自然の遺産
逢雲千生
自然の遺産
独特の香りが鼻を抜け、目を開けると白い
段の上には写真。
幸せいっぱいに笑うお気に入りの一枚は、黒い
彼の家族に挨拶をして、何も話さず廊下に出ると、見知らぬ人達がコソコソと、
「……おじいさん達のが残ってて、それを
「いやあねえ。まだ二十代、三十代だったんでしょ? 若いわあ」
私のことに気づかない彼女達は、
彼のお父さんが病気になり、お母さんは腰を悪くして働けず、彼一人で返済を頑張っていたことや、借金取りから連日逃げ回っていたことなど、次から次へと話は出てくる。
盗み聞きをするつもりはなかったけれど、彼女達の声は
靴をはいて外へ出れば、そこでもまた、彼の噂話で持ちきりだ。
亡くなった
家が近所で、親同士の仲が良く、同い年で気が合ったため、一時期は将来の相手かと、見知らぬ人にまでからかわれたことだってある。
けれど私達にそんな気持ちはなく、お互いにそれぞれの恋をし、相手を見つけ、今では子持ちだ。
周二には男女の子供が三人いて、祭壇の横で泣いているのを見た。
周二によく似た男の子がお兄ちゃんで、二人の妹は奥さん似だった。
奥さんは気丈に振る舞っていたけれど、
それでも「来てくれてありがとう」と言われ、私こそ大声で泣きたくなったくらいだ。
彼の両親もいたけれど、二人は呆然とうつむいているだけで、まだ信じ切れていないのかもしれない。
それでも理解しようとしているのか、時々顔を上げて遺影を見ては、出ない涙を我慢していた。
人の間を抜けて道路に行くと、ようやく息が出来た。
葬式というのは、いつになっても慣れない。
黒いワンピースを風に揺らしながら歩いて行くと、おぼつかない足取りの老人を見つけ駆け寄った。
「じっちゃん。こんなところで何してんの」
周二のおじいさんだ。
大人になってからも可愛がってくれたおじいさんは、最後に見た時よりも老け込み、若々しさのかけらもない。
今にも
「周二が、周二がいなくなっちまった……朝、小屋に行ったら、あいつ、ぶら下がってたんだ……俺、必死に降ろそうとしたんだけど、間に合わなかったんだ――」
ボロボロと涙を零すおじいさんは、周二の遺体を最初に発見した人だ。
仕事は引退したけれど、出来ることはやっていたおじいさんは、毎朝早くに起きると、趣味の畑仕事をしていて、道具を取りに小屋へ行ったときに、亡くなった彼を見つけたらしい。
周二のお父さん達は、おじいさんの叫び声で目を覚まし、慌てて小屋へ行ったときに発見したらしく、私の家族が駆けつけたときにはもう、彼の息はなかったそうだ。
おじいさんは半狂乱、周二の両親は腰が抜け、近所の人達で蘇生を試みたものの、彼は既に死亡していたというのが真実らしい。
私が彼の死を知ったのは、亡くなった日の夜で、娘を寝かしつけた後のことだ。
夫が先に知らされたらしく、彼の口から聞いた周二の死は、あまりにも突然で、あまりにも理不尽なものだった。
泣きわめきだしたおじいさんを連れ、家へ戻ると、噂話をしていた人達がおじいさんを見る。
冷めた目を向ける人や、同情的な目を向ける人もいたけれど、私はそれらを無視して、おじいさんを家に入れた。
周二の奥さんに事情を説明し、部屋へ連れて行くと、奥から近所のおじさんが現れた。
彼の手にはハンカチが握られていて、奥のトイレにでも行っていたのだろう。
少し恥ずかしそうな顔で
「……じっちゃん、大丈夫かい。どれ、私が肩を持つよ」
「ありがとうございます」
ふらつくおじいさんを見たおじさんが、私の代わりにおじいさんの腕をとる。
肩を貸すように部屋へ連れて行くと、敷かれたままの布団に寝かせてくれた。
おじいさんは涙を零しながら周二の名を呼び、「すまない、すまない」と、うわごとを繰り返すように眠りについた。
おじさんは布団を掛け、私を連れて部屋から出ると、淋しそうな目で後ろを振り返った。
「――周二君、残念だったね」
「……はい」
おじさんは周二の仕事仲間で、地元では有名なベテランだ。
誰よりも仕事が丁寧で上手なため、県外から弟子になりたいと来る人もいる。
私にとっては、近所のおじさんでしかないけれど、その道ではかなりの有名人らしいのだ。
いつも笑顔で優しいおじさんは、目元を赤く腫らして窓の外を見る。
こんな日には似つかわしくない晴天で、嫌になるほど良い天気だ。
暖かい廊下で二人、窓の外を見つめながら立ち止まっていると、おじさんは小さく笑って遠くを指さした。
「見てごらん。
指の先には広い田んぼ。
久しぶりに見た稲はまだ青く、
「今年は植えるのが遅れてね。ずいぶんと周りから言われたらしいんだ。ハウスだって仕事だって、何もかもが遅れてしまってね。そのことで、ずいぶんと悩んでいたらしい」
「でも、いつもと同じに見えますけど……」
田んぼの稲は、たしかに他の稲より短いけれど、それでも生き生きとしている。
草が生えてはいるものの、悪いようには見えない。
田んぼにとって雑草は大敵で、稲の生育を遅らせるだけでなく、虫の温床になりやすい。
こまめな世話と、薬の散布で無くすことは可能らしいけれど、伸びすぎると手遅れになるらしいのだ。
「去年、お父さん達が
「そうだったん、ですか……」
周二が家を継いだのは、高校を卒業してすぐだった。
昔からやりたいと言っていたこともあって、会う度、嬉しそうに仕事の話をしていた。
けれど、ここ数年は笑顔を見ていない。
いつも疲れた顔で、気のない返事しかせず、そんな彼の様子に違和感をおぼえていた。
慣れない仕事が重なっただけで、すぐ元通りになると思ったのに、彼は何も言わず、そのまま逝ってしまった。
疲れ果てた顔で、家族も友達も、私さえも置いて、一人で先に逝ってしまったのだ。
おじさんは目元に涙を浮かべ、私を振り返った。
「
おじさんはそれだけ言うと、静かに廊下を歩き出した。
私はその背中を見つめながら、立っていた。
窓の外で稲が風になびき、自分の主人を待ちわびるかのように輝いている。
それを憎たらしく思いながら、私は家を出た。
実家までの帰り道で、ランドセルを背負った子供達が走ってくる。
手には大きな草が握られ、それを振り回しながら、最近流行りのアニメを真似ているようだ。
通り過ぎる子供達は笑い、強い日差しの下を去って行く。
ふと、耳元でかすかな笑い声が聞こえた。
「周二っ!」
勢いよく振り返るけれど、そこには誰もいない。
子供達は遠くへ行き、私だけが立っている。
視線の向こうには、周二が植えた稲が見える。
彼は足早に田んぼの中を見て、さっさと車に乗り、走り去ってしまった。
幼い頃に歩いた
田んぼの中には誰もいなくて、腰の曲がったおばあさんが一人、ゆっくりと道路を歩いているだけだ。
時代は変わった。
私の幼い頃など、とうてい
汗と共に流れ落ちた涙は、通り過ぎた笑い声をさらい、静かに道路へと落ちていく。
もはや、かつての面影はなかった。
自然の遺産 逢雲千生 @houn_itsuki
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