3杯目 甘いのはお好きで?

 業界が仕向けたイベントだと分かっていても、やりたくなる、やらなければならないと思わせる、甘いイベントのはずなのに、甘ったる過ぎて胸やけしそうになるとうんざりし始めたのは、いつからだったのか。

 落ち着いた店内でも、そのイベント当日の前後は皆落ち着きなく、何やら楽しそうでもあり、いつもなら飲まないチョコレートフレーバーの紅茶や甘いお菓子をセットで頼まれるのも増えてきたように感じる。

 それは、この男も例外ではなかったようで。


「珍しいね。なんちゃってロイヤルミルクティーを頼まないなんて」

「その言い方、悪意があるぞ」


 彼は若干顔を紅潮させながら、あたしを睨むが、そんなもの怖いわけがない。睨んだお返しに、とっておきの笑い顔を見せる。


「何々。あの子になんか言われたの?」

「別に」


 これ以上喋らせないとでも言いたげな素晴らしい速さで言葉を返される。それが、可愛らしくてからかいたくなるのが、あたしの性ってもんで。


「あ、もうすぐアレが来るから、意識してるんでしょ」

「してないよ」

「じゃあ、何さぁ。このままあたしに言ってくれなかったら、いつまで経ってもあたし、勘違いしたままで終わっちゃうなあ」


 ちらりと彼の方を見て、直ぐに視線を逸らし、口の端を意味深げに吊り上げる。


「……意識してるってあの子に言っちゃうかもなあ」


 焦った顔に笑いそうになるのをぐっと堪えて、彼の言葉を待つ。


「……美味しいって言ってたから」


 ぼそりと彼は言う。聞こえてはいるが、「ええ? おばさんには聞こえない」とおねだりをする。彼は、あたしを睨みながらもゆっくりと口を開いた。


「この前、もうすぐば、バレンタインだねって話になった時に……ツムグさんがチョコレートフレーバーの紅茶の話をしてくれて」

「え、ツムグちゃんって言うんだ、あの子! 可愛い。ちゃっかし、下の名前で呼んじゃって!」


 あの子の名前を初めて知った衝動で、つい彼の話を遮ってしまった。慌てて口を押さえて、話の続きに耳を傾ける。


「……そんで、あんたのガトーショコラと一緒に食べたら美味しいって言ってたから、今度会う時に、感想言えるようにって思って……何にやにやしてんの」


 頑張って堪えてるつもりだったが、どうやらバレていたらしい。


「いや、健気だなあって思って」

「馬鹿じゃないの」


 そう言いながらも、顔を赤らめているところがまた可愛い。

 あたしは満足して、彼の注文を作りに向かった。

 やかんでお湯を沸かしている間に、彼のお気に入りのティーカップに似合うプレートを選ぶ。これもいい、あれもいいと悩むのが楽しくなりながらも、一枚のプレートを手に取る。沸いたとやかんが呼んだら、火を止めて、ポットとカップにお湯を注いで温める。温めている間に、ホールで作ったガトーショコラを一人分で目測して包丁を入れ、選んだプレートにそっと置く。ポットが温まったのを確認したら、ポットのお湯を捨て、チョコレートフレーバーの缶からティースプーン一杯分の茶葉を入れて、今度は、ティーカップ一杯分のお湯を注ぐ。蒸らしている間に、やわらかめに泡立てたホイップクリームをガトーショコラに乗せ、その上に紅いフリーズドライのラズベリーを散りばめておく。木製のトレーに飾り付けられたガトーショコラとホイップクリームがたっぷり入った小さめのココットを置いて、ポットで蒸らされた紅茶を温められたティーカップへと注ぐ。チョコレートの甘くもほろ苦い香りが鼻腔をくすぐり、思わず笑みがこぼれる。

 彼は新しいものを見た子供のように目をキラキラとさせた。紅茶の風味を邪魔しない蜂蜜を少しだけ入れて、ティーカップに口を付けると、嬉しそうに目を細めた。ガトーショコラを頬張れば、満足げに頬に手をやり、入れても美味しいと付け足したホイップクリームを紅茶に落として喉へと通せば、これまた幸せそうな顔をした。

 口では生意気言っているが、実は素直に顔に出してしまうことをあたしは知っている。彼はきっと、あたしが厨房から嬉しそうに紅茶とケーキを口へと運ぶ姿を眺めているなんて、知らないんだろう。


「可愛い奴め」


 彼はどんな感想を抱くのだろうか。あの子になんて言うのだろうか。その光景を直接見れないのが、少し惜しく感じたが、それは、あの子から解消してもらうことにしよう。


 お昼過ぎ、今日は授業が午前だけだったのか、いつもより早い時間にあの子がベルを鳴らして顔を覗かせた。いつものカウンター席に座って、今日はオレンジピール入りのアールグレイとクロカン・ココで一息つくらしい。


