第5話 山椒魚(はんざき)

 出雲の国、伊耶佐いざさ小濱をばまかつて伊耶那岐・伊耶那美が子を産み育てたという、国つ神たちにとって神聖な地である。そこに剣を逆しまに立てた神と大きな船がやってきたと聞いた葦原色許男は、

「ついにこの時がきたか」

 と嘆息した。頃は秋、ちょうど年に一度の国つ神の集まる秋であった。最初の天からの使者である天之菩卑がやってきた時以来、年に一度この地に集まるのが国つ神の習わしになっている。


 集まっていた神々は葦原色許男が最初に放った言葉を聞いて一瞬、沈黙した。

「天照大御神の遣いが新たに参った。今までお主たちには告げておらなんだが、少毗古那神がこの地を去るときに神産巣日神のお言葉として遺された言いつけがある」

 良いか、と言って見まわした葦原色許男の口元を神々は真剣な表情で見守っている。

「それは剣を逆さに海に立てその上から名乗りを上げた神とは戦ってならぬというお言葉であった。そのお言葉は例え争おうと決して勝てぬという意味であり、戦をすれば皆を含めこの国が滅びかねぬという意味である。この度は神産巣日神のお言いつけ通り、また少名毗古那の遺された言葉の通り、私は引き下がり天の御子を受け入れようと考えておる。このことはわが御祖、大山津見神命にも話してあることだ」

 葦原色許男が語り終えると、はじめ沈黙で答えた神々はやがてさざめきあい、場はいつしか騒然となっていった。

「それはいかがなものか」

 ざわめく神々を差し置いて最初に立ち上がったのは葦原色許男の子、建御名方神たけみなかたのかみである。小柄な葦原色許男の子供でありながら、母の血を引いたのであろう、神々の力比べでは常に一位を占める引き締まった巨体を持つ男神であった。

「この場にはまだ三輪の大物主神も着いておりませぬ。またわが兄弟、この地を継ぐべき御子の事代主神も御祖様の代理として御大之御前におります。いかなお父上とは言え、お二人がいない席でそのような事を決めることはなりませぬでしょう」

 賛同の声があちらこちらから沸き起こった。何はともあれ、今の世は平和である。そこに天照大御神の子であろうと何だろうと、迂闊に受け入れればどのような治世を敷くものかわかったものではない。そもそも先方がどのような要求を押し付けてくるのかも分からぬうちに一方的に恭順を示そうとする必要などないではないか、とそこにいる誰もが思っている。

「なるほどの。では二人を待つことにしようか」

 と葦原色許男が呟いた時、集まっていた宮の社の屋根を蹴破って入って来たものがある。驚いた神々は一斉に目を上げた。現れたのは三輪の大物主であった。少名毗古那が天に戻った少し後、海を渡ってやってきたこの神は冷静沈着、何事にも動じぬわりに機転が利き、話術にも長けた優れた神である。葦原色許男の政事に誤りがあると感じれば、堂々と歯に衣着せず物を言い、時には決まりかけたことをひっくり返すという太い腹の持ち主でもある。ただ少々色好みが過ぎるのが欠点と言えば欠点であった。

 だが、この日は社をぶち壊し、並み居る神々を驚かせたばかりでなく、いつもはふざけた様子の唇を真一文字に引き結んだまま、自ら突き破った屋根から降り立ったのである。

「これは良いところに参られた」

 建御名方神が唇を綻ばせた。

「再び天から遣いの者が参り・・・」

 そう言いかけた建御名方神を遮るように

「その事じゃ」

 大物主は大声を上げた。

遅参ちさんして申し訳ござらぬ。だが、遅参したわけはその事と関係がある。聞け。わしが三輪から雲に乗り参るときに、空から異様なものを見た。出雲の海から一筋の光が天まで射貫いておったのだ。わしは迷うことなくそこを目指した。すると、その光の下で剣の上に座る男がわしを見て『そこを往くのはもしや、大国主命ではあられぬか』とわしめがけて呼ばわった」

 そう言うと大物主は葦原色許男に視線を投げた。大国主命は葦原色許の別の呼び名である。葦原色許男は押し黙ったまま大物主の話の続きを待っている。

「『違う』、わしは答えた。『だが今から大国主命のおられるところに行く所じゃ。言伝があるなら伝えよう』。するとわしの言葉にその男が『ではお伝え願う。吾は天照大御神の遣い、早速お目通り願いたい。ついてはここまで足を運んでいただくようにお伝えくだされ』と答えた。微動だにせずにそう言った男の姿に背筋が凍るような思いがしたわ。言いようのない殺気のようなものが漂っておった」

