み、内部構造へと手を伸ばしてそこを掴み、体を引き寄せてブレーキ機関へと全身をねじ込ませる。圧を加えて制動力を最大値まで引き上げながら、足をブレーキローターに突っ込んでタイヤへの摩擦へ加勢する。熱が弾けて光が散る。止まれ止まれ止まれ!

 裂くような高い音が鳴り、ほとんど破損する勢いでタイヤが回転を止める。しかし、車は止まらない。スリップし始めた。


 僕は全ての機関を手放し、そこを抜け出る。車道では、美々ちゃんが猫を腕の中に抱え、迫り来るトラックの前でぎゅっと体を縮めたところだった。

 僕は脳をフル稼働させ、スリップするトラックの進行方向と、美々ちゃんまでの距離、そこまでの到達時間を一瞬で計算する。間に合う。


 地面に飛び込み、体をそこにあるアスファルト一面と一体化させ、絡み付いてくる水道管を引きちぎりながら、美々ちゃんたちのいる地面を根こそぎ高く押し上げる。海原と化す車道で、大波に打ち上げられたトラックが、猫が、美々ちゃんが、噴出する水と共に宙を舞う。


「うひゃぁあああ!」


 猫を抱えたままの美々ちゃんの周りへと、スズメの群れが一斉に押し寄せる。僕はその中に紛れ込み、羽を得て、一員となって空を飛ぶ。


「わ、私、飛んでる!? もしかして、スズメになっちゃった!?」


 驚いている美々ちゃんを、スズメたちが取り囲む。彼らもまた、美々ちゃんを見守っているのだ。

 僕は羽ばたきながら彼らの間を縫い、美々ちゃんの髪へとくちばしを差し込む。ヘアピンと間違えて付けてきてしまった洗濯バサミを抜き取り、代わりに花の飾りの付いたピンをそっと差す。それから、上空を吹き抜ける風を羽でなぞり、そのまま風になる。

 空への上昇を終えて頂点へ達し、ゆっくりと落下し始める美々ちゃんの体を受け止める。大事なものを包み込む、優しい手のひらみたいにして。


「うわぁ……!」


 眼下に広がる街並みが、朝の太陽に照らされて光っている。猫を抱きしめたまま、スズメたちの中心で、美々ちゃんが目をキラキラさせる。


 僕には、美々ちゃんの目に世界がどんなふうに見えているのか、知ることはできない。それは僕が見ているよりも鮮やかな色彩を持ち、眩しい光で溢れた世界なのかもしれない。でも、嬉しそうに楽しそうにそれを見ている美々ちゃんを、僕はずっと見守りたいんだ。


 しばしの浮遊ののち、近付いてきた歩道へと美々ちゃんを下ろす。遅刻したらいけないから、学校へと向かう、最後の直線道路に。

 それからトラックに指先を伸ばし、落下速度と進行方向を修正する。その巨体が無事車道へと降り立ったことを確認してから、僕はほっと息を吐く。


「あ、そうだ! 遅刻しちゃいそうなんだった!」


 束の間の空の旅を終え、しばらく立ったままぼーっとしていた美々ちゃんだったけれど、登校途中だということを思い出してはっと顔を上げた。腕の中の猫をそっと下ろし、優しく背中を撫でてお別れを言うと、学校へ向けてとたとた走り出した。


 僕も僕の姿に戻って学校に行かなくちゃ、と思った時、道の後方に、一人の男子生徒がいるのに気付いた。美々ちゃんと同じクラスの猿島くんだった。

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