雪を溶く熱
ゆあん
雪を溶く熱
雪が毎年降るように、後悔は何度も訪れる。
違いがあるのだとすれば、雪は溶けやがて消え去る。
この身に刻まれた後悔も、雪のように溶けて消えてくれればよいのに。
いつから雪を鬱陶しく感じるようになったのだろう。幼い頃に待ち焦がれていた降雪が、今となっては疎ましくて仕方がない。それを大人と子供の境界だとだとするなら、あたしがそれを超えたのは、学生の頃だったはずだ。あたしは確かに子供のままでいたかったはずなのに。
粉雪、とでも呼べばいいのだろうか。花びらのように音もなく降り注ぐ結晶は、農道を覆う白い
金属製の階段を踏んだ音が、嫌に耳につく。それほどに積雪はあらゆる事象から音を奪っていく。なんてことのないこの音が、自宅への到着を体の芯に教えてくれる。疲れた心と体の内から、後数歩の体力を絞りだしてくれる。
階段を登りきり、頼りない手すり伝いに細い廊下を行けば、部屋の前に、男がもたれ掛かっていた。その姿を認めた体が、勝手に止まった。ひょろっとした手足が無造作に投げ出され、コートには雪が被っている。やがてその男はあたしの姿を認めると、覇気のない顔をあげた。
「久しぶり」
その声を聞く前から、あたしはそれが誰なのかがわかっていた。何かが沸き立つような感覚が体を震わせていたからだ。疲弊して閉ざしていた感性を無理やりにこじ開けることができる存在がいるのだとすれば、それは一人しかあり得ない。脳が理解するよりも先に、あたしの体はそれを理解していたのだ。
「秋人」
男は力なく笑い、手を上げた。ゆっくりと立ち上がると、その痩せ具合が目につく。
「ここで何してるの」
「美冬を待ってた」
「なんで来た、って言ってるんだ」
数年ぶりの秋人は、身長が随分と伸びていた。まるで電信柱に話しかけているかのようだ。派手な柄の衣服も、昔の彼なら選ばなかっただろう。何もかもが違うのに、それが秋人だと言うことはわかる。あたしの体が、それを教えてくれる。
「あんたが帰ってると知ったら、みんなが黙ってない」
「用事を済ましたらすぐ帰るさ」
そういって疲れたように笑う。あたしは怒りによって血液が温まっていくのを感じた。
「いいかげんにして。これ以上、みんなを困らせないで。みんなは平穏な日常を望んでいるんだ。あんたが帰ってくる度、あたしは」
「かまうもんか。それに、もう二度と、そんな事は起こらない」
遮られた言葉に、心臓までが止まりそうになる。長い袖から覗いた手に、あの頃の傷跡が今も刻まれているのを見て、言葉が出てこなくなった。彼は左手の甲に走る手術後をさすりながら、優しい瞳を向けてくる。
「俺、今、バンドやってるんだ。リハビリで始めたギターがいい感じでさ。そんでスカウトされた。ここへはもう、戻らない。戻るつもりもない」
それは一方的な独白だった。すべてが初めての情報で、どう処理していいのかわからない。ただ一つ確かなことは、彼がこの地へ戻ってくることは本当にもう二度とないということだった。
「――明日の朝、始発で行く。だからこれを渡しに来た。使うかどうかは、美冬が決めてほしい」
胸の前に差し出されたそれは、雪のように白い封筒。手にすれば僅かな厚みがあった。
「俺はずっと、いつまでも子供のままでいられるって、そう信じてたんだ。……美冬、お前はどうだった?」
その答えを待たず、彼は階段を下っていった。仮に待っていたとしても、その答えをあたしは持ち合わせていなかった。白い絨毯の上を立ち去るその姿を見て、重ねていた足跡が彼のものだったのだと、あとになって気づいた。
部屋に入ると、何をするよりも先に封にハサミを入れた。便箋を開けば、汚い字が並んでいる。それだけは昔と変わらない、彼の字だった。
『恩を返す方法をずっと考えていた。今がその時だと思ってる』
便箋の裏には、特急券が雑に貼り付けられていた。それがあたしの分だということはすぐにわかった。不器用な秋人の、かわらないやり方だった。
「バカだよ、あんたは」
あたしは、その手紙をずっと眺めていた。
❅
秋人は血の気の多い男だった。喧嘩っ早く、頻繁に暴力沙汰を起こした。そういうとき秋人は、どういう訳なのか、絶対に口を割らなかった。事情不明瞭の暴力は、非難の的になった。
