瓦屋根の連なりから、赤褐色のタイルに覆われた高層マンションが物見の塔のように突きでている。五階のベランダに、ぽつりと光る点があった。赤い光は煙草なのだろう。黒いパーカーを着た女性がベランダの柵にもたれて煙草を喫っている。

 竹海友子は歩みを止めた。細い路地の真ん中で、立ち止まって同居人の横顔を見上げていた。遠くて、薄暗くて、その顔にどんな表情が浮かんでいるのかよくわからない。

(私――)

 どうして、こんなところに。自分の身体を見下ろす。旅行中と同じコート姿のままだ。誰かと約束があった。ついさっきまでファミリーレストランで男性と会話をしていた。相手の名前は、たしか。

 スマートフォンをとりだす。メールアプリを起動する。

(ない)

 メールが無い。どういうことだろう。目にした覚えがあるのに。スキューズ社のソーシャル……ソーシャルなんだっけ?

 胸がざわつく。そもそもあの男は、このメールアドレスをどうやって知ったのか。よく考えると、警察しか知りえないような情報もペラペラ話していなかったか。

 このスマホのOSはスキューズ社製だ。ウェブメールもスキューズ社のサービスだ。証拠隠滅のために一通のメールをなかったことにするくらい簡単なのかもしれない。

 証拠隠滅? そんなの変。証拠隠滅をしないといけないのは、自分のほうだ。あの人に事件のことを説明してもらった。咲が共犯者かもしれないと言われ、うまくいったと安堵した。それなのに、いつの間にか。

(私が……)

 殺したい相手なんて、いなかった。

 一ヶ月余り前、導師たちが第三の仲間を求めたとき、他の誰かに先に名乗られることばかり恐れていた。犯行の順番を決めるときも、いちばん最後で良いと譲った。そうするしかなかった。殺したいほど憎い人、許せないと思う相手など自分の生活にはなかった。これまでの人生で、そんな強い感情を抱いた相手なんて一人もいなかった。

 初めから無茶は承知だった。顔はマスクやサングラスで隠せても、声の違いに気づかれるかもしれない。警察に事情聴取された咲は、旅行の計画を立てたのは友子のほうだと主張するだろう。最悪、風向き次第では咲を共犯者に仕立てることはあきらめようと思っていた。たまたま服装が似ていたせいで宇津木咲はジェームズと間違われたとみなされれば充分だ。竹海友子こそジェームズだという真相までは誰も到達できないと高を括っていた。

 こんなはずではなかった。京都飯の名を借りてリークしたことが世間に広まっても、とばっちりを恐れて京都飯は名乗りでないだろうと踏んでいた。まさか導師と京都飯が同一人物だなんて思いもしなかった。なんて愚かなんだろう。完全犯罪を夢みた二人がどちらも相手を裏切っていた。たがいの足をつかんで墓穴へ引きずりこんでいた。

 まるで夢のなかにいるようだった。旅行の計画を練っているとき、バイトの早上がりで咲がいつの間にか帰ってきていたことがあった。悪事がバレたみたいで凄く動揺した。一緒に大須で服を買った。やっぱり咲はモノトーンの服しか買おうとしなくて、散々からかった。おかげで似た服を揃えるのは難しくなかった。咲の髪型にあわせたウィッグを着けてみても、鏡の中の自分が咲にはちっとも似てなくて苦笑いした。

 共犯も主犯と同じくらい重い刑になるなんて知らなかった。ネットで調べて、初めて自分のしていることに恐ろしさを覚えた。けれど、刑務所にいる咲のため手紙を書く自分を想像すると、不思議に心は落ち着いた。いつか自分のしたことを打ち明けられる日が来るかもしれない。そう思うだけで、ふわふわと陶酔した気持ちになれた。

 旅行の下調べをしたとき、トイレで着替えたとき、旅館で真夜中に起きて静岡県警に情報を送ったとき。ずっと興奮していた。楽しくてしかたがなかった。こんなに生き生きしている自分を感じるのは初めてだった。

(どうして、私)

 ちりちりとかすかに音を立てて炎が燃える。赤い炎が無数の紙切れを焦がしている。友子は目をさまよわせた。どこかにある。あの日の記憶がどこかにある。決定的な分岐をたどったあの日。別人を共犯者に仕立てることを思いついた日、たしかになにかがあった。

(私――)

 高いところで外灯が音もなく灯った。気配を感じ、友子はふりかえった。

 誰もいなかった。そこにはただ、オレンジ色のひさしがあるカーブミラーが立っていた。歪んだ鏡の中に、小さな自分がいた。黒縁の眼鏡をした、痩せこけた子供のような顔。

(なりたいんだ)

 思いだした。

 あの日、咲が話してくれた。新しい引越先をみつけたと。

(悪い人になりたいんだ)

 眼鏡のレンズに、外灯の光が映っている。真っ白に照らされた顔が、いまにも泣きだしそうに歪んでいた。


 吐きだした煙が風に流れていく。昼間は晴れていたのに、いつの間にか薄曇りだ。陽が沈もうとしているのか、それとも沈んでしまったのかよくわからない。五階のベランダから見下ろす住宅街は、暗い灰色に沈んでいる。色というものが失われ、ただ煙草の先に灯る炎だけがこの世界で最後の赤のように思えた。

 宇津木咲がここで煙草を喫うのはひさしぶりだった。友子に禁止されたわけではないが、同居をきっかけに禁煙するようになった。どうしても我慢できなくなったときだけ、ここで一服する。当然、ベランダは寒い。冬の寒さが厳しくなってきてからはずっと喫わなくなっていた。いまだって風は冷たい。気温のせいなのか、それとも煙草のせいなのか、指先の体温が下がってきた。まるで死へと近づいているような心地になる。

