エミールと空の国

天崎 剣

エミールと空の国

 世界には、二つの人間が存在する。

 翼を持つものと、持たないものだ。



 エミールはそう信じて疑わなかった。

 昔々、世界は空と陸に分かれていて、それぞれに人間が存在した。空には翼を持った人間たちが楽園を築き、地上には我々翼を持たない人間たちが暮らした。古代にはそれぞれ交流があったものの、文明が発達するにつれ、空と陸は分断されてゆき、今では全く互いに干渉することすらなくなってしまったのだ。

 そういうおとぎばなしを、エミールは心の底から信じていた。



 二つ隣の家に住むロビンが、その話を幼い頃から延々と聞かされていたというのは言うまでもない。口を開けば何を言い出すか想像できてしまうくらいの間柄、延々と続くエミールの空想を、ロビンは半ば諦めとともに許容していた。

 なにせ否定などしようものならかんしゃくを起こし、


「じゃあ、空の国がないという証拠などあるのか」


 とエミールは何度もロビンを叱りつけた。

 はるか昔、まだ航空技術も発達していなかった時代ならばそうした妄想も許されていたかもしれない。しかし、今では飛行機がビュンビュン空を飛び回る。月にも人類が到達し、いずれ火星へ、宇宙の大海原へと希望をうたう時代になった。宇宙から見た地球が衛星中継され、『地球は青かった』ことを全人類が知ることになってもまだ空の国というものを信じているというエミールは、ロビンにとって奇異なものに見えた。


「おばさん、いいかげんエミールに本当のことを教えてあげてよ」


 ロビンは何度かエミールの母に詰め寄ったが、彼女は優しく笑って誤魔化すばかり。


「エミールにとっては、それが本当のことなんだもの。むやみに否定するのは良くないわ」


 エミールは傷つきやすい。

 特に空の国と翼の話をばかにすると、まるで心臓をえぐられたかのような苦しい顔をする。

 世の中の常識的なことよりも、エミールは妄想の国の存在を信じ、空想上の生き物を信じた。

 ロビンにはそれがとても不可解で、とても受け入れがたいことだった。



 学校へ通う年齢になっても、エミールのそれは変わらなかった。

 次第にエミールは孤立し、融通の利かない変な子どもだと揶揄され始める。

 それをいじめなのだと、ロビンが認識するまで、さほど時間はかからなかった。

 石を投げられ、なじられ、ぶたれ、それでもエミールは自分の主張を曲げなかった。

 通りかかったロビンがエミールに駆け寄り手当てをしてやると、エミールはお礼よりも先に言うのだ。


「目に見えるものしか信じないなんて、彼らはなんて哀れなんだ」


 エミールにとって空とは何なのか。翼を持った人間とは何なのか。

 少なくともロビンには、それが一般に知られる宗教的世界観とは違う何かなのではないかと、そう、思えていた。



 神の絵は、古くから翼とともに描かれた。

 それは神聖なるものを表すもので、現実に空の国や翼が存在したかどうかとは別の話だということも、ある程度の年齢になると、ロビンには理解できた。

 少なくとも幼い頃に夢想した雲の上の世界など、想像の産物以外の何物でもないことも、年齢を重ねるごとにすんなり受け入れられるようになっていくのが当然のはずだ。

 ところがエミールときたら、いつまで経っても、空には白い翼を持つ人間たちが住む国があると言って聞かなかった。



 夕暮れ時に、町を貫く川の畔に一人たたずむエミールを見つけたロビンは、彼にそっと近づいた。

 エミールの頬には殴られた跡があった。

 シャツから覗く腕にも、まだ新しい傷跡があった。


「大丈夫?」


 いつものように声をかけ、肩を叩く。

 エミールはじっと、夕陽できらめく水面を見ている。

 川岸の工場からは白い煙が吐き出され、緩い風に吹かれてたなびいていた。光で町がかすむなか、町中の人々がそれぞれの帰路につき始めていた。


「僕は一度も嘘をついたことがない」


 そう、エミールはつぶやいた。

 ロビンは驚かなかった。

 彼の母が、『エミールにとっては本当のこと』と言ったからだ。

  

