カツモリ商会のタヌキチ

入川 夏聞

本文

   一



 思えば、人間とは、なんと哀れな生き物だろう!

 そして、人生とは、なんとはかなきものなのだろう!


 我らはこの大地に、等しく命を与えられ、希望と喜びに溢れた産声と共に、祝福されし生を誰もが受けたにも関わらず、この夜空に輝く無数の星々のように、一つとして同じ道を歩むことなく、神の定めたもうた生命のことわりに従って、結局はあっけなく消えていく運命なのだ。


 富める者、貧しき者、快楽を極めし者、病める者――。

 皆、平等とは程遠い格差の道を歩まされながらに、最後は一様に死を迎える。


 ああ、人間とは、なんと哀れで儚い生き物なのだろう……。


 私は、ぐわんぐわん揺れる頭の中で、またもや、集金する私を恨む者どもの、血走った目、剥き出しの犬歯を、思い出している。

 先ほど無理やりに流し込んだビールと共に、もう、今日と言う一日は、終わったというのに。


 だから、そんなことを考えるのは、止めれば良いのに。止めれば良いのに。


 そう言えば、あの前田と言う若者は、どうなったのか。

 昼間に乗り込んだ彼のアパートには、コンロに乗ったままの鍋があった。

 それはすでに異臭を放ち始めてはいたのだが、少なくとも数日前に何者か、恐らくは前田君自身が、夕食でもこしらえた痕跡であろうことは想像に難くない。


 だが、その夕食には手をつけることもなく、彼はいなくなった。忽然と。


 部屋の鍵を開けてくれたアパートの大家は、「あらら、やっぱりねぇ」などと、住人が失踪した割には、のんびりとした調子で嘆息して、こう言っていた。

「もう半年も家賃滞納してたから、彼。なんか、勝盛かつもり商会だか、雨漏あまもり商会だか言う危ない連中に、借金で追われてるって、近所のマスターにぼやいてたみたい。なんでもそこの親分がなんて呼ばれるとんでもない人物だそうでね、はじめ腰低くて良い人そうだったのに、気づいたら到底無理な大金を強引に貸しつけられていたんですって。ねぇ、あり得ないでしょう?」

「はあ……」

 知るか、そんなこと。よくありそうな話だ。

 それより、まずい。失踪は、本当にまずい。

「あ、あの。どこか、前田君が行きそうな心当たりは」

「知らないわよ、そんなの」

「今おっしゃった、マスターってのは」

「ああ、彼のバイトしてた喫茶店の店長さんよ。ほら、近くの交差点に有った赤い看板の。でも、もうとっくにそのバイト辞めてるみたいよ、三ヶ月くらい前かしらね」

 私は大きくため息をついて、肩を落とした。

 前田君の保証人欄に書かれた母親は、彼の唯一の肉親だったのだが、数日前に調査した折、かなり前に他界していたことが、すでに明らかになっている。つまり、彼以外の肉親から回収することは出来ない。

 これで今月、三件目の回収不能。

 また、上司に何を言われるか……。

「残念だったわねぇ。集金業務なんて、因果な商売よねぇ」

 腹をつきだしながら完全に他人事のように笑うこの大家に、私は少しイライラしていた。

「……大家さんは、滞納住人が居なくなって、大丈夫なんですか?」

「大丈夫も何も、うちは保険あるし、これで敷金も返さなくて良くなったし、別に半年位なら何てこと無いわよ」

 そう言って、大家はまたケラケラと笑う。

「あ、そうだあ! ねえねえ。もしかして、あそこに居るんじゃない?」

 突然、そんなことを言う。

 無責任な発言に振り回されていることを自覚しつつも、文字通り、わらにもすがる思いで、私は「どこですか!?」と返した。

「エスポワァル」

「……は?」

「あら、知らないの? 借金かさむとある日ね、そんな名前の豪華客船に連れ去られて、命懸けのゲームしたりね、あ、あと地下で労働させられたり。あー、何だったかな、あの映画で主演だった人、えーっと」

「……」

「まぁ、前田君も、そんな感じで、どこかに連れ去られたのよ、きっと。えーっと、あの映画の人、本当に、誰だったっけ?」

「……失礼いたします。もし、彼が帰ってきたら、こちらへご連絡を」

 大家に名刺を渡し、すぐにその場を離れる。

 私の事などすでにお構いなしにエスポワァルの空想を始めたババアに、私はもう、何も期待してはいなかった。


 しかし、彼は本当に、勝盛商会とか言う胡散臭い連中に、連れ去られてしまったのだろうか。

 まさか。

 この近代国家日本で、未だにそんなことが可能なのか?


