【2】

 翌年、2年になった私たちのクラスの現代文担当が村瀬先生だった。村瀬翔太という名前は、そのときにはもう知っていた。去年のあの最悪だった数学の試験が終わってすぐに、5月頃に配られた教員紹介のパンフレットを引っ張り出して名前を確認したのだ。数学の試験監督だから数学の教員であるとは限らないというのはわかっていたけど、何となく理系のような気がしていたので、国語の講師だったというのは意外だった。

 例のウエストポーチには、クマのストラップではなくタヌキのキャラクターがぶら下がっていた。みんなはそのタヌキが気になって仕方が無いようだったけれど、村瀬先生は何事もないかのように授業に入った。

 自己紹介の時間も無かった。最初の授業といえば、ひとりずつ名前を呼ばれて自己紹介をさせるとか、国語だったら作文用紙が配られてこれまで読んだ本のことを書かされるとかが普通だと思うのだけど、村瀬先生はそういうことを一切やらない。


 授業はとある評論文から始まった。とても意外なことに、村瀬先生の解説はわかりやすかった。これまで受けたどの国語の授業よりもわかりやすかった。てっきり自分の世界に入り込んで生徒が理解してるかどうかなんてまるで気にかけない、オタクタイプの先生だと思っていたけれど、そうではなかった。

 問題は、説明がわかりやすいかどうかではなかった。最初は普通に、というより普通以上のわかりやすさと、眠くならない程度にメリハリのあるテンポ感の語り口調で教科書に書かれたその文章を解説していた村瀬先生は、突然その文章の筆者を罵り始めた。

 「いや、ずっと我慢して説明してたんだけどさ、俺この筆者大嫌いなんだよね」

 クラスの誰もが、教壇に立ってる男の人が何を言い出したのか理解できなかったと思う。国語の先生が教科書に載ってる文章を嫌うなんてことがあり得るのだろうか。

 一度スイッチが入ってしまった村瀬先生は止まらなかった。本文を一段落読んでは、そこに書かれていることがいかに非論理的で事実に即していないかを細々と論じていった。ひとつひとつ説明されれば、なるほど、この文章はちょっと変だ、とは思う。気になってネットで筆者について調べてみたが、確かに批判している人が多い。

 「こういう無知で無教養で恥知らずな人間がいっぱしの知識人みたいな顔をしているのが、僕は許せないんですよ」

 そこまで言うか。

 村瀬先生の授業は、概ねそんな感じだった。教科書のどの文章を扱うかは、学年全体で決められるらしく、村瀬先生が選べるわけではないらしい。だけど村瀬先生はそんなことを気にしなかった。

 「この文章面白くないからこれはさっさと終わらせて別な問題やります」

 いつもそんなことを言って、国立大学の現代文とか小論文の過去問を配って授業をしていた。他の先生は村瀬先生が「つまらないし、簡単だし、やる意味がない」と言う教科書の文章を、一段落ずつ丁寧に解説しているのだけど、村瀬先生は教科書の文章の解説は1,2時間で終わらせてしまう。

 実際、1,2時間の解説で十分ではあった。これは後で聞いた話だけど、昔は村瀬先生も他の先生のように一段落ずつ板書して、試験に出そうなポイントを事細かに説明していたらしい。でも、そんなことをしても、生徒は聞いてないし、丁寧に板書をすれば生徒はそれをノートに書き写すだけで勉強したような気になってしまい(確かに村瀬先生の板書は綺麗で、書き写しただけですべてわかったような気になる)、結局定期試験の点数には結びつかない。もちろん、入試に必要な読解力なんて絶対に身につかない。そう思って細かい説明をしなくなったのだそうだ。それよりも、教科書の文章は手短に終わらせて、関連するテーマの文章をたくさん読んだ方が良い。

 それはそういうものかも知れない。だからといって、偏差値50そこそこの学校の生徒に、京都大学の現代文を解かせるのはどうかしているし、月1くらいのペースで600字とか800字の小論文を書かされるのもしんどかった。他のクラスの子と比べて、負担が違いすぎる。

 大体、成績はどうなるのだろう。他のクラスでは出されていない課題を私たちは必死でやっているけれど、それは成績にどう反映されるのか。他のクラスでやってない課題で成績がつけられるなら不公平だし、学年共通で出されている課題だけで成績がつけられるなら、村瀬先生の出す課題は無視しても良いことになる。

 クラスのみんなが、うっすらとそんなことを思っているけど、村瀬先生に直接それを聞く人はいなかった。


 村瀬先生は怖い。第一に普通の意味で、怒ると怖い。普段の何を考えているのだかよくわからない茫洋とした表情からは想像できないくらいに、怒ったときの村瀬先生は怖かった。ヒステリックに叫ぶというよりは、お腹から強烈に響く怒鳴り声は心を抉るし、怒りながらも理詰めで責めてくるので逃げ場が無い。わたしのクラスはどちらかと言えば騒がしく、陽気で明るいクラスなのだけど、村瀬先生の授業では私語のひとつもなかった。