「毎日夢を見る。背中に羽を生やした人間たちが、空から地上を見ている。地上の人間たちが争いを始めると悲しそうに涙を流し、ときに地上に降り立って手を差し伸べるんだ。苦しいとき、楽しいとき、悲しいとき、嬉しいとき、いつでも彼らはそばに居て、僕たちを見守っている。彼らはこの星の未来のために、皆が幸せに暮らせるように願ってる。僕も、そういう存在でありたいと思う」


 それは、いわゆる神様や天使と何が違うのだろうかと、ロビンは考える。


「彼らは見えない。でも、確実にいる」


 力強いエミールの言葉。

 何を根拠に、彼はそんなにも断言できるのだろう。


「信じて貰えないかも知れないけれど」


 エミールはそう言って、ロビンを見た。

 宝石のようにきらめく瞳に、嘘は微塵も感じられない。

 ロビンは困ったように首をかしげたが、エミールは構わず続ける。


「美しい心を持ち続けなさいと、彼らは言った。誰かを慈しむには、誰のことも恨まないこと。皆が僕のことを信じないのは、彼らが僕のように、空と繋がっていないからだ」


 まだ幼さの残る少年の口から出たとは思えぬような、慈愛に満ちた言葉だった。


「ロビン」


 エミールは呼ぶなり、ぎゅっとロビンに抱きついた。

 自信たっぷりの言葉とは裏腹に、エミールは震えていた。エミールの心臓の音や荒い吐息が、ロビンの耳に溢れた。

 胸が締め付けられそうになって、ロビンもぎゅっと抱き返した。

 自分と背丈も変わらない、か弱い少年は、どれだけの苦しみと悲しみを抱えていたのだろう。

 そう思うと、ロビンはただ抱きしめてやるだけでは足りないような気がした。

 大きく背中をさすってやろうと手を動かした、そのときに、ロビンの手に何かが当たる。丁度、肩の大きな骨の付近。弾力のある妙な出っ張りがある。

 ハッとして手を離すと、エミールも両手を開いてロビンを解放した。


「君の幸せを、心から願う。ありがとう」


 ロビンは見た。

 夕陽を背に、大きく翼を広げた少年の姿。


「エミール……?」


 ロビンは声をかけた。

 その呼びかけに、彼は笑って答える。


「地上の人間がみんな、君のようならば」


 駆け寄り、手を伸ばした途端、ロビンの視界は夕陽に阻まれた。

 目を開けると、もうそこにはエミールの姿はなかった。

 ただ、一枚の白い羽が、足元に落ちているだけだった。






 彼の存在が夢だったのか、自分が変な夢を見ていたのか。

 エミールが消えて、いくらかの時間が過ぎた。

 町から、エミールの存在は完全に消えた。誰も、エミールのことを知らなかった。

 まるで、最初から居なかったように。

 

 二軒隣のおばさんは、いつものように家事にいそしんでいる。そこに、エミールの姿はない。

 恐る恐る、訊ねてみる。


「そう、あなたは覚えててくれたのね」


 と、おばさんは静かに笑った。


「翼のちぎれた赤ん坊を、拾って私が育てていたの。いつ空に帰るのか気が気でなかったけれど、とうとう時間が来たのね。見送ってくれてありがとう」

 

 小さく折りたたまれていた白い翼が殆どちぎれ、瀕死だった赤ん坊を、おばさんはかわいそうに思い、必死に看病したそうだ。その後、おばさん夫婦は我が子のようにエミールを育てていたが、次第に空の国のことを話し始めたらしい。


「信じてあげてね。あの子のことを。そして、いつまでも忘れないでいてあげて」


 さみしそうに笑うおばさんの手を、ロビンは両手で握りしめて、


「絶対に。絶対に忘れません」


 と何度も言った。

 ロビンの目からは止めどなく、涙がこぼれ落ちていた。



<終わり> 

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