ACT.4
その宿は草津温泉街の外れにあり、客は一日三組しかとらないという、いわば『隠れ家』的な温泉宿だった。
草津に着いた時、もう夜の八時を回っていたが、俺はジョージに駐車場で待つように頼む。
”何なら手を貸そうか?”という彼に、
”いや、この
俺の言葉に、普段なら軽口で返す彼も、それ以上何も言わなかった。
フロントの前に立ち、俺は作務衣のようなユニフォームを着た女性と、ネクタイを締めた番頭に
『こちらに吉田智代さんと言う女性が宿泊しているでしょう?』と訊ねた。
『お客様の情報についてはお答えしかねます』と、木で鼻を括ったような答えが返ってきた。
『なるほど、しかしこれは人の命がかかっている問題なんでね。私が帰っても、おっつけ警察がここに来るでしょう。既に通報は済んでいますから』
俺は出来る限り声を低くして凄んでやった。ついでにかけていた眼鏡をむしり取り、目を思い切り細くして真正面から番頭を睨みつける。
『わ、分かりました・・・・ただいまご案内を』
彼は唾を飲み込むと、女性に後を頼み、先に立って歩き出した。
石燈篭が飾ってある中庭を横目に観ながら、間接照明に照らされた廊下を歩いてゆくと、とっつきに板戸風のドアがあり、
『桔梗の間』と札が出ていた。
番頭がドアの横のインターフォンを押す。
“何ですか?”
少しばかり・・・・いや、三分は経っていたろう。
女の声が聞こえた。
『フロントのものです。ちょっとお話したいことが』
彼がそう言うと、ドアが開き、浴衣の細帯を締めながら、気だるげな表情の女が顔を覗かせた。
白い胸の谷間がはだけて見える
番頭を押しのけ、俺は前に出ると、
『私立探偵の乾宗十郎という者です。吉田智代さんですね?』俺は彼女の前に再び認可証とバッジを突き付けた。
『そうですが‥‥何の御用ですか?』
彼女は慌てて襟を合わせる。
『娘さんの千絵ちゃんと、息子さんの弘君が病院に救急搬送されました。熱中症と栄養失調でね』
彼女は口を押え、目を大きく見開いた。
『そんな・・・・』
『間違いありません。この私が自分で119番と110番に通報したんですからね』
呆然としている彼女を尻目に、俺は中へと入った。
床の間がしつらえてある十二畳ほどの和室の真ん中に、馬鹿でかい布団が敷いてあり、その上で浴衣姿の、痩せて茶色い髪をした、お世辞にも目つきのよろしくない若い男が、胡坐をかいて煙草をふかしていた。
『な、なんだよ。あんた?!』男は俺の顔を見て、慌てたようにはだけた浴衣の前を抑える。
室内の様子は・・・・まあ語るまでもない。如何にも先ほどまで『やっていました』と、誰でも想像できる状態だった。
『俺は探偵だよ。あんたの名前は・・・・いや、そんなことはどうでもいい。とにかく今すぐ服を着て、帰り支度をすることをお勧めする。』
『ちっ!』
男は舌打ちをすると、煙草を灰皿でもみ消し、そいつを俺に向かって投げつけ、身を捻って布団の枕元に手を伸ばす。
灰皿は見事にそれて後の壁に当たり、そこら中に吸殻をまき散らす。
俺は男の背中を思い切り蹴飛ばした。奴は前のめりに布団の上に倒れる。構わず腕を片足で踏んづけた。
『い、
世にも情けない声を出す。
男が枕元から掴みかけていたのは小型の
一見して安物だと分かるようなお粗末な出来だ。
『
こっちの方は型は古いがモノホンだ。お前が撃ったらためらわずに撃ち返す。覚悟しとけよ』
男が手から落とした拳銃を拾い上げ、ベルトに挟む。
『ちいちゃんとひろくん・・・・いえ、千絵と弘は?』
後ろから智代が恐る恐ると言った体で声をかけてきた。
振り向かずに俺は答える。
『心配しなさんな。一時はちょっと危ないところだったがね。今は落ち着いているそうだ。今川崎の××医大附属病院のERにいる。傍にはあんたの元の旦那が付き添ってくれているよ』
