ヴァルプルギスの夜に

緋糸 椎

 まだ両親が一緒だった頃、小学生だった僕を連れてヨーロッパへ旅行した。パック旅行ではなく、父が計画した個人旅行だった。その際、あまりメジャーな観光地ではなく、地味な場所が選ばれた。

 その一つがドイツ・ハルツ山脈の寒村だった。そこで夜に行われるヴァルプルギスという魔女の祭りサバトを父は見たかったらしい。


 その村のヴァルプルギス祭りは真夏に行われたが、山地の夜はとても寒かった。大人たちは薬草入りのリキュールやホットワインで体を温めていたが、子供であった僕に飲めるわけがない。

 やがて祭りの開始の時間となり、中央には篝火かがりびが焚かれ、黒いマントに黒頭巾という不気味ないでたちの老婆たちが数名現れた。

 そしてリーダー格の魔女が中央に立ち、意味不明な言葉で叫んだ。

「◇□☆◯!」

 すると、7人の魔女たちがリーダーを中心として輪になって並んだ。そして陣形が整うと、リーダーは篝火から火を取って香炉に移した。香炉から煙が上がり、篝火に照らされてオレンジ色に光った。

 それはいかにも神秘的な演出だったが、小学生だった僕は生意気にも、観光客相手の茶番じゃないかと冷ややかな気持ちで見ていた。


 それから1人の魔女が香炉を受け取り、それを持って1人の少女の前にやってきた。そして魔女が手招きすると、少女はそれに従って魔女たちの輪の中に入った。

 僕はその少女があまりに美しかったので、つい見惚れてしまった。美しいブロンドの髪と白い肌、そして透き通るようなエメラルドの瞳……僕はこんなに美しい少女を見たことがなかった。


 ところが、そうして夢見心地になっている僕のところに、また別の魔女が香炉を持って近づいて来た。彼女の手招きにはじめは躊躇したが、それを拒むのは子供心にも大人気ないと思い、僕は魔女についていって、あの美少女の隣に立った。

 するとリーダー格の魔女が少女と僕の頭に手を置き、何やら呪文を唱えた。

「◯☆☆♡!」

 次の瞬間、見物人たちから大きな拍手が送られた。どうやら、僕と少女が運命的な絆で結ばれるというようなことを言っているようだ。もちろん、そんなことを真に受ける僕ではない。当然少女だってそうだろうと思った。


 ところが、祭りが終わって見物人たちが散り始めた時、先ほどの少女が僕のところにやって来た。彼女は何か話しかけるが、僕にはドイツ語がわからなかった。でも内容が好意的であることは感じ取れた。そして彼女は僕にたくさんのクッキーがぎっしり詰め込まれた袋をくれた。クッキーはもみの木の形をしていて、袋は緑色のリボンで閉じられていた。僕も何かあげなくちゃ、と思ってポケットを探ると、ポケモンのカードが出てきた。他にあげるものがなかったのでそれを渡すと、

「アハ、!」

 と喜ばれた。それが唯一僕の理解できた彼女の言葉だった。


✈︎


 旅行から帰って以来、僕は少女のことばかり考えていた。彼女が僕の頭の中で微笑むと、途端に顔が真っ赤になった。こんな気持ちになったのは初めてで、僕はいささか戸惑った。

 彼女からもらったクッキーは、大切に毎日一つずつ食べた。しかし、その中で一つだけ、固すぎて食べられないものがあった。見た目は他のクッキーと変わらなかったが、裏側に「230220」という数字が刻まれていた。電話番号かと思ってこっそり国際電話をかけてみたが、番号未使用を告げるドイツ語のアナウンスが流れた。



 中学二年生の時に両親が離婚し、父とは離れ離れになった。そのトラウマのせいか、周りのクラスメイトがしきりに言うようには彼女が欲しいとは思わなかった。同時に、ドイツで出会った少女へのほのかな恋心はいつまでも抱き続けていた。

 不思議なことに、固くて食べられなかったクッキーはいつまでも腐ることがなく、僕はそれを宝物として大事にしまっていた。



 成人しても、僕の〝彼女いない歴〟は年齢と等しかった。当然のことながら、周りのおせっかいな連中が僕に恋愛を勧めてくる。

「なあお前、本当は彼女が欲しいんだろ?」

「積極的に攻めていかなければいつまでもひとりのままだぞ」

 しかし、僕がそういう助言を疎ましがってばかりいたので、やがて彼らも離れていく。にもかかわらず、おせっかいな人間は性懲りもなく次から次へと湧いてきた。

 

 だが、さすがに適齢期を過ぎると、縁談には耳を傾けるようになる。やがて年貢の納め時とばかりに、知人の紹介で結婚した。しかし、性格の不一致がどうしようもなく、わずか数年で離婚した。その時母親は「やっぱりあなたはウチの子ね……」と、しみじみ言った。違うのは、僕たちが別れても、傷つく子供がいなかったことだ。



 元妻が出てから家の中を整理していると、あの少女からもらったクッキーが出てきた。それは20年経った今も、腐らずに残っていたことに驚いた。そして、そこに刻まれた「230220」の数字。あの時はわからなかったが、もしかしたらこれは日付ではないかと思った。ヨーロッパでは日付は日、月、年の順に書く。もしそうだとすると、このクッキーに刻まれているのは2020年、つまり今年の2月23日ということになる。これにどんな意味があるかわからないが、2月23日にあの場所に行ってみようと思った。


✈︎


 2月23日、フランクフルトから電車を乗り継いでハルツ山麓の寒村へやってきた。ドイツの田舎ならどこにでもある風景で、久々に来たというのにさほど懐かしさは感じない。

 この日は、たまたまカーニヴァルの行進が行われるということで、メインストリートには多くの仮装した人たちが集まっていた。土地柄か魔女の格好をした人は大勢いたし、動物やディズニーのキャラクターなど、様々な仮装が目白押しだった。

 だが、その中でひときわ目立っていたのはピカチュウの着ぐるみだった。不思議なことに家族や友達と一緒にいるわけではなく、たった一人でここに来ているようだった。

 とその時、ピカチュウがこちらを振り向いた。着ぐるみを被っていたのは女性だった。僕にはその顔に見覚えがあった。20年経っているというのに、はっきりとその面影が残っている。

 彼女はヴァルプルギスの夜に出会った、あの美少女だ。

 彼女も僕を見つめたまま、その目を離さない。僕は今日の日付けが刻まれた、あのクッキーを彼女に差し出した。すると彼女は驚きつつ顔を輝かせながら、20年前に僕があげたポケモンカードを出してみせた。

 僕たちは何も言葉を交わすことなく、そのまま抱き合って再会を喜んだ。

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