 大物主が一気に話し終えると

「なんと、大物主神までがそのような・・・」

 建御名方神が怒声と共に立ち上がった。その手には大物主が屋根を突き破った時に落ちてきた太いはりがある。それを押しとどめるように葦原色許男はのそりとたちあがった。

「まあ、静まれ。皆も聞いてくれ。私はこれからその遣いに会いに参る。天の遣いがこの国を明け渡せと申したら、まずは事代主神を呼ぶ。事代主神が従うと申しても」

 と葦原色許男は建御名方神を指さした。

「お前を呼ぼう。存分に力を振るってその神と戦うが良い。だがもしお前が力比べに勝てなかったら、わしは黙ってこの国を明け渡す、それでも・・・」

 ざわつく神々の前で葦原色許男は声を張り上げた。

「万一、新たな統治の神がこの国の治をみだすようなことがあれば、その時、私は再び戻ってくる。その時は死力を尽くして国を守ることを約束しよう」

 葦原色許男が厳かな声で放った言葉に国つ神は鎮まった。

「それで宜しゅうございますな」

 葦原色許男が最後に尋ねた相手は天之菩卑であった。天之菩卑は唇を固く結んで暫く考えていたが、やがて

「致し方ございませぬ。なれど、私は葦原色許男命のお供をさせていただきたい。降りてこられる神が私をお許しになると思えませぬ故」

 天之菩卑には葦原中国で拵えた家族があるが、家族までには累が及ぶまいと考えたのか一人で付き添いたいと付け加えた。

「分かりました」

 と葦原色許は答えると、国つ神を前に声を張り上げた。

「皆との約定を果たすため今までの通り年に一度、この地に集おうぞ。私もその時は戻って参る」

「よかろう」

 国つ神の気持ちを纏めるかのように三輪の大物主が重々しく言った。神々は互いに顔を見合わせ、一人が頷くと他の者たちも頷いた。葦原色許男のみならず、時に国の舵取りについて葦原色許男と激論を交わすこともある大物主までが賛成するのを見て頷かざるを得なかったのである。

「それで良いな」

 最後にくぎを刺した建御名方神が不承不承頷くのを見て、葦原色許男は静かに言った。

「では参ることにしよう」


 みぎわには、剣の上に座る神を物珍し気に、遠巻きに見ている人草たちがいた。しかし葦原色許男が率いる国つ神たちが現れると、戦いが始まるのではないかと怖気づいたのか蜘蛛の子を散らすように逃げていった。葦原色許男は裾をからげて逃げていく者たちの姿を目で追うと、改めて砂浜から海の方を見やった。

 穏やかな波が洗う水際にその神はいた。

 剣から発する光は一直線に天まで届き、その神が並々ならぬ力を持っていることは一目瞭然であった。その神の坐ます奥手に形は小さいが豪華に設えられた船が一艘、波の穂先に揺蕩っている。浅瀬にも拘わらずそこまで船が入っているのは、その船も只ならぬものであることを物語っている。

「汝が葦原色許男命であられるか」

 剣の上の男が太い声で尋ねてきた。葦原色許男は一行の中から進み出ると、

「さようにございます。あなた様は天照大御神のご使者とお見受け申すが、いかに」

そう言うと浜に膝をついて深々と頭を下げた。

「いかにも。吾は建御雷、こに付き添うは鳥之石楠船神、別の名を天鳥船。両人を以って天照大御神の御心をお伝えに参った。と申しても、既にその御心は二度の使者によって伝えられている筈。御心に添うか否か、既に心は決めておられると思うが、如何」

 男から発せられる光が言葉と共に一層明るさを増し、目も明けていられないほどである。

「付け加えれば、吾がこのことに関しての最後の使者と心得られたい」

 そう言った使者に対して葦原色許男は頭を上げると目を半眼にした。恫喝めいた言葉であったが、神産巣日神が伝えたことと平仄はあっている。しかし、その場で無条件に認めるわけにはいかない。だが、その条件を今、申し出れば・・・。

「その答えは私から申すわけには参りませぬ。我が子、八重事代主神からお答え申し上げましょう。ただ、我が子はただいま御大みほの岬に行っております。さて、いつ帰って来るやら」

「では・・・」

 別の声がした。透き通った優しい声と共に船が消え、波の先に別の若々しい男が立っていた。

「この天鳥船がお迎えに参りましょう」

「なるほど」

 葦原色許男は重々しく応えた。

「それでは、ご随意に」

 天鳥船は、姿こそ若いが古い神であることを葦原色許男は知っている。建御雷と名乗る剣の上に座る神は、力はあるが新しい神のようだ。名を聞いたこともない。大山津見から教えられた呪を伝えても大山津見の喝破した通り、恐らくは意味を知らぬであろう。

