喫茶店物語
屈橋 毬花
1杯目 ミルクは先か後か入れないか。
日の光が遠慮がちに差し込む窓。
仄かな光が陰影を鮮明に浮かび上がらせ、テーブルの上の華奢な透明ガラスの小瓶に入った一輪の草花がセンチメンタルに感じさせる。
草花に心を操られながら、僕はごつごつとした木の質感を指先で感じながら、テーブルをつつっと撫でる。
「今日は何がいい? セイロン、アールグレイ、レディ・グレイがおすすめだけど」
彼女は僕の方を向くことなく、向かい側のキッチンで食器をカチャカチャ鳴らす。
「セイロンで」
僕は迷うことなく、彼女に要望を届ける。
「冒険しない人ね」
彼女は少し残念そうに肩を竦めた。
缶の中で茶葉が躍る音が耳に届く。スプーンが缶にぶつかり、茶葉がポットへ落ちる軽い音が心地よい。熱していたやかんが綺麗に歌い、彼女に合図を送った。こぽこぽと耳を溶かすその音に少し微睡む。
近くに感じられる優雅な香りと「はあい」という少し間の抜けた彼女の声に再び目を開ける。この前見つけたお気に入りのティーカップとポットが視界を占める。
むくりと重たい頭を頼りない首の上に乗せ、ティーカップに見惚れ直す。しかし、肝心の奴が見当たらない。
「……ミルクは?」
「あるよ、ちゃんと」
少し遅れて、ふわりと湯気を漂わせた牛乳瓶が置かれる。
僕はティーカップに熱が残っているうちに、ポットの中身をティーカップの半分より少し下まで注ぎ入れる。そこから8分目までの残りはたっぷりと牛乳を注ぐ。僕好みのロイヤルミルクティーの完成だ。
「いつも思うけど、やっぱりおかしいよね。ミルクの量多いし、しかも、後から入れるし。……味するの?」
「するよ」
食い気味に返事をして、ティーカップの縁を口につける。嗚呼、ちゃんとするさ。まろやかなミルクの温もり。そして、紅茶の微かな風味。
ロイヤルミルクティーは偉大だ。紅茶のあの渋いというか尖ったというか、そんな味を一気に緩和してくれる。紅茶の飲めなかった僕に救いの手を差し伸べてくれた。
「紅茶にミルクを入れると最初に思いついた人に拍手を送るね」
「いや、最早紅茶じゃないわ」
彼女はあまりの少ない牛乳瓶を傾け、それに続いてポットを傾けた。
「140年もイギリスで議論されて、ミルクが先だってなったのに、そんなの見たらその議論も悲しいものよね」
「そんなこと言われても」
「科学的にもミルクは先に入れた方が美味しいって検証されているのよ?」
僕は彼女を無視し、ごくりと喉を鳴らす。科学がなんだ。僕が納得したのだから、それでいいじゃないか。
「紅茶くらい、好きに飲ませてくれよ」
優雅な時間が台無しだ。
「本当は苦手なくせに。無理しないで、大好きな珈琲を飲んでいればいいのにさ」
向かいの椅子に座る彼女がティーカップ越しに悪戯に笑う。その笑みに思わず、眉間に皺が寄った。ああそうだ。確かに、僕は珈琲は好きだが、紅茶が嫌いだ。ストレートなんて舌を付けただけでも、舌が口に引っ込んでくれなくなる。砂糖を何杯入れようが、奴は強者だ。そんなのお構いなしに自分の魅力を僕に押し付けようとしてくる。僕の舌はそれを拒んで仕方がない。しかし――。
「新たな世界に足を踏み入れようとして何が悪い」
僕は彼女を睨む。そうだ。僕は未だ踏み出したことのなかった未知の世界を体験し、楽しみたいのだ。それの何が悪いというのだ。
彼女は僕の目に怯むことなく、未だに悪戯に目を細めている。睨んでいるわけでもないのに、僕の方が怯みそうになる。怯む理由がある。僕は思わず、目を逸らした。どうやら彼女には敵いそうにない。彼女は口の端を吊り上げて、ティーカップを置き、頬杖をついた。
「いいこと教えてあげる」
急なお姉さん気取りに少し違和感を覚えながらも、その言葉の続きを期待する。彼女はキッチンカウンターの真ん中から1つ左の席を指差した。
「あの席でよく本を読んでる女の子。あの子の好きなメニューはレディ・グレイ。勿論、ストレートね」
「………」
「因みに、好きな男性のタイプは素直な紳士さん、だってさ」
「何変なこと訊いてんの」
彼女は優雅さとは程遠いこの空間に不似合いな豪快な笑い声を響かせる。彼女に弄ばれているような気がして、少し癪に障る。
………紳士。紳士か。
ずずっと音を立てて、喉へと流す。
「素直、ねぇ……」
「残念ながらないわよ」
「訊いてないし。失礼だな」
「何よ。本当のことでしょう」
このババア――。
吐き出される寸前を舌で引き戻す。代わりに、顔の中央に皺を寄せた。彼女の笑い声が再び響き渡る。
「紳士ぶったところで、そんなんじゃあ、いつまで経ってもあの子の紳士には近付けないわよ」
「何言ってんの」
「ほら、素直じゃないんだから」
完璧にからかわれている気がする。僕は残りを胃に運んだ。
「また来る」
財布から500円玉を取り出し、銀色のトレーに乗せる。カランという質素なベルの踊る音と同時に彼女が僕を呼び止める。僕は彼女の言葉に振り向く。
「いつまでもごまかしてんじゃないよ」
「……何それ」
僕はカランとまた質素なベルを踊らせた。
――なんてことだ。
大学帰り、いつも通りの帰り道を歩き、時の流れを感じさせる味わい深い扉を開け、質素なベルを踊らせるまでは、何も変わらない日課だった。
日課だったというのに――。
どこからだ。どこからがいつもと違う?
