明治41年の徳島県の真揚心流柔術・伊藤米蔵の道場。
国会図書館デジタルで検索するのは、今や日課になって久しい奇水です。
本当にこれのおかげで、調べごとがかなり捗るようになりました。
当然、何もかもがでてくるというわけではありませんし、私の使い方が悪いのか、辿り着けなくて、町田さんなどの相互フォロワーの方の手助けを借り、ようやく探し当てるとができた……ということも未だ多いです。
地方住まいで車もなく、歩くのもしんどい状況なので、これによって本当に救われている状態です。
それでまあ、先日に『徳島県柔道の変遷 : 研究と体験』というテキストを見つけて、こんな記事を見つけました。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2486576/1/6?keyword=%E4%BC%8A%E8%97%A4%E7%B1%B3%E8%94%B5%E3%80%80%E7%9C%9F%E6%8F%9A%E5%BF%83%E6%B5%81
大雑把に要約すると、明治41年に真揚心流の伊藤米蔵師の道場に入門した人の体験談で、さほど長くもなく、さくっと読めます。
しかしその内容はなかなかに興味深いものです。
まず道場について
「広さは十二畳一間で正面に神様を祀り道場の中はぐるりと注連縄を張り廻わし、一個のランプを取り付けてあって薄暗かった」
地方の柔術道場の内部の様子、あんまり見た記憶がないので参考になります。というか、道場内部を注連縄を張り廻わし……というのは、この手の風俗には今まで資料を見たことがないので、なかなかに新鮮です。
道場は元々寺院などの修行者を指していたそうですから、このように結界されていたとしても不思議ではなく――いや、解んないですが。
その後で道場のディテールが続くのですが、そこらはURL先のテキストを見ていただくとして。
「その頃のけいこ衣は今日のように柔道衣商(※原文ママ)がなかったので手ざしといって、自分の家で木綿をさしてこしらえたものであった。」
今のような柔道着は明治の頃にはまだなかった、という話は『月刊秘伝』の記事などで読んだ記憶があります。
記事はさらに続き、
「上衣は袖が上腕の中程ぐらいの短いもので、でんちゅうにちょっと袖がついてくらいであった。えりはかたいのがしめぬくいといっておった。ずぼんも太腿部の中程くらいの短いもので、ひざがでてさるまたをちょっと長くしたくらいであった。帯は木綿二廻であった」
どういう衣装で稽古していたかが描かれています。
それにしても、今の柔道着とはかなり違う様子であったようで、半袖半ズボンというのは、今の柔道のような組手や投げ技は使いにくかった環境であったことは、想像に難くないです。
このような感じの半袖半ズボンの衣装での稽古というのも、過去に何かの記事やらで見た記憶がありますが。
少し飛ばして、稽古の様子を読んでみます。
「最初は受け身のけいこで手を畳にさついて体を左右にかやして畳をたたく、この受け身をやんましくいったもので、これが十分にできたと認めてからでないとかたちなどは教えてくれなかった。受け身のけいこに相当長いことかかりこれだけでやめる者がそうとうあった。」
受け身はとにかく需要だ、というのは私も柔道の経験があるので解ります。
柔道教室の先生は最初に受け身の重要性を教え、これがまともにできるとみなされるまでは、乱取りはさせてくれなかった記憶があります。
とは言っても、ここに書かれているほどのものではなかったと思います。
せいぜい、最初の三、四回だったような……?
