第六話 夢の中では指先すらも暖かいのに
雨が、降っていた。僕は透明なビニール傘を差していて、あさぎは薄い水色の傘を差していた。傘をたたく雨粒が、やさしい音を立てていて、その合間に彼女の声が聞こえてくる。服が濡れるからとベンチには座らず、無人の公園で僕とあさぎは話をしていた。滑り台が、ブランコが、スニーカーが。いろんなものが平等に濡れている。
「やっぱり、公園は晴れている方が好きかもしれない」
傘を傾けて、僕と視線を合わせたあさぎの目には、涙が浮かんでいた。僕はとっさ彼女の頬に手を伸ばす。支えを失った傘が地面に落ちて、細い雨が僕の全身を濡らした。指先で触れたあさぎの頬は、僕と同じくらい温かくて。彼女が死んでしまったのは、やっぱり嘘なんじゃないかと、思う。あさぎが、口を開く。
「あのね」
少し高くて、柔らかくて、少しだけ活舌の悪い声。頬をなぞる指先が、小さく震えた。僕は、唾を飲み込んでから、言葉を返す。
「なあに?」
あさぎは眉を寄せて、唇を噛んで、それから目を閉じる。ぎゅっと、力強く閉じられた瞳が開くまで、僕は彼女の頬を撫でていた。この感触を忘れないでいられるように。そんな身勝手なことを祈っていた。
あさぎが、目を開く。
「あのね」
「うん」
小さく息を吸い込んで、あさぎは無理やり笑顔を浮かべる。口角は上がっているのに、眉間のしわは取れないままの、歪な笑顔。作り笑いが歪んでしまう彼女がどうしようもなく愛おしく思える。
「私、死んじゃったみたいなの」
僕はあさぎの頬から手を離して、微笑む。なるべく綺麗に見えるように、意識して笑う。
「うん、知ってるよ」
「約束、守れなくてごめんね」
「うん」
「気が付いたら、飛び出してたの。隣の男の子が、帽子を買ってもらえてうれしいって、お母さんに話してるのを、聞いてたから。だからね」
「うん、わかってるよ」
「名前、呼んでくれたの、知ってるよ」
「聞こえていてよかった」
「ねえ、私のことは」
あさぎは震える声を飲み込んで、なんとか続きを言葉にしようとする。僕は、あさぎの手を握って、口を開く。
「あさぎ。君の願うとおりに言葉にして。僕の事なんて、ひとつも考えなくていいから」
あさぎは、どうにかこらえていた涙を瞳から零して、嗚咽を漏らした。震える細い肩を抱きしめる。伝わってくる体温は確かに温かいのに、夢から覚めたら彼女はもう、どこにもいないのだ。
「忘れないで。私の事、ずっと忘れないで」
「うん、わかった。忘れないよ」
「それから、ちゃんと生きて」
あさぎが僕の体を引きはがして、僕と目を合わせる。僕の頬を撫でる指先は、やっぱり温かくて。僕は、あさぎが死んでから初めて涙を流した。
「私ね、あなたの隣でもっとたくさん生きていたかったの」
「うん」
「だから、半分だけでも、叶えてくれる?」
僕は涙をぬぐって、あさぎの顔を見る。涙でぐちゃぐちゃで、とても綺麗とは言えない表情を浮かべる彼女を、まっすぐに見つめた。心の中にある温かくて、まっすぐな、彼女への思いが、全部伝わってくれればいいと思う。
「僕は、君が死んだら明日は来ないと思ってたんだよ」
僕はあさぎの両手をしっかりと握りしめて、言葉を続ける。
「あさぎのいない世界で、生きていけるとは思えなかったんだ。でも、僕、一か月も生きられた。びっくりでしょ?」
「そうでもないよ。るりは、自分で思ってるよりも、ずっと強いから」
「そうかな」
僕が首をかしげると、あさぎは笑った。
「そうだよ」
あさぎの笑顔があんまり綺麗だったから、僕もつられて笑う。作り物のそれよりも、少し歪な笑顔を浮かべて、あさぎに言葉を返す。
「約束するよ。僕はあさぎの事を一生忘れないし、ちゃんと生きる」
あさぎは小さく頷いて、僕の小指を自分のものと絡めた。
「さようなら」
「うん、またいつか」
僕の言葉に、あさぎは驚いたような顔で目を見開いて、それから泣きながら笑った。
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