七
顔の真ん前で衝立のように広げていたメニューを倒すと、蓮井託生は神託を告げるように厳かな口調で「決めました」と告げた。
「ロイヤルミル……クティーにしま……す」
まだ決めかねてるんじゃないですか。そう訊いてみたくなったが、竹海友子はやめておくことにした。卓上の隅にある呼び出しボタンを押す。夕食の時間には早すぎるせいか、店内は閑散としている。
「はじめまして。日本スキューズ社の蓮井と申します」
本日はよろしくお願いします。テーブルに両手を突いて、蓮井が深々と頭を下げる。「いえ、こちらこそ」友子はあいまいにうなずきながら、ボックス席の向かい側に座る男を改めて観察した。
四十代前後だろうか、目も鼻も口も大きい愛嬌たっぷりの笑顔。ラガーマンみたいにがっしりした体型。黒いネクタイに濃紺のテーラードジャケット。タータンチェックのベストがお洒落で、サラリーマンというよりオフの日でも服装に気を抜かない映画俳優のよう。
「あ、あの」初対面の相手に話しかけるのは苦手だ。友子は口元を手の甲で意味なく拭うと、改めて唇を開いた。「スキューズ社って、ホントにあのスキューズ?」
「ええ、あのスキューズですよ」
世界各国でトップシェアを譲らないサーチエンジン技術を誇る巨大IT企業。自動運転技術やスマートシティ構想の研究でも知られている。友子が使っているスマートフォンのOSもスキューズ社製だ。
「メールに、ソーシャルエンジニアってありましたけど」
「それは、ですね」なにか苦いものでも噛んだように蓮井が顔をしかめた。
「システムエンジニアといえば、システムを作る技術者を意味しますよね。同じことで、ソーシャルエンジニアは社会全体をデザインする、社会工学の専門家という意味です」
いまいちピンと来なかったが、うなずいておくことにした。友子がここへ来たのは、スキューズ社の経営理念を拝聴するためじゃない。
友子のスマートフォンにメールがあったのは、いまから三十分ほど前のことだった。東海地方を気ままに巡る二泊三日の旅を終え、咲と二人でマンションへ戻ってきたばかりのタイミングだった。
――尼僧祇山麓公園で女性の他殺死体がみつかった事件のことはご承知かと思います。
――よろしけば至急、お話させていただけないでしょうか。
不気味なメールだと思ったけれど、無視することもできなかった。ちょっとでかけてくると咲に断り、商店街のはずれにあるファミリーレストランへやってきた。
「ホットのロイヤルミルクティー、二つ」
蝶ネクタイをした店員に、友子は注文を伝えた。慌ててメニューをまた広げていた蓮井が、驚愕に見開いた目で友子をみつめる。
「それで、その、お話って」
はいはい。気を取り直したのか蓮井はジャケットの内ポケットからスマートフォンをとりだした。二つ折りのディスプレイを広げる。折り畳むことができるディスプレイを初めて目にし、友子は感嘆した。しかし映された画像を目にすると、会話の寄り道をしている場合ではないと思い直した。
「竹海さんが撮ったものですね?」
「はい」
かたいプリンにスプーンが挿されている。スプーンを握る女性の手から、もこもこの白いニットの袖が延びている。その奥、椅子の背に黒いナイロン生地のパーカーがかかっている。女性の顔は映っていない。
「咲ちゃん……私と同居してる、宇津木咲さんです」
昨日、喫茶店で撮影した後、咲が写真共有サービスに公開したものだろう。そうですかあ。蓮井は安堵と後悔が入り混じったような、短い溜め息をひとつ吐いた。
「これからちょっとショックなことを言いますが、落ち着いて聞いてください」
恐らく今日中に警察から連絡が来るでしょう。そう告げながら、蓮井はネクタイを締め直そうとするかのように襟元へ手をやった。
「静岡の殺人事件に関してあなたのお友達、宇津木咲さんは事情聴取を求められることになるでしょう。具体的には、共犯者としてです」