 しかし天鳥船はどうであろうか。伊耶那岐命の最後の子とは言え、大山津見の兄弟であり古神の一人であるこの神は呪いの意味に気が付くに違いない。

「さて、どうしたものか・・・」

 腹の底で葦原色許男は懸命に考えている。


 天鳥船が戻ってきたのはそれから間もなくの事であった。事代主神は船端から身を投げ出すように飛び降り不審げな面持ちで砂浜に立つと、父の許へ歩み寄った。

「いかがされたのでございます?突然、この方が・・・」

 と傍らの天鳥船を見遣ると、

「父上の許に至急戻られませと仰って・・・」

 葦原色許男はその肩に手を置くと、

「天照大御神のご使者がいらしたのだ。この国を天照大御神の御子が治めると申される。我らはどうするか問い質された。それに答えよ」

 と言って、水際に立つ神を指さした。天鳥船の影に遮られてその姿に気付かなかった事代主神は数歩歩いて父の指さす方を見遣ったが、

「は、これは・・・」

 その姿を見るなり事代主神は身を伏せ、

「仰せの通りになさいませ」

 と叫ぶと剣から発せられる光を避けるかのように転げて、天鳥船の後ろに身を隠した。震える体と白く変わった唇の色はよほど恐ろしいものを見たかのようである。腕力こそないが、国つ神の中で最も聡い神として知られる事代主神の振舞いに、葦原色許男を除く神々は顔を見合わせた。その表情は悉く渋いものである。天鳥船は神の姿に戻ると事代主神を庇うようにして宮の方へと姿を消した。

「さて、お前の子はこう申しておる。他に所存があるか?」

 波の上の神が問うと、葦原色許男は

「もう一人、我が子建御名方神という者がおります。それ以外にはございません」

 と答えた。

「良かろう、その者を連れてまいれ」

 建御雷神が言い終える前に、建御名方神が両手に抱えた大岩と共に前に進み出た。

「呼ばんでもここにおるわい。卑怯にも脅しをかけて取引を企むとは何の積りか。正々堂々と力比べをすればよい話。されど、負けたならばとっとと天へと帰ると約せ」

 大声で天上を指さして怒鳴ると、剣の上に座っていた建御雷神が初めて身じろぎ、目と唇を細め

「良かろう」

 と言って、砂の上に降りたった。

れば」

 建御名方神が手に持った岩を砂浜に投げ捨てた。派手な地響きについで、砂がもうもうと舞い上がった。おおっ、と神々がどよめいたのは剣の上から降り立った建御雷神が思ったより背の低い神だったからである。剣の上にいてこそ神々しく見えたが、雲を衝くような大男の建御名方神に比べるといかにも小柄である。

 これならば勝ち目があるかもしれないと思ったのは観衆だけではない。

「参る」

 猛々しい笑みを浮かべて建御名方神は猛然と砂を蹴った。

 腕をひしいで、圧し潰してやろうとばかりに飛び掛かった建御名方神の笑みは、だが一瞬で凍り付いた。いくら力をいれても相手は微動だにせぬのである。そればかりか、不意に力を込めた建御雷神の逆襲に体がふっと浮き上がり、骨のきしむ嫌な音を立てて建御雷神は砂の上に転げた。

「うわっ」

 という声と共に建御名方神は逃げ出した。歴然とした力量の差を悟ったのである。建御名方神が猛然と逃げ出す姿を見て神々は再びどよめいたが、それは嘆息に似たものだった。建御名方神の逃げ足は今まで見たことがない程早い。たちまちその姿は浜を駆け抜け東へと消えていったが、建御雷はその後を軽々と飛翔するように追いかけていく。

「では」

 いつの間にか宮から戻って来た天鳥船神が、静かに葦原色許男に礼をした。

「私は見届けねばなりませんので」

 そう言うなり船の姿に化すと、空へ悠然と飛び立った。後に遺された国つ神たちはその姿を呆然と見送るばかりである。


 それから三日が過ぎた。国つ神たちは悄然とした様子で、浜で待ち続けたが三日目の朝、暁と共に現れたのは天鳥船の姿であった。舳先にはあの建御雷が超然とした姿で座している。建御名方神の姿はどこにもない。

「殺されたか」

 国つ神たちの誰もがそう思った。

 砂浜に降り立つと元の姿に戻った天鳥船は疲れも見せずに葦原色許男の前に進むと

「建御名方神様からのご伝言がございます。それにしてもあの方はたいそう足が達者でございますな」

 と微笑を浮かべた。葦原色許男も黙って微笑を返した。

科野しなの州羽すわ(信濃の諏訪)と言う所までお逃げになられました。ご伝言は、約定によってもはやこの地を動くことは致しませぬ。故に帰ることはなりませぬが、私・・・これは建御名方神の事でございます・・・は父上や事代主神の申される通り、天津神の御子に従いまする、とのことでございます」