 陽炎かげろう揺らめくアスファルトで埋められた都会の喧騒けんそうの中、ふと我に返ってみると、通りを行き交うこの大勢の人々は、今日、一人の若者がひっそりと世界の片隅から失踪したことについて、どう思うのだろうかと、ただ、そんなことを考えながら、私は残りの業務を続けた。


『無能な貧乏人が失踪したことなど、あの大家のように、誰も気にはしないのだ』


 そんな恐ろしい答えが脳内に響いて、やがてイメージとして具体化されて、それが社会の冷酷な現実となって私の前に立ちはだかるように慄然りつぜんと知覚せらる前に、今夜の私は、赤のれんを何枚もくぐったのだ。


 ああ、恐ろしい。恐ろしい。

 人間とは、なんと哀れで儚い生き物なのだろう――。



   二



「遅かったわね。もうご飯、冷めてるから」

「……ああ」

 妻のミドリが、イジワルを言う。

 心底、めんどうだ。調査のために一ヶ月も帰って来れなかった旦那に対する対応が、これか。

 私はさっさと風呂に入った。

 最大出力のシャワーを浴び、力一杯、頭をかきむしる。

 今夜は何だろう、頭はフラフラだが、酔ったと言う気分では、まるでない。


 風呂から出ると、キッチンの狭いテーブルには、暖め直した大皿の野菜炒めと、茶碗に盛られたご飯、納豆 ひとパックまでもが用意されていた。

 うんざりする。

 今夜のミドリは、話したい気分の日らしい。


「ねえ、今日ね、ヒメノと遊んでいてね――」

「……」

 黙々と、飯を流し込む。納豆は、混ぜるのがめんどくさいので、手をつけない。

 腹も減っていないのだから、飯など無視して、寝床に隠れてしまう手もあるのだが。

「でね、となりのユメちゃんもやってるからって紹介されて――」

 娘の遊びの話など、正直、どうでもいい。

 私は毎日、地獄を見ているのだ。

 集金担当に左遷されて、もうそろそろ一年経つのだが、左遷された屈辱から解放されたことなど一日もないし、この仕事に慣れることもない。

 毎日、罵倒され、恨まれる。

 毎日、人の人生が壊れる現場を見る。

 それを毎日、見て見ぬ、ふりをする。

「だから、ちょっと試しに借りてみてね……て、聞いてるの!?」

「……」

 うるさい。今、前田君のことを考えているのだ。

「ねえ!」

 あの、勝盛商会に、連れ去られた、哀れな……いや、まだそうとは決まっていないのか……だが――。

「もう。ローンが七十五万も溜まって、大変なのに」

「はあ!? 何だと!?」

「あ、違うのよ? これはアツモリ借りた話で」

「カツモリ?! まさか、あの勝盛……商会か? そこから……借りた?」

「あら、知ってるの? そうそう。でも、アツモリね。それから、たぬきち商店さんね」

 突然にあり得ないような借金話を切り出したくせに、何だか嬉しそうなミドリの様子が、鼻につく。

 ローンが七十五万、だと? しかも、確かに「勝盛」、と言ったよな……。

 ウキウキとしおって、それどころでは、ないだろうが。自覚が、足りないぞ、この野郎。

 本当に、頭がぐわんぐわんする。

 そう言えば、前田君も、滞納者としての自覚なく、最初の時の集金では、ヘラヘラしながら「はあ? おっさん、なんなんっスか? 俺、スけど」などと、もやしみたいな身体でのたまっていた。