どういうことですか。友子は問い返そうとした。しかし、言葉はでてこなかった。
不思議な感覚だった。いま蓮井が口にしたこと、それを実現しようとこの一ヶ月余りさまざまなことをしてきた。努力と熱意と創意工夫がようやく結実したはずだった。けれど友子が感じたのは、暗闇で湿った生き物に触れられたような気持ちの悪さだった。
「驚くのも無理はありません。旅行で立ち寄っただけの土地で起きた事件にどうして関わりが生じるのか、当たり前に考えれば不思議でしょうね。初めから順番に経緯をお話ししましょう。そうそう、ダークウェブってご存知ですか?」
聞いたことはあるが、詳しくは知らない。そう友子は口を濁した。
「ざっくり言うと、インターネットで高度な匿名性を実現する技術のことです。たとえば政権批判をしたいが、国によってはそういう文書を公開しただけで身柄を拘束されたり命を奪われたりする。ダークウェブではサイトの運営者が誰なのか、電子掲示板などにコメントしたのは誰なのか、技術的に身元を特定することが不可能に近い。これは思想の自由を守るという意味で良いことに感じられる例ですが、悪用される恐れも当然あります」
ダークウェブ上の電子掲示板「BigfootBB」での出来事を蓮井は語った。アカウント「導師」が仲間を求め、身元を明かさないままおたがいの犯罪の共犯者になるという犯行計画を練った。導師、京都飯、そしてジェームズは、二月の頭まではBigfootBBの会員なら誰でも閲覧できるスレッドで議論していたが、具体的な犯行計画を練る段階に入ると三者間だけのやりとりに切り替えた。
「すぐに報道されるでしょうから、実名をお教えしましょう。都内のIT企業に勤務する、長期休暇で静岡に帰っていた、片蕗克紀という男性がいま静岡県警の取り調べを受けています。恐らく導師を名乗ったのはこの人でしょう」
「どうしてわかったの? ダークウェブって、誰が書きこんだのか絶対にわからないんですよね?」
その理由を友子は知っていたが、もちろん口にするわけにはいかなかった。話の流れからして、蓮井はこういう質問を期待しているはずだ。
「おっしゃるとおりです」テーブルに肘をつき、蓮井は手の平を合わせると、指を絡めた。「警察に情報提供があったんですよ。京都飯からね」
「京都飯って、犯人グループの一人でしたっけ」
「ええ。まずはそれぞれの役割から整理しましょう。今回の犯行では、導師が主犯として中馬加奈江を殺し、ジェームズが共犯者として偽の証言をすることになっていました。京都飯は今回、関わりません。ただし導師がもしも次の犯行に協力せず逃げたなら、世間に犯行内容を明かすという取り決めをしていました。匿名性を保証するダークウェブの性質上、音信不通になってしまえば突きとめようがありません。自分の目的だけ達して逃げ得されるのを防ぐ策ですね。そういうわけで、中馬加奈江の殺人にはノータッチの京都飯も、計画の詳細について情報を共有していました。それが警察にリークされたわけです」
「でも、まだ一日しか経ってないのに」
「そうです、導師が逃げたからではない。警察に送られた文書には、良心の呵責に耐えられないと記されていたそうです。実は、京都飯には殺したいほど憎んでいる相手など本当はいなかったんだとか。初めは導師と推理小説じみた議論を愉しんでいた。それが本当に人を殺す計画になって、怖気づいたんだそうです。おわかりかと思いますが、共犯同盟の仕組みさえ明らかにされてしまえば警察の機動力で犯人をすぐに特定できます。動機があって、犯行現場に足を運んでいて、わざとらしいほど強固なアリバイがある人物。その条件に当てはまる者を探すだけですからね」
組んだ手の上に蓮井は顎を乗せ、頭を左右にゆらゆらと揺らした。物騒な話をしているわりにはニコニコと笑顔を浮かべている。