 天鳥船の言葉に葦原色許男は頷いた。

「では、あの者は生きているのですな」

「はい」

 天鳥船は頷いた。

「建御雷神は容易なことで命を奪いませぬ。さように父神、母神からきつく言われておられるようで」

「それは重畳・・・では」

 そう答えた葦原色許男を遮ぎり、建御雷は斬りつけるように尋ねた。

 「事代主神、建御名方神共に天つ神の御子に従うと申された。汝のお考えは」

 葦原色許男は精一杯の微笑を以って返答した。

 「それは・・・宮の方でゆっくりと申し上げましょう。国を譲る話でございます。かような所ではご容赦くださいませ」

 神々だけでなく、野良で働く人草たちもそこここに集って興味深げに眺めているのを指でさし示した葦原色許男に建御雷は不承不承と言った風に頷くと、

 「だが、前の遣いたちのように籠絡するような訳には参りませぬぞ」

 と断つように言った。

 「承知しております。息とはいえ、力比べではやつがれが到底及ばぬ建御名方神が敵わなかった御方にこの老体では敵うわけがありませぬ。知恵を出そうにも事代主神があのように畏み、逃げ隠れするようでは我々には打つ手がございませぬ」

 葦原色許男は頭を垂れた。その下げた頭で必死に考えている。どうすれば目の前の二人を引き離し、建御雷だけと話す事ができるであろうか・・・?

 蹌踉とした足取りで宮に戻ったその葦原色許男の目の前に現れたのは、大山津見であった。

 「これは御祖様・・・」

 言葉を失い跪いた葦原色許男の肩を叩くと、大山津見は高天原からの二人の遣いを見やった。

 「これは、兄上様・・・。お久し振りでございます」

 天鳥船は大山津見を見て膝をついた。その姿を見て建御雷も倣った。建御雷には一瞥を送っただけで、大山津見はいかにも親し気に天鳥船に近寄りその肩に手を置いた。

 「懐かしいの。鳥之石楠船神。お前が天の遣いで参ったと事代主神から聞いてやって参ったのじゃ。高天原におるせいか、お前はまだ若々しい。わしはこんな老人になってしまったが」

 「いえいえ」

 狼狽したように天鳥船は首を振った。

 「天津神の御子にこの国を譲る、という話はついたのじゃろう?ならばお前とは積もる話もある。細かいことはこの若い二人に任せ、わしらは共に旧交を温め直そうではないか」

 「はぁ」

 一瞬、天鳥船は逡巡したが老人が国を譲る話はついたのだろう、と尋ねた以上葦原色許男が既に心を決め、老人にもその決心を伝えているのは間違いなかろうと考え、

 「さようでございますね」

 と柔らかい声で答えた。建御雷に一言、二言告げ、老人と共に去って行く天鳥船の姿を目で追いながら葦原色許男は大山津見に心の中で深く頭を下げている。

 建御雷を目の前に、さて、と葦原色許男は静かに言葉を紡ぎだした。

 「国つ神の長として、二言はござりませぬ。事代主神と建御名方神が申し上げた通り、この葦原中国はお譲り致しましょう。ただ、二つのお願い事がございます」

 「願い事?」

 建御雷は首を傾げた。面倒な願いであれば安易に引き受けるわけにはいかない。

 「まず国つ神を纏めるためにはそれなりの目配りを行い、理非曲直を明らかにお治め願いたい。利害が絡めばすぐに事が大きく纏まりがつかなくなります。纏まりがつかなくなれば争いごとが絶えなくなる、それを防ぐことこそ私が今まで心を尽くして成してきたこと。国を譲るのは構いませぬが、必ずや心を尽くしてお治め願いたい」

 「ふむ、それこそ高天原の御心と違わぬと存じます。確かにお伝えしましょうが、なんのご心配もなさらぬが宜しい。それで二つ目とは?」

 建御雷の答えににっこりと葦原色許男は笑いかけた。

 「二つ目は恥ずかしながら個人的なことでございます。実はわが妻須勢理毗は天照大御神の弟御、建須佐之男命の娘。建須佐之男命は私の舅でございます。その舅殿と約定がございまして、須勢理毗を住まわす場所を『天津神の御子の天津日継あまつひつぎ知らす、とだる天の御巣みすの如くして、底つ石根に宮柱ふとしり、高天原に氷木たかしりて治めたまわば』、」

