やえ
やえ、と言います。
唇のぽってりとした女で、飯屋で働いていました。酔った勢いで袖を引いたらそのまま私の家に転がり込んできた女で、素性は知りません。
しばらく、私の家から飯屋に通っていましたけれど、そのうち飯屋に行かなくなって居着いてしまいました。
いつも、朝、私が勤めに出る前にはまだ眠っていて、帰ってくると私の首に両手を回して抱きしめると、黙っている。
頃合いを見て、
「もう、いいか」
私が促しても、たいがい、
「もう少し」
と言ってしばらくすると、紅も引いていないのにほんのりと紅い唇を私の口に押し付けて両手を解きました。
慶応四年に上野の山に籠って帰ったときにも、すっかり血と汗に塗れた軍装の私の首にやえは両手を回しました。
「もういいか」
「もう少し」
……
「もういいか」
「もう少し」
……
もういいか」
「もう少し」
その晩は、そんなやり取りを繰り返して、そのままなんだか気が遠くなったように感じて、ふっと気がついたら、着替えもせずに私は畳の上に転がっていました。
いつもなら隣で寝ているはずのやえの姿はありません。
私が帰ってきたときに空けたままの戸もそのままで、外に出たら東の空が明るくなっていました。私がそれをぼんたり眺めていたら、朝の支度に起き出した隣家の女房が、
「今、お帰りですか」
驚いた顔で言いました。何しろこの姿でしたから、それも当たり前かと思いながら、
「おかげさまで」
と挨拶して、
「うちのを見かけませんでしたか。こんに朝早くから……」
そう言いかけるのへおっかぶせるように、
「ご存じないのも仕方ありませんよね」
声を落として言うと、
「びっくりなさらないでくださいよ」
私の目を見て、
「おやえさん、亡くなったんですよ」
と気の毒そうに言いました。
「いや、昨夜、出迎えてくれて……」
言いかけたところへ、朝の光が一条差し込んできて、私を見ていた隣家の女房が悲鳴を上げて……
以前、やえがこの辺りで働いていたと言っていたことを思い出して探して歩いていたら、こちらの女将さんに声をかけられて、今日はここに参りました。
一礼して腰を下ろした私に拍手をくれたのは、その女将と河壁誑斎の二人だけだった。
他は皆、狐につままれたような顔をして、
「誑斎先生まで……」
呟いて、富士岡屋が、
「女将、そろそろ趣向の種明かしをしてくれ」
と言った。
女将は笑顔のまま立ち上がると、
「やえ」
と、私の背後に向かって呼びかけた。
私はそっちを見たが、誰もいない。その様子に、
「やっぱり、見えないですね」
残念そうに女将は言って、
「やえ、お前はどうだい?」
しばらく私の背後の一点を見ていたが、
「そうかい」
言って今度は私に視線を向けて、
「あなたもやえも、お互いに見えなくなっています。あきらめてください」
声は柔らかかったが、きっぱりと言った。
「いったい、どういうことだ」
また富士岡屋が問うと、河壁誑斎が杯をあおって、
「そのうち、わしが描いてやる」
了
誑斎先生怪談会 二河白道 @2rwr
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます