真昼の彗星
黒木正則上飛曹は、真夜中の下町の上空を飛んでいた。
操縦席から見える下界は燃えさかる炎。その中でいったい何人が命を落とすことになるのか。想像もつかなかった。
焼夷弾によって人為的に生じたその恐るべき大火に、銀色の爆撃機は照らし出され、仄暗い闇の空に浮いていた。
爆撃機は何機も空中にいたので、自分に気づいていないであろう機体を見つけるのは容易だった。そういった1機に、斜め後ろからそっと機を寄せていった。
『彗星』艦上爆撃機を改造した夜間戦闘機は、機長の真壁中尉と操縦の黒木上飛曹を乗せ、防御機関銃の死角となる、胴体直下に占位した。『彗星』夜戦はキャノピーの後ろ部分から、斜め上に向けて20mm機関砲が搭載されていた。厚木基地の司令がラバウルで考案した画期的な兵器、『斜銃』である。
黒木は、爆撃機のオレンジに染まった胴体を見上げ、キャノピーにつけた印が敵に重なるように操縦を微調整した。そして、斜銃を発射した。
ドンドンという重い振動とともに、20mm機関砲の弾丸は頭の上を飛び、すぐ敵の胴体に吸い込まれた。
しかし、それ以上のことは起きなかった。彼は頭を持ち上げ、改めて斜銃の照準をつけ直した。そして、もう一度発射レバーに指をかけた。
その瞬間、敵の胴体が突然落下し、『彗星』のキャノピーを押しつぶした。黒木はキャノピーの下で、自分にのしかかる重さに呻いた。
「航空神経症だね。無理はしないことだが…」
軍医は黒木の目に隈が浮いた顔を見つめそう告げた。連日眠れず、眠りについたと思えば悪夢にうなされる。一日2、3時間のそんな質の悪い睡眠が何日も続いていた。食欲もなくなり、この日もほとんど箸をつけられなかった昼飯を仲間に分け与えたところだった。
うつろな顔で下士官・兵の食堂から出てきたところを真壁中尉に見つけられ、有無を言わさず基地の軍医のところに連れてこられた。
「いえ、大したことはないです。基地では飛行機が不足していますから、搭乗割に毎日入るわけじゃありません。休める日があれば、任務のときはちゃんと飛べるはずです」
黒木は、いくらか調子が悪いからと言って、任務から外されるほどではないと軍医に説得を試みた。
「一晩で3機撃墜という殊勲を挙げた真壁ペアの操縦士だから、次も中尉を乗せて戦果を出して欲しいところなんだがな」
白衣を羽織り、白髪が混じってごま塩のように顎に浮かぶヒゲをさすりながら、軍医は話した。
「兵の健康と安全については私が責任を負わないといかん」
「どうということはないですよ。あの時みたいに注射を打ってくれればいいんです」
「あれは、『暗視ホルモン』といって、夜間の視力を確保するものだよ。こんな真昼に打つもんじゃない」
「ですが、あの後は頭が冴え渡って、自由自在に飛ぶことができました」
「なるほど…」
軍医はしばらく黙り、黒木から目をそらして何か考え事を始めた。
「昔はほうき星は不吉な出来事の兆しだと言われていた」
「なんですか? 軍医少佐どのが迷信ですか?」
ふと関係ない話が始まったため、黒木は聞き返した。
「『彗星』というのはそういう意味もあったということだ。どちらにせよ、飛行機に乗るということは不吉な予兆と付き合うことでもある。そうだろう?」
「まあ確かに、エンジンの不調には早めに対処しないと命を落としますね」
黒木は『彗星』のアツタエンジンの故障の多さを思い出しながら答えた。
「だから、飛んでいる時間はずっと、君は死に直結する兆しに注意を払いながら過ごしている。それによる緊張は、ただそこらを走ってきて疲れたというのとは違う疲れを君にもたらす。今はその疲労が、不眠や悪夢として君に訴えかけてきているということだ」
「疲れて…、いるんですか?」
「この戦局だ、搭乗員は全員疲れている。中でも君は、『神経症』と診断を出してもいいくらいに疲れている」
「でも自分はまだ戦えます」
「今日は睡眠薬を処方しよう。何日か夜間の搭乗割から外してもらい、薬を飲んでぐっすり眠るようにしなさい」
「睡眠薬ですか」