 と一挙に言うと、葦原色許男は建御雷を一瞬射すくめるように見た。

 「天津神の御子の天津日継知らす・・・」

 目を瞑った建御雷は唇を動かして反復するかのように呟いている。

 「私は百足らず八十垧手に隠れておりましょう。この国の神たちは事代主神を筆頭として全て天の御子に付き従いましょう。ですが何せ・・・」

 言葉を切った葦原色許男を建御雷は見返した。

 「舅殿の言葉を違えればこの身に何が起こるかわかりませぬ。それだけはご容赦願いたい。黄泉の国はあのお方の統べる国、そこで約定を違えた婿の魂がどのような目に逢うかは容易に想像がつきましょう」

 「それはそうでござろうな」

 新しい神ではあるが、建御雷も高天原での建須佐之男命の乱暴ぶりくらいは聞き知っている。国つ神が大人しく葦原中国を引き渡すなら、それ相応の処遇をすることは天照大御神から任されている。建物を築く程度のことであれば敢えて天に確認するほどの事ではあるまい。

 建御雷は葦原色許男の本意が建速須佐之男との約定にあると考え、裏に隠されていた本来の意図に気付くことはなかった。

 「承知しました。貴殿の言葉は一つとして違わずに天津神にお伝えいたしましょう」

 「宜しくお願い申し上げます」

 答えると葦原色許男は深々と頭を床に付けたのであった。

 その隠れた面が、してやったりとばかりに、北叟ほくそ笑んでいたのか、或いは国を譲ったことの悲しみに曇っていたのか、はたまた国を譲ったことで肩の荷がおりたような柔和な表情であったのか、今となっては誰も知ることはできない。


 一日たりとも葦原中国に留まることなく、建御雷と天鳥船は天へと戻って行った。天に消えていった船を見送ると、やれやれとばかりに肩を竦め、重たげな足取りで葦原色許男は宮へと戻った。

「お父上」

 事代主神を始めとする国つ神たちは、うち揃って葦原色許男を出迎えた。その神々を前に

「話はついた。戦いは避けられた。建御名方を含め国つ神、誰一人命を失うことはなかった。そこに天の誠意を汲み取ることとしようぞ。私は皆の長を降りることになるが、もし天の御子の治世が天の道に背くことがあればいつ何時でも舞い戻る。その時には考えがある」

 それだけを一気に言うと、葦原色許男はどさりと腰をおろした。。敢えて口にはせぬが万一の時には建速須佐之男命とも相談する積りであった。厳しい表情の底にその時を思い浮かべた覚悟がある。その肩を労わるように叩き、三輪の大物主が、

「まあ、向こうが変なことをしたり国つ神を軽んじたりした時はわしもちょいちょい口も手も出そうぞ」

 と不敵な笑みを浮かべた。うむ、と頷くと

「大山津見命はいかがなされておられる?」

 その姿が見当たらないことに気づいた葦原色許男の問いに、

「さて、先ほどまではここにおられたのですが・・・」

 事代主神が探しに出たが大山津見の姿はどこにもない。戻ってそう告げた事代主神に、

「一言、お礼を申し上げたかったのだが・・・」

 葦原色許男のぽつりと放った言葉が暮れなずんだ晩秋の薄闇の中へ溶けるように消えていった。


 大山津見は日暮れの道をとぼとぼと歩いている。

 肩を落として歩むその姿には葦原色許男が下した決断を褒め称えつつも、国を天津神に譲らねばならなかったことへの悲しみがある。葦原色許男と別れねばならぬという寂しさもある。

 だが、天から遣わされてきたあの建御雷という神はただ強かっただけではない。そこには有無を言わせない強い意志が存在していた。

「天之尾羽張の縁者に相違あるまい」

 あの建御雷という者には、父が子を殺す時に振るったあの刀と同じ類の冷酷さを感じた。建御名方神が殺されなかったのが不思議なくらいである。

「一度神を斬ったものと、そうでないものは違うのかもしれん」

 遣いが天之尾羽張であったならば、まずは、建御名方神は問答無用で斬り殺されたであろう。そうであったなら、葦原色許男はあれほど素直に国を譲ったであろうか?

