2杯目 苦いままでいい。

 鼻腔をくすぐる香ばしい香り。キリっとした大人っぽい黒に程近い茶色。小さめのカップでもしっかりと存在感を放ってくるそれをゆっくりと舌で感じる。


「……うえっ」


 今までの雰囲気を台無しにするには十分な音が口から漏れる。


「こら、女の子がそんな声出さないの。あと舌引っ込める」


 目の前で呆れ顔をする彼女に差し出された角砂糖を頬張り、秒殺された舌のHPを回復させる。


「やっぱり、無理なのかなあ。珈琲なんて」

「そんなことないって。慣れだよ慣れ。ビールと一緒」

「私、ビールも苦くて飲めないもん」


 もう一つ角砂糖に手を出すと、彼女にしっぺされ追い返された。

 大人の女性。

 何の変哲もない外のベンチで、ブラック珈琲の缶を片手に読書を楽しむ。そんな姿に憧れて、紅茶しか飲めない自分を変えようと、珈琲好きの彼女に「珈琲をブラックで飲める計画」に付き合わせている。


「別に、珈琲なんて飲めなくてもいいと思うけどね。結構いるでしょ。珈琲飲めない女なんて」

「でも、私は飲めるようになりたいの」


 意気込んでもう一度、カップに口を付ける。


「うえぇ……」

「飲めない奴が、いきなりブラックを挑戦する時点で、馬鹿なの」


 再び彼女が角砂糖を差し出す。

 それもそうだ。そもそも慌て過ぎなのだ、と直ぐにでも分かるようなことに、今になって気付く。

 でも、珈琲というものに、今まで触れてこなかった私には、最初に何から始めたらいいのか分からない。


「とりあえず、市販のカフェオレから始めて見たら? 甘いのも多いし」


 私は彼女を睨み付ける。私は知っている。珈琲好きの彼女の言う甘いは、私にとってのこの世の終わりくらいの苦さだということを。

 私だって、人の手を借りる前に試した。市販の甘そうなカフェオレは全て試したつもりだ。試して、全ての商品、全部飲めた例がない。三口飲めたら、自分を褒めてやりたいくらい。


「……それにしても、分からないんだよね。何で急に、珈琲を飲めるようになりたいなんて思うのさ。今まで、あんなにあたしが勧めても、拒みまくってたくせに」


 彼女が頭を掻きながら私の目を覗く。


「それは、大人の女性になりたくて」

「大人の女性は、珈琲が飲めなくても紅茶さえ飲めれば十分大人とか、この前言ってたじゃん」


 タイムスリップして、昔の自分を殴ってやりたい。


「それは……」


 彼女から視線を外す。途端に彼女が何か閃いたように、目を細め、口の端を吊り上げた。


「あぁ、はいはい。そういうことね」


 彼女が何かスイッチを押したのか、彼女の言葉を合図に、一気に耳が熱くなるのを感じた。私をからかうように、彼女は胸の前で両手を使ってハートを作る。


「ちょっと、からかわないでよ」

「やっだあ、否定もしないんだから、可愛いの」


 頬が熱くて仕方がない。


「なになに。その人は、珈琲を飲む人なんだ。しかも、ブラックで」


 からかわれているのが悔しくて、頷くことも出来ずに、唇を噛む。

 初めは、ただ偶然、同じ大学内の自動販売機を使ったことだ。私が紅茶を買う中で、彼は迷うことなく、いつものルーティーンの中に組み込まれているかのように、ブラック珈琲の缶を買った。

 特に特別な動きをしたわけでもないのに、その姿がやけにかっこよく思えて、わけもなくその姿を追っていた。無意識に追っていたことに気付いたのは、彼と偶々目が合って、内心、慌てていると、彼が優しく笑いかけたときだった。人間、こんな簡単にときめくものなのだと、どこかで自分を客観視する私が興味深げに溜息をついた。


 人というのは不思議なもので、一度意識した人間を、認識する前にことが嘘だったかのように、何気ない風景の中でも見つけることができる。

 食堂でも、図書館でも、木の下のベンチでも、彼はいつものボトル型のブラック珈琲を片手に何かをしている。難しい顔をして、ノートパソコンの液晶画面と向き合っていたり、本を読んで、遠慮がちに口許を緩ませていたり、友人の話を気怠げに聞いていたり。

 そんなに見てはいけないと脳が注意しても、私の目はそんなことお構いなしに、気が済むまで彼の姿をその奥に焼き付けようとするのだ。

 彼に近づいて、「何を読んでいるんですか?」なんて言えたらいいのに。そんな勇気は私にはない。彼が何年生で、どこの学部に所属していて、何を学んでいるのかも知らない。ただ、同じ大学に通っている本と珈琲が好きな男子大学生という情報しか私は持っていない。

