ある一夜の邂逅

友幸友幸

第1話 ある一夜の邂逅



 夜空に、一筋の光が流れた。


「あっ。いま、流れたよ」

 イアンは、好奇心に潤んだ大きな瞳を、父に向ける。


「何を願ったんだい」応える声は、低いが、おおらかな包容に満ちている。

「光ってる間に三回唱えないと、叶わないんだぞ」


「速すぎてむりだよ」


 子供部屋のベッドに腰かける父子の前には、窓枠に切り取られた、ほとんど光のない夜が広がっている。イアン_________まだ小学校に上がらない年の、ブロンドの髪の少年は、目の前に広がる、果てのない宵空を眺めているうちに、不思議な興味が湧いてきた。


「ねえパパ。宇宙にも、人がいるの?」


「さあ、分からないな。でも残念ながら、今のところ僕たちは、僕たち以外の誰とも会えていないんだ」


「いつかは会える?」問いかける眼差しには、一点一画の曇りもない。


「ああ。きっとね」


 やがて大きな手が、ベッドサイドランプに伸びる。


「さ、もう寝なさい」


 父は、灯りを消し、「おやすみ」と残して、イアンの額に口づけし、部屋を後にした。


一人取り残された部屋の中でも、幼心に渦巻く興奮は、しばらく抑えることはできなかった。








ベッドに潜ってからも、瞼の内側には、まだ見ぬ宇宙が広がっていた。心だけが浮遊して、宇宙空間をたゆたい、ひとつひとつの星を旅して回る自分.....。


宇宙の住人は、どこにいるのかな。手の届かないくらい、ずっとずっと遠い星かな。それとも案外、近くで暮らしてたりするのかな。このまぶしい星かな。それとも向こうの、綺麗な星かな。


いつ会えるんだろう。ずっとずっと先かな。それともひょっとして、明日かな。ぼくが大人になる頃には、友達になれていたらいいな......。


未知への展望に満ちた、極彩色の未来を描いているうちに、イアンはいつの間にか、寝息を立ててしまっていた。








突如、まばゆい光が窓から注ぎ、夢の世界を破った。


目をこすりながら、気だるげに身を起こす。頭はまだ、夢と現実の狭間をさまよっている。寝ぼけ眼を窓にやると、森の奥あたりが、何やら眩しく輝いているのが分かった。


太陽だろうか、と思ったが、しだいに明瞭さを取り戻してきた意識が、即座に疑問を否定した。朝ではない。今はまだ、どう考えても夜中だ。


太陽でないならば、あの光は一体なんだろう?


気付けばイアンは、玄関を出ていた。こんな沈むような深夜に、勝手に外に出てしまっては、こっぴどい叱りを受けるだろう。両親の心配げな表情が、よぎらない訳ではなかった。しかし、自分をいざない寄せる何か、未知のものへの好奇心は、まだ未熟な自制心に勝って、イアンの足を不思議にも引き寄せていた。


足が雑草に擦れる音だけが、星あかりの乏しい、静かな宵にこだまする。未発達の体幹の、頼りなげな足取りは、しだいに光量を落としつつある森の奥へと、草の根をかき分けていった。


ようやく光源近くまでやってきたとき、すでに光は落ち着いていた。


細めた目でまず見えたものは、銀色の卵のような、大きな物体だった。まるで、何かの乗り物のようにも見えた。いくつもの細い脚が地面に突き立ち、巨体を支えている。


物体の傍らに、宇宙飛行士じみた背中が動いている。


「おじさん、誰?」


 分厚く、白いスーツに包まれた背中が、ゆっくりと振り返る。頭部のヘルメットは黒光りしており、その容貌は窺えない。


「ごめんよ、少年。起こしちゃったかい?」

声はくぐもっていた。


「ここで何してるの」


 宇宙服の誰かは、だぶついた手を顎にやり、


「そうだなあ。旅の休憩、かな」


 ヘルメットの下が、何かを懐かしむような、哀しむような_________そんな表情を浮かべた気が、イアンには確かにした。途方もなく長い旅を終えた果ての、高揚とも達成感とも違う、ある種の哀感のような。