「まあ、今さら考えても仕方あるまい」

 そう呟きつつも頭の中で大山津見は次の一手を練っている。天津神が例え治めることになろうとも、この国は、本来は国つ神の国。一応の手は打ったものの、それだけで果たして大丈夫なのか。

 葦原色許男が再び舞い戻らねばならぬような事態は決して望ましくない。その時は天と地が争うとき・・・。この国にどのような災いが降りかかるとも知れぬ。


 建御雷が葦原色許男の言葉を一言一句違えずに天照大御神に告げた時、その場に共にいたのは天鳥船と高御産巣日神の二神のみであった。「百足らず八十垧手」という文句を建御雷が告げた時、天鳥船が蒼褪め、高御産巣日神は天照大御神の顔を盗み見た。

 だが天照大御神の表情は変わらなかった。

「ご苦労でしたね」

 葦原色許男の言葉をすべて伝え終え、天照大御神から労いの言葉を掛けられ軽々しい足取りで去って行く建御雷の背中が見えなくなると、

「私がついておりながら申し訳ございません」

 天鳥船は絞り出すような声を出した。

「そなたはその話が出た時に、建御雷と一緒にいなかったのですか?」

 天照大御神の声は沈着そのものである。

「ええ。国譲りの話はついたのだろうと兄者も承知のことのようでしたので・・・」

「兄者とは、大山津見命ですね?」

「はい」

「まあ、宜しいでしょう。いざというような時、国つ神の主が再び現れる事があるやもしれぬ、そう知りつつ正道を究める。そうした者にこそ国を治める資格があるというものです。わが子にとっては却って良かったかもしれない、と私は考えます。その事は息子にも重々諭しておきましょう」

 天照大御神はさらりと言うと、

「そなたも疲れたでしょう。しばらく休むがよい」

 と天鳥船に声をかけた。

「温かいお言葉を賜り恐縮至極でございます」

 天鳥船はなおも震えながら答えた。既に葦原色許男は隠れてしまっているであろう。その行き先は高天原の神とて分からぬ。万一のことがあれば葦原色許男は蘇り、天孫と戦うかもしれぬのだ。その責は自分にある。力なく肩を落としている天鳥船をちらりと見遣ると、

「それにしても大山津見命と葦原色許男命はなかなかの知恵者。力はともかく、そちらでは建御雷はとうてい敵わなかったようですね」

 天照大御神は静かに呟いた。


 さてこうして国つ神の方では天照大御神の御子を受け入れる用意ができあがったのだが、肝心の正勝吾勝々速日天忍穂耳は天照大御神の命に素直に頷かなかったのである。

 高御産巣日神と思金神が工作して、高御産巣日神の娘と結婚させたことも理由の一つであろうが、天之菩卑がいみじくも喝破した通り、もともと天忍穂耳は地に降りることを望んでいなかったのかもしれない。これは、と高御産巣日神は内心、手拍子を打ったのだが、天忍穂耳命の次の言葉に激しく動揺した。

「私には妻との間に産まれた子がおります。この子に葦原中国を治めさせましょう」

 その子、日子番能迩々芸ひこほのににぎのみことは高御産巣日神にとっても孫である。

 意外なことに高御産巣日神は遅くに産まれた、血さえ繋がらぬ最初の孫をひどく可愛がっていた。いずれ地に降ろさねばならぬかもしれぬ、との覚悟はあったが父親が降ることになってもすぐについていかねばならぬというのでもない。何も子は一人に限らない、できればこの子はこのまま高天原に留めることはできないかとまで考えていたのである。

「しかし、日子番能迩々芸はまだ僅かに十にも満たぬではないか。そのような子供では国を治めることはできまい」

 高御産巣日神はそう反対したのだが、天照大御神は

「宜しいでしょう」

 とあっさりと認めたのであった。

「しかし、迩々芸は幼すぎる、せめて成人してから」

 と異論を唱え続けた高御産巣日神に、天照大御神は

「ならば、それなりの神を付けて下せば宜しい」

 とにべもない。そればかりか、孫自身が

「おじいさまとお別れするのは辛いですが、私はぜひ葦原中国という国を自分の力で治めてみたいのです」

 と言うのである。これには孫の母であり、自分の娘でもある豊秋津師比売とよあきつしひめに苦情を言ったのだが、

「天の御子様のご意思に添わざるを得ませぬ。それに吾が背を遣わすなという父上のお言葉には従ったではありませぬか」

 とつれない言葉が返ってきただけであった。その上、降臨の一行に息子の思金神が加わることになったのである。

「さても、詰まらぬ企てをしたものよ。これでは天照大御神の掌の内で踊らされたようなものじゃ。この高天原に一人で残されるくらいならお前たちと一緒に葦原中国に行った方がまだましだ」

