第2話

 家の売却が決まり、荷物の整理をするために、昨日から泊まっていた。

 洗面所で顔を洗う。この地の親戚が掃除に来てくれていたようで、何年も人が住んでいなかったとは思えないほど、家の中は清潔に保たれていた。


 昨日のうちに僕の部屋の片付けは終わっていたので、今日は蔵の中を整理する予定でいた。蔵には、ここに住んでいた頃からあまり入ったことがない。曽祖父が集めた骨董品や材木商をしていた頃の機材や道具が置かれていたが、昼間に入っても薄暗く、不気味な感じがした。

 家を売却するにあたり、蔵の中のものを骨董商に一括で買い取ってもらうことになったので、めぼしいものや思い出の品があれば取り分けて置くようにと、叔父に言われていたのだ。

 手前にある蔵の、錆び付いた鍵を力ずくで開けると、大きな扉は驚くほどスムーズに開いた。かび臭い空気が流れ出てきた。十坪ほどの広さの二階建てで、中に入ると、急角度の階段が目に付く。一階には僕が子供の頃に使っていた三輪車や、補助輪つきの自転車、祖母がいつの間にしまったのか、僕が小学校の時に使っていたランドセルまで丁寧に保管されていた。

 両親の写っている二冊の古いアルバムを取り出した。他は、どれを持ち出せばよいか判断がつかず、悩んだ末に全てをもとの場所に戻した。

 叔父から、龍の絵の描かれた掛け軸を探してきて欲しいと言われていた。由緒があるとか、因縁があるとかで、もしあったらでいいけれど、ということだった。

 急な階段をのぼって二階にあがると、棚に掛け軸が何本も仕舞われていた。どれも古いものばかりで、乱暴にあつかうと破れてしまいそうで、一つひとつ広げて確認するのに思いのほか時間がかかった。

 朝飯とも昼飯ともいえる食事をカップラーメンですませ、しばらくテレビを観ながら寝転んでいた。重い腰を上げ、もう一つの蔵に入り、捜索を再開する。一階がすんだころには太陽は昼下がりの気だるさを湛えながら、川原の丸い石を照らしていた。


 今夜も泊まるつもりだから、慌てる必要はない。文庫本をズボンのうしろポケットに入れると、僕は川原に向かった。

 庭から直接川原に出ることができる。子供の頃から一人で遊ぶことが多かった僕には、上流のしばらく行ったところに秘密の場所があった。この家を売却してしまえば、もうここへ来ることもないだろう。最後に一度、そこへ行ってみようと思っていた。

 庭から出ると、しばらくは平坦で幅の広い川原が続く。川の流れも穏やかだ。上流に十分ほど歩くと、急に川幅が狭まり、流れが強くなる。両側に巨大な岩がせり出し、のどかな景色は渓流のそれに一変する。

 

 大きな岩を乗り越えながら上流を目指した。大学生になった今でも進むのに苦労するのに、小学三年生の僕はどのようにこの岩を超えたのだろう。僕はいくつもの岩をよじ登り、バランスを保ちながら飛び越え、目的の場所に向かった。

 川に大きく突き出した岩を超えたところに、まるで人工的に切り出したような平たい岩がある。その岩の前だけ川幅が広がっていて、急流はその場所に落ち込んで流れは穏やかになり、どこまでも澄んだ紺青の色を発していた。


 言い伝えがあった。

 この川は隣接する山の斜度が強く、まとまった雨が降ると簡単に氾濫を起こす。そのためか、この川には龍が住むといわれていた。どこかにある、深く澄んだ淵の中に龍は潜んでいて、何かことが起きると、人間を懲らしめるために目覚め、川を氾濫させ、人を川底に引き込むということだった。

 

 ここを初めて訪れたのは、両親の葬儀からまもなくの頃だ。死というものの本質的な意味も分からず、全てのことが受け入れられず、込み上げてくる寂寥感、喪失感、どこへ向ければよいのか分からない怒りを持て余し、しゃにむに川の上流を目指したのだ。

 そして、この平らな岩の上にたどり着いた。

 初めてこの川の色を見たとき、ここがその龍が住む淵だと確信した。それから僕は、ことあるごとにこの場所を訪れるようになった。もし、バランスを崩して川に落ちれば、それは死と限りなく同義だった。小学校三年の僕にとって、死を最も身近に感じる場所で、両親に最も近い場所だったのかもしれない。僕はこの場所を目指すことで、自分の置かれている苦難や、寂しさについて、――それは一時的にしろ――忘れることができたし、この場所にたどり着いてから過ごした時間は、僕の心を浄化し、癒し、沈静し、そしてこの上もない安堵を与えてくれた。

 