「あいつと最近どうなの?」


 あまり客がいないことをいいことにカウンター越しの彼女にドストレートを投げる。ストライク。彼女は分かりやすく、目を見開き、茹で上がった顔で私を見た。


「最近、どう、とは……」

「あの日から、あいつと何かないかなあって。進展ってやつ?」

「進展……」


 彼女は過去を思い出すように目を泳がせた。あたしは彼女がもう一度口を開いてくれるのを待つ。


「……この前、いつもみたいにお昼休み、食堂に行く途中、声を掛けてくれて」

「へえ、あいつが」

「何か物でも落としたのかなって思っていたら、『この前、教えてくれた紅茶、美味しかった』って、『教えてくれてありがとう』って、わざわざそれを伝えるために駆け寄ってくれて」


 ――なんて幸せそうな顔をして話すのかしら。


 火照った頬を冷ますように、両手で頬を包み込む彼女が愛おしく感じた。これをあいつが見たら、きっと赤面するに違いない。


「微笑ましいねえ」


 幸せの溜息が口から漏れ出してしまう。この時期にぴったりの甘さだ。


「それで?」


 あたしは、口の右端を吊り上げて歯を見せる。


「そろそろアレが近付いてるけど、貴女はあいつに何を渡すの?」

「えっ」


 また、赤くなっちゃって。可愛いんだから。


「わ、渡したいなあとは思っているんですけど、その、私だけが舞い上がってないかが心配で」


 何を言っているんだ、この子は。


「この前、やっとここで話せるようになったばかりなのに、急にチョコを渡すとか、馴れ馴れし過ぎるかなって」


 何を言っているんだ、この子は。


 お互い気になり合っている、を通り越して、恋心を覚え合っているにもかかわらず、そんな遠慮をしているだなんて――。


「――もったいない」

「え?」


 あたしの中の御節介ばばあが顔を出す。


「もったいない!」

「ま、マスター?」


 鼻から思いっ切り息を吸い込み、「あいつは、あんたのことを好きなんだよ!」と言いたい気持ちを必死に抑え、彼女に食い掛からんばかりにできる限り顔を近付ける。


「そんなこと言っていたら、いつまで経っても渡せやしないよ! 渡したいなら、渡すの!」

「え、えっと」

「おばさん、応援してるから!」


 チョコに想いを込める者たちの待つビッグイベントは、本当にあともう少しで来る。何もしないで、ただの代わり映えしない日常を過ごすだなんてもったいなさすぎる。


「いい? どうせ渡すなら、手作りよ、手作り」

「えっ、でも、相手もマスターのスイーツを食べているのに……私、上手く作れる自信ないです」

「何言ってるの! 上手い上手くないなんて、関係ないの! 男ってのはねえ、手作りしてくれた女の子が一生懸命作ってくれた姿を想像して喜ぶもんなの! そこにロマンを感じているの!」

「そ、そうなんですか?」

「そうよ! ほら! そうと決まったら、今日は、材料を買って帰るんだよ! 絶対だからね!」

「でも、何だったら喜ぶか、私……」

「そんなの、貴女の好きなスイーツで勝負よ!」


 甘党のあいつのことだ。彼女が作ってくれたものなら、毒だって喜んで食べるだろう。


「私の好きなスイーツ……」


 この日、彼女は終始顔を茹で上がらせていた。店を出る直前、「よし」と小さな声で自分を鼓舞した可愛らしい声をあたしは聞き逃さなかった。




 いつもは澄ました顔をしているというのに、今日のあいつはビッグイベント当日だからか、何やら上の空である。

 しかし、時々俯いては笑みが零れるのを必死で堪えている。

 何と分かりやすい男か。


「ツムグちゃんと何かあったでしょ」


 注文を聞くがてら、堪らず訊いてみる。彼は一瞬、目を見開くも、さっきまでのニヤけ面を押し殺して、澄まし顔であたしを見る。


「別に何もないよ」


 嘘を吐け。


「チョコ貰ったんでしょ!」


 彼は分かりやすく、ぎょっとした顔をする。


「ほらあ、あったじゃない、何か」

「……あんたに言うようなことは何もないって言ったの」


 可愛くない苦し紛れの可愛い返事。その返事にニヤニヤが加速する。


「ええ、今持ってないの?」

「持ってても見せないよ」

「そこは、男として自慢しときなさいよ!」

「何だよそれ」

「今日の注文、あたしの奢りにしてあげるから!」


 数分間の戦いの末、彼は眉間に皺を寄せながらも、大学生らしいスクエア型の黒のリュックサックに手を突っ込んだ。

 丁寧に机に置かれたのは、小洒落た小さな四角いブリキ缶だった。古紙のような質感を思わせる缶に貼られたマスキングテープには、〈Eat me.〉の手書きの文字。きっとあの子が、心臓をバクバクと言わせながら書いたんだろうと思ったら、可愛らしくてついつい表情が緩んだ。


