深く穏やかな淵の底で

かかし

第1話


 目を開けると、川面の光が天井に揺れていた。見覚えのある天井の染み、木目の模様。とても長い夢を見ていたような気がする。内容は覚えていない。その余韻だけが、枕の横や、本棚と天井の隙間に、ゆらゆらと漂っていた。

 ベッドから起き上がると、窓を開けた。冬の空気が部屋に流れ込む。僕は大きくそれを吸い込んだ。凍えるような冷気の中に、ほんの僅か、新しい季節の粒子が含まれていた。

 

 中学三年まで過ごしたこの家には、いたるところに懐かしい想い出が隠れている。階段の傷は、僕が小学校へ入ったときに、父が勉強机を二階の部屋に運び込もうとして、つけたものだ。壁の汚れ、壊れた電球の傘さえ懐かしく感じる。

 柱には、身長を示す刻みがつけられていた。僕を柱の前に立たせ刻みを入れている母の姿を思い出す。横に書かれた日付は、僕が小学校三年の五月で止まっていた。その高さは僕の胸までしかない。

 あれから十年の年月が流れ、僕は身長が五十センチ伸び、薄っすらと顎の下に髭が生えるようになり、大学生になった。


 手を上げて大きく伸びをすると、顔を洗うために洗面所に向かった。縁側の雨戸は閉められたままで、長い廊下は薄暗く、逃げ遅れた夜の静寂が取り残されていた。


 両親の葬儀のあと、僕は祖母と二人で生活した。材木の取引で財をなした曽祖父が建てたこの家は、二人だけで暮らすにはあまりにも広すぎた。縁側の内側には旅館のような大広間があり、その前後には襖で仕切られた大小の部屋が無数に繋がっている。広大な庭には蔵が二戸前建っていた。

 僕は母屋の二階の一室を、祖母は一階にある最も小さな部屋を、それぞれ自分のテリトリーとして占有した。台所とそれに続く居間を共有の生活スペースとして、他の部屋は封印した。


 中学に入ると、祖母は僕のことを、若い頃に死んでしまった祖父と間違えたり、親に別れさせられたという昔の恋人と間違えたり、電気工事の作業員と間違えたりした。それでも、どういうわけか食事だけは作り忘れることはなかったし、僕は洗濯や掃除をすることが苦にならない性質だったので、不便を感じることはほとんどなかった。親に対する不満を撒き散らしている同級生に比べれば、僕はあくまでも自由であり、制約も拘束もない生活は、むしろ恵まれているのではないかと思えることさえあった。


 祖母の病状は改善と悪化を繰り返しながら、確実に進行していった。

 ある日帰ると、真っ赤な晴れ着を纏った祖母が、縁側で、少女のように童謡を歌っていた。「ただいま」と言っても、返事をすることもなく、少女は童謡を歌い続けていた。祖母が夢の世界に浸っていることは、珍しいことではなかったが、その時は異質なものを感じた。はじめ、何がそうさせているのか、よく分からなかった。

 近づくと原因はすぐに判明した。臭いだ。

 祖母の両手は糞尿にまみれ、服も汚れていた。それを隠すために箪笥に仕舞ってあった晴れ着を取り出し、身を包んでいたのだろう。部屋中にその痕跡が、異臭を放つ茶色の染みとして残されていた。


 童謡を歌い、動こうとしない祖母を無理やり抱き起こし、風呂場へ連れていった。歩いてきた廊下が濡れて、カタツムリが通った跡みたいに銀色に輝いている。強引に着物を脱がせると、祖母の内腿は茶色く染まっていた。

 熱めのシャワーをかけると祖母は抵抗をやめ、惚けたように風呂場の床に座り込んだ。身体には無数の皺が刻まれ、乳房はしなびて垂れ下がっている。すぐに蒸気によって窓ガラスや鏡は曇り、風呂場の中は湯気で満たされた。

 大腿部についた汚れを流し落としたあと、僕はしばらく悩んでから、祖母の両足を開き、薄くなりほとんど残っていない真っ白な陰毛にシャワーを向けた。そして、僕の指で、性器のヒダの奥に入り込んだ汚れと、肛門の周囲を洗った。

 女性の性器を見るのは、二度目だった。黒ずんで、縮んでしまっている外陰の奥の粘膜は、淡いピンク色をしていて、そこだけが艶かしく呼吸をしているように見えた。ぬるりとした指の感覚が、僕を混乱させた。

 祖母を風呂から出すと、濡れた身体を拭き、服を着せた。廊下や畳についた汚物をタオルで全て拭き取ったが、異臭は完全には消えなかった。

 

 その後も、同じようなことが何度か続き、夕食を糞尿だらけの手で作っている祖母を見たとき、僕は祖母との生活を諦め、叔父に電話を入れた。

 叔父は、二人兄弟だった父の弟で、東京で開業医をしていた。ことあるごとに一緒に住もうと誘ってくれていたが、祖母と叔父の奥さんの相性が悪く、祖母は頑なに同居を拒み続けていた。

 僕が電話をかけると、その週末に叔父夫婦はこの家にやってきて、驚くほどの手際のよさで祖母の入院の手続きをすませた。そして、僕は叔父の家に近い、東京の中学への転校が決まった。


 三ヶ月前に、祖母が他界した。叔父の家に住むようになってから、数えるほどしか見舞いに行かなかったことを、僕は後悔し、心のどこかで何かから開放されたような気持ちになっている自分に、違和感を感じていた。

 葬儀が済んでしばらくして、田舎の土地を買いたいという親戚がいることを、叔父から聞かされた。父の残してくれた資産があるので、さしあたりお金に困ることはなかったが、売却して現金で資産を分けるのが最も現実的な方法なのだと思った。

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