第4話

 目を覚ますと、僕は自分の家の台所にいた。ずいぶんとながい夢を見ていた気がしたが、時計を見ると時間はほとんど進んでいなかった。僕の前で彼女が不思議そうな顔をして微笑んでいる。


 お湯を沸かして、僕らはインスタントのうどんを食べた。彼女は口を尖らせ、持ち上げたうどんの麺に息を吹きかけた。その麺に彼女の唇が触れると、まだ熱かったのか顔をしかめてくしゃくしゃにする。咀嚼しながら僕に向かって微笑む彼女。

 食べ終わる頃には、外は暗くなっていた。雨の音はやんでいたが、時々稲妻が光る。やることもなく、居間で二人並んでテレビを観ていた。テレビは騒がしいばかりだったが、彼女はそれを観ながら声を出さずに笑っていた。


 明日には、荷物の整理を終わらせて、東京に帰るつもりでいる。この居間で、テレビを観ながら過ごすなんてことは、最後なのかもしれない。祖母が、彼女みたいによくテレビを観ながら笑っていたのを思い出した。その時は気が付かなかったけれど、今思えば、あのときの祖母の笑顔は、僕にとっても、祖母にとっても、この家にとっても、とても幸せで重要な一時だったんだと思った。突然、涙が出そうになった。僕は祖母の死を聞いたときも、葬儀ので最後のお別れで花をたむけるときでさえ、泣かなかったのに。

 台所で料理をする母の音が聞こえたような気がした。僕の名前を呼ぶ母の声、母の微笑み、温もり。母の膝枕で眠った記憶。テレビを観ながら父の肩を揉んだとき、「ずいぶん力が出てきたな」といいながら、僕の頭を強く撫でた父の大きな手の平。 


 目が合うと、彼女はとても嬉しそうな顔で微笑んだ。暖かい部屋で、血色の戻った彼女の顔は生き生きとしていて、瞳が輝いていて、笑うとその瞳が線みたく細くなった。

 多分、幸福というのはこんな場面のどこかに隠れているんだなと思った。


 あの川に住むといわれる龍の伝説を彼女に話した。淵の底に潜む龍は、川底で眠っている人の夢を、順番に生きながら過ごしているのかもしれないと、最後に付け加えた。話をしているうちに、叔父が探せと言っていた龍の掛け軸も、その言い伝えに何か関係があるのかもしれない、ふと、そんな考えが浮かんだ。

 掛け軸の話をすると、彼女の目が光った。見たい? と聞くと、彼女は大きくうなずいた。


 玄関の扉を開けた。雨の音がしないと思っていたら、雪に変わっていたらしく、玄関の外は一面の銀世界だった。僕らは毛布を二枚もってきて、それを被って蔵へ向かう。すでに五センチほどの積雪があった。突然、稲妻が光った。闇の中に、純白の世界が一瞬だけ現れ、すぐに闇に包まれる。そのときの彼女の顔が、フラッシュを焚かれた一枚の白黒写真のように、僕の脳裏に焼き付いた。光沢のある唇、均整の取れた鼻梁、少し尖った顎先。少しして、雪に遮蔽された世界の空気を雷鳴が振動させた。


 入り口近くのスイッチを入れると、一階と二階にそれぞれ一つずつ設置された裸電球が点いた。蔵は密閉されているせいか、中に入ると温かく感じる。一階はすでに調べてあったので、僕らは急な階段を上って二階にあがった。正面の棚には数本の巻かれた掛け軸が保管されている。毛布に包まった姿の彼女は、その棚を興味深そうなまなざしで見ていた。そもそも、都会に住む人間にとっては、蔵の中に入るということ自体が非現実的なことなのかもしれない。


 僕は箪笥の前にしゃがんで、一本の掛け軸を手に取り、慎重にそれを開く。霞んだ山々の描かれた水墨画で、龍の姿はどこにも見当たらない。注意深く巻き取り、元の場所へ戻す。同じような作業を続けるが、龍の絵が描かれたものはなかった。

 棚の下の段を開く。そこにも何本かの掛け軸が保管されていたが、一つだけ明らかに異彩を放つものがあった。どのものよりも古く、金で装飾された表装はいたるところが剥げ落ちている。にもかかわらず、その物自体から発する凄艶な風格のようなものが感じられ、一目見たときに、これがその掛け軸なのだと思った。