 もっと知りたい。そう思いながらも、前に進めずに、彼から少し離れた場所から眺めたり、同じ空間で本を読んだりすることしかできない。


 考え始めたらもやもやして仕方がない。集中できなくなって放置されたノートパソコンを閉じ、バッグの中に突っ込む。席を立って向かう先は、存在を知って以来、通い続けている喫茶店だ。

 珈琲に力を入れている喫茶店が多い中、その喫茶店は、紅茶に特化していて、紅茶専門店でなければ、なかなか見ることのできないフレーバーを多く取り揃えている。水や砂糖、牛乳やレモンはマスターこだわりで、紅茶の魅力を思う存分味わえる。何より、ティーセットが可愛く、マスターも気さくな女性で、毎日行っても飽きない、逆に毎日行きたいと思わせてくれるそんな店だ。大学と住んでいるアパートの中間付近にあり、大学帰りに寄るのが、日課だ。

 カランと可愛らしいベルを鳴らせば、マスターが私に気付く。


「いらっしゃい。待ってたわよ」


 子供のように無邪気に笑うマスターの顔に、自然とこちらの口許も緩む。茶葉の匂いが鼻腔をくすぐり、思わず溜息が漏れる。

 いつもと同じカウンター席に座り、ポーチの中に忍ばせていたバックハンガーをテーブルに掛けてバッグを吊るす。

 カウンター越しの棚に敷き詰められた紅茶缶と色とりどりの可愛らしいティーセットに自然と目を輝かせてしまう。


「今日はどうする? あ、美味しいレディ・グレイ取り寄せたけど」

「あ! それでお願いします」

「好きだもんね、レディ・グレイ」


 食器棚から並んだティーセットを迷うことなく、一つ取り出す。私の大好きなティーセットだ。マスターはそれを覚えてくれている。

 ティーポットにスプーンが当たる音、やかんの中でお湯が沸騰する音、お茶が差し出されるまでの全ての音が心地よい。耳が幸せに包まれて、胸に溜まっていた靄がゆっくりと消えていくようだ。

 不意に、メニューの書かれた小さな黒板が目に入る。マスターの手書きで「手作りフィナンシェ♡」と書かれている。気付いたときには、マスターに頼んでしまっていた。マスターの手作りだ。美味しくないわけがない。この店は、多くの国内外のお菓子を取り扱っている。そのお菓子も魅力的だが、それに負けないくらいマスターの作るお菓子は美味しい。

 マスターは顔を火照らせた私を見て、嬉しそうに笑った。

 待っている間に、本を読もう。お気に入りの栞を外す。大好きな作家の繊細な恋物語。奥手な主人公が自分の想い人に対して一歩踏み出そうとするが、なかなか踏み出せず、ただ遠くから想い人を見つめては一喜一憂する様を丁寧に描いた文字一つ一つが、私の胸を締め付けるのだ。


「……恋って難しいですね」


 紅茶とフィナンシェを差し出すマスターに、本から目を離さないままぽそりと呟く。

 手を伸ばしたいと思っても、伸ばせないもどかしさとそのままでいいと思える幸せ。このままじゃ駄目って思うのとこのままでいいと思う矛盾。

 頭を撫でるように、主人公を俯かせた文字の羅列をつつっと指でなぞる。


「何々、恋してるの?」


 マスターがニヤニヤし始めた。マスターに隠す気はない。でも、堂々と答えることはしない。私は、マスターに一瞬だけ目をやり、レディ・グレイをゆっくりと喉の奥へと伝わせる。華やかな香りが体内で広がって、脳を侵す。華やかな香りに包まれた空間に、そっとフィナンシェを送る。絶妙なアーモンドプードルの甘さが舌と鼻腔に貼りつく。表情筋を緩ませずにはいられなかった。