 こう言う輩は、先天的にあらゆる方面に自覚が足りないのだ。

 よもやそれが、妻にも及んでいようとは。

 頭が、痛い。視界が、グニャリとする。ダメだ、これ以上聞くのが、怖い。

 だが、最低限の確認だけは、しなければ――。

「カ、勝盛商会の、から、借りた?」

「あー……うん、そうそう。今、お水持ってきてあげるね」

 そう言って、ミドリは立ち上がり、跳ねるような足取りで台所へ行く。

 ああ、それが旦那に黙って勝手に借金をこさえた者の態度か。

 久しぶりに会話が成立したと思ったら、この体たらく。

 席に戻ったら、詳しく聞かねばならぬ。



   三



 妻の話は、驚愕の連続であった。

 前田君は、きっとこれに巻き込まれたに、違いない。


 まず、勝盛商会は、無差別に人を無人島に拉致することから始めるのだそうだ。

 この時点で、すでに事は尋常ではない。

 今時、どこぞの独裁国家ですらも、やらないようなことを、平気でやってのけている。

 あの大家の言っていた映画のことが思い起こされるが、その映画に出ていた貸金業レベルがこの手のことをやろうとしても、現実にはそう上手くは行くまい。


 間違いなく、プロだ。プロの仕業だ。


 恐らく、ロシアの西の方の山だか氷山だかの影にある秘密基地を拠点に暗躍していると言う噂の、例の反体制組織の一派だろう。

 極東でこのような行為を公安に隠れて行える犯罪者集団は、KGB崩れを集めた彼らしか成し得ない。

 この前ブックオンで立ち読みした本に、そんな記事があった気がする。


 さて、続く妻の話では、拉致された者たちが無人島で目覚めると、まず、タヌキとしか思えぬオーラをまとった親父が、優雅に悪びれることもなく、説明を始めるのだと言う。


「皆さんはこれから、この無人島で生活してもらうんダナーモ――妻の妙な口真似から察するに、独特の訛りがあるようだが、相手は西露出身の工作員であるから、納得である――」


 間違いなく、こいつが勝盛商会のドン、だろう。

 そして、一通り聞いていると、なんと、「移住費用」を払えと言われるそうだ。


 勝手に連れてきて、何をバカな。


 もちろん、妻は文句を言ったようだが、ここからは西露工作員たるの面目躍如で、「お金ないのダナーモ? でも、ローンが組めるから、みんな安心するんダナーモ」と言われ、その場に居る者は全員、いつの間にか「ヘル」などという、不吉で、わけのわからない通貨によって、ローン、つまり借金が組まされたのだと言う。

