【3】
高校を卒業してから、村瀬先生と付き合うようになった。告白したのは私からだけど、何度か会ってるうちにそういう雰囲気になってはいた。
私なら、この人を変えられると思った。
高校時代のクラスメイトたちはみんな、村瀬先生を「変わった先生」くらいにしか思っていない。授業は面白くてわかりやすいからそれなりに人気だったけど、村瀬先生の抱えている闇に気がついている人はいなかったと思う。私みたいに積極的に村瀬先生と仲良くなろうとしている人はいなかった。
村瀬先生は病んでいる。
ゆるキャラのストラップやらキーホルダーを身につけてたり、他の教員が手時計で試験時間を計ってるのに自分だけキッチンタイマーを使ってたりするのは、あまりにも周りが見えていなさすぎる。頭の悪い人ではないのにそういうことが理解できないせいで、生徒からも嫌われてはいないにせよあまり親しまれてもいない、という中途半端な立場だし、教員の中での立ち位置はもっと微妙なのだろう。
ファッションセンスもおかしかった。いつもやたらと大きい鞄を肩にかけている。職場でウエストポーチをしているのも変だけど、普通、男の人はプライベートで外出するときに鞄なんか持たない。スマホと財布をポケットに入れておけば良いのだから鞄なんか必要ないはずだ。
村瀬先生にそれを言うと、本とかタブレットを持ち歩くので鞄は手放せないのだそうだ。本なんか家で読めばいい。持ち歩くにしても、2冊も3冊も鞄に入れてどうする。そういう鈍感さのせいで、自分が損をしていることにこの人は気づいていない。
学校での村瀬先生は、一見、「変わった人」というポジションを得て気ままに教員生活を楽しんでいるように見える。うちの学校の教員や生徒は、「ちょっと変わった人」にはやたらと厳しいけど、村瀬先生くらい突き抜けていると逆に何も言わなくなる。村瀬先生はそういう突き抜けすぎて誰にも何も言われない立場に満足して、お気楽な日々を過ごしているように見える。少なくとも、ほとんどの生徒は村瀬先生をそのように思ってる。
でも、それは違う。実際、村瀬先生はそんなに神経の太い人間ではない。自分が変人扱いされてるという自覚はあるし、そのために他人から距離を取られることに傷ついてもいる。高校生だったときから、放課後の講師室で村瀬先生に会いに行ってた私はそのことに気づいていた。
説得の結果、村瀬先生は私と会うときには鞄を持ち歩くことはやめた。服の選び方も教えて、眼鏡もコンタクトに変えさせた。努力の甲斐あって、村瀬先生の私服姿は見違えるほど良くなったし、私も満足だった。
ただ、問題はそれだけではなかった。猫背で歩き方も変だったし、しゃべり方もどこかぎこちない(村瀬先生は教壇の上から一方的に話す分には話し上手だけど、なぜか世間話の類いになるとまるで気が利かなかった)。話す内容も、政治とか宗教とか、難しげな映画の話とかで、デート中にされても楽しめないような話題ばかりだった。
最初は、ひとつひとつ、わかりやすく指摘していたのだけど、外見と違って中身の問題だから簡単には変わらず、私はだんだん苛々してきた。
村瀬先生なりに私の言うことを実践しようという気持ちはあるようだった。立ち居振る舞いにせよ、会話の内容にせよ、相づちの打ち方にせよ、彼なりに努力して改善しようしてはいた。村瀬先生は確かに努力していたけれど、というより努力していたからこそ、私の苛々は積み重なっていった。
村瀬先生は、私には何も要求しなかった。私のことは何でも褒めてくれたし、私を束縛もしなかった。私に村瀬先生とは別な恋人がいるというのも薄々察している雰囲気はあっても何も言わなかったし、ホテルに行こうとすれば何だかんだと理由を付けて避けているのにも、不満は全く言わなかった。もちろん、デート代はすべて向こう持ちだ。
そこまで年が離れているわけではないとはいえ、教え子と付き合うことに後ろめたさのようなものはあったのかもしれない。私にとってはすごく楽な相手だったはずなのだけど、そういう物わかりのよさも、最初は村瀬先生の良いところのように思っていたけれど、だんだんと不愉快になってきた。自分がなさ過ぎる。
結局、最後には顔を見るのも嫌になって、メッセージで一方的に別れたいと告げてブロックして、それで終わりにしようとした。彼氏(村瀬先生とは別の、他大のサークルで知り合った先輩)に村瀬先生のことがバレて目一杯殴られた、というのもある。この彼氏の束縛が辛すぎて、好き勝手に甘えさせてくれる村瀬先生に惹かれた、というところもあるのだけど、やっぱりどこか根本的にズレている人とは一緒にいられない。
別れてから、村瀬先生がだんだん怖くなってきた。あの人はお人好しだけど、怒らせたら怖い。しかも、どういう理由でどれくらい怒るのか、ちょっとよくわからないところがある。私自身は高校時代も卒業後も、村瀬先生に怒られたことは一度もないけど、クラスで村瀬先生の逆鱗に触れた生徒が怒られているときは他人事なのにメンタルを削られたし、そもそもあの人はいつも何を考えているのかよくわからなくて、いつだってどことなく近づきがたいのだ。そういう人を一方的に振ってしまったことがどういう結果につながるか、うまく想像が出来ないだけに余計に恐怖は大きくなっていった。
気がつくと私は、付き合っていたとき以上に、村瀬先生のことを考えるようになっていた。終わりにしたはずなのに、終わった気がしない。
どうすればいいかわからなくなった私は、卒業した学校の元担任に相談した。卒業した後、村瀬先生に付きまとわれて困っている、と。必ずしも嘘ではない。元々、卒業した私に言い寄ってきたのは村瀬先生の方だ。
村瀬先生は学校を辞めさせられた。ずっと後で知ったことだけれど、非常勤講師というのはとても立場が弱くて、ちょっとでも問題があれば簡単に切り捨てられてしまうものなのだそうだ。
これで終わりになったのか、私には全然わからなかった。気がつくと、彼氏にも捨てられていた。村瀬先生のことを思い出すことは少なくなったけど、その代わりに、正体のわからない不安に憑かれることが多くなった。
大学を中退して、実家の近所のホームセンターでバイトを始めた。夜職も考えたけど、私は今、とにかく人と話すのが辛い。そう思って選んだバイト先だけど、やってみると案外忙しいし、お客に話しかけられることも多かった。
バイトを始めて3日目、調理用品の品出しをしているときに、見覚えのある赤色が視界に飛び込んできた。商品棚に、あのキッチンタイマーが並べられていた。そのやたらとキンキンした、耳に突き刺さるような響きが、頭の中に蘇り、気がつくと私はその場にうずくまって泣きじゃくっていた。その後、誰かが私を事務室のソファーまで連れて行ってくれたらしいのだけど、その前後のことは何も思い出せない。
赤いキッチンタイマーが私を翻弄する 垣内玲 @r_kakiuchi_0921
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