 久しぶりに訪れた秘密の場所。僕は平らな岩の端に座ると、持って来た文庫本を取り出し読みはじめた。風は冷たかったが、太陽は朗らかで優しかった。


 ――小学校四年の夏、この場所で少女と出会った。

 それはとても暑い夏で、友達のいない僕は、夏休みの永遠ともいえる膨大な時間を持て余し、今と同じようにこの平たい岩の上で、うしろポケットから出した文庫本を読み耽っていた。数日前まで降り続いていた雨の影響で、地響きのように迫りくる流水音に包まれていた。

 ふと目を上げると、少女が川岸の岩の上に横たわっていた。はじめそれが何なのか分からなかった。ただ、異常なほどの存在感を示しながら、横たわっている。文庫本をポケットにしまい、ゆっくりと腰を上げるとその場所に向かった。

 岩の上の少女は、僕と同じくらいの学年に見えた。とても綺麗な顔をして、髪が濡れていて、この辺りでは見かけないような清楚な雰囲気のワンピースを着ていて、そして、息をしていなかった。スカートはまくれ上がり、下着は流れに剥ぎ取られてしまったのか付けていなかった。両足は複雑な形に開いていて、性器が露出していた。

 そのとき、僕ははじめて女性の性器を見た。それまで女性の性器のことなど考えたこともなかった。ペニスがついていないことは知っていたが、その代わりに、そこに何かがあることなど想像さえしていなかった。

 直感的に、本能的に、限りなく純粋に、僕はその性器に見入っていた。川の音は轟音をあげ続けていたが、音も、照りつける太陽の熱も、他のどんな刺激も受け付けず、白い花弁のような性器を凝視し続けていた。


 蝉の抜け殻のことを考えていた。

 目の前に横たわる少女は、魂の抜けた、抜け殻なのだと思った。琥珀色に輝き、詳細な部分までも完全な蝉の抜け殻を、僕は美しいと思った。目の前に横たわる彼女の白く濡れた唇、繊細な湾曲を見せる耳介、額に貼りついた髪、不自然な形に曲げられた脚、その付け根にむき出しにされた性器。僕はその全てを美しいと思った。全てから目を離すことができなかった。どれほどの時間、彼女のことを見つめていたのだろう。彼女の何かが、僕の心のどこかとても深いところへ入り込んでいった。突然ひぐらしが鳴きはじめて、僕は我に返り、慌てて下流を目指した。


 家に着くと、祖母を探したが見当たらず、諦めて駐在所に行って顔見知りの警官に見てきたことを話した。騒ぎはすぐに広がり、集まった十数人の男達を引き連れて、僕は再び少女のいた場所を目指した。

 大勢の大人達を引き連れて、岩を登りながら進んでいくのは、まるで軍隊の隊長になったみたいで気分が良く、僕は得意になって前進した。ふと、少女をあのままの姿で置いてきてしまったことを思い出す。彼女のあんな姿を見てしまったことを皆に知られるのは、とても恥ずかしいことのように思えた。それより、彼女のあられもない姿を他の人に見られるのは、許しがたいことだった。今すぐ家に引き返したいと思った。だけど、もちろんそんなことができるはずもなく、僕は岩をよじ登るしかなかった。

 

 その場に着くと、打ち上げられていたはずの岩の上に、少女の姿が見当たらない。大人たちは辺りを捜索したが、どこにも痕跡はなかった。

「子供のいたずらじゃすまされんぞ」

 心無い言葉がそこかしこで聞かれた。焦燥、失望、怒り、含羞…… 安堵。僕はそのとき何を感じていたのだろう。少女は龍に連れて行かれたのだ、僕はそう思った。

 大人たちは捜索を続けた。しかし、どんなに捜索を続けても、少女を見つけることはできなかった。


 その日の夜、僕は家に帰っても眠ることができなかった。

 少女の姿は、脳裏に鮮烈に刻み込まれていた。自分のペニスが勃起することをはじめて自覚した。いきり立つペニスを前に、僕はなすすべがなかった。射精を知らない僕のペニスは、癒される術もなく、眠れぬ夜をより長いものとした。


 その後も、少女の姿は僕を悩ませた。夢の中に現れ、耳もとで何かを囁くのだ。言葉を聞き取ることはできなかったが、その夢を見ると、必ず眠れなくなってしまう。

 中学に入り、自慰を覚えた。クラスメートのことを思い浮かべたり、グラビア写真を見ながらしても、射精する瞬間、頭の中はあの少女の性器のイメージでいっぱいになった。

 祖母を施設に入れ、叔父の家で生活するようになってからは、射精の瞬間、少女の白い性器のイメージと、風呂場で見た祖母の艶かしい色の性器のイメージが同時に訪れるようになった。そのことに僕はとても困惑したし、戸惑ったし、どうにかしてやめたいと思った。しかし、それはどうしても払拭することができなかった。射精のたびに訪れる二つの性器のイメージに、罪悪感を感じ、恐怖を覚え、そして、何よりも強い快感を得ていた。

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