 そこのところで、優しい世界だよねぇ、などとうっとりと妻はほほ笑んだので、私はもう、彼女の薬物使用を疑ったほどである。


 は、恐ろしい心理操作術を心得ているのだろうか。

 確かに、洗脳は旧KGBの得意とするところ――ブックオンの本より――ではあったが……。


 やがて始まるのは、現地での資源集めという強制労働の話だった。

 木の実やら、虫やら、果てはただの石ころやら、大して価値の無さそうなモノを集めさせ、それを無人島内の換金所でヘルに換え、借金返済に当てさせられるのだと言う。


 価値が無いものを換金するのだから、その目的は明らかに資源集めではない。

 ならば、何か。無意味な労働を人に強いることで、――。


「夜にならないと出ないクモとか、探すのが楽しい……」


 洗脳だ。間違いない。


 大の虫嫌いだった妻は、明らかに洗脳を受けている。

 私はだんだんと、そら恐ろしい気持ちになってきた。


 これは、拉致した者を洗脳してに活用しようという、恐ろしい計画の一端なのではあるまいか。


 ここまで聞いて、この国籍も真の目的も不明な西露訛りのタヌキ親父――もうキチ○イであることは明白であるから、以下、タヌキチと呼ぶ――に、私は心底、恐怖した。


 同じ気持ちを、洗脳前の前田君も感じていたに、違いない。

 思い起こせば彼は、拉致される前に、バイト先の上司であったマスターへ、迷惑をかけない程度の表現で、自らの胸の内にしまい込み得ない現状を吐露とろしていたのだろう。

 だが、いかにでも、相手が悪かった。

 そもそも、根は単純でただの貧弱なもやしっこであった彼が、いとも簡単に拉致されたであろうことは、もはや疑いない。


 そして、タヌキチの恐ろしいところは、それだけではない。


 なんと、借金を返した次の瞬間には、更に高額の借金を組まされていると言うのである。

 どういうことか。

 妻の話では、最初の借金は、すぐに返せるらしい。

 そのタイミングを、百戦錬磨の工作員タヌキチは、決して見逃さない。


「お家でも、建てれば良いダナーモ? ダイジョブ、また、ローン組んであげるんダナーモ」


 なんだ、そのあからさまな追加融資の提案は。

 私は、当然、そう思った。

 普通の精神の持ち主ならば、ここでそう考えるはずだ。

 高度な心理操作術を心得たタヌキチらしからぬ、新人の不動産営業マンにも劣る、稚拙ちせつな話法である。


 だが、私は、すぐに気がついた。


(そうか。タヌキチはすでに、のだ)


――妻がもう、借金を絶対に断らない、ということを。



   四



 結局、妻がどのようにして、タヌキチの無人島から帰ってきたのか、私は恐ろしくて聞けなかった。

 恐怖によるフィルターを通じて、私の口からひねり出された曖昧な表現による問いかけに、妻は答えた。

「え? ああ、もうユメちゃんに返しちゃったよ」

「借金をか?」

「だから、ローンは七十五万だって。まだユメちゃんに残してもらってるよ。また借りるから。あれ、もしかして、あなたもやりたいの?」

「は!? また借り……いや、な、何を、バカな」

「だよねぇ、やりそうには見えないし」

「……」

 妻は、洗脳されている。

 変に踏み込み過ぎては、かえって彼女に残されているであろう正常な脳の記憶野に、悪影響を与えかねない。

 彼女の話がいまいち要領を得ないなか、ジャンジャンと激痛が走る頭で可能な限りの推理を行う。

 あまり考えたくもない事実だが、隣の子供に「」と妻は言った。

 つまり、隣の家は一家まるごと勝盛商会による息のかかった手先と考えるべきなのか……ダメだ、これ以上はもう、恐ろしくて聞けない。


 世の中には、触れない方が良いこともあるのだ。

 それだけが、私が唯一、この一年近くにわたり集金業務で学んだ、有益な人生の知恵である。


「……なあ」

「うん?」

「ヒメノも、一緒だったんだよな?」

「うん」

「その島で、二人で、ローンを返していたのか」

「そうね、交代交代で」


 この、クズめ! なんてこと!

 娘にやらせることか!!

 ……いや、妻は洗脳されているのだ。私が、冷静でいなければ。


「でも、ヒメノは途中で難しくなったみたいで、後半は私がずっと働いてたかなぁ」

「そうか。ヒメノは、難しくて働かなかっ……た? なんだ、働かないでも良いのか?」

「まあ、働かないでも十分楽しいのだろうけどね。でも、早くお家とか、建てたいじゃない?」

「いや、ここがお前の家だろ。すでに建っているのに」


 くそう!

 拉致された先の縁もゆかりも無いような無人島に家を建て、あまつさえ借金をするなど、言語道断!!

 だが、そんな言い方をしては、洗脳されている妻をきっと、苦しめてしまう……。


「うん? その、ココってのが、よくわかんないけど、アツモリの話でしょ? あ、ちなみにね、無人島のお家はね、実は建てるだけじゃなくって、どんどん広くも出来るのよ。だから、たくさんお金が必要なの」


 ああ、もはや意味がわからない。

 妻の頭は完全に、毒されているのだ、あのタヌキチに。

 私の頭の痛みも、もう限界……はっ、そうか。


「ヒメノは、あまり働いていない?」

「そうね」

「記憶は、あるのか?」

「は? まあ、あるでしょ。普通に」

「わかった。明日の休みは、ヒメノと公園にでも、行ってくる」

「え!」

 ミドリの顔が、パッと明るくなった。

 ああ、笑えばこんなに綺麗なヤツなのに、もう私の知っているミドリは、どこにもいないのか。

 お前の笑顔を守るなどと言ってプロポーズした私が、本当に守りたかったのは、決して、そんなイカレタヌキの洗脳にまみれた笑顔などではないのだ。

 仕事とはいえ、ながく家を、空けてしまったばっかりに。


 そう思うと、ふいに視界が滲む。

 だが、洗脳された妻を、これ以上混乱させてはならぬ。

 こらえきれないものがこぼれそうになり、目を乱暴にこすってしまう。


「すまなかったな。こんな……こんな仕事さえ、していなければ」

「は? 別に気にしてないから。それより、眠いんなら、早く寝れば? あなたの気が変わらないうちに」

「ああ。そうさせてもらう」


 リビングを出た私は、娘の部屋の前で、しばし立ち止まる。

(タヌキチの洗脳が、もし、労働を通じたものなのだとしたら……)

