最終話


「うーん……」



 ……暑い。

 鳥の声が聴こえる。瞼の裏が眩しい。ぼくは目を覚まし、思いっ切り伸びをする。

 そして体を起こし、散乱した自分の部屋を見渡す。



「ふあ……ああー……」



 大きくあくびをした後、ぼくは枕元に置いてあるスマホに目をやった。7月30日、午前10時33分。カーテンを開けると、眩しい夏の陽射しが部屋を明るくした。セミの声が、やかましく庭に響いている。



 ♢



 ぼくは部屋着のまま、誰もいない薄暗い台所のドアを開けた。母は朝早くに仕事に行くので、いつもぼくは好きな時間に起きて、大学、もしくはバイトに出かける。そんなぼくの生活態度を母は時々、「お気楽でいいね」と皮肉るのだ。もう慣れてしまったけれど。

 テーブルには、いつも通り菓子パンが2つ、皿の上に置かれていた。ぼくはそれをいつもの癖でガバガバっと食べそうになり、ハッとして手を止めた。



「いただきます……」



 ぼくは台所の灯りを点けてから椅子に座り、心を落ち着かせる。そしてパンを手に取って口に運び、ゆっくりとよく噛んで味わってみた。

 ……美味しい。



「ごちそうさまでした」



 ぼくはゆっくりと皿を洗った後、スケジュールアプリを起動した。……やばいぞ! 今日の午前10時半から、大学で学園祭の打ち合わせがあるじゃないか! 今は午前10時55分。完全に遅刻決定。


 

「や、やべー‼︎ あの谷ノゾミにどやされる……!」



 打ち合わせの時間は、14時までだ。大学へは1時間弱で着くので、今から行けばまだ間に合う。



『すみません、今起きたので12時くらいに着きます……ほんとにごめんなさいm(._.)m』



 ぼくは、学園祭のLINEグループにそう送り、溜め息を一つついた。はあ、ぼくはつくづくダメな奴だ……そう思いかけたところで、またハッと気付き、首を横に振った。



「まあ、いっか。次、気をつければ、ね」



 あえてそう口に出し、ぼくはニコッと笑ってみせた。そうすると不思議と、気持ちがすうっと楽になった。



 ♢


 

 戸締りを確認し、外に出てみた。激しく行き交う車。バスを逃す近所の主婦。いつもの朝よりも、少し騒がしく感じた。それでも上を見上げると、青く青く澄んだ空に、白い雲がゆっくりと流れていた。



 ピロンッ!



 LINEの通知音。すぐにLINEを開く。ぼくは青ざめた。谷ノゾミからの返信だったからだ。



『私も今起きたーー! ほっっとに申し訳ない‼︎ 先に行って、仕切ってて下さい……。゚(゚´Д`゚)゚。』



 ……あの谷さんが寝坊だなんて、珍しい。ぼくはホッと胸をなで下ろし、ゆっくりと大学へと向かうことにした。


 空を見上げながらのんびりと歩いていると、バッグの中で何かがカラカラと音を立てているのに気付いた。松ぼっくりでも入ってるのだろうか。そんな物を入れた覚えはないのだが。ぼくはバッグのファスナーを開けてみた。



「……あ! これは……」



 これは。サネカズラの実。——ナッちゃんがくれた、サネカズラの実だ。9匹のねずみたちの笑顔が、浮かんでくる。

 絵本の中のねずみの世界に迷い込んだのは、たった一晩のうちに見た夢にすぎないと、そう思っていたが、それは真実ではなかった。ぼくは、本当にねずみたちと会い、遊び、友達になったのだ。ぼくの手の上に確かにある、真っ赤なサネカズラの実が、何よりもそれを物語っている。



「お兄ちゃーん! まてー!」


「へへっ、こっちまでおーいで!」



 公園で幼い男の子と女の子が遊んでいる。その無邪気で屈託のない笑顔を、ぼくはずっと忘れずに生きていきたい。どんなに現実が厳しくとも、いつもと変わらない退屈な日々でも、明るく楽しく暮らしていく。そう心に決めたのだ。





「お帰り。今日はちゃんと帰る時間を連絡してくれたので助かりました。その手に持ってる資料は、何?」


「将来のこと、ちゃんと考えようと思ったから。とりあえず講義はしっかり出て、音楽系の会社への就職を検討するよ。学費もちゃんと返すから。これから、計画を立てるつもりなんだ」


「あらあら、そりゃ結構なこと。今夜は雨かしらね」



 母は相変わらず皮肉るのが好きだが、今のぼくはそんなことは気にもならない。母にゴチャゴチャ言われないためでもなく、他の誰かのためでもなく、自分自身のために……自分自身の人生をしっかり楽しんで生きるために、目の前のこと一つ一つに向き合うのだ。



「でも今日は、もうシャワー浴びて寝るわ」


「なあんだ。すぐに計画を立て始めるのかと思ったら、やっぱり明日に回すのね。大事なこと面倒なことは後回し。いつもと変わらないね。これじゃ、君がまともな社会人になるのはいつのことやら」



 ぼくは手短にシャワーを浴びて部屋着に着替え、布団にダイブした。……目の前にある本棚の中の一冊の絵本の表紙に、1匹のねずみの子供の絵が描かれている。表紙に描かれた、青いキャップをかぶったねずみの男の子が、無邪気な笑顔でこちらを見ている。



「……チップくん」



 それは、小さな小さなねずみの家族の、自然いっぱいの森の中での生活の様子が描かれた絵本だ。ぼくはそれを手に取り、そっと開いてみた。……9匹のねずみの家族が力を合わせて生活を築いていくさまが、優しいタッチで描かれている。


 ぼくはふと思い立って、筆箱からボールペンを取り出した。そして、9匹が楽しげにピクニックに出かける場面に、ぼく自身の姿を、ボールペンでそっと描き足した。



「これで、これからはいつでも会えるね」



 絵の中の、青い帽子をかぶったねずみの少年が、嬉しそうに笑った気がした。



(おしまい)



————————


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【完結】優しい異世界に行った話〜ねずみたちとの、まったりスローライフ〜 戸田 猫丸 @nekonekoneko777

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