「いいや。もう旅は終わったのかも」


言い終わった後、消えてしまいそうな声量で付け足した言葉を、イアンは聞き逃さなかった。


「こんな所にいたんだね.....」


その意味は、分かるはずもなかったが。


遠くの夜空を見つめるその横顔に、イアンは、先程からわだかまっていた疑問を単刀直入に投げかける。


「おじさんは宇宙人?」


返答があったのは、少しの間を置いてからだった。


「夜風が気持ちいいね。少し歩かないか?」








「君は驚かないんだね。宇宙人と会った時は、普通、腰を抜かすもんだよ」


「ぼくもそう思ってた。でもなんだか、拍子抜けした感じ」


 翳りのない静謐な夜の下、森を抜けた先の草原で、二人分の足音が重なる。足元も不明瞭で、互いの顔も判然としないくらい、昏く_________しかし静かな夜だった。


「ぼくらを侵略しにきたの?」


 おずおずと尋ねると、ヘルメットの下から、笑い声がした。


「そうだったら、どうするね?」


「こんなところより、もっといい星があるよ」


「そんなことはないさ。科学力はなさそうだけど、長閑で美しい星だ。もし本当に侵略だったら、真っ先にここを狙いにするだろうね」


 イアンはふと、先ほどの会話を思い出した。


「さっき、旅って」


「うん?」


「なんの旅?」


「うーん」返答に窮すというよりは、適切な言葉を探しているといった風だった。

「欲しいものを求める旅かな」


「宇宙人にも欲しいものがあるの」


「ああ。気になるかい?」


 少年が頷く。


倒れている朽ち木に、宇宙服がゆっくり腰を下ろすと、小さな体も隣に座った。


「ずっとずっと昔のことだよ」


人間と何も変わらない声が、夜虫たちの鳴き声とともに、静まり返った草原を渡っていく。


「僕たちの文明は、とても豊かだった。テクノロジーの力で、求めるものは何でも手中に収まったんだよ。富と充足と、豊穣の時代。不足、困窮......そんなものとは、どこまでも無縁だった。幸せな時代だったと思う。何も大げさじゃなく、一人一人が、心身から幸福を感じていた」


 イアンは黙っていた。


「でも、それでもたった一つだけ、どうしても手に入らないものがあったんだ。欲しくて欲しくて堪らないのに、どれだけ文明が進んでも得られなかったもの」


 少しの間があった。


「友達だよ」


「友達?」


 その意味は、5歳の少年には、見当もつかなかった。


「不思議な話だった。人口は何百億といたのに、ある日僕らは突然、寂しくてたまらなくなったんだよ。僕らがちょうど、今のこの星くらいの文明だった時は、いつか宇宙の隣人と出会える日が来るに違いないと、誰もが目を輝かせていた。まだ見ぬお隣さんにいつか届く日を夢見て、はるかな遠方に通信を打ったりもした。誰もが未来に、ロマンを見ていたんだよ。僕らは待った。気付けば何千年、何万年.......」


 そこで一度、語りは止み、数瞬ののちに再開された。


「でも、いつまで経っても、ちっとも返事は返ってこなかった。まるで永遠みたいに静かだった。呆れるくらい広い宇宙に、小石の音ひとつ聞こえやしなかったんだ。もしかして、と誰かが思った。自分たちは、この哀しいくらい広い広い世界に、独りぼっちなんじゃないか、と」


 樹間を渡ってやって来た風が、柔らかく草原をそよがせた。


「それを自覚したとき、誰も経験したことのない程の、絶大な寂しさが雪崩れ込んできた。誰も知らなかったんだよ。集団としての孤独が、個人としての孤独とは比較しようもないくらい、想像を絶して空虚だったことを。隣人を求めていた理由は好奇心なんかじゃなく、きっと初めから、寂しさだったんだ」


 彼の話を、すべて理解することはできなかったが、なぜか、寂しくて泣いている子供の姿が、頭に浮かんできた。


「ある日僕たちは、返事を待つのをやめた。ならばこっちから迎えに行ってやろうと、全員総出で故郷を飛び出したんだ。この惑星はどうだ。あちらの恒星系はどうだってね。たった一つの惑星も見逃さなかった。砂利のひとかけらや、大海のひとすくいにだって生命の痕跡を精査した。毛の一本も見逃すなという必死さだった。一度素通りした場所でも、改めて、念入りにほじくり返したよ。まるで、親を求めて泣き叫ぶ赤ん坊みたいだった」