受け身のような基本的、基礎的な稽古は昔は徹底的にされた、今は生徒がすぐやめてしまうので、どんどん少なくなっていった――みたいな話は、昔からまま聞くことであり、剣道などの他の武道でも聞きます。
昔は切り返しを徹底的にしたのに、今は……昔は基本功を徹底して(以下略
野球のキャッチボールなどもそうですが、基礎的なトレーニングというのは、大切だということは解っていても、つまらなくてとてもやってられないものなのでしょう。いつの時代も聞く話で、明治時代もそうだったということですね。
「次は
ここらから柔術っぽい稽古になってきましたね。
残念ながら、私は柔術の稽古についての基礎的な知識がないので、このあたりだけでは、これが特殊なものであったのか、平均的なものであったのかは判断はできませんが。
「居捕の次は立ち技で、これも種類が多くあった。それからそれを応用した乱捕といった順序であった。今日は立ち技が多いが、昔は寝技、しめ、関節技が多かった。昔は技に表と裏があって表技をかけるとそれを抜く裏技があって技の種類が二倍になっていた」
せっかくなのですから、もっと具体的に書いていてほしかったところですが、これ自体が古い思い出話ですし、この稽古のくだり、武器についてなどに触れた後に、こんな文章が差し挟まれます。
「私が入門して一か年経過した頃に、いなかにも「柔道」と呼ぶようになり、けいこ衣も徳島に売り出され今日の柔道衣にかわった」
◆ ◆ ◆
私が昔少年柔道教室に通っていた頃、そこで一番の年長だった先生に「柔術」のことを聞いたことがあります。
先生は「柔道の昔の呼び名」と、さらっと述べられたように記憶しています。
私もそれ以上は聞きませんでしたし、先生もそれ以上のことは語られませんでした。
その先生が、実は地元のある柔術流派の免許皆伝であったというのは、それから三十年以上たって知りました。
それがこの真揚心流であった――というのなら綺麗につながるのですが、残念ながら、そこまで都合よい話もありません。
徳島は近世まで多くの流派があり、前近代の、明治大正、もしかしたら昭和平成の頃くらいまでは、その経験者、免許皆伝のひとたちは存命されていたようです。
今となっては、さすがにいないとは思いますけど、探したら、もしかしたら戦後になって学んだ経験があるひとが、何処かに残っているかもしれません。
当時の徳島県の柔術流派を列挙すると、
天神真楊流
柴真楊流
気楽流
真楊心流
玉心流
一天藤本流
関口流
不動真徳流
竹内流
良移心当流
南波一甫流
尾滝流
大東流
神道六合流
関口宮田流
これらの流派は、残念ながら先述したように徳島には残っていません。
大東流……は、今も同名の流派がありますが、こちらは同名異流です。
上の中に名前は載っていませんが、相心流などにも柔術があって大阪に遠征していた人物の逸話がありますし、一天宗心流、柳生一天流というような、恐らくは短期間でなくなったような流派もあったようです。
記録に名前も残っていない流派もあったでしょうし、それらを考え合わせると、当時の徳島県はかなり柔術が盛んな土地であったことは間違いないでしょう。
しかし、重ね重ね述べますが、それらは現在一つも残っていません。
◆ ◆ ◆
「柔術は柔道の昔の呼び名」
とは、先にも書きましたが私が昔習っていた柔道教室の先生の言葉でしたけども、この本の著者の述べるところによれば、「私が入門して一か年経過した頃」――恐らく、明治42年か43年、柔術は柔道と徳島で呼び名を変えています。
けいこ衣も一新されました、
「柔術時代資格が三段階で切紙、目録、免許であったため力の差位が多く試合の際には組み合わせが容易ではなく先生たちも困っていた。
私が出陣するようになって級外、五級乙甲、四級乙甲、三級乙甲、二級乙甲、一級乙甲、初段というような階級ができ、帯で色別するようになった。選外乙甲が白帯、四級三級が青帯、二級一級が茶帯で、有段者は黒帯となって、組み合わせも容易になった」
これは乙甲と色帯に黄色がないなどを除けば、昭和平成の柔道と同様のシステムです。
続けて「数年して乙甲は廃止せられた」ともありますから、大正元年には、今の柔道にますます近づいていたようです。
ずっと飛んで、
「明治32年頃と言われているが、東京講道館の肝付宗次先生が武者修行のために徳島に来られ徳島に初めて正しき講道館柔道を伝えた」
この記事を書いた方が入門する、さらに十年近く前のことです。
◆ ◆ ◆
肝付宗次という人物については、今日ではあまり知られていません。
