涙色の空

浅雪 ささめ

涙色の空

「もうすぐですね、先輩」


「ああ、そうだな。たくさん準備もしたし、俺たちも楽しもうな」


 それに俺はこれが最後だし。と先輩は憂い顔で付け足す。私はそんな先輩の顔は見たくなかった。

 だから、そんなこと言わないでくださいよーと、笑いながら返してみる。すると先輩も笑みを作って、一緒に笑ってくれた。


 そう。この笑顔だ。私が惹かれたのは。


 ではさようなら。またな。最後にいつものように言葉を交わし、二人別々に下校した。


 私の通う大竹宮おおたけみや高校では二週間後に文化祭をやる。この文化祭こそ、私がここに進学を決めた一つの理由でもある。昨年、友達に誘われて半ば強引に、この学校の文化祭に足を運んだ。

 最寄り駅に着き、もう少しで学校というところでスマホから顔を上げ、別行動を提案したのは彼女だった。

 直接見てはいないけれど、たぶん会いたい人、具体的に言うと彼氏だろうなという見当は付いた。だったらなんで私を誘ったのかは分からないが、そんなことはどうでも良く感じていた。

 二人の時間を友達である私が壊すわけにもいかないし、私はそれを承諾した。


「ありがとう」


 そういう彼女は女の私が見惚れるほどに魅力的だった。「可愛い」と言う言葉が喉まであがってくるほどに。


 校門をくぐり、じゃあ後でね。と別れ、私は一人になった。きっと、今日はもう彼女と会わないのだな。という妙な確信があった。

 お昼頃になったら、メッセージアプリに『ごめんね!!』なんて送られてくることだろう。

 入り口で貰ったパンフレットに一通り目を通したが、特にめぼしい物は見当たらなかった。あ、でも、この焼きそばは食べたいな。

 まだ朝と呼べる時間帯だからまだ、おなかはすいてないけれど。


 このまま所在なく歩いていても仕方がないか。この高校に知り合いの先輩がいるわけでもないし。

 そう思って、ふらっと立ち寄った教室は文芸部誌を売っている、周りの喧騒な雰囲気とはかけ離れたところだった。

「こんにちは。どうぞ」と言われ、部誌を一冊手に取る。窓際で椅子に座り、本を読む少女が表紙だった。私は受け付けの先輩に百円玉を二枚、手渡した。

 適当な席に座り、パラパラとページをめくる。厚さの割に、目次にある名前はたった三人分だったことに、少なからず驚く。

 そのまま私は物語の世界に潜り込んだ。ポニーテールの女の子が冒険をするというファンタジーな雰囲気の物語。



「驚きましたか?」


「え? はい、何か用ですか?」


 本に夢中になっていたので、急に声をかけられて驚いたのは事実だ。


「いえ、そうではなく、その部誌」


 そう言われて合点がいった。


「はい、皆凄いんですね。こんなに書けるなんて」


 文庫本一冊ほどの文量がありそうだ。私なんて短編を書くのも挫折したのに。


「それは三人分ですが、誰も入らなければ来年は俺一人で、そのまま廃部になるかもしれないんです」


 だから、と目の前の眼鏡を掛けた先輩は続ける。


「どうせ最後になるんなら、派手に長編にしてみないかって。自分たちの書きたいものを詰めこもうって。そうなったんです」


 それを聞いて、私は何を思ったか、自然と言葉が口からこぼれ落ちた。


「少なくとも私は入りますよ」


 今思うと、とても嫌みを含んだ言葉に聞こえていたかもしれない。


「本当かい? 嬉しいよ」


 そのときの先輩の顔を今でも鮮明に思い出せる。とても柔らかい笑顔だった。



 これが、私と先輩の出会い。

 この翌年、私は無事に大竹宮高校に受かり、文芸部へと入部した。

 私以外に入ったのは三人だ。廃部にはならないだろう。


 ただ、先輩は今年の文化祭が終わったら、親の都合で転校してしまうらしい。

 それを聞いたのはつい二、三日前のこと。部誌を綴じ込んでいる作業中、急に聞かされた私達はただ驚くことしか出来なかった。


 そして時は流れ、何も言えずに文化祭が始まった。

 一緒に見て回る友達がいなくもないが、今日はその輪に入りたくはなかった。だから、文芸部の部誌販売にほとんどの時間を充てる。

 言い方が酷いが、意外と人が多く来てくれて、ちゃんと部誌は完売した。

 

