第3話

 僕は平たい岩の上で、文庫本の世界に没頭している。日差しは雲に遮られ、灰色の雲が空を覆いはじめていた。視野を一匹の白い蝶が横切った。顔をあげると、ひらひらと揺れながら川面に向かい飛んでいる。大学の後期の試験が終わり、早めの春休みに入ったばかりで、まだ本当の春は遠い。ずいぶんと気の早い蝶だなと思った。

 その先に、白いワンピースを着た、僕と同じくらいの年頃の女の子が立っていた。

 目を疑った。ここは上流や山の方からは、地形的にアクセスするには難しい場所にある。もし来るなら、僕がしたのと同じように、岩をよじ登り下流から上ってくるしか方法がない。今まで、稀に釣り人が通り過ぎることはあったが、女の子が一人でいるなんてことは、考えられないことだった。

 手品のトリックを探すような目つきで、少し目を細め、彼女のことを見つめていた。この場所から川の流れは見えなかったが、一瞬、水しぶきがあがったような気がした。それと同時に、彼女の姿が岩の上から消えてしまった。

 慌てて僕はその岩へ向かう。雪解けの水を含んだ川の流れは強く、とても冷たい。それ程遠くない距離なのに、足が縺れてもどかしい。

 岩の上に立ち、恐るおそる川を覗いた。


 岩の下に、もう一段張り出した岩があり、そこから彼女が僕を見上げている。息を切らした僕は、彼女と目線を合わせたまま動くことができなかった。僕のことを見つめる彼女の切れ長の瞳は、神秘的な洞窟のように澄んだ色をしている。状況を把握した途端、恥ずかしさがこみ上げてきて、首筋から耳にかけて、焼かれているような熱を感じた。

 彼女は僕のことを見つめながら、夏の太陽みたいな笑顔を見せた。長い髪は渓流の風に揺れ、形の良い額が見え隠れした。彼女は右手をすっと差し出す。その手が、何を意図しているのか分からず、不思議そうな表情をする彼女の顔と、差し出された右手とを、僕は当惑しながら交互に見比べていた。

 彼女は差し出した手を、さらに前に突き出す。やっと意味が分かった。

 少し戸惑ってから、その手を握った。とても細く華奢で繊細な――そう、僕は彼女の手を握った瞬間、羽化したばかりの昆虫の翅のことを思い出していた。ほとんど重みを感じず、彼女は僕の立っている岩の上に軽々とのぼった。


 彼女は笑顔を僕に向けるだけで、何も話さない。川に落ちたのかと思ったんだ、僕が恥ずかしさを堪えながら言っても、ただ微笑むだけだ。流れが速いから、川に近づき過ぎないほうがいいよ。と、僕が言うと彼女は小さくうなずいた。


 岩の上に二人で立っているのは、なんとも気まずく、僕は彼女を残し、さっきまでいた平たい岩に戻り、再び文庫本を読みはじめた。彼女は岩の上で川のほうを見ていたが、そのまましゃがみ込み、岩の表面を撫ぜたり、叩いたりしていた。子供のように岩と岩の間を、行ったり来たり飛び跳ねている。

 読書に集中することができなくなっていた。気がつくと彼女の動きを目で追ってしまう。


 周りの景色が急に暗くなったような気がして見上げると、空を覆い尽くす黒い雲が、山の頂を隠すほど近くまで降りてきていた。目の前の白い岩肌に、滴が黒く浮かんだ。雨になるとこの辺りの岩は滑るので危険だ。立ち上がり、文庫本をうしろポケットに入れたとき、顔に冷たい水滴を感じた。景色にぱらぱらと縦線が滲む。水滴は周囲の岩をまだら模様に染め、急に出てきた風が木々を揺らした。

 帰ろうと歩き出すが、彼女はまだ先ほどの岩の上にいる。座っている前までいき、早く戻ったほうがいいよ、と声をかけたが、僕のことを見上げて微笑んでいるばかりで、動こうとしなかった。しばらく考えたあげく、彼女の手を取り下流に向かう。彼女は何も言わず、手を引かれたままついてくるが、僕は不用意に繋いでしまった手をどうしたらよいのかで、頭がいっぱいだった。


 先に僕が岩に登り、彼女の手を取って引きあげる。二つ岩を超えたところで、大粒の雨が一斉に落ちてきた。あっと言う間に僕らは濡れ鼠のようになってしまい、彼女の髪は額に貼りついた。その髪の先、ワンピースのスカートの縁から、滴が流れていた。岩肌は軟体動物のようにぬるりとして滑りやすく、気を抜くとバランスを崩してしまう。すぐ横を流れる川は勢いを増したように思えた。何度も転びそうになりながら、彼女を抱きかかえるようにして進む。彼女の息遣いが耳元に聞こえる。手の平に、彼女の柔らかさと、温かみが伝わってくる。冷たい雨と強い風に、体温は急速に奪われていく。岩をつかもうとする手が、かじかんで上手く動かなかった。世界は色を失い、灰色の濃淡だけで描かれている。傍らにいる彼女だけが温かく、柔らかく、呼吸をしていた。


