ある女の子の話

刈田狼藉

一話完結

 あるところに女の子がいました。

 背が低くて、

 眼鏡を架けていて、

 色は白いんだけど、

 自分に自信が無くて、

 いつも下を向いて、

 あまり笑わない、

 そんな女の子。


 女の子は小説を読むのが大好きでした。

 彼女は物語の中で、

 泣いて、

 笑って、

 怒って、

 時にまどろみ、

 或いは恋に落ちて、

 そしてまた泣くのでした。


 こどもの頃、

 家で飼っていた犬が大好きでした。

 褪せた金色の、

 ふわふわの毛並みの、

 ミニチュア・ダックス。


 ダックスが死んだ時、

 女の子は泣きました。

 とても悲しくて、

 たくさん泣きました。

 ダックスが死んだ時、

 彼女はもう、

「女の子」ではありませんでした。

 成人を目前に控えた、

「大人の女性」でした。


 それから十年ほどが過ぎて、

 彼女は結婚しました。

 愛し合って一緒になった筈でしたが、

 幸せな人生を送る筈でしたが、

 その結婚生活は、

 その家庭生活は、


 胸の中で大切に育んできたような、

 夢に見て、思い描いていたような、

 そういう幸せなものではありませんでした。


 眼に見えて分かるハッキリとした「不幸」、

 などというものはありませんでした。

 人生はいつだって、

 そんなドラマティックなものではありません。


 夫は、

 妻である彼女に、

 とても無関心でした。

 眼に見えて無関心、というのではありません。

 冷徹で無機質な人柄、

 という訳でもありません。

 人生はいつだって、

 そんなドラマティックなものではないのです。


 そして子供も、

 母親である彼女に対して無関心でした。

 手が掛かる子で、

 甘えてばかりいて、

 いつも彼女を困らせていた彼でしたが、

 小学校高学年になると、

 もう母親なんかに、

 何の用も無いとでも言いたげでした。


 夫も、

 高校生になった息子も、

 彼女のことをバカにしていました。

 これは眼に見えて、

 ハッキリと、

 バカにしていました。

 人生はいつだって、

 想像を超えて残酷なものなのです。


 夫は妻に、

 一言も話し掛けなくなりました。

 でも浮気をしたり、

 暴力を振るったりする訳ではありません。


 息子は母親を、

 一度だけ「ババア」と呼びました。

 一度だけです。

 でも普通に「かあさん」と、

 呼んでくれる訳でもないのでした。


 彼女は、

 再び小説を読むようになりました。

 夜、

 布団の中で、

 一人きりで、

 誰にも邪魔されずに読みふけります。

 自分だけの時間。

 自分だけの想い。

 彼女は笑い、

 時にはひどく怒り、

 たまに顔を赤くして、

 そしてしばしば、

 涙を流すのでした。

 小さなこどもみたいに、

 まくらに顔をうずめて、

 眼をつむり、

 小さく口をへの字にして、

 ふううぅ~、って、

 泣いてしまうのでした。


 母親だって、泣きます。

 悲しさに、

 切なさに、

 そして愛しさに泣いたりします。


 母親にも人格はあります。

 それに昔は女の子でした。

 こころが震えて、

 切なさに耐え切れなくて、

 なみだを流すことだってあるのです。


 息子は社会人になりました。

 あんまり喜んではくれなかったけど、

 彼女は、

 もちろんお祝いだってしました。

 達成感は特にありませんでした。

 ちゃんと勤めて行けるのか?

 ちゃんと暮らして行けるのか?

 心配は尽きません。


 息子は、

 結婚のことは全く考えていないようでした。

 周囲に女性の気配は無く、

 当然彼女だっていません。


 私のせいなのでは?

 と彼女は悩んだりもしました。

 私がこんなつまらない女性だから、

 こんな私に育てられてしまったから、

 女性に興味が持てなくなったんじゃないか?