 そう。あまり働かなかったヒメノは、ミドリよりも洗脳の影響を受けていないはずだ。

 これなら、まだ正気を保っているかも知れない。

 いや、上手くすれば、どのように無人島へ行き、どのように帰ったのか。

 更には、あの憎きタヌキチと勝盛商会なる悪の組織の全容を捉える情報が得られるかも知れぬ。

 そして、前田君の情報も、もしかしたら――。


 タヌキチめ、ヒメノが小娘だと油断したようだな。

 お前らに奪われた多くの人生を、明日、必ず取り戻してみせる。

 幾らかの希望を胸に抱き、私は寝室へ向かった。



   五



 翌朝、私はヒメノを連れて公園に出かけた。

 黙ってゆっくりとついてくる彼女に、なんと声をかければ良いかわからず、両手を後ろ手に組んで、空と地面の間に視線を泳がせながら、道のりを進む。


 驚くべきことにミドリは私のために朝食を作ってくれていたが、やはり、様子がおかしいのは、治るわけもない。

 一縷いちるの望みに賭けて、妻の洗脳が一晩明けたら解けていることを願いながら、二日酔いの頭を引きずって、なんとか起き上がったのだが、それが現実だった。

 激務に疲れ果て、休日はいつも昼まで眠る私に、妻が朝食を用意するなど、あり得ないことなのだ。

 今の会社に入ってから、実際にこの十年、一度もなかったはずだ。

 妻の洗脳は、重症だ。それが、現実なのだ。この、頭の痛みと共に。


 ヒメノと公園についた私は、適当なベンチに二人並んで腰掛けた。

 娘と出かけるのはあまりに久しぶりで、何から話して良いものか。

 足を交互にぶらぶらとさせながら、遠くのフェンス越しに行われている草野球を黙って退屈そうに眺めているヒメノからは、洗脳されている兆候をうまく嗅ぎとることが出来ない。

 私の視線を、時折うっとうしそうに避ける娘の仕草をみると、実は洗脳されているのかも知れぬという疑念がわき起こり、これからタヌキチのことを聞こうとする意気地が、悄気しょげてしまいそうになる。


(いや、ヒメノを信じるのだ。俺が信じないで、どうする)


 今朝の卵焼きに含まれていた卵のカラのジャリジャリと歯に当たる感覚が、なぜか脳裏をよぎるなかで、最後の希望たるヒメノへ、私は全ての質問をぶつけた。


 勝盛商会やタヌキチの悪事、ミドリの洗脳、そして、同じく拉致された前田君の存在……。

 ヒメノも、もう来年からは中学生なのだ。

 大丈夫だ、彼女はしっかりしている、自慢の娘なのだ。


――頼む! ああ、神よ。どうか、ヒメノに奇跡を! そして、私に、強大な悪の権化、タヌキチに勝利するための、無敵のやいばをお授けください……!!


 数分後、私は娘の「キモっ。ただのゲームだよ?」と言う言葉に続く、残酷な真実に裏打ちされた、無数の言葉の刃を受けて、ズタぼろの精神で帰宅を余儀なくされたのだった。


 更に、昨日の大家から携帯に着信があり、前田君が、ひょっこり帰って来たと、実に能天気な調子の連絡があった。

 大家が前田君の話題から、いつの間にやら近所の野良猫にエサをやるボケたじいさんの愚痴を話し始めた頃には、失踪中に彼がいったい何をしていたのか、私にはもう、その理由を聞く元気など、どこにも残ってはいなかった。

 なぜならば、大家の話では、彼は本当に地元最強の青年だということなのだから。


 私は、猫の鳴きまねをする大家に別れを告げて携帯の電源を切り、とりあえず寝ることにした。


 あーあ、人間とは、なんと哀れで……。


(了)

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