だが秋人は幼馴染のあたしにだけは事情を話してくれた。すべての背景には彼なりの正義があった。彼が何かを守ろうとしたことも、あたしは知っている。だが、それは誤った手段だということを、諭すことも説得することができなかった。あたしは子供だったのだ。
いつしか、あたしは彼の監督者になっていた。問題が起これば、あたしが一緒に呼び出された。そのうち、秋人の問題行動の原因はあたしなのではないかと嘯かれた。そんな下らない戯言に耳を傾けるつもりはなかった。秋人には、あたしが必要だった。
ある冬の日、生徒が顎の骨を折る重症を負った。そいつは村の役人の息子で、そしてそれをやったのは秋人だった。己の指が砕けるほど殴りつけた結果、誰かが止めに入ったときには、相手は意識を失っていた。
赤黒く染まる雪を見た時、あたしは自分の過ちに気づいた。
警察に連行される中、秋人は言った。
「お前を守りたかったんだ」と。
あたしはそれに、
「あたしじゃあんたを守れないよ」と言った。
気がつけば、秋人はこの村からいなくなっていた。村のみんなはこれで平穏が訪れると喜んでいた。でもあたしは感情というものがなんなのか、わからなくなっていた。
あの日、あたしは秋人という存在を理解するのを放棄したのだ。秋人によって日常をかき乱されることに、疲れ果ててしまっていたのだ。思わず放ったその言葉は、大切にしていたはずの日常を奪っていった。友達も、信頼も、家族も、そして自身への愛も。あたしはそれを、村の人間と同じように、秋人のせいにすることで、倒れそうになる僅かな自尊心を懸命に支えようとしていた。毎年雪が降るとそれを思い出し、しかし雪が消え去ってもなお、その胸に残るものを後悔というのだと知った。そうして手に入れた日常は虚しいだけだった。あたしが最も失いたくなかったのは、秋人がいる日常だった。
それ以来、冬が嫌いだった。雪が嫌いだった。
僻地の雪は、人々の心をも凍てつかせる。それは己も同じだった。
今の秋人には音楽がある。音楽が彼を支えてくれる。あたしは必要ない。
あたしはもう大人だった。今の日常を捨てることができなかった。新しい日常に希望を抱けるほど、少女じゃなかった。
❅
薄暗い朝日の中を牡丹雪が降り注いでいる。ノイズ混じりの景色の先には、小さな駅があった。山間を抜けた始発電車がホームに吸い込まれていく。列車はたった一人の乗車客のために扉をあけた。そこに吸い込まれていく彼の姿が遠目に見える。
あたしに彼を見送る資格はない。そして彼に寄り添う権利もない。せめて、彼の門出だけは眼に刻んでおきたかった。この閉ざされた氷の世界で生きるあたしが、光の世界に旅立つ彼にして許される、唯一の方法だと思った。
列車は噴射音と共に加速していく。それはあたしが立つ踏切に近づいて来る。やがて列車はゆっくりと目の前を通り過ぎていく。これが彼との別れにふさわしいと思っていた。 ――その窓越しに、彼の笑顔を見つけるまでは。
彼と視線があった時、記憶が蘇る。
「ごめん。俺がいるから、お前までこんな目に遭う」
隔離された生徒指導室で、初めて彼の謝罪を聞いた。その時、あたしは言ったのだ。
「だったら、連れ出して。どこか遠くに。あんたと二人なら、あたしは生きていけるよ」
流れ出した涙が、雪を溶かしていった。
あたしはまた、間違ってしまった。
秋人にあたしが必要だったんじゃない。
あたしには秋人が必要だったのだ。
電車の駆動音が遠く消え去り、また雪の静寂が訪れる。その中を、嗚咽が満たしていく。声が枯れる程泣いた。潰れてしまえばいいと思った。伝えたいことを伝えられずに、余計なことばかり届ける声なら、無いほうがいい。こうして天を仰いで叫び続けても、雪がすべてを奪っていくだろう。
それでも、雪を溶かす涙だけは、決して枯れなかった。
雪が毎年降るように、後悔は何度も訪れる。
違いがあるのだとすれば、雪は溶けやがて消え去る。この身に刻まれた後悔も、雪のように溶けて消えてくれればよいのに。
せめて冬の間は、その傷跡を覆い隠してくれ。
雪を溶く熱 ゆあん @ewan
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