「それでも眠れないようならまた来なさい」
「はあ…」
「上飛曹どの、起きてください」
黒木は軍医の指示通りに睡眠薬を飲み、宿舎で床について、そのすぐ後に当番兵に揺り起こされた。
「なんだ、まだ夜中だぞ」
「何を言ってるんですか。もう昼近いですよ」
「!」
窓の外は完全に昼間だった。黒騎は慌てて着替え、ピストに向かった。
「よく眠れたか?!」
真壁中尉は笑いながら黒木を見て聞いた。
「は! 泥のように眠りました」
「結構! 伊豆半島沖を敵爆撃機が北上中だ。既に君は搭乗割に入っている」
「出撃でありますか?」
「また俺とペアだ。たのむぞ!」
『彗星』夜戦は真壁中尉の指揮のもと、稼働全機が厚木基地を離陸した。
4月の初旬。からっ風は吹かなくなり、いくらか霞がかかった地面の上を、6機の『彗星』が編隊とも呼べないような距離が空いたグループで南に飛んだ。相模湾の上空、4,000メートルに、敵の銀色の機体にキラキラと太陽の光が反射するのを黒木は認めた。
「敵を視認しました」
「最初の梯団だ。ざっと見ても100機に近いな」
「ええ」
「同高度に上がり、下に潜り込む」
「了解です……」
「どうした?」
機長への返答の半ばに、黒木はB-29のさらに上空を注視した。
「あれは陸さんですかね? 敵の上空にたくさんいます」
「陸軍か…」
「銀色で機首が尖ってます。陸軍の『キ61』ですよ。ずいぶん早く接敵したもんですね」
「待て! あれは敵の戦闘機だ!」
真壁中尉は叫んだ。
「爆撃機と同じ星マークだ!」
「!」
敵と分かるのがいささか手遅れだった。黒木の機体がB-29に到達するよりだいぶ前に、『彗星』に気づいた敵は主翼を傾けて襲いかかってきた。
黒木は『彗星』を手荒く横転させ、次いで降下に入れた。機体の右横を曳光弾が飛び去っていった。
「一撃は回避できたな」
「はい、どうにか」
「このまま降下に入れろ」
「はっ!」
黒木は降下の姿勢を保って、相模湾の海面を目指して急降下を始めた。
「まだだ、これは45度だ。もっと深くしろ」
「深くします…」
「60度か、いいだろう。ダイブブレーキを開け」
「ダイブブレーキ開きます」
黒木は、フィリピンから本土に戻って以来、久しぶりに『彗星』のダイブブレーキを操作した。操縦席からは見えないが、主翼の下、フラップの手前でブレーキが開き、重力に引かれて加速を続けていた機体にぐぐっと減速がかかった。
「よし! このまま降下だ。引き起こしは任せる」
「ハイ!」
そう応えた黒木の頭上を曳光弾が飛び、銀色の戦闘機が追い越して飛び去った。
尖った機首と四角い翼。スマートな単発機だった。
「単発機か。硫黄島からまさか単発機が飛んでくるとはな」
「硫黄島からですか?」
「ああ。『ペロ八』(P-38のこと)ならあり得ると思ったが、単発機だった」
「そんな戦闘機があったとは…」
「零戦が敵さんからは同じように言われたはずだ」
その後も黒木の機体の周囲を2,3回曳光弾が飛んだ。しかし、高速で降下を続ける『彗星』に有効な射撃を行える戦闘機はなかった。
「引き起こします」
「ヨーソロー」
海面との距離を見極め、黒木は操縦桿をぐっと引いた。艦爆乗りだった頃を思い出しながら、遠心力で視界を失わないよう注意しつつ、水平飛行に移っていった。
「いい引き起こしだ!」
真壁中尉が、海面ギリギリの高度で水平飛行に戻った機体の操縦に対しそう評した。
「このまま低空飛行で逃げるぞ! 見張りは任せろ、操縦に専念して、海に突っ込むなよ!」
「了解です!」
エンジンを全開にし、波頭をかすめて、『彗星』夜戦は相模湾を北上した。
そうやって命からがら基地に戻ると、他に戻ってきた『彗星』はなかった。
【参考資料】
渡辺洋二:「最強の防空部隊・三〇二空」,『重い飛行機雲』(文春文庫).
青春の翼、青春の弾丸 春沢P @glemaker
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