「さて、ここからがあなたのお友達に関わってくる話です。尼僧祇山麓公園には、あそぎふれあいショップという店があります。そこの店主のもとに昨日、落とし物としてベージュ色の登山帽が届けられました。これは中馬加奈江が身に着けていたものではなく、同じメーカーのものを事前に導師すなわち片蕗克紀が購入し、ジェームズに送ったものです」
「それ……なんのため?」もちろん知っていたが、友子は調子を合わせて質問した。
「被害者が落としたものを届けた、という口実を作るためですね。ジェームズは通りすがりの善意の証言者を演じたいわけですが、司法機関と関わらないに越したことはない。警察には、ふれあいショップの店主に証言してもらう。店主によれば拾い主は手袋をしていたそうですから、指紋すら残っていないでしょうね」
不意に、蓮井は口を閉ざした。両手にお盆を抱えた店員が立っていた。湯気の立つティーカップがテーブルに置かれると、蓮井は「ありがとう」と小声で礼を述べた。つられて友子も軽く頭を下げた。
「店主が証言したジェームズの服装ですが、さきほどお見せした写真、宇津木咲さんと特徴が一致しています」
「でも、それだけじゃ」
「そうです、偶然の可能性もある。でも問題はそこじゃない」
「どういうこと?」
「京都飯が警察に情報提供をしたのは昨夜でした。そして今日の昼過ぎには、マスコミにもリークがあったんですよ。恐らく、死体発見が報道されるのを待っていたんでしょうね。そのほうが信憑性が高い情報だと思われるでしょうから。いまのご時世、店主の証言内容がネットに広がるのは時間の問題でしょう。やがて誰かが宇津木さんの写真に気づきます。怪しいというだけで、攻撃の的にされる危険性があります」
カップの取っ手に蓮井は指をかけたが、持ちあげようとはしなかった。
「話が長くなりましたが、ようやく私がここに来た理由をご説明できますね。スキューズ社では『情報災害』と呼んでいますが、いわゆる炎上騒動、ヘイトスピーチ、フェイクニュースなどにより特定の個人もしくは集団が危機にさらされる恐れはないか、事前に兆候を察知する技術を研究しています。これから数時間以内に宇津木咲さんは見知らぬ誰かからの誹謗中傷にさらされたりプライバシーを侵害される危険性が極めて高い。残念ながら、起きてしまった情報災害を鎮火するような技術はまだでしてね。こうして口頭でアドバイスするだけという情けなさなんですが」
苦笑いをこぼしながら蓮井はようやくティーカップを持ちあげると、ロイヤルミルクティーを口元に運んだ。「甘っ」一言漏らしてソーサーに戻す。
さて、どうしよう。こういう状況で自分はどんな質問をするのが自然なのか。しばらく考え、やがて友子は口を開いた。
「あの、本当なんですか? 本当に咲ちゃんが、その、人を殺す手伝いしちゃったんですか?」
さあ、どうなんでしょうね。カップをつかんだまま蓮井は瞼を細め、うっとりした表情を浮かべている。
「スキューズ社は社会正義を代表する立場にはありません。宇津木さんが本当に犯罪者なのか真実を突きとめるのは警察なり裁判所なりの仕事であって、私たちの業務ではないわけです。警鐘を鳴らすことはできますが、それ以上のことはできません」
「でも……やっぱり、いいです。そうですよね、納得しました。代わりにもうひとつ教えてください」
「はいはい」
「咲ちゃんじゃなくて、どうして私に教えてくれたんですか」
蓮井が目を見開いた。右上を見上げ、左上にぐるりと眼球を回転させ、それから「あー」と呻いた。
「言い訳を準備するの、忘れてました」
「え?」
「冗談です。えっとまあ、あれですよ。我が社のコーポレートガバナンスは〝ネットの良心に耳をすませ〟でしてね。正義を名乗るといずれ独善的になり、暴走する危険性があります。それよりは人々が心を通わせあう手段を模索することが、現代という多元的な価値観が重視される時代に必要なことじゃないかと」
