第四話 図書室は、緩やかに世界から隔離されている

「ねえ、私が魔法使いだって言ったら、君たちはどうする?」


 高校生活の一年目が半分ほど過ぎたある日、佐久間先生は僕とあさぎにそう、問いかけた。校舎の外周で走り込みをしている運動部の掛け声。学校中の教室に散らばってパートごとに練習している吹奏楽部の楽器の音。

 そういう、放課後特有のにぎやかな音が、イヤホンの音漏れのように聞こえてくる。ここは、世界から緩やかに隔離されているのだ、と思う。


「魔法使いというのは、どういう存在ですか?」


 あさぎが質問を返す。


「質問に質問で返すとは、やるねえ」


 佐久間先生は顔のパーツ全部で楽しそうな笑顔を浮かべた。静かな図書室に、先生の笑い声が小さく響いて、すぐにそれは多くの本に吸い込まれる。佐久間先生は、目線を上に向けながら、言葉を並べた。


「魔法の杖があれば、大抵のことはできるよ。例えば、部屋の掃除とか料理を作るとか、壊れたコップを直すとか? 細々とした面倒事や、些細な悲しみを解決できる。そんな存在」


 佐久間先生はアイスティーをゆっくり飲み込んで、僕と視線を合わせる。


「私がそんな存在だとしたら、君はどうする?」


 いつの間にか、運動部の掛け声も、吹奏楽部の楽器の音も、聞こえなくなっていた。世界から緩やかに隔離されたやさしい場所で、僕は口を開く。


「そうだね……英語の宿題でもやってもらうかな。単語の書き取りは意外と手間がかかるから」


 意識的に微笑みを浮かべて、なるべく柔らかな声を心がけて、僕は言葉を続ける。


「僕の身の回りにある面倒なことや悲しみなんて、そんなものだよ」


 佐久間先生は、目を細めて笑う。


「平和な世界で生きてるねぇ、少年」


 僕は佐久間先生から視線をそらして、あさぎと目を合わせる。黒に近い茶色の瞳が、電灯の光を反射して、きらきらと光る。


「あさぎなら、どうする?」


「私を、魔法使いにしてもらいます」


 あさぎは佐久間先生と視線を合わせて、思いのほか真剣な顔で、口を開く。


「私は、魔法使いに、なりたいのだと思います。日常の些細な悲しみを、少しでも多く、解決したいです」


 彼女は、本気で魔法を信じているのかもしれないな、と思う。佐久間先生の適当な思い付きを、そこに隠された彼女の心配には気づかずに。


「あさぎちゃん」


 佐久間先生が、柔らかな声で彼女の名前を呼ぶ。


「本当に魔法使いになりたいなら、魔法の杖を探しておいで」


「魔法の杖?」


「そう。それは、公園に落ちている木の棒かもしれないし、一冊の本かもしれない。とにかく、君が魔法の杖だと思えるものを探しておいで」


「それはそんなに重要なものですか?」


「もちろん。魔法使いはね、魔法の杖が無ければ、魔法を使えないんだよ」


 佐久間先生は、僕と目を合わせて笑う。


「少年も、魔法が使いたくなったら、杖を持っておいでね」


「考えておきます」


 僕は微笑みを返しながら、そんな日は絶対に来ないだろう、と思っていた。魔法だとか、幽霊だとか。そういう目に見えないものをまっすぐに信じられるほど、僕は純粋ではない。僕は、真剣に魔法の杖について考えだしたあさぎを視界の真ん中に収めて、彼女の純粋な部分について「可愛らしいな」と思う。



 高校二年生になった僕の鞄の中には、公園で拾った魔法の杖が、新聞紙にくるまって入れられている。水仙あさぎが居なくなった世界で、僕は魔法に縋って息をしていた。

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