 最後の岩を超え、なだらかな川原に出た。ここまでくれば危険はない。どこから来たのか彼女に尋ねるが、左右に首を振るだけだ。行くあてはあるのかと聞いても、同じように首を振る。雨はさらに勢いを増し、彼女の手を放してしまった僕は、あまりの寒さにじっとしていられない程だった。疲労と寒さで思考は麻痺していて、それ以上考えることがとても億劫に感じられた。家に来るかと聞くと、彼女は寒さに血色を失った薄い唇に笑みを浮かべた。


 川原に出てからも、家にたどり着くには、まだしばらく時間がかかる。僕らは何も話さず、どしゃ降りの雨の中を歩いた。稲妻が光り、少し時間をおいて地響きと共に雷鳴が響く。顎の筋肉が痙攣し、上下の歯がぶつかってカチカチと音がする。彼女が手を握ってきた。芯まで冷え切ってしまった身体に、手を繋いだその部分だけが、火が燈ったように暖かかった。



 家に着くと、寒さで手が震えて、玄関の鍵を開けるのにひどく手間取ってしまう。やっと中に入り、まず風呂場へ向かった。シャワーの蛇口を開くが、お湯が出るのには時間がかかる。そのわずかな時間がもどかしい。やっとお湯が出る。僕は熱いシャワーを、服を着たままの彼女に頭からかけた。両手で髪を掻き分けながら、彼女はとても幸せそうな顔をする。僕も頭からシャワーを浴びる。頭頂から首筋、背中、腰と熱いお湯が快感となって伝わっていく。再び彼女にシャワーをかける。顔に色が戻り、シャワーに濡れた唇が、ピンク色に染まっていく。

 長い髪を伝わり、服の内部に入って彼女の身体を流れ、脚を伝わり流れ落ちるこの滴に、僕は強い嫉妬を覚えた。身体を温め、唇に色を与え、彼女に恍惚の表情をさせる熱い滴を、僕は憎らしいと思った。

 彼女にシャワーのノズルを渡すと、僕は風呂場をあとにした。台所で、濡れた服を脱ぎ、全身をタオルで拭いてから、乾いた服を着る。僕の服の中で彼女が着れそうな、セーターとスウェットパンツを用意し、風呂場の前の脱衣所に置いた。着替えここに置いておくから濡れた服は洗濯機の中に入れておいて、曇りガラスの向こうで動く肌色の影を、出来るだけ見ないようにして言った。


 台所の石油ストーブをつけると、灯油が燃える懐かしい臭いが台所に広がる。少しずつ部屋の温度が上がっていく。

 しばらくすると、彼女が僕のセーターを着て、タオルで髪の毛を拭きながら風呂場から出てきた。彼女に、電子レンジで暖めた牛乳を渡し、シャワーを浴びるために風呂場へ向かう。洗濯機の中には彼女の服が入っていた。その中に自分の濡れた服と下着をいれ、洗剤を入れてスイッチを押す。

 裸になり、風呂場でシャワーを浴びる。身体の芯にあった冷たい塊のようなものが、徐々に溶けていく。古い洗濯機はガタガタと大きな音を立てていた。洗濯機の中で僕の服と彼女の服が一緒に洗われている。僕の下着と彼女の下着が絡み合っている。浮かんだ妄想を打ち消すように、慌てて熱いシャワーを頭から強く浴びた。


 台所に戻ると、彼女は牛乳を飲み終わり、頬杖をついている。部屋の中も温まっていた。自分のマグカップに牛乳を注ぎ電子レンジで暖め、彼女には買ってあったクッキーを缶ごと渡した。

 僕と彼女はテーブルに向かい合って座っている。冷え切った身体が温められ、牛乳とクッキーで空腹が癒されると、急に眠気が襲ってきた。石油ストーブの熱気がこもり、窓ガラスは結露で曇っている。僕は両肘をテーブルにつき、マグカップを両手で包むようにしていた。僕らは何も話さなかったけれど、二人の間にある空気は、とても温かく優しいものに感じられた。

 うつらうつらしていると、彼女の人差し指がマグカップを持つ僕の指に触れた。



 僕らは二匹の蝶だった。二匹の蝶は戯れるように飛んでいた。台所の窓ガラスを抜けると外はまだ大粒の雨が降り続いていたが、僕らの翅を濡らすことはなかった。高度を上げると、流れる川の姿が見える。上流に向かい、交差するように揺れながら飛び続けた。先ほどまでいた平たい岩の近くまで来た。夕暮れが近づいているため、辺りは薄暗い。しばらくその岩の周りや、川の流れが落ち込んでいる淵の周囲を飛んでいた。色のない世界で、その川の底だけが青く輝いていた。