 宇宙服が、思い出したように、こちらを向く。


「いや、ごめん。君には分からないかも知れないね」


「よくわかんないよ」

イアンは、宙を見つめている。

「でもおじさんたちが、寂しがり屋だってことはわかる。ぼくも、パパやママが家にいないとき、世界に一人だけみたいな感じがするから」


 宇宙服が、少し喜色を浮かべ、ふたたび口火を切る。


「そうして何千億の星を探して回っただろう。形容できないくらいの年月が流れて、ようやく気付いた。その銀河に仲間はいなかった、という事実にね。それでも僕らは諦めなかった。今度は隣の銀河に対象を変えたんだ。ふたたび年月が過ぎ、そこにも糸口がないと分かったら、また次の銀河に。やがて全てを掘り終えても、次は近隣の銀河群、銀河団へと.......。気付けば数億年.....。根を掘り、葉を掘り果てても、生命の気配すら見つからなかった」


「でも今、会えたよ」

幼い瞳が、隣を見上げて、笑う。

「これからは友達だよね」


 だが宇宙服は、どことなく哀愁を感じさせる様子で、かぶりを振った。


イアンは、困ったように、小さく問う。


「なんで?」


「僕らはもう、長くないんだよ」


 強い風が、樹々をざわめかせた。


「誰かを探すことに躍起になりすぎて、故郷はずっと昔に塵になってしまったし、宇宙中に散らばった仲間も、もう数えるほどしかいない。隣人の温もりで癒されるには、僕らは老い過ぎちゃったみたいだ」


 何も言えなかった。


やがて宇宙服が立ち上がり、前へと歩み出た。


その背中が、不思議なくらい小さく見える。


「でも最後に、君たちに会えてよかった」


宇宙服は、背中越しに言い残し、森へと歩み始めた。


遠ざかっていく背中に、何かを言わなければならない気がした。


「どんな所だったの。おじさんの故郷は」


出たのは、そんな言葉だった。


宇宙服は足を止め、ゆっくりと振り返っていた。


「僕自身は、実際に見たことがない。けれど名前だけは、はっきり伝わっているよ。地球という、とても美しく、青い星だ」


 イアンは遥かな遠方に、思いを馳せた。


地球......。それは一体、どのような星だったのだろう。ぼくらと同じように夜空を仰いでは、輝きに溢れた未来を想像していた人々........。ぼくらもいつか彼らのように、どうしようもなく寂しくなる時が来るのだろうか。


宇宙服は、天を見つめながら、呟く。


「ここの夜は随分、暗いんだね」


「え?」


 突然の言葉に、イアンは、不意を突かれたように立ちすくむ。


「夜は暗いものだよ」


「もちろん、そうさ。でも、この星は特に」


「そうなの?」


「ここから見える天体は、とっても少ないみたいだ。こう言っちゃなんだが、宇宙の辺境の、そのまた端っこの惑星だからね」


 そう答える目は、夜空よりも、もっともっと遥かな場所を遠望しているようだった。


「地球から見える星空は、もっと明るかったみたいだよ。幾億もの光がせせらぎのように流れて、それはもう言葉を失くすほど綺麗で........天の川と言ってね。それに、月っていうものが、お天道様の代わりに夜を照らしていた」


 天の川.......月......。


天上の濃紺を、見上げる。そこには、消えてしまいそうなほど小さな光が、いくつか瞬くばかりだ。夜を照らすほどの星々など、イアンには想像もつくはずがなかった。


「ねえ、おじさん」


 最後に一つだけ、知りたいことがあった。


「ぼくたちも、ずっと一人なのかな」


 ヘルメットの奥が、ほほ笑んだ気がした。


宇宙服は、ゆっくりとこちらに歩み寄り、イアンの前で立ち止まった。


「きっといつか、誰かに会える日が来るさ」


大きな手を、ぽんと頭に乗せる。


「独りぼっちの思いをするのは、僕たち老人だけで十分だ。若い君たちは、この広い宇宙に夢を見続けることを、絶やしてはならないんだよ」


ごわごわして、重くて、けれど確かな温もりのある手が、離れた。


ふたたび背中が踵を返し、一歩また一歩と、イアンから遠ざかっていく。


白い背中は、森の奥へと入って、やがて見えなくなっていった。








部屋に帰ったあとも、イアンは窓から、夜空を見つめていた。濃紺の夜空には、針先で開けたような頼りない光が、かすかに点在するだけだ。


その中に一つだけ、さっきまではなかった光点がある。


光はどこまでも、天を目指して昇っていく。


それが次第に薄れて、夜に溶けていくまで、イアンは、いつまでも光を追い続けていた。

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