「……美味しいです」

「それ以上の感想を顔で見せてくれてありがとう」


 満足げにマスターは私にウインクをする。そして、もう一度、カップに口を付ける私の前に、瓶入りのソフトジャムクッキーを差し出した。


「色恋沙汰に飢えた枯れ枯れのおばさんにちょっと付き合ってよ」

「現代のアフロディーテの間違いじゃ?」

「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃない?」


 マスターが瓶の蓋を開けると、優しくて甘酸っぱい香りが溢れ出した。


「で、彼はどんな人なの?」


 口の中に一つ、クッキーを放り込みながら、キラキラした目で私を見る。


「よく分からないけど、珈琲と本が好きな人、ですかね」

「へえ、珈琲が好きなんだ」

「いっつも珈琲を飲んでるんです。しかも、ブラックで。大人ですよね」

「大人っぽいかあ。ここで紅茶を楽しむ貴女も随分大人に見えるけど」

「そんなことないですよ。まだまだ子供で。……マスターは珈琲飲めますか?」

「通ってこともないけど、好きだよ。紅茶には負けるけどね」

「そうですか。いいなぁ」


 一瞬、目を見開いてから、マスターは口の右端を吊り上げて白い歯を覗かせる。


「ふぅん? 最近、珈琲飲めるように頑張ってるんだ」


 私は、頬の熱を紛らわすために、フィナンシェを一気に頬張る。「可愛いんだから」とマスターは無邪気に笑った。


「でも、全然飲めなくて」

「飲めるようになる必要な全然ないと思うんだけどねえ。でも、人って、好きな人に合わせようとしちゃうのよね、今の貴女みたいに。……そういえば、最近よく来るお客さんにも、紅茶嫌いなのに、わざわざここで紅茶を飲みに来る人がいるのよ」

「紅茶嫌いなのに?」

「変わりもんでしょ? 嫌いなら、大好きな珈琲が美味しく飲める店に行った方が何倍もいいのにさ。……でも、そいつも結局は自分の視線の先にある人に手を伸ばそうと必死なのよ」

「なんだか、親近感湧いちゃうな」


 ティーポットに入った残りを全てティーカップに注ぐ。


「タイミングが合えば、今度話せるかもしれないね」


 なんとなく、話してみたいと思った。その人も私と同じ気持ちなのだろうか。素直に飲めないって言えたらいいのに、臆病者はそれが言えない。言えないから、必死にまだ上っていない台に足を踏み入れようと必死になってしまう。その人も今、臆病者を補うために、必死なのだろうか。

 気付けば、瓶の中身は空っぽになっていて、自分のお腹には満腹感があった。


「ご馳走さまでした」


 銀のトレーにカランと心地よい音を鳴らす。


「お話付き合ってくれてありがとうね」

「いえ、こちらこそ。では」


 カランとドアのベルを鳴らす。


「珈琲が飲めない貴女でも、きっと彼にも十分素敵に映ると思うよ」


 振り向く私に、マスターは慣れたようにまたウインクをする。私は、ただ会釈をした。




 早めに終わった大学での時間。いつもより長く居られると踊り出しそうな足で向かった喫茶店。いつものカウンター席。そして、私の背後にある一人用のテーブル席に彼がいた。


「………」


 本を持つ手が震えないように指先まで集中させる。平然と大好きな本を読んでいるように見えるよう努める。同じ文章を何回読んでも、頭になんて入ってこない。


 ――何故、ここにいる。


 彼は、いつもブラック珈琲を飲んでいる。紅茶を飲んでいる姿は大学では、見たことがない。まさか、実は、紅茶も嗜(たしな)める紳士なのか。

 微かに香る匂いからして、彼が飲んでいるのは、ロイヤルミルクティー。なるほど、甘いものも好むのか。


「今日は、何にする?」

「えっと、ロイヤルミルクティーで」


 彼と同じものを飲みたいという衝動で、早口に頼んでしまった。


「あら。珍しいね」

「偶には、ね」


 至極テキトーな返事。


「あ、そうそう。後ろに座っている彼が、この前言ってた紅茶嫌いさん」

「えっ」


 思っていたよりも声が大きくて、咄嗟に自分の口に両手を当てる。

 ――彼が、例の紅茶嫌いさん。

 まさかの展開に、驚くことしかできない。


「お隣空いてるし、呼ぼうか?」


 そんな、心の準備なんてできていない。

 話したいが、話せない。


「今回は……またの機会で」


 折角のチャンスから自ら逃げるようにして断る。


 ――そいつも結局は自分の視線の先にある人に手を伸ばそうと必死なのよ。


 この前のマスターの言葉が、今更きゅうっと胸を締め付けてきた。

 彼には、好きな人がいるんだ。

 感じてしまった親近感に哀愁が漂い始めた。


「……ご馳走さまでした」


 折角、いつもより長く居られるはずなのに、いつもより早く店を出た。

 もうすぐ日が沈む。最後の光が、私を赤く染め、少し暖かさを感じさせた。

 店を出る間際に焼き付けた彼の姿を思い出す。あの珈琲好きのしかも紅茶嫌いの彼が、必死で紅茶を飲めるようになろうとさせる人とはどんな人なのだろうか。きっと素敵な人に違いない。――私が、入る隙なんて、きっとないんだ。