「もう食べた?」


 彼は首を横に振る。


「中身は見た?」


 彼は首を横に振る。


「何で?」


 あたしの言葉に、彼は噛みつくように、また眉間に皺を寄せた。


「家でゆっくり見たかったんだ」


 少し苛立ってみせるが、耳が赤くなっているので、照れ隠しなのがバレバレで、それはそれで可愛い。

 あたしは早く開けろと彼に催促する。

 彼は少し強張った顔つきで、ぎこちなく、しかし、丁寧に、慎重に、ブリキ缶の蓋に手を掛けた。


「……あら!」

「………」


 ブリキ缶の中には、茶色と白の可愛いらしいマカロンが交互に綺麗に敷き詰められていた。中に挟んだクリームはラズベリーかストロベリーか、鮮やかでありながら、クリームの優しさを持った淡い赤色で、あたしの心臓がドキリ、と音を出した。あたしがそれなのだから、彼はそれ以上に心臓を鷲掴みにされているに違いない。

 可愛らしいマカロンから目を離し、彼の方を見ると、彼は右手で口を覆って俯いていた。


「何してるの?」

「……いや」


 チラリと覗かせる耳はさっきよりも赤くなっていた。


「……幸せが溢れてるぞ、青年君」

「……うるせー」


 全く、口は素直じゃないんだから。


「それにしても、随分、綺麗ね。手作りって?」


 彼は黙って頷いた。

 瞬間、胸の奥がじんわりと温まった。作ったことのある者なら分かるはずだ。どれだけ時間を掛けたか、丁寧に作ったか、届ける者に想いを込めたのか。

 なるほど。男のロマンというのはいいものだ。

 彼はまだ、口許を手で覆って俯いていた。きっと、ロマンとやらに浸っているのだろう。


「見せてくれてありがと」

「……別に」

「――よかったね、貰えて」

「………」


 彼は何も言わない代わりに、小さく頷いてみせ、また、丁寧に、慎重に、――まるで、あの子に触れているかのように、そっと、蓋をして、またリュックサックの中へ静かに入れた。

 約束通り、注文された紅茶とお菓子はあたしの奢りで出したが、それらを喉へ通していく中でも、彼はきっとあの子のことしか考えられていないのだろう。その焦点の合っていない目の先で、彼はあの子を見ているんだ。




 翌日、あたしは、最近で一番の胸の高鳴りを感じた。

 いつもの席でメニューを眺めるあいつが、ドアの質素なベルの鳴る音に反応して振り向いた先には、あの子の姿があった。

 ばちり、と合ってしまう二人の目。明らかに照れて、隠しきれずに泳ぐ目。

 数秒のことであるはずなのに、何分にも感じてしまうじれったいこの空気。

 お互い動けずにいたその空間で、先に口を開いたのは、意外にもあいつだった。


「よかったら、一緒にここで」


 彼の言葉に、彼女は嬉しそうに頷いて、彼の向かい側に座った。

 二人の世界に完全に入ってしまう前に、あたしは急いで注文を取りに行く。

 彼は、彼女のおすすめの紅茶とスイーツを選び、二人仲良く同じものを頼んだ。

 これまた、二人のいい感じの世界をぶち壊す前に、急いで注文を用意し、彼らの前に並べる。甘酸っぱさがありながらも優しく鼻腔をくすぐるストロベリーミルクティーと可愛い色のイチゴのロールケーキが、何とも二人の可愛らしさを倍増させるようで、厨房から静かに見守りながらも、表情が緩んで緩んで仕方がない。


「昨日は、マカロンありがとう」


 あたしには見せない素直さを彼女に全面に出している姿に、目玉が落っこちそうになるのを必死に堪える。


「わ、私の方こそ、昨日は急にごめんなさい」

「全然! 凄く嬉しかった」

「……お口に合いましたか?」

「うん。綺麗過ぎて、めちゃくちゃ食べるのもったいなかったんだけど、食べたら凄く美味しくて」

「ああ、よかった……っ」


 嬉しくて、口許を両手で覆う彼女がとても愛らしく感じた。その姿を真正面で見るあいつの表情筋が正常であるわけもなく、優しく彼女に赤くなった顔をふにゃりと崩してみせた。


「ほんとにありがとね。僕にはもったいないというか、なんていうか……それでね――」


 空気が変わるのが分かった。

 彼は、彼女の目をしっかりと見て、また口を開く。


「もし、よかったら、今度、僕のおすすめの喫茶店で、美味しい珈琲を、飲み、ませんか」


 彼は首の後ろに手をやりながら、照れ隠しにふにゃりとまた笑う。


「お礼になるか分からないけど、少しでも僕の感謝の気持ちを伝えられたらって」


 その言葉に、あの子は何度も首を縦に振った。

 二人で照れ合う中、不意に、彼女がちらりとあたしに目を向けた。

 あたしは、彼女にウインクして返す。祝福が少しでも届きますようにと。


 年に一度の甘ったる過ぎるビッグイベントに、胸やけしそうになるのも案外、悪くもないかもしれない。


 fin.

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喫茶店物語 屈橋 毬花 @no_look_girl

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