起きた時間か? お気に入りの靴を履いたことか? 足許に落ちていたゴミを拾い捨てたことか?
何はともかく、今は神様に感謝しよう。
僕はバレないようにちらりと横を見る。
黒髪の隙間から文字の羅列をなぞるその瞳にたまらなくときめいて、抑えようと思っても心臓が歓喜を抑えきれないでいる。
「今日は何にする? ダージリン、レディ・グレイ、ローズヒップがおすすめだけど」
カウンター越しの彼女が、癇に障るにやつき顔を僕に向ける。僕は威嚇を込めて、眉間に皺を寄せる。
「セイロンで」
「ミルクは?」
僕は少し躊躇って、首を横に振った。
「あらっ、いらないの?」
からかっているのか。僕は彼女への威嚇をやめない。しかし、彼女は僕の威嚇など気にしない顔で、相変わらずにやつき顔を僕にサービスしてくる。
「セイロンなら、ミルク入れた方が美味しいのに。貴女もそう思わない?」
「……っ!」
隣に話を振る彼女に咄嗟に向けた「馬鹿」は声にならなかった。
隣は、本から顔を上げ、一瞬、目をぱちくりさせながらも、くしゃりと笑い、コクリと頷いてみせた。
「そうですね。私も、セイロンならミルクが好きかな」
彼女のにやつきが加速する。僕は心の中で両手を上げ、「じゃあ、ミルクで」とぼそりと呟いた。彼女は相変わらず「はあい」と間の抜けた声を上げて、食器を鳴らす。一瞬、どこの映画だと言わんばかりのウインクをしたのを、僕は見逃さない。
変に気遣ってくれるじゃないか。
僕はまたバレないように、横を見る。――が、僕の見方が下手くそなのかバッチリと目が合ってしまった。
少しの気まずさを覚えながらも、このまま黙るのは僕には堪えられず、ぎこちない笑みを浮かべる。
「……紅茶、好きなんですか?」
「えっ」
思わぬチャンスに間抜けな声を出す。
「よく、見かけるので」
「ああ……まあ、はい。はは……」
我ながら、なんと紳士とは程遠い返事だと思う。
「そっちも……紅茶、好きなんですか」
「はい。……なかなか、紅茶に特化した喫茶店ってないから、お気に入りで」
「そうですよね。確かに、あんまりこういうところないですもんね」
さっきの返事の挽回のチャンスだと意気込んだ。意気込んだはいいものの、言葉が詰まった。はは、とまた意味もなく笑う。暫し、沈黙した後、それを破ったのは隣だった。
「珈琲、飲まれるんですか?」
その言葉に、今日飲んだ缶コーヒー数本がフラッシュバックされる。
「……分かります?」
珈琲ではなく紅茶を好む僕の紳士像が白旗を上げようとしている。
「私、鼻良くて」
また、くしゃりと笑って、指先で鼻を触ってみせた。その姿も堪らなく可愛くて、口許が緩みそうになるのも必死に堪えた。
「私、珈琲飲めなくて。でも、珈琲飲める人ってかっこいいなって思って、どうにか、牛乳とか砂糖とか多く入れたり、ケーキと一緒に飲んだりして、飲めるようになろうって思ったんですけど、全然駄目で……」
隣でゆっくりと耳を赤らめる。
「これなら飲めるって思ったものも、珈琲はちょっとだけのほとんど牛乳で。友達にそんなの珈琲じゃない! なんて言われちゃって」
不意に、僕と彼女の会話が脳裏を過ぎって、重なった。
「好きに飲めばいいんですよ。美味しく飲めればそれで」
自分にも言い聞かせるように呟くと、隣でまたくしゃりと笑った。
なんだか、それが、僕の変な意固地さを蹴散らすようで――。
――いつまでもごまかしてんじゃないよ。
自分の幼稚さが少し恥ずかしくて――。
「はあい」
焦点の合ってなかった僕の視界に1つのポットと湯気の漂う牛乳瓶、そして2つのティーカップが映り込んだ。
「折角だから、お2人でどうぞ。ポットと瓶は一緒だけど」
彼女に目をやると、歯を覗かせていた。
嗚呼、そうかい。
上げかけていた白旗をボキリとへし折る。
「あの、美味しいミルクティーの作り方、教えてくれませんか」
折った白旗を投げ捨てる。
「今、どうにか、紅茶飲めるように頑張ってるんですよ」
隣の目から逸らさないで、はは、という間抜けな笑い方は抜けないまま、右頬を掻く。隣で、くすりと笑って、君は頷いてみせた。
「じゃあ、代わりに今度、珈琲の美味しい飲み方、教えてくれませんか」
今日、ミルクは先に入れた。たぶん、これからは先に入れる。それから、珈琲も紅茶も美味しく飲めると思う。隣で君と。
fin.
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