 取り出そうと手を伸ばす。僕の指が掛け軸に触れたとき、蔵自体が揺れるような大きな雷鳴が轟き、同時に蔵の中の電気が消えた。窓は窓扉が閉められていたので、蔵の中に光は全くない。僕らは暗闇に包まれた。

 手を目の前にかざしても何も見えなかった。落雷による停電なんだろう。階段の降り口に手すりはなく、床にぽっかりと穴が開いている。動かないで! 僕は彼女に言うと、手探りで彼女のことを探した。彼女の腕に触れ、手を握った。戻ろう。僕はそう言うと、立ち上がり一歩前に踏み出す。

 そのとき、羽織っていた毛布の端を踏んでしまう。バランスを立て直そうと出した足の先に彼女の毛布があった。僕らはバランスを完全に崩し、床の上に二人で倒れてしまった。彼女を抱きかかえたまま、大丈夫? と聞くと、彼女はコクリと肯く。静寂の中、雪の降る気配と彼女の呼吸の音だけが微かに聞こえていた。


 僕らはそのままの形で床で抱き合っていた。毛布に包まれていたので寒さは感じない。彼女の温もりがあまりにも直接的に伝わってくることに僕は戸惑っていた。

 抱き合ったまま、動けなかった。時間が永遠に止まってしまえばいいのにと思った。時間を止める呪文を唱えるように、僕は自分の思い出を話した。両親と遊んだ話。両親の交通事故の話。川原で見た少女の話。祖母の話。独り言のように話し続け、その間に、僕と彼女は何度か口づけを交わした。彼女の唇は、今まで触れたどんなものよりも柔らかかった。

 

 話すことがなくなっても、僕らは抱き合ったままだった。彼女の吐く息が首筋にかかる。自分の意思の力では、彼女から僕の身体を引き離すのは、とても無理だと諦めた。

 彼女の形の良い耳介に口づけをし、もう一度、唇に口づけをした。長い口づけのあと、僕の舌が彼女の前歯に触れると、彼女は戸惑いながらゆっくりと口を開いた。暗闇の中、意識は舌の神経に集約され、僕は一匹の軟体動物となり、彼女の口腔に入っていく。彼女の舌は僕と出会うと緩やかに動いた。僕はもっと深く彼女の中に進入し、舌の裏側にある滑らかで柔らかい粘膜を舌先で探った。彼女の敏感な舌先と僕の舌先が軽く触れ合い、そして絡みあった。


 僕は彼女の着ているセーターの中に手を入れる。そうすることが一番自然だったし、ずっと以前からこうなることが決まっていたような気がした。彼女はセーターの下に何も身につけていない。乳房は大きくはなかったが、柔らかく張りがあった。

 僕の指先は意識を持ったように彼女の身体をなぞる。小さく硬い乳頭から手を下にのばすと何本かの骨の感触があった。そこを超えると急に内側へ切れ込み、大理石のように滑らかで引き締まったウエストになる。腰骨の湾曲を緩やかにたどると、彼女のスウェットパンツの中に指が入っていく。鼠径部の溝に沿って指先は進み、薄く縮れの少ない陰毛に触れる。

 彼女の吐息を耳たぶに感じた。それが合図のように、指をさらに奥に進める。

 そこはとても熱く、濡れていた。暗闇の中、見ることのできない彼女の性器は、僕の見たことのある二つの性器の統合された複合体として、脳裏に映し出された。

 僕は闇雲にそれに触れていたが、その動かし方によって彼女の呼吸がかすかに変化する。彼女の呼気と吸気のリズムを確かめながら、慎重に指を動かす。僕の指のリズムは徐々に早まっていき、それに応じて彼女の呼吸のリズムも速く、浅くなっていく。リズムに合わせて指の動きをさらに早めると、突然、彼女は僕の腕を押さえるように、ぎゅっと掴み、動きを止め、身体を硬直させる。少しして、彼女の虚脱した肉体が、覆いかぶさるように僕の上に崩れてきた。