大東流の半田弥太郎より大東流柔術(関口流系)を学び、後に講道館に入門して嘉納治五郎の付き人になって、嘉納治五郎の熊本赴任にも同行した……という人物で、リンク先の記事によれば、寝技の名人として講道館柔道の猛者たちを苦しめた田邊又右衛門を、油断していたとはいえ一敗地に見えさせたとのこと。
https://archive.is/yso2h
もっとも、この記事を紹介されていた方によれば、このエピソードは見つからなかったとの話で、
https://www7a.biglobe.ne.jp/~wwd/PW140216/
それほどの人が、明治32年に徳島にやってきました。
『徳島県柔道の変遷 : 研究と体験』にはこの時の様子が書かれいますが、以下に書き出してみます。
「明治32年の頃、四国路に武者修行に来られ、徳島に立ち寄られ。徳島の町道場の猛者たちはこの肝付先生に稽古を乞うこととなった。各道場の屈指の技に熟した人たちであったが、さて稽古となると問題にならずまるで子ども同様に投げ飛ばされ如何ともできず師の技に打驚くばかりで柔術と柔道の差異を痛感したという」
講道館黎明期、柔術諸流が勝負に負けて駆逐された――というのはよく聞くところですが、そのまんまというエピソードが、まさか徳島県にあろうとは……。
このときの様子は県下の柔術家たちにとっては相当に衝撃だったようで、徳島北東部の撫養にまで聞こえるほどだったようです。
「数日の後肝付先生は撫養へ来られ真揚心流の伊藤道場と天神真楊流加盟道場が一丸となって稽古を乞うた…」
ここで、ようやく伊藤道場が登場します。
寝技を中心に稽古をしていた伊藤道場は、果たしてどのように肝付宗次に対峙したのでしょうか?
「…徳島より聞こえてきたとおり立てば投げ飛ばされ寝ても如何ともできず田舎の柔術と柔道の差位を感じさせられ先生の微妙な技に感心するとともに永年柔術を修行したがその未熟さをいたく感じさせられたといわれていた」
内容には関係ないですけど、句読点が少なくて、なんだか読み難いですね。
原文ママなので仕方ないです。
とにかく、結果は他の道場同様、撫養町の二つの道場はあえなく敗北させられてしまったようです。
「この時代の柔術は主として寝技を用いられ勝負においても立ち技は少なかった。ただ柔術が柔道より弱いというわけではなく肝付先生は技の理を研究せられ立派な奥儀を究め自得せられていたもので観るものもその技に感心させられたといわれ明治の晩年まで老人の話題となって残っていたものである」
柔術の寝技については、正直解りかねます。
ただ、徳島県の隣県である香川の柔道は寝技が強かったという話があり、『讃岐柔道史』では香川の柔術が高専柔道につながってく話などが書かれていました。
このあたりの真偽はよく解らないのですが、隣県の徳島にもその余勢が伝わっていたとして不思議でもない気がします。特に撫養町は徳島県の北東部の鳴門市の一部であり、淡路島を目と鼻の先にする土地でもあったりします。瀬戸内海側の人、文化と、太平洋側のそれとが交差する場所であったと言えなくもなく――
……些か筆が滑りましたが、当時はそういう土地であったのという話です。
まあ、すでに書いたように、肝付宗次には通じなかったわけですが。
寝技の名人で知られる田辺又右衛門に勝ったとか、すぐにリベンジされてから指導を受けたという話、どうにも確実な証拠が見つからないのですけども、それくらいのことをあったのではないか、あっても不思議ではないと思わせるほどの人物です。
このひとが近代の柔道史の中であまり名前が残っていないのは、若くして半身不随になってしまったせいですが、それがなければ、講道館黎明期の名人の一人として大いに名前を遺していた――かも、しれません。
◆ ◆ ◆
そんなこんなの事情を経て、伊藤道場はどういう風に「柔道」へと変遷していったのかが語られていました。
この後の展開も興味深いものですけど、柔術の道場だった伊藤道場の事情については、これくらいで十分でしょう。
注目すべきことは色々とありますが、この当時の、柔術の時代の最末期の道場の様子と稽古のシステムがこうして語り残されているというのは、幸運なことだと思います。
そして、そういうことが解る資料が無料で、部屋にいながらにして閲覧できる……国会図書館デジタルは本当にありがたいもだと、重ね重ね述べつつ、今回はおしまいです。
◆ ◆ ◆
今回の記事を書くに際して、記事のURLの引用、そして他に様々なご教唆をいただいた@tentaQ4氏には、改めてお礼申し上げます。
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