 友子はいつ帰ってくるのだろう。用事も言わずにでかけて、帰ってこない。今日はもう疲れた。料理をする気にはなれない。どこかで外食でもしようか。

 アルバイト先の蕎麦屋を思いだした。客足が遠のき、早上がりが多くなっている。閑散とした店内で、他にすることもなく掃除をした。テレビやネットは毎日、新型コロナウィルスについての話題でもちきりだ。

 携帯灰皿に、灰を落とす。柵の向こう側、瓦屋根の隙間を縫うようにして路地が延びている。マスクをした男が肩を細めて歩いていく。

 卒業予定の学生で、新型コロナウィルスによる業績不振が影響して、決まっていた内定を取り消された者がいるらしい。大学三年生の咲は、そろそろ就職活動に入らなければならない時期だ。来年の今頃、日本はどうなっているだろう。

(どうなるんだろう)

 どうなってしまうんだろう。先行きが見えない不安だけじゃない。なにか、世の中の大きな仕組みそのものが変わってしまったように感じる。これまでどうにか持ち応えてきたことが、いよいよごまかしが効かなくなってきた。ぶっつりと道が途切れて、奈落の底へ続いているような。

(なんてな)

 ちっぽけな自分が思い悩んだってしょうがない。どうせ、なるようにしかならない。

 押し潰した吸い殻を携帯灰皿にしまう。ふりかえった咲は、短く悲鳴をあげた。

「――なんだ、トモか」

 コート姿の友子が、履き出し窓の向こうに立っていた。部屋の中はずいぶん暗く、友子の顔も見えづらい。血の気のない、まるで幽霊のような顔をしている。

「晩メシ、どうする。一緒に行こうか」

「咲ちゃん」

 なにか友子は言いかけた。頬がひくひくとし、唇が細く開いては閉じる。しばらく咲は待ったが、言葉はでてこなかった。

「なに」

 どしたの。努めて明るく、冗談めかして言ってみる。不意に咲は、深呼吸をしたくなった。やばい、このままだと息が詰まる。そんな危機感を覚えた。

「……咲ちゃん」

 うなじに冷たいものが触れた。咲は手の平を上に向けた。ぽつぽつと、雨粒が落ちてくる。遠くから潮騒のような音が迫ってきた。

 やば。一声漏らして、サンダルを脱ぎ散らかしながら咲は部屋に入った。

「ごめん」

 黒縁の眼鏡を外し、友子は指先で瞼を撫でた。意味のないしぐさなのか、それとも涙を拭ったのか。

「なに、なんかあった?」

「ごめん、わたし、とんでもないこと……」

 ひくり、ひくりと肩を震わせる。咲の顔をみつめ、なにかを必死に伝えようとしている。咲はそっと、友子の肩に手を置いた。

「落ち着きなよ、とりあえずご飯でも――」

 暗闇から音がした。部屋の奥、ソファの上に投げだしたナップサック。咲の、スマートフォンの呼び出し音だ。

「やめて!」

 ナップサックのほうへ行きかけて、咲は後ろから腕をつかまれた。

「いや、電話」

「ダメ!」

 無理にふりはらう気にもなれず、咲は半笑いで「わかった、わかったから」と友子の手を握った。

「すぐに電話、切るから。それから、メシ食いに行こう。ゆっくり話を聞くから」

 友人の柔らかな手の甲を、優しくさする。咲の手を握る力が次第に緩んでいき、離れ、力なく落ちた。

(なんだ?)

 薄暗がりを歩きながら、咲は頭をひねった。急にどうしたのか。ずいぶん深刻な話のようだが、さっぱり思い当たることがない。

 何度も呼び出し音がくりかえされる。なにか重要な用件なのか。もう何度もくりかえしているのに、相手はあきらめないようだ。

 屈みこむ。革製のナップサックのストラップに指先が触れようとしたとき、背後から音がした。

 ふりかえる。ベランダに友子の背中があった。いつの間にか、雨足が強くなっている。コートが濡れるのを気にもせず、胸になにかを抱えている。かしゃんと乾いた音がした。友子は屈んで、それをベランダの床に置いた。

 脚立だった。プラスチック製で、普段は折り畳んで部屋の隅に置いているものだ。咲の頭の中に、赤いサイレンが灯った。ぐるぐると回転しながら、物凄い音を放つ。

 走った。だが、友子が脚立に足をかけるほうが早かった。

「もどれ!」

 戻れってなんだよ。頭の中でそんな声がして、咲は発作的に笑いだしそうになった。

 すでに友子の足は脚立を離れていた。エアコンの室外機に足をかけ、柵の向こう側へ身を乗りだす。

「やめろって、ちょっと!」

 咲は脚立に飛び乗った。後ろから友子の胴に手をまわす。

「トモ!」

 部屋の中からの、電話の呼び出し音が、不意に途絶えた。

 友子がふりかえる。頬が濡れていた。薄暗さのせいで、それは泣いているように見えた。そうではなかった。雨粒だった。涙のように幾筋もの雨を頬に滴らせながら、友子は大きく口を開けていた。口の中の闇の奥から、哄笑が響いた。


 名古屋市に住む大学生の宇津木咲がマンションの五階のベランダから転落して死亡した事件を、マスコミ各社が報じたのは三月十日の朝のことだった。マンション契約者で宇津木咲と同居していた竹海友子は、事件から七ヶ月が過ぎた現在も行方がわかっていない。

 警察白書はサイバー犯罪に関する章に、共犯同盟およびそれに類似した犯罪協力を求める日本語での投稿について、この年の三月から五月にかけて一七件、六月から八月にかけて一〇二件を確認したと記している。


〈了〉

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悪い人になりたい 小田牧央 @longfish801

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