はあ。生返事をしながら、友子は内心首を傾げた。なんの話だろう。さっきの疑問にぜんぜん答えてもらってないような。
「良心の話をしましょうか」カップから一口啜った蓮井が、言葉を続ける。「良心とはつまり、自分以外の人間にも心があって、がんばれば推し量ることができる。そういうものだと私は理解しています」
「思いやり、ですね」
「短く言えば、そのとおり。さきほど申しあげたとおり、スキューズ社は情報災害を察知すべくネットを絶えず監視しています。それはダークウェブも例外ではありません。BigfootBBでの導師たちのやりとりに、私は早い段階から注目していました。もし主犯となった人物が犯行後に逃げ得しようとしたら、ノータッチの者が世間にバラせばいい。導師がその提案をしたとき、私は思わず膝を打ちました。ああ、なるほどねって。いわば、そのとき――」
ネットの良心が、私にささやいたんですよ。
秘密めかすように声を落として、蓮井はそう言った。
「どういうこと?」
「導師と京都飯はグルなんじゃないか、いや、いっそ導師と京都飯は同一人物なのかもしれない。そう思ったんです」
友子は目を見開いた。意味がわからず、蓮井に問い返そうとした。だが、次の瞬間にはすべて理解した。納得感と、そんなバカなという思いがせめぎあった。
「根拠はなにもありません。これはただの思いつき、閃き、妄想、仮説のひとつに過ぎません。ですが、ありえることでしょう? とても単純で、わかりやすい動機です。自分の犯行を手伝ってくれて、しかも使い捨てができる都合の良い共犯者が欲しかったんですよ。まず交換殺人について見せかけの議論をする。共犯同盟という改良案を示し、そして第三の協力者さえいれば成功間違いなしと吹聴する。裏切りの心配はないという抑止策つきでね。これは私でも騙されると思いましたよ。表向きは二対一ですからね、多数決に持ちこめば、いちばん初めは必ず片蕗克紀が狙う人物の殺人から始めることができます。そして目的を達したなら、さようなら。京都飯が警察にバラすなんて、絶対にありえません。どちらも片吹克紀なんですから」
「でも……だけど、それなら」
「はい、当然の疑問ですね。京都飯はなぜリークしたのか。答えは明らかです。警察に情報を提供したのは別人です。良心の呵責なんて嘘っぱちですよ。片蕗克紀以外の誰かが京都飯の名を騙ったわけです。それは誰でしょうか? 答えは火を見るより明らかですね。ジェームズです。犯行計画を知っていたのはこの世で片蕗克紀とジェームズを名乗る者の二人しかいないんですから」
カップを傾けていく。どんどん傾けていく。カップの底が見えるくらい傾けていく。ロイヤルミルクティーを飲み干し、蓮井はそれをソーサーに戻した。かすかに陶器が触れあう音がした。
「では、なぜジェームズは裏切ったのか。人を殺す手伝いをして心が痛んだ? だったら京都飯の名前を騙る必要はありません。片蕗克紀を刑務所に送るため? いいえ、ジェームズと片蕗はダークウェブで知りあった赤の他人、利害関係なんてありません。考えてみれば、おかしいですよね? マスクやサングラスで顔を隠し、手袋をして指紋を残さないくらい慎重なのに、どうして宇津木さんは同じ服装のまま写真をネットにアップしたんでしょう? ひょっとして落とし物を届けたのは、宇津木さんと同じ服装に変装した誰か? 誰かが宇津木さんを偽の共犯者に仕立てた。では、宇津木さんと同じ服装を準備できるほど親しい人って、誰でしょうね?」
にっこりと、スマイリーフェイスのように空虚な笑みを蓮井は浮かべている。
「竹海友子さん」
あなたがジェームズですね。静かに蓮井は告げた。
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