第6話 雲雀(ひばり)

 秋の暖かい日差しの中、大山津見はぬかるんだ細い畦道あぜみちをゆっくりと歩いている。昨夕に小さな野分のわけがあったせいか、野良に出て働いている農夫や農婦の数はいつもより多い。それに立ち混じって子供たちも野良仕事に励んでいる。

 見渡せば一面、金色の稲穂が光り輝くように連なっており、農夫らは倒れた稲を一つ一つ手で直している。忙しそうに働いていても、農夫たちは老人を邪険にすることもなく、目があえば頭を下げ、老人はもごもごと口の中で何かを唱える。そうすると、稲の稔が良くなるのだ。

 まるで父の足跡を辿っているような気がした。父も田を巡りながらこんな穏やかな気分に浸っていたのだろうか?

 頭を小さく振り、こほんと咳をすると

「良い世じゃ」

 と大山津見はひとりごちた。

 日子番能迩々芸命が薨じて五十年、天の雨に洗われつつ産まれた火遠理が今は天津日高日子穂々出命あまつひこひこほほでのみこととなり世を治めている。

「穂々出命とはこの景色に誠に相応しい御名ではないか」

 と大山津見は孫を讃えている。


 火遠理が帝になるにあたっては多少のいざこざがあった。

 およそ葦原中国の国つ神には山河を治める神と海を治める神がおり、それ以外にどちらにも属さない風の神などの少数の者たちがいる。

 山の神の代表が大山津見なら、海の神の頭は大綿津見である。その大綿津見が大山津見の娘と天津神の子孫に三人の子ができたと聞いて突然寿ことほぎに訪れたのである。

 大綿津見が陸に上がることなど滅多にない。かつて建速須佐之男命が海をらし、海の底にある宮殿のあるところまで干上がった時にしぶしぶ外に出てきて以来のことである。

 葦原中国は海に囲まれた国であり、海の神も多いが、海を治めている者は直接に天津神の支配を受けることもなく、降臨にあたってももはら山の神たちが折衝に当たってきたのである。だが、海の神たちも天津神と国つ神の間に子が生まれ神同士の融合がなされたようだと知り、このままでは自分たちが蚊帳かやの外に置かれるのでは、と心配になったというのが真相であろう。寿ぎにやってきた大綿津見は祝いの言葉もそこそこに、

「ついては長子である火照命に海の幸を祝いとして献上申し上げたい」

 と日子番能迩々芸に申し出たのである。火照命と早いうちから誼を持ち、いずれは娘のどれかを后としようと考えているのは明白だった。

かたじけない。ありがたくお受けしましょう」

 と礼を述べた日子番能迩々芸に大山津見は、

「さらば、私は末の子に山の幸を献上致しましょう」

 と微笑んだ。中の子には申し訳ないが、大山津見は娘の神阿多津比売から、末の子が天の雨に洗われて誕生したことを聞いていた。天のご意思は末の子にあるとみてまず間違いあるまい。

「それでよろしいな」

 してやったり、とばかりに鼻を膨らませた大綿津見は長子こそが次の帝になると信じていたようだった。だが日継の御子には必ずしも長子がなるわけではない。愚かであると分かれば太子は別の子に譲られてしまう。といっても長子である火照は決して愚かな子ではなかった。寧ろ几帳面で真面目な御子であられた。その御子が結局、末の弟に仕えざるを得なくなったのは少々哀れであった。

 各々それぞれの神から贈られた幸を以って、海佐知と呼ばれることになった火照と山佐知と呼ばれた火遠理が幸を取り換え、山佐知が海佐知の幸を失った話は良く知られている。山佐知が失くしたのは大綿津見の呪の掛かった釣り針で、これを持てばあらゆる海の幸が意のままに得ることができるものだった。

 海佐知は山佐知が釣り針をなくしたのを決して許さなかった。山佐知が父から譲られた大切な剣を壊して数多の釣り針を整えても、なお元の釣り針を返すことを主張したのである。恐らく大綿津見から譲られた大切な道具を失くしたことに耐えられなかったのであろう。

 だが・・・。

 火照はその名の通り苛烈すぎた。大綿津見もやがてその様子をつぶさに見て、天子の器ではないと考え直したらしい。人をさいなむ天子は好まれない。

大綿津見は、火照が素直に失くしたと言えば直ちに海の者たちに探させたであろう。それをせず、ひたすら火遠理をいじめぬく姿を大綿津見は憎んだのじゃろて・・・。

 それにしてもあの爺さんのやり口は、と大山津見は苦笑した。あの爺さんは火照を見限り火遠理に乗り換えたばかりでなく、塩椎神しほつちのかみを使って火遠理を攫っていきよった。塩椎も塩椎じゃ。あやつは海佐知に許してもらえず項垂れた様子の山佐知を巧みに誘って大綿津見の宮に連れて行った。

 塩椎神はもとはと言えば山河の神であったのだが、塩が水に溶けるように海に行きつきそこで潮を司る神となったのである。出自を考えれば大山津見に山佐知の行方を三年もの間、内緒にするとは余りではないか。

 そして大綿津見は自分の宮で火遠理と自分の娘と交わらせたのである。そのような手口を使わずとも、素直に天子に自分の血を残したいと言ってくれればいくらでもやりようがあったであろうに。