 もう一匹の蝶に誘われるように、川の中へ飛び込んだ。いつの間にか、僕らは人間の姿に戻っていたけれど、水の中でも不思議と苦しさは感じなかった。

 淵は恐ろしいほど深く、いくら潜ってもなかなか底には着かない。やっと底につくと、流れのない静寂に包まれた世界だった。どこからか青白い光が注いでいる。その先に何十人もの人が横たわっていた。平らな砂地の底に、整然と人が並んでいる。近づくが、その人たちは呼吸をしているのかどうかさえ分からない。とても深い眠りについているようにも見えた。


 横になっている人の顔を一つひとつ確認しながら僕は進んだ。ふと男の額に手をのせてみる。



 ――その物語は佐藤武雄が生まれた時からはじまる。両親や兄弟と楽しく過ごした子供の頃の思い出、友人と語り合った学生時代。結婚。太平洋戦争の勃発。召集令状。

 武雄は今、太平洋上のとある島で、米軍の攻撃を土豪の中で受けている。戦況は芳しくなく、上陸を許してしまった今、物量や兵器、人員など全てに勝る米軍に敵うはずもない。本土においてきた美しい妻と、やっと「父さん」と言えるようになった二歳の長男、先月に生まれたばかりの、まだ見ぬ二人目の息子のことだけが未練だった。

 隣で銃を握っている青島は、国に五人の子供達を残してきている。両親も病気がちということで、自分が死んだあとのことをひどく心配している。戦友は大方死んでしまい、今は隊長による、最後の突撃命令を待つばかりだった。

「佐藤よ。死んだら、天国っちゅうところは、本当にあるんかな?」

「お前が死んだら、どうせ地獄行きにきまっとるわ。そんなもん心配せんでもかまわんだろ」

「なに言ってるんだ。こんなに真面目に生きてきた俺が地獄じゃったら、貴様なんぞは地獄の地獄、そのまた地獄じゃい」

 青木は笑いながら言った。

「佐藤よ。やっぱり死ぬんは、痛いんかなぁ?」

「爆弾に当たれば一発で、気付かんうちに逝けるわ」

「のう、佐藤よ。やっぱり、死ぬんはちと怖いな」

 青木は寂しそうにつぶやくと、手に持った三八式歩兵銃を大事そうに摩った。


「突撃!」

 隊長が叫んだ。

 武雄は一瞬、青木と目を合わせ、うなずきあうと、雄たけびをあげながら土豪から飛び出す。少し前を青木が走っている。二百メートル先の米兵が銃撃を開始した。それと同時に、青木の頭が西瓜のように爆発する。首のない身体で四歩走り続け、そのまま前にうつぶした。青木が望みどおり、苦痛のない死を迎えられたことに、武雄は安堵した。走り続ける武雄の左肩に銃弾が当たり、後ろに吹き飛ばされる。傷口を見ると血が噴き出していた。

 まだ走れる!

 武雄は銃を握りなおすと、立ち上がり、前方に向かって再び走りはじめた。腰の辺りに衝撃を感じ、また倒れてしまう。

「まだまだ!」

 そう叫んで立ち上がろうとした。銃を支えに起き上がろうとしたが、力が入らない。見ると両足を含めた、腰から下の全ての部分がなくなっていた。薄れていく意識の中、妻と、長男、一度も会うことができなかった息子のことを思っていた。


 気が付くと、川の底の世界に戻っていた。目の前には、佐藤武雄と同じ顔が横たわっている。今あったことは、一瞬のことのように思えたし、同時に、僕が佐藤武雄の二十七年間の人生をまっとうしたようにも感じた。

 川の底で横たわる人たちは、そこで長いながい夢を見続けていた。僕たちが感じ、体験していることの全てが、ここで眠っている人の単なる夢なのかもしれないと思った。


 少し先に中年の男が眠っていた。どこか僕の父親と風貌が似ているように思えたけれど、記憶にある父の姿とはどこかが少しだけ違うような気がした。僕はその男の額に手を置いたが、何も変化は起こらなかった。穏やかな水の底に僕は浮かんでいた。

 隣に眠る老人の額に手をおいた。

 その老人は波乱万丈の人生を歩み、最後は大勢の家族、孫達に看取られ、八十六歳で息を引き取った。それでも、死ぬ間際、自分の人生はこれで良かったのかという迷いがあった。意識が途切れる刹那、親の反対で結ばれることのできなかった人のことを想った。あのとき、駆け落ちしていれば自分の人生はどのようなものであったのか。

 僕はこの人の八十六年間の人生を全て経験したような気持ちになった。もしかすると、本当に体験したのかもしれない。


 眠り続ける人の顔を確認しながら進んだ。ある人を探していた。必ずここのどこかにいるという、確信があった。その間にも、眠っている人の額に手をおき、僕は何人もの人の人生を体験した。

 この場所にいつからいるのだろうか? それぞれの人の夢を生きながら、永遠に近い時間をこの場所で過ごしてきたようにさえ思えた。

 そしてついに、その人を捜し当てた。それは、小学校四年のときに見た、あの少女だ。彼女はとても安らかに、瞳を閉じて眠っていた。わずかな水の動きが、利発そうな額を露にした。

 僕はその額に、そっと手をのせた。


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