サンダルでダッシュ!
新巻へもん
走れリキウス
リキウスはぶるっと体を震わせると宿営地の外を眺めやる。晩秋の野に故郷では見たことのない鳥が舞い降りたところだった。時折雪も降る季節だったが、今日は薄曇りの中に鈍く光る太陽が僅かに顔をのぞかせている。しかし、光は力弱く体で温もりを感じるほどではない。
ため息と共にリキウスは故郷の強烈な太陽を思い出し懐かしんだ。さんさんと光が降り注ぎ、中庭の噴水からでる水がその光を反射する。その光景を眺めながら適度に薄めた葡萄酒を片手に詩作にふける。あの平和な日常が懐かしかった。そして瞼に映し出されるルクレティアの容貌がさらに胸を締め上げる。
他人より華奢な体つきで荒事に向かないリキウスが遠いガリアの地で軍務に従事しているのもすべてはルクレティアのせいだった。リキウスの情熱的な愛の言葉に対して彼女は承諾を与えながらも一つの条件を出した。彼女の敬愛する兄であるガイウスと共にローマ市民としての務めを立派に果たすこと。
かくして、ローマ市民たるリキウスとしてはペンを剣に持ち変えて、はるばる北の果てで蛮族相手に大立ち回りを演じることになったのだった。生来の頭の良さと好奇心の強さで異民族の言葉を不自由なく操ることができることは重宝されたが、戦いになれば歯を打ち鳴らし膝が震えるのを押さえるので精いっぱいだった。
そんなリキウスと正反対なのが将来の義理の兄であるガイウスだ。ローマ軍団の中枢を担う百人隊長を務めるほどの剛の者。グラディウスの扱いにかけては軍団一との呼び声も高い。それにもかかわらず軟弱なリキウスのことを何かと目にかけてくれている。
「ルクレティアに頼まれた以上、お前を無事にローマに返さなければアイツが口もきいてくれなくなるだろうからな」
豪快に笑いながら力強い手でリキウスの肩をバンバンと叩く。少しでも1人前の戦士になれるように忙しい軍務の合間に剣の訓練の相手もしてくれるし、戦いともなれば側においていた。
ガイウスがいなかったら、とっくの昔にリキウスは異国の土くれとなっていただろう。総司令官は天才的な指揮能力の持ち主だったが、戦いである以上はこちらに損害がないということはあり得ない。同僚に死者やけが人が出る中でリキウスは奇跡的に五体満足なまま異郷で最後の冬を迎えようとしていた。
春になれば故郷に帰ることができる。そして、愛しいルクレティアと結婚することができるのだ。その日を指折り数えるリキウスだが、愛の神ウェヌスは容易に恋の成就を認めないかのようだった。斥候に出た騎兵がガリア兵の大軍に遭遇し野営地に退却してくる。それと同時に激しい戦闘が始まった。
その日の攻撃は蟻のように群がってくる力押しだったので容易に撃退できる。しかし、翌日からローマ人の真似をして攻城兵器を作りだした敵兵の姿を見て陣営内は暗い雰囲気に包まれた。敵は5万以上。こちらはわずか15個大隊9000弱。彼我の戦力差は明らかなうえ、軍団長は病弱で部下の信望も今一つだった。
包囲が始まり不安に苛まれながら交代で休憩を取っていたリキウスが軍団長の天幕に呼び出される。右手を高く上げて軍団長へ敬礼をすると、キケロは軽く手を挙げて応えた。何事かと身構えるリキウスにキケロは重大な任務を託す。
「アミアンに駐留する総司令官に危急を告げ援軍を依頼せよ」
リキウスは仰天する。アミアンは
「この軍団の一番の勇士でもこの重囲を切り抜けることは無理だろう」
ガイウスにキケロは目をやる。ガイウスは軽く頭を下げて同意を示した。
「だが、あなたはこの地の言葉を自在に操れるし、彼らの衣装を着てもそれほど違和感はない。我々が生き延びられるかどうかはリキウス、君次第だ」
軍団長の命令とあれば抗しがたくリキウスは情けない思いをしながら、ズボンをはきガリア人の奴隷の姿に身をやつした。ガイウスが自分の物から外した革ひもでリキウスの
「これで俺はいつでもお前とともにある。頼んだぞ」
準備を終えるとキケロがやってきて手ずから小さく折りたたんだパピルスを渡す。蝋で封をしてあり、指輪の印が押されていた。
「もうすぐ宿営地の反対側で陽動のために戦端を開く。その騒ぎに紛れて行くのだ」
覚悟を決めてリキウスは頷く。
防壁から垂らされた綱をつたい地面に降り立ったリキウスは逆茂木や落とし穴を慎重に避けながらゆっくりと進む。柵を乗り越えたところでもう一度カリガの状態を確認した。身に寸鉄も帯びず、まだその道のりは遠い。頼れるのは己の足と機智のみしかない。
宿営地を離れてすぐに試練はやってくる。鋭い誰何の叫びと共に重い蹄の音が響き始めた。リキウスはダっと駆け出す。幸いに沼沢も多く、木々が密生する場所もある土地柄だ。必ずしも騎馬の方が早いとは限らない。愛する人の元に必ず帰る。その思いを胸にリキウスは膝を上げ、腕を大きく振って猛然と闇の中を駆けて行くのだった。
サンダルでダッシュ! 新巻へもん @shakesama
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