 というふうに。


 母親は息子に積極的に話し掛けました。

 でも世代も違うし、

 共通の趣味がある、という訳でもありません。


 ひとりで、

 誰にも語らずに、

 ただ、

 想いを胸の中に宿している、

 願いを、

 その瞳の内側に映している、

 もともとそんな、

 夢見がちな女の子だったのです。


 息子は母親を無視しました。

 でも母親はそんな息子を咎めることなく、

 鏡の前でため息をついて、

 それから自分に向かって力なく笑い掛けるのです。


 息子は、

 もういい歳をした息子は、

 話し掛けんじゃねえ、

 母親に向かって、

 そんな言葉を吐きました。

 でも母親はそんな息子を見捨てることなく、

 窓の前でため息をついて、

 それから空に向かって透きとおる笑顔を向けるのです。


 父親は何も言いませんでした。

 父親は妻にも、息子にも、無関心でした。

 いや、冷徹な残忍な人間だった、

 という訳ではないのです。

 どちらかと言うと、

 いい人、

 ということになるかと思います。

 ただ無関心だった、

 興味がまったく無かった、

 ということに過ぎないのでした。


 でも妻は、

 そんな夫を責めることなく、

 お風呂でひとり、

 ため息をついて、

 そして声を殺して涙をこぼすのでした。


 ある日、

 息子は死にました。

 就業中の事故、まあ労働災害か何かだったのでしょう。

 どうでもいいことです。


 息子は死にました。

 そして、

 母親は泣きました。

 たくさん、

 たくさん泣きました。


 あんなに可愛かった男の子。

 泣き虫で、

 手が掛かって、

 あまりしゃべらない、

 いつも友達に泣かされてばかりの、

 私の、

 私だけの、……


 ――――!


 もっと可愛がってあげればよかった!

 もっと話を訊いてあげればよかった!

 もっと理解わかってあげたかった!

 もっと美味しいごはんを作ってあげればよかった!

 もっといろんな絵本を読んであげればよかった!

 もっと、

 もっと、

 もっと、愛してあげればよかった、……


 母親は泣きました。

 手放しで、

 虚空に向かって眼を見開いて、

 大声をあげて泣きました。


 私が代わりに死んであげればよかった。

 あの子の代わりに死んであげればよかった。

 彼女はみずからの髪を引きちぎり、

 剥がれた皮膚から赤く血を滴らせて、

 みずからを呪う言葉を、

 唾液を垂らしながら吐き散らすのでした。


 出家したい、

 尼僧になる、

 彼女はそんなことを夫に言いました。


 夫は、

 夫は慌てました。

 ひどく、

 本当にひどく動揺しました。


 心の中の吹き荒ぶ暴風とは裏腹に、

 夫は、

 ごくごく冷静に、

 無関心な、

 どうでもいいと言いたげな表情で、

 だるそうにこう言いました。


 出家する、って、

 どうすればできるのか知ってるのか?


 世間知らずだなお前は、

 とでも言いたげな、

 冷たく馬鹿にしたような眼差しで。


 母親は、出家しませんでした。

 尼僧にはなりませんでした。

 覚悟が足りなかった、とか、

 本気ではなかった、とか、

 そういうことではありません。

 夫に言われて、

 自分には無理だと、

 そんな大それたこと無理だと、

 そう思い込んでしまったのです。


 母親は、

 毎日息子の位牌に話し掛けました。

 面白い話などできません。

 これといった話題などありません。

 でも、

 そんなこと、

 どうでもいいのでした。

 そんなものに意味などないと、

 今更に、気付いたのでした。


 あなたをいかに愛していたか、

 いや、今も愛しているか、

 あなたを失ったことがどれほど悲しいか、

 ああ、

 あなたのおかげで、

 あなたのおかげで私は母親になれたのだと、

 涙を流して話し掛けるのでした。


 そんな妻の様子を、

 パソコンに向かいながら、

 夫は見ていました。

 いまこうして、パソコンに向かいながら——


 もう言ってしまう。


 無関心な夫、とは、

 僕のことだ。

 唾棄すべき、いい人とは、

 僕のことだ。


 妻の様子を見ながら、

 愛とは何なのか?と、

 その答えの予感のごく端の方の小さな一部分に、

 少しだけ触れたような気がして、

 暗然として、

 いや驚いてしまって、

 まぶたを閉じてうな垂れることすら、


 ままならないではないか。















































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