 さらに言うと、村瀬先生は怒ってなくても怖かった。「怖い」というのとは違うかも知れない。寄せ付けない、近寄りがたさがある。そもそも、タヌキのマスコットを付けたウエストポーチを腰に巻いて、授業中でも何かにつけてつんざくような音を響かせる赤いキッチンタイマーを取り出している得体の知れない人なのであって、どんなふうに接すれば良いのか全くわからない、と言っても良い。

 そんなわけで、村瀬先生の授業に不平を言う人間は、私のクラスにはいなかった。

 実際、大変ではあったけど不平はなかった。村瀬先生の授業はわかりやすいし面白い。少なくとも私はそう思ってたし、他の人も、村瀬先生を嫌ってはいなかったことだけは間違いない。ただ変な人だというだけだ。怒ったら怖いというのは、それだけでは必ずしも嫌われる理由にはならない。


 ある文章に、「多様性」という言葉が出てきたとき、村瀬先生が「なぜ『多様性』が尊重されるのか」という話をしていたのを強烈に覚えている。

 村瀬先生は、大体いつも、最初に難しいことを聞く。

 「評論文では『多様性』なるものがプラスの価値として扱われることが多いんだけど、なんで『多様性』が大事なんだろうか」

 こういう高校生にわかるはずのないことを聞いて、例の赤いキッチンタイマーで2分とか3分とか時間を計って考えさせる。2,3分で答えが出るような問題だとは思えないけど、村瀬先生は容赦なく、しかもランダムに生徒を指名するので、みんな必死に何を言えばいいか考える。

 赤いキッチンタイマーの耳を刺し通すような音が教室に鳴り響き、村瀬先生が適当に(本当に適当に)指名した生徒に答えを聞くが、もちろん答えられる人なんかいない。


 「人間の集団が、みんな同じような人ばかりの集まりになってしまったとしましょう。日本もアメリカも中国も、どの国に行っても、同じような社会、同じような文化しかない、つまり多様性のない世界です」


 誰も答えられないので、村瀬先生が話し始める。


 「そういう世界では、世界のどこに行っても自分の常識が他人にも通じるはずであるという安心感があります。外国に行くときにも、その国の文化とか価値観を理解するために勉強をする必要がない。そういう世界は、楽なんです」


 「でも、そういう世界には逃げ場がないんですよ。今、日本で生きてる私たちは、日本の社会に100パーセント満足しているわけではない。何かしら不満はある。そういうときに、例えばアメリカでは日本とは違うやり方をしている。では日本のやり方も変えることができるんじゃないか。そんなふうに、日本という社会の外側を考えることが出来る」


 「世界に『多様性』があるからこそ、私たちは自分たちの社会の外側を参考にすることができる。その気になれば、外側の住人になる、つまり、日本を離れて外国で暮らすことも出来ないわけではない。多様性というのはそういうものです」


 みんな、真剣に聴いていた。正直なところ、この話を理解できる人がクラスに何人いるか疑わしいと私は思ったけど、それでも、クラスの誰もがそれぞれに、これはとても大切で、聴く価値のある話だと感じていたようだった。


 「みなさんだってさ、例えば大学も、そのあとに就職する会社も、日本中どこに行ってもうちの学校みたいな価値観と文化の社会がずっと続くとか考えてみ?嫌でしょ?」


 なんてことを言うんだ。


 「いや、僕はうちの学校、まあまあ良い学校だと思ってるよ?君たちが感じているほどには生徒への束縛も強くないと思う。ただこれはそういう問題じゃないんだよ。うちの学校に限らず、あるひとつの価値観が、全世界に完全に浸透して、すべての人間社会が同じような文化に統一されてしまうのは恐ろしいことだっていう話だよ」


 要らない。その話は完全に要らない。


 前にも言ったけど、私たちの学校はあまり特徴のない私立の高校で、生徒も教員も、出る杭を打つのが大好きな人ばかりだ。不登校になる子も多い。そういう環境が卒業してからもずっと続くなんて、考えただけでもゾッとする。最初にアメリカとか中国とかを例に出して説明してくれていただけなら、なんだかすごく素敵な、夢のある話を聞けたという気持ちで授業を終えられたはずなのに、自分たちの学校を引き合いに出された途端、ひどく生々しい、現実的な問題を突きつけられてしまった。


 村瀬先生の授業は、いつもこんなふうだった。いつも何か、すっきりしないものを押しつけられて終わるのだ。

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