 がっくりと肩を落とした高御産巣日神に思金神は、

「父上はそれだけ天照大御神に必要とされておられるのでしょう」

 と慰めたのだが、高御産巣日神は

「かくなればわしとて子とかわいい孫をやった先の事に意を用いぬわけには参らぬ。お主たちとわしは互いに人質のようなものじゃ」

 と苦々し気に答えた。思金神が

「その通りでございますな。私もまさかこのようなことになるとは」

 と苦笑を浮かべた。天之尾羽張神を遣いと決めた時、自らを使者に立てれば人質とするようなもの、と拒否したことは天照大御神によってあっさりと覆されたのだ。

「迂闊でございました。私も天津神と国つ神の間で無用な争いが起こらぬように十分に気を付けましょう」

 と高御産巣日神に誓ったのである。

「うむ、そうしてくれ」

 高御産巣日神は力なく答えた。

 迩々芸が一行を引き連れ天の石位いわくらを離れる時、高御産巣日神は天照大御神とも他の神とも離れ、遠くからその姿を見送った。

「さて、これから葦原中国はどのようになるものか」

 一行が厳かに石位から離れるのを見送りながら呟いたが、その時、ふとある事に気が付いた。

 思金神をはじめ随行して降臨する神たちと言えば、みな天照大御神が天の石屋に隠れた時、天照大御神を騙すような形で高天原に戻した神たちばかりである。

「妙といえば、妙な」

 と呟いた高御産巣日神であったが、その呟きに答える者はもはやいない。


 それから十年の時が経った。

 八尺やさか勾玉まがたま、鏡と草那芸剣くさなぎのつるぎを天照大御神から賜り、思金神と手力男神たぢからをのかみ天石門別神あめのいはとわけのかみの三神に天の石屋で功績のあった五伴緒いつとものをの神を引き連れて日向ひむか高千穂たかちほに降り立った時、まだ幼さを残していた日子番能迩々芸命も今は立派な成人になっている。

「今のところ、さしたる争いもないが・・・」

 大山津見は出雲の地から、未だ日向に留まり続けている一行の様子を静かに見守っている。

「やがて天津神の御子は葦原中国の全てを平定なさろうとするであろう、その時にどのような事が起こるのか」

 と言っても、それまでに全く何も起こらなかったわけではない。迩々芸一行が葦原中国に降り立つ時に、国つ神の中で天の八衢やちまたに駆けのぼった者がいる。

大山津見も良く知った者であったが、まさか天の八衢まで昇り往くほどの力があるとは思っていなかった。猿田毗古さるたびこというその神は伊勢に程近い、阿謝加あざかに住む神であった。

 容貌魁偉ようぼうかいいな猿田毗古はその容貌に相応しい野心家の神であった。葦原色許が身を隠した後は天津神の天下になると知り、ならば早く天津神とよしみを結んだ方が良いと考えたのやも知れぬ。

 その意図は猿田毗古が冥界へと旅立ってしまった今となっては知る由もないが、降臨の先導を務めた縁によって猿田毗古は五伴緒の神の一人、天宇受売あめのうずめと一緒になったのである。

 降臨した神のうち、五伴緒の神はどうやら国つ神と結び、天津神と融合するために遣わされ、それ以外の思金神や手力男神、天石門別神は神のまま天の御子に仕えるという役目を背負っているようであった。

 五伴緒のうち、最初に国つ神と交わったのが天宇受売であり、その夫が猿田毗古である。大山津見も最初それを知った時は複雑な思いがした。抜け駆けを許してしまったように思えたのである。

 その猿田毗古が死んだ。

 比良夫貝ひらぶかひに手を噛まれて溺れたと伝えられたが、猿田毗古は天宇受売に殺されたのであろう、と大山津見は思っている。おそらく野心家である猿田毗古は妻である天宇受売に己の野心の行き先を語ったのであろう。だがそれは天津神の考えと齟齬していたに違いあるまい。猿田毗古は妻が自分に狎れたと思いこみうっかりとそれを話してしまって、その罰を受けたのだろう。

 それを比良夫貝に噛まれて死んだなどと平気で言う天津神の態度に大山津見は不安を抱いている。猿田毗古が噛まれたという比良夫貝の比良の二字は比良坂にも繋がる。父が黄泉大御神に追われて逃げたのは比良坂であり、その二文字は猿田毗古が黄泉の国へ突き落されたことを示している。不気味な脅しのようにも聞こえるではないか。天津神の命は長い。それとて、高天原において罪を得れば他の神にしいされることもある。

 しかし天津神を国つ神が弑すことはできぬ。

 恐るべきは暴虐な「神の末裔」がこの国を長い間治めることである。自分も神の末であるから相当に長い命を持っているが高天原の神の命はそれより遥かに長い八千代と聞く。むろん葦原中国では高天原ほど命を長らえることはないであろうが、少なくとも自分よりは長いであろう。

 その長い間一人の神が暴虐を働いたらどうなるか・・・。

「さて」

 どうしたものであろうか、と考えあぐねていた大山津見は、突如はたと思いついて手を打った。

 猿田毗古は天津神に色香を以って仕掛けられたのであろう。しかし何も仕掛けられるのを待つばかりが策ではない。こちらから仕掛ける手もあるのではあるまいか。

建速須佐之男の時もそうだったではないか・・・。なぜ今まで思いつかなかったのであろうか?