 心にもやもやが残ったまま、高校初めての文化祭は幕を閉じた。



「打ち上げに行かないか?」


 片付けも終わり、そろそろ帰ろうかというところで先輩がそう言うが、私以外の三人は申し訳なさそうに首を横に振った。


「私も」


 行きません。そう言おうと思った。

 だけど、先輩の悲愴な顔を見た瞬間、そんなこと言えるはずもなかった。

 最後に見送ってあげられるのは、私しかいない。


「私は行けます」


「そうか。ありがとう」



 その放課後、私は先輩と喫茶店に入った。お洒落な雰囲気というわけでもなく、先輩らしいと言えば先輩らしい。テーブルが二つ三つあるくらいの、小さな喫茶店だった。

 ミャオと鳴く猫の声が聞こえてきそうだ。


 二人でコーヒーを頼んで、先輩はミルクと砂糖を二つ。甘いのが好きなんだ。そう照れ笑う。

 私はミルクだけを入れてカップに口をつけた。

「おいしいですね」

「そうだな。とても美味しい」


 会話らしい会話はそれくらい。でも、私にとっては充実した時間になった。



 そしてとうとう先輩がいなくなる日がきてしまった。ゆっくりと時が進んで欲しいと願うときほど、早く感じることはないと思う。

 カレンダーをめくるのも億劫になってしまう。


 学校の帰りにそのまま隣県の空港まで電車で向かうと言うので、私も見送っていいですか? と聞いてみた。すると先輩はいつかの優しい笑みで「うん」と、頷いてくれた。


 校門から駅までは歩いて十分ほど。


 何か話さなきゃとか思ってしまうけど、特に話題も見当たらなくて、結局開けかけた唇をもう一度くっつける。

 何を話しても、ただ虚しくなるだけなのかもしれない。


 結局駅に着くまで、お互いに一言も話さなかった。


 既に駅にいた先輩の親に会釈をする。「彼女?」と先輩は親に揶揄からかわれていたが、そんな関係じゃないことは私が一番知っている。


 電車が来るまであと数分。その数分が過ぎれば、先輩とはもう会えなくなってしまう。


 ホームへと繋がるエレベーターを降りる。

 そして黄色い線を見下ろしながら、電車が来るのを待つ。


「お前も体に気をつけてな」

「はい」


 やめて。


「またいつか会えたら良いな」

「そうですね」


 やめて。


「これからはお前が部長だ」

「頑張ります」


 やめて。


 もうやめて。


 私の中で消したい思いが、どんどんと膨れ上がってしまう。

 それでもそれを必死に抑えながら、無理に口角を上げ先輩を見送る。


「先輩。私のこと覚えていてくださいね」


 そんなことが無理なのは分かっている。先輩はカッコいいし、とても優しいから。きっと、すぐに私よりも可愛げのある彼女を作ってしまうだろう。そして私のことも「同じ部活だった後輩」になり、「ポニーテールの子」になり、しまいには同じ時間を過ごしたことも、名前すら忘れ去られる。

 だから本当は「私のことは早く忘れてください」と言うのが正解なのに。


 先輩はほんの一瞬目を見開いて、うん、忘れないと目を赤くして言って電車に乗り、扉は閉められた。


 先輩は私の顔から目を離さずにずっと手を振ってくれている。私も笑顔で振り返す。鏡を見れば私は今、変な顔になっているだろう。目の前の先輩が笑っているのは、もしかしたらそのせいかな。


 発車します。というアナウンスと共に先輩は段々と私と離れていく。

 もう見えなくなった。

 しばらくその場で呆けていると、ポツ、ポツと、私の頬を濡らす音が聞こえた。この音が降ってきた雨の音なのか、それとも私の目から溢れ出ている雨なのかは、もう見分けがつかなくなっていた。


 ふうと息を整え、駅構内のコンビニで傘を買う。幸い、最後の一本が残っていた。


 一歩駅から出ると、チラチラと降っていた雨は、地面を打ち付ける雨に変わっていた。ゴロゴロという音も響いている。

 私は傘を差すことすら面倒くさくなって、傘を閉じたまま家へ帰ることにした。

 体に当たる冷たい雨がとても心地いい。


 このまま私の中の「好き」と言う気持ちも洗い流されればよかったのに。

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