 彼女は僕の胸の上に顔を乗せたまま動かない。まるで僕の鼓動の音を聞いているようだった。

 しばらくして、彼女から唇を重ねてきた。彼女の舌が僕の唇に触れ、口蓋を刺激する。彼女は、僕のセーターを脱がせると、スウェットのパンツに手をかけた。僕は腰を浮かせ、されるがままにした。

 いつの間にか、彼女も全ての服を脱いでいた。仰向けに寝ている僕の上に彼女が乗り、全身を密着させる。僕らはもう一度、濃厚に舌を絡める。次に彼女が動いたとき、僕のペニスはとても熱いものに包まれた。彼女の口から吐息が漏れ、彼女の身体が上下に動いたときに、僕は、自分がすでに彼女の中にいることを知った。途端、彼女が次に動いた瞬間、僕は彼女の中に射精してしまう。拍動する快感と共に、自分の不甲斐なさからくる嫌悪、罪悪感、そして絶望的な程の満足感が押し寄せてきた。

 二人はその後も、繋がったまま動かず、抱き合っていた。

 僕は彼女の顔を手探りで探すと、もう一度キスをした。長いキスを続けるうちに、ペニスは再び硬さを増していく。ゆっくりと腰を動かす。少し驚いたような彼女を抱き寄せ、仰向けにし、僕が上になって動いた。彼女の呼吸を感じながら、僕は彼女の中で動き続けた。

 

 何度目かの射精のあと、彼女から離れ、自分のペニスに触れると、二人の粘液によって濡れていた。それが今までの行為の証のような気がして、恥ずかしく、そしてなんだか嬉しかった。ヌルヌルだ。彼女の耳元に少しおどけて言うと、彼女の手が僕のペニスに触れた。恥ずかしさでいっぱいだった。

 少しの間彼女はペニスを触っていたが、僕の胸の上に横たえていた顔を起こすと、突然、彼女の身体が僕から離れた。温もりが消えた瞬間、どうしようもないほどの不安に襲われる。暗闇の中何も見えない。世界に僕一人だけが取り残されたようだった。

 そのとき、彼女の手が僕の足を開き、乳頭が太股の内側に触れた。長い髪の毛先が下腹部を刺激した後、ペニスは先ほどとは違う熱に取り囲まれた。

 蠢く熱は優しく僕自身を包み込み、穏やかに上下する。彼女はその周囲についた粘液を取り去るように、時間をかけて丁寧にゆっくりと舌を使った。ペニスは彼女の舌の動きを明確に記憶し、蓄積した。彼女の舌があでやかに動き、顔の上下する動きが激しさを増すと、僕は蓄積した刺激に耐えられなくなり、それを全て彼女の口の中に放出した。


 その後も僕らは抱き合い、時間をおいては、どちらからともなく求め、交わった。いつのまにか、眠りに落ちていた。目が覚めたとき、一条の光が閉じられた天窓の隙間から差し込んでいた。


 周囲を見回したが、彼女の姿はどこにも見当たらなかった。天窓から差し込む光で蔵の中は薄明るい。名前を呼ぼうと思ったが、聞いていなかったことに今さら気がつく。――ねぇ。小さな声を出したが、返事はない。ねぇ! 大きな声を出したけれど、やはり返ってくる反応はなかった。裸の僕は周囲に散らばっていた服を集め、それを身につけた。彼女の着ていた服も、毛布も、彼女の存在を証明するものは、僕の周りには何も残されていなかった。僕はもう一度、さらに大きな声で、ねえ!! と叫んだ。


 目の前の床にに掛け軸が転がっていた。ほとんど剥げてしまっている金の装飾、そのわずかに残っている部分が、天窓から差し込む光に照らされ、輝いていた。掛け軸を手に取り、巻緒をほどいた。慎重に開いていく。そこには詳細で写実的な龍の絵が描かれていた。さらに巻物を解いていくと、龍は流れる川面から今にも天に飛び立とうとしている。川は大きな岩に囲まれ、一番手前には堂々たる扁平な岩が描かれていた。

 最後まで掛け軸を開くと、挟んであったのか、一枚の古い写真が床に舞い落ちた。僕はしゃがんでそれを拾い上げた。


 その色あせた写真には、この蔵の前に立つ、晴れ着を纏った小学校四年生くらいの少女が写っていた。

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深く穏やかな淵の底で かかし @kakashia

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