第三話 泣きそうに見える少女と愛想笑いをしている僕
水仙あさぎと初めて出会ったのは、高校一年生の四月だった。入学式が終わって、まだ体に馴染んでいない制服に違和感を覚えながら、図書室を訪れた。
そこに、彼女はいた。
「やあ、少年。入学おめでとう」
図書室に入ると、昔から近所に住んでいる女性が片手をあげて僕を迎え入れた。「佐久間さん」と呼びかけそうになって、慌てて先生、と言い直す。佐久間先生は、そんな僕を気にした様子もなく、笑顔を浮かべて言葉を続けた。
「こんなめでたい日に図書室に来る変わり者は君くらいだよ……と、言いたいところだけど、実は先客がいるんだよ、少年」
僕は佐久間先生が指さした方向を見て、少し驚く。そこにいたのは、黒い長い髪をひとつにまとめた同級生の少女だった。てっきり、上級生の誰かだと思ったのに、彼女の胸元には新入生であることを示す赤い造花が留められていた。
じっと、少女を見つめる。本を支える指先が細くて、白い。口元が僅かに歪んでいる。笑いだす一歩手前のような顔だった。不意に、少女は視線を上げた。
長いまつ毛に縁どられた瞼が動いて、黒に近い茶色の瞳が僕を捕らえる。形のいい唇が動く。
「こんにちは」
僕は口角をあげて彼女に言葉を返す。
「こんにちは」
「あなたも一年生?」
僕はその問いにうなずいて社交辞令のように「君も一年生?」と聞き返す。少女はうなずいて、少し高い声で言葉を発した。
「私の名前は
「僕は
水仙が口を開くよりも先に、僕は言葉を吐き出す。
「産声をあげるまで女の子だと思われてたんだ。だから、こんなに女の子みたいな名前をつけられちゃってさ」
まるで困っているように僕は笑みを浮かべる。本当は名前なんてただの識別記号だと思っているけれど、名前に、もっと言えば両親に不満を感じているように振舞った方が教室の中では息がしやすくなる。少女は、二回、ゆっくりと瞬きを繰り返した。それは、不自然な間に感じられる。
「性別なんて出席番号と変わらないし、るり、というのはとても綺麗な響きだと思う。でも、あなたが嫌いなら名字で呼ぶ」
水仙は、いつの間にか本を閉じていて。その目はまっすぐに僕を見ていた。彼女の目は図書室の照明を反射してきらきらと光る。それが、涙の膜のせいだと気が付くまでに、三秒もかからなかった。
水仙あさぎは、静かに泣いていた。
「あなたは名前を呼ばれるのが嫌い?」
泣いていた、という表現が正しいのかはわからない。彼女の涙が頬を伝うことはなかったし、声が震えることもなかった。でも、僕には彼女が泣いているように見えた。その顔が、深い悲しみを抱えているように感じる。僕は息を吸い込んで、なるべく柔らかな声が出るように意識しながら言葉を紡ぐ。誰であれ、泣いているところは見たくない。
「綺麗だと思ってくれるなら、ぜひ、名前で呼んでほしい」
少女は、二回瞬きをして、口角を上げた。同年代の女の子と比べても少し高い声で、水仙は僕の名前を口に出す。まるで、それが特別なものであるかのように。
「るり」
「なあに?」
水仙は、少し視線をさまよわせてから、僕の問いに答えた。
「これからよろしくお願いします」
僕は口角を上げて、水仙に言葉を返す。
「うん。よろしく」
こうして、僕と水仙あさぎは出会った。僕らは、多くの時間を図書室で共有した。あさぎ、と呼ぶようになるまで、そう時間はかからなかったように思う。気まぐれな梅雨の晴れ間、夏に近づいていく太陽を見上げて、僕は彼女の名前を呼んだ。
「あさぎ」
なるべく柔らかく、温かい響きになるように。
返事は、いつまで経っても聞こえてこない。
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