『私は・・・・私は三日分くらいの食べ物と水はちゃんと・・・・』
『甘い時間が続いて日数を忘れちまったか?あんたが留守にして今日で幾日目か知ってるかね。六日だぜ。よしんば十分に用意していたとしてもだ。あの小さな子供達に、自分で食べ物や飲み物の調節なんか出来ると思うかね。食べたい時に食べ、飲みたい時に飲んじまうだろうさ。』
そう言って、俺は携帯に収めていた発見時の二人の様子を写したものを見せた。
彼女は顔を両手で覆い、子供の様に大声で泣きだした。
結束バンドを取り出し、俺は男の手を後ろ手に縛ると、戸口で心配そうに立っている番頭氏に、
『ここは外線がかけられるか?』と訊ねる。
番頭は慌てたように首を縦に振った。
1時間後、男は駆け付けた警察によって拳銃の不法所持容疑で逮捕された。
奴はタチのよくない半グレ集団の構成員で、前からあちこちの警察に目をつけられていたという。
地元の警察は俺の”やったこと”については、ぶつぶつ文句は言っていたものの、それ以上は何も聞かなかった。
吉田智代については、神奈川県警に照会をかけたところ、向こうでも探していることが分かったので、
”とりあえず署にご同行を願えますか?”と、いつものパターンになりそうになったが、俺は、
『これは仕事の一環だ。俺の手で川崎まで連れて帰る。』で押し切った。
ジョージの運転するワゴンで川崎に戻る道すがら、吉田智代は
『恋愛は自由だ。好きにするといい。だがな』ウィンドゥを開け、夜の景色を眺めながら、俺は言った。
『お前さんたちが楽しんでた間に、辛い思いをした人間がいるってことを忘れるな。まして小さな子供には、何の罪もない』
彼女は相変わらず何も答えない。
ただ、少しだけ肩が震えていた。
俺たちは彼女を川崎署まで連れて行き、向こうの警察に引き渡した。
逮捕はされなかったが、保護責任者遺棄で、任意という形で事情を聴かれているらしい。
逮捕に切り替わるか、或いは起訴されるか、何とも言えないが、虐待が常態化していたわけでもないようだし、不起訴にならなくても、せいぜい執行猶予がいいところだろうというのが、彼女の担当弁護士と馴染みの
二人の幼子は病院の手厚い処置により、どうにか健康を回復しつつあると、ギャラをわざわざ手渡しに来てくれた笠井氏が言っていた。
”退院後は私が引き取ります”彼は答えた。
”幸い私はフリーですから仕事の自由も効きますからね”
二人の子供はこんな事態になっても”ママは?”と訊ねるそうだ。
”ママはね。いまちょっと遠いところに行ってるんだ。でもじきに帰ってくるから心配しなくてもいいんだよ”そう伝えているという。
”やっぱり子供には母親の方がいいんでしょうね”最後に彼は寂しそうに付け加えた。
『ダンナ、どうして今度の一件に、それほど熱を入れたんだね?』
しばらくして、ジョージと”アヴァンティ”のカウンターで隣り合わせになった時、彼が聞いた。
『さあな、俺にも分からん』俺はそう答え、バーボンのグラスを口に運んだ。
大人の身勝手に振り回され、挙句は居場所を無くして辛い思いをするのは、必ず小さな者たちだと相場が決まっている。
ただ・・・・今回の救いは、父親がお人よしとはいえ、人間味を持っていたことかもしれん。
妙に感傷的になったな。
俺はグラスを干し、二杯目をオーダーした。
終わり
*)この物語は現実の事件を参考にしていますが、あくまでもフィクションであり、登場人物その他は全て作者の想像の産物であります。
天使たちの居場所 冷門 風之助 @yamato2673nippon
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