「………」


 キッチンの紅茶と並んで置かれたほとんど手が付けられていない珈琲瓶を手に取る。少量の珈琲と大量のクリーミーパウダーと砂糖。お湯を注いで混ぜたら、一気に飲み干す。

 やっと、飲めるようになった珈琲と言うには程遠い珈琲。これ以上苦いものもは飲めない。でも、飲めるようにならなければ、彼の背に触れることさえできない。

 ――もう、頑張る必要もないはずなのに。


「――嗚呼、苦いなあ……」


 震える口許を無理矢理吊り上げた。




「あんた、最近、珈琲飲まなくなったね」


 本から顔を上げると、彼女が眉尻を下げてこっちを見ていた。


「……うん。やっぱり、飲めなくても死ぬわけじゃないし、いいかなって」

「……なんかあったの?」

「……えへへ。……彼、好きな人がいるんだって」

「えっ」


 口に出したら目頭が熱くなって、本に隠れて下唇を強く噛む。


「告って、彼に言われたの?」

「いや、いつも行ってる喫茶店のマスターに教えてもらったの」

「じゃあ、まだ、チャンスは」

「私のはずないよ」


 彼女の言葉を最後まで聞きたくなかった。そんな夢物語。現実に戻れば、悲しくなるだけだ。


「……私がただ一方的に眺めているだけなんだよ。ほとんどお互い知らない関係で。話したこともないのに」

「でも、あんたは、あいつのこと知らなくても好きになったじゃない」

「私がおかしいだけだよ。みんながそうなって恋するなんて普通じゃない。今回が、特別普通じゃなかっただけで。きっと彼は、元々それなりの関係がある子を好きになってると思うよ」

「そうかもしれないけど、まだ、諦めるのは」

「あんまり、辛い思いしたくないんだよっ」


 本から顔を出して、彼女を真っ直ぐに睨み付けた。


「……ほら。私、弱虫だから。逃げちゃいたいんだよ。深く傷付く前に。……でも、万が一があったら、ラッキーだね」


 笑う。意識して。

 励まそうとした彼女に大人げない態度を取った代わりに。

 向かい合った彼女の少し離れたところに、彼がいる。いつものようにブラック珈琲のボトル缶片手に本を読んでいる。胸は痛いはずなのに、彼が目の中から消えることはなかった。

 日課の喫茶店では、彼がいない日は安堵する。安堵と同時に少しばかりの寂しさは拭えない。逆に、彼がいる日は、緊張と同時に少しばかりの嬉しさは拭えない。

 諦めているはずなのに、まだ、諦めていないんだ。


 ぼんやりと綺麗に並んだ紅茶缶を眺める。今日はいつもとは違うものを飲んでみたい。でも、それがまだ決まらない。メニューを見ると、今日はシュークリームとスコーンがマスターの手作りらしい。


 ――今日くらい、いいか。


 マスターに紅茶はもう少し迷うと告げて、シュークリームとスコーンの両方を頼む。マスターはいつも通り嬉しそうに笑った。

 今日は、この時間帯では珍しく人が多かった。空いている席はカウンター席だけになっていた。せわしなく動き回るマスターとは裏腹に客はゆったりとした時間を過ごしている。私もその一人であり、紅茶を何にするか迷いながらも本を開いた。


 カラン――とドアのベルが自分の耳にやけに強調されて聞こえた。コツコツと床を鳴らす靴が、こちらにゆっくりと近づいてきて、私の隣で止まった。 

 座ったのは、彼だった。顔は見れていないが、今日大学で見たときの服と同じであることは分かった。そして、微かに香る珈琲の匂い。確かに彼である。

 また平然と読書をするふりをする。垂れ落ちてくる横髪を耳にかけ直す回数がいつにも増して多くなる。


 ――なんてことだ。よりによって、いつもよりも多くお菓子を注文してしまったのに、隣に彼が座るなんて。


 自分の目の前にあるシュークリームとスコーンとスコーンを見つめる。今日くらい、と甘えた自分を止めてやりたい。


「今日は何にする? ダージリン、レディ・グレイ、ローズヒップがおすすめだけど」


 隣に座った彼に、マスターが話し掛ける。


「セイロンで」

「ミルクは?」


 隣で、首を横に振っているのが微かに分かった。


「あらっ、いらないの?」


 珍しいとでも言わんばかりに、マスターはまるでアメリカのコメディドラマ並みのリアクションをする。


「セイロンなら、ミルク入れた方が美味しいのに。貴女もそう思わない?」

「……!」


 急に話を振るマスターに驚いて「えっ」さえも声にならなかった。驚きすぎて勢いよく本から顔を上げた拍子に首がもぎ取れそうになりながらも、余裕を装い、一度笑ってから、頷いてみせた。


