第二話 平凡に変わった図書室と全てを許しているような声
「やあ、少年」
目覚めたばかりでぼんやりとした頭に、柔らかな声が届く。あさぎの声が絵の具の白だとしたら、この声は光の白だと思う。ゆっくり目を開けると、眼鏡をかけた女性が笑みを浮かべてこちらをのぞき込んでいた。机の上に倒していた上半身を起こすと、二・三秒目の前が暗くなった。女性は僕のめまいが収まるのを待ってから、口を開く。
「おはよう、少年。よく眠れたかい?」
僕は女性と目を合わせて、首を縦に振る。膝の上で丸めた拳に力がこもっていた。
「それはよかった。教室に戻る時間だよ、少年」
僕は女性の言葉につられるように、壁に掛けられた、文字盤が白くて、針が太い時計を見上げた。この教室に来たときから、ちょうど五十分が経っていた。四時間目が終わってすぐに図書室に来たから、今は五時間目が終わる少し前だろう。
「佐久間先生、明日も来ていいですか?」
佐久間先生は、レンズの奥にある目を細めて、口角を上げる。何を思ってその表情を浮かべているのか、僕には想像すらできない。とても器用で、あらゆる感情に蓋をして笑っているこの人は、僕よりもはるかに大人なのだ、と思う。
「図書室でさぼれるのは、一人につき一週間に一度まで。しかも、一時間で一人だけ、先着順。これは誰にでも適用されるルールだよ」
佐久間先生はそこで一度言葉を切り、僕の頭に手をのせた。
「まぁ、でも、君がルールと戦いたいなら、いくらでも議論に応じるよ」
僕は佐久間先生から視線をそらして、机の木目を意味もなく数える。
「遠慮しておきます。先生と話し合うのはとても体力がいるでしょうから」
佐久間先生の指先が、髪の毛の間を滑り落ちた。
「君は物分かりがいいねぇ」
僕はその言葉には答えずに、音をたてないように注意しながら椅子を引いて立ち上がった。五時間目の終わりを告げるチャイムが、静かだった図書室の空気を乱す。
佐久間先生に頭を下げて、僕は図書室の外に出た。扉のすぐ近くに置いてあった黒いリュックを持ち上げて、階段を下りる。お弁当と筆箱しか入っていない鞄を背負い、床を意識しながら一段ずつゆっくりと足を進めた。そうやって床を意識していないと、足を踏み外してしまいそうだった。硬いはずの床がミルクティーみたいにあやふやになって、晴れ渡った空から太陽が落ちてくる。
そんなくだらない妄想に、僕は今日も縋っている。
階段を最後まで降り切って、職員室の前を素通りして、教室棟につながる扉を通り過ぎた。まっすぐ、何の迷いもなく、僕は昇降口に向かっていた。暗く重い湿気をまとった空気が、僕の体を包み込んでいる。梅雨の晴れ間は、真夏のそれよりも不快だ。
靴箱の扉を開ける。古くて立て付けの悪い扉が開くとき思いのほか大きな音がして、肩をすくめる。あばら骨の内側に氷を押し付けられたような嫌な感じがして、体感温度が少し下がった。僕はそっと、音を立てないようにスニーカーを取り出して、足をねじ込む。
外に出ると、白く輝く太陽が肌を焼く。西の空に傾いた太陽を見上げる。強すぎる光のせいで何も見えない視界の奥で、君が笑っている気がした。目を開けば、そこに、君がいる気がした。
そんな、くだらない妄想に、僕は今日も縋っている。
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