「なんともはや・・・。あの三年、神阿多津は毎日泣き暮らしておったのだぞ」

 苦々し気に唾を吐くと、そこにあった花勝見はなかつみの根元が真菰筍まこもだけへと変じた。

「しかしまあ、御子が戻られて帝になられたのは重畳じゃ」

 大山津見には今さら大綿津見と事を構えるつもりはない。神阿多津を通して山の神の血は既に皇統に入っている。

 昔の事を半ば苦々しく、半ば懐かしく思い出しながらとぼとぼと歩き続けていた大山津見の眼にふと奇体きたいなものが映った。

 長い竹を土に刺し短い竹を交差させそのまわりにぐるりと古びた布を巻き、藁を縛って頭に見立てた人形が大小二体、田の真中に立てられているのである。縛った藁には雨露を凌ぐ布のようなものが被されている。大きいものは男、小さなものは女をかたどっているようであった。

 「何だ、あれは?」

 近づいてしげしげと眺めると、顔に被せた布の口の辺りには文字が書かれている。

 「ふうむ・・・」

 文字は鳥獣払いの呪である。

「誰がこのようなものを・・・?」

 そのあたりには雀一羽も近寄って来ていない。呪が良く効いている証左であった。

あたりを見回すと遠くの田に見知った農夫が一人、早生わせの稲を刈っているのが見えた。ゆっくりと近寄って行くと農夫は大山津見に気付いて大仰に頭を下げた。

「良い稔じゃの」

 農夫が抱きかかえている稲にはぎっしりと重たげな粒が実っている。

「へ、おかげさまで」

 大山津見に会う年はいつもの年より稔が良いのを知っている農夫は丁寧に頭を下げた。

「あそこにある、あの人形はなんじゃ?」

「へ、あれでございますか?」

 農夫はにっこりと笑うと、

「あれは曾富騰さまの身代わりでございますよ」

 と答えた。

「曾富騰さま?」

 大山津見は首を傾げた。聞いたことのない名である。

「ええ、山田の曾富騰さまでございます。稲をくすねる鳥どもや畑を荒らす猪を追っ払ってくれるお方でございますよ」

 農夫は陽に良く焼けた顔を綻ばせた。

「あなた様と曾富騰さまはわしらの守り神でございますよ。お二方ともお歳にかかわらずお達者で」

 その答えを聞いて、大山津見の頭の中に一人の老人の姿が浮かんだ。

「もしや、その御方は長い竿を持って鳥を追うお人か?」

「そうでございますとも。良くご存じで」

 農夫は鍬を片手に持ち替えた。

「どういうものか、あしが竿なんぞ持って追ってもちっとも効き目がございませんのですが、あのお方が竿を手に日がな田の脇で座っておられるだけで鳥どもが寄って来ないのでございます」

「ほう」

 大山津見は先を促すように農夫を見やった。農夫はなかば得意そうに話を続けた。

「なんだか知らないですが私なぞにたいそう良くしてくださったのでございます。鳥の割前をお前の所からは取らせぬようにして進ぜよう、と申されて」

「そうか。しかし、その横にある女の人形は何であるのかな?」

「ああ、あれでございますか・・・」

 農夫は神妙な面持ちになると、

「あれは曾富騰さまがお連れになられていた娘御の人形でございます」

「娘御?」

 父は改めて娘など持ったのであろうか?

「ええ。娘御と申しましても孫、ひ孫ほどに歳は離れておられますがね。少々おつむが弱いのか、雷をひどく怖がる娘でございました。あしの小屋で行き倒れていたのを曾富騰様がみつけられたのでございます」

「そうであるか」

 大山津見は嘆息した。

 娘の素性は容易に想像がついた。葦原色許が隠れる間際に大山津見に探して欲しいと頼み込んできた天佐具女という娘であろう。

「で、なぜ人形などを田に置いたのだろうかな?年ごとにその二人はやってくるのであろう?」

「いえ、それが・・・」

 農夫は悲し気な表情になった。老人が最後にやってきた昨年、娘は一緒ではなかった。訳を尋ねると娘は春に亡くなったのだと老人は答え、農夫に向かってしんみりとした口調で言ったのだという。

「もうわしの気力も尽きた。ついては息子の所へ行こうと思っておる。お前さんの田には田一枚ごとにわしと娘の身代わりを立てるからそれにわしの代わりをさせるがよい。ただ、一つだけ約束しておくれ。一枚の田だけには雲雀が住み着く。その雲雀だけは追い払わないで欲しいのじゃ。あの娘の生まれ変わりだからの」

 そう言うと一晩農夫の家に泊まり、夜を徹して人形を作り終えると、そのしろとして農夫の差し出した握り飯を有難そうに受け取って東へと向かっていったのだという。

「それ以来、あのお方の姿を見たことはございません」

農夫はため息と共に話を終えた。

「そうか・・・」

「ええ、先ほどの田に曾富騰様の仰った通り一羽の雲雀が住み着いております。春になるとどの雲雀より天高く飛ぶのでございますが、それはもう悲し気な声を出して舞い戻ってくるのでございます。あの娘御の身代わりかと思うと切なくなるのでございます」

「さようか」

 曾富騰の言う息子の国と言えば、建速須佐之男命の統しめす黄泉のことに相違あるまい。父はそこへと旅立って行ったのだ。そしてあの娘は死んで天に戻ろうとしておるに違いない。しかし決して帰れぬのであろう。

「さようか・・・」

 父の晩年は幸せだったのであろうか?

 大山津見は農夫と別れると、父が一人きりで辿ったであろう東国へ続く道を凝然ぎょうぜんと眺めている。

  

 金色の稲穂が風に揺れてざっという音を立てた。

 大山津見は空を仰いだ。秋の日差しはたわわな稔を寿ぐかのように優しい。その先に天照大御神の微笑が見えるかのようである。

 うむ。

 一人頷くと、大山津見は再びゆっくりと歩み始めた。


<参考文献>

「古事記」 中村啓信訳注 角川文庫

「日本書紀」坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 岩波文庫

「風土記」 武田祐吉編 岩波文庫

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古事記異伝(天地の章) 西尾 諒 @RNishio

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