「そうですね。私も、セイロンならミルクが好きかな」


 できるだけ落ち着いて見えるようにゆっくりと一つ一つの言葉を口から出していく。

 マスターは嬉しそうに口の両端を吊り上げて、彼の方を向いた。彼は少しだけ迷ってように間を置いてから、「じゃあ、ミルクで」とぼそりと呟いた。

 マスターは満足げな顔をして、紅茶の準備を始めた。

 胸が高鳴りつつ、一回だけならとゆっくりと彼の顔を見る――と、神の巧妙な悪戯か、彼とバッチリと目が合ってしまった。口から飛び出しそうな心臓を必死で引っ込める。

 慌てる私に、彼は優しく笑いかけた。あのときと同じ、優しい笑顔だ。


「……紅茶、好きなんですか?」

「えっ」


 ――もう、この際どうでもいい。最初で最後であろうこのチャンス、いい思い出として墓場まで持っていこうじゃない。


「よく、見かけるので」

「ああ……まあ、はい。はは……」


 マスターから聞いたからと言って、「紅茶頑張って飲んでるんですよね」なんて、口が裂けても言えない。彼は若干困ったように返事をした。


「そっちも……紅茶、好きなんですか」


 ――質問返し!


「はい。……なかなか、紅茶に特化した喫茶店ってないから、お気に入りで」

「そうですよね。確かに、あんまりこういうところないですもんね」


 幸せ過ぎたら、心臓が痛くなるのだと、今まで生きてきた人生で初めて知る。

 彼はまた、はは、とはにかんだ。暫し、沈黙する。


 ――どうしよう。何か言わなきゃ。


「珈琲、飲まれるんですか?」


 咄嗟に出た言葉に、心の中で頭を抱える。「いつも見ていますって半分言っているようなものじゃないか!」と数秒前の自分に叫ぶ。


「……分かります?」

「私、鼻良くて」


 咄嗟に出た半分本当で半分嘘の返し。ほんの少し珈琲の匂いがするのは確かだし、嘘は言っていない。嘘は言っていないはずなのだ。


「私、珈琲飲めなくて。でも、珈琲飲める人ってかっこいいなって思って、どうにか、牛乳とか砂糖とか多く入れたり、ケーキと一緒に飲んだりして、飲めるようになろうって思ったんですけど、全然駄目で……」


 だんだん頭が混乱して、言おうとも思っていなかったことが口の中から溢れ出す。


「これなら飲めるって思ったものも、珈琲はちょっとだけのほとんど牛乳で。友達にそんなの珈琲じゃない! なんて言われちゃって」


 終わった恋だ。珈琲飲めない告白をしたっていいじゃない。


「好きに飲めばいいんですよ。美味しく飲めればそれで」


 彼は私の目を真っ直ぐ見て、優しく笑った。

 終わった恋のはずなのに、やっぱり胸はきゅうっと苦しくなった。


「はあい」


 彼の瞳に吸い込まれそうになった私の視界に1つのポットと湯気の漂う牛乳瓶、そして2つのティーカップが映り込んだ。


「折角だから、お2人でどうぞ。ポットと瓶は一緒だけど」


 マスターは本当に、現代のアフロディーテかもしれない。

 心の中で、後光が差すマスターに向かって合唱した。


「あの、美味しいミルクティーの作り方、教えてくれませんか」

「えっ」


 急なことに、声が裏返ってしまった。慌てて両手で口を塞ぐ。


「今、どうにか、紅茶飲めるように頑張ってるんですよ」


 彼は、私の目を真っ直ぐ見ている。私は、その瞳から逃れることはできなかった。紅茶を飲めるように頑張っているとカミングアウトした彼は少しだけ恥ずかしそうに、またはにかんで、右頬を掻いた。

 着々と、名残惜しくも、彼への想いを箱に詰めては開かないように箱に口を閉じていたというように、その努力も虚しく、閉じたはずの箱から想いが溢れて止まらなくなり、その想いが私の表情筋を緩ませた。


「じゃあ、代わりに今度、珈琲の美味しい飲み方、教えてくれませんか」


 少しは期待してもいいのだろうか。

 私にもまだ、チャンスはあるのだと。

 弱虫でも、勇気を持って動くことはあるのかもしれない。


 目の前の紅茶と一緒に、私の前に置かれていたシュークリームとスコーンも、彼と一緒に食べようとそっと、手を動かした。


 fin.

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