 大山津見は、さてと、と思いをめぐらした。わが娘たちの一人一人の姿かたち、そしてはらの太さを記憶の中に並べ始めたのである。


 その翌日の事である。

 日子番能迩々芸は供を引き連れ、筑紫つくし建日別たけひわけでの狩を終え熊曾くまそへ向かう途上にあった。当時の筑紫という地名は今の九州を全て包含する。その筑紫一帯は既に天津神に従うものが大勢である。とはいえ時折、狩を名目に、反乱を企んでいるような者たちがいないかを見守りに回る必要があった。なかでも建日別、熊曾の国は気の荒い神たちが多い土地であり、もめごとが絶えない土地であった。

 葦原色許は国を譲ったが葦原色許が治めていたのは天御虚空豊秋津根別あめのみそらとよあきづねわけの全てではない。その力の及んでいたのは筑紫、狭別さわけ伊豫いよ(その頃の伊豫は四国を全て包含する)、そして天御虚空豊秋津根別の西だけである。天宇受売の住むしま(志摩)のあたりは東端であり、そのあたりは従うものとそうでないものが混じり合っているのが実情であった。

 天津神たちも葦原色許が治めていた領域をまず平定することに腐心している。国つ神が従うと決めたからと言って乱暴に推し進めれば争いが起こらぬとも限らぬ。そうすれば何が起こるか、ということを迩々芸も天照大御神から口を酸っぱくして教えられており、筑紫を完全に固めた上で東に向かうことを目論んでいる。

 そのためには軍衆いくさびとどもを育てあげねばならない。

 狩は見回りをするだけではなく戦をする良い修行である。その日も鹿やら雉を得て満足しつつ、歩を進めていた迩々芸は笠沙かささのあたりでふと眼前に美しいものが過ったのに気づいて軍衆の行進を止めた。

 赤と白の目に鮮やかな装いを風に靡かせた娘が、荒々しい装いをした一行の先を軽やかに歩いて行く。

「その娘、待て」

  声を掛けると娘は立ち止まり振り向いた。そのあまりの美しさに迩々芸は一瞬、息を呑んだ。腰まである長い髪、白木のような瑞々しい肌、黒曜石のようなきらきらと輝く目、桃の花を思わせる鮮やかな唇、どれをとっても今までみかけたことがないほど美しい。いや、美しいと言えば母も祖母も美しいのだが、それとは異なるはかなさと瑞々しさが迩々芸の心を一瞬で捉えた。

「こんなところで・・・何をしている」

 迩々芸の問いかけに娘は鈴を転がしたような華やかな声で笑った。

「何を・・・?異なことをお尋ねになられます。私はただ、歩いておりますのでございます」

「しかし・・・娘が一人でかような場所を歩いていたら危ないではないか」

 迩々芸の言葉を聞いて、娘はくすくすと声を上げて笑った。

「だっていつもの事ですもの。私は父に守られております。心配ございません」

「父?そなたの父とは何者だ?」

「私の父はこの国でもっとも古く、尊い神でございます」

「何を申すか」

 連れの者が少女を叱咤した。

「ここにおられるのは、天津神の中でもその一の神であらせられる天照大御神の御孫。この国の古い神はみなこの御子に従うことになっておる。最も尊いお方といえばこの方を措いて他にない。無礼なことを言うと・・・」

「まあ、良い」

 迩々芸は煩わし気に手を振るとその言葉を遮った。少女は勝気な目で叱咤してきた男を睨んでいる。その気丈な様子が迩々芸には物珍しく、また好ましく映った。

「ところでそなたの父はどなたか?」

「大山津見命と申します」

 おお、と一行はどよめいた。葦原色許男が隠れたのち、葦原中国に残る主な国つ神といえば大山津見と大綿津見の二神であるとみな知らされていたのである。とりわけ大山津見は力もあれば智恵もある神として心得よと、迩々芸は天照大御神から耳に胼胝たこができるほど聞かされた。その代わり大山津見と友誼ゆうぎを結べば、国の経営はよほどやりやすくなるだろうとも教えられていたのである。

「大山津見命は出雲におわすと聞く。なぜかような所にその娘がおる?」

 そう尋ねた迩々芸にきょとんとした様子で娘は答えた。

「お父上はこの葦原中国にあまねくおられ、遍く私どもを見守っておられます。なぜと聞かれても・・・」

「そうか、そうか」

 迩々芸はにっこりと笑った。

「そなたの名は何という?」

神阿多都比売かむあたつひめと申します。皆からは木花之佐久耶このはなのさくやと呼ばれておりますけれど」

「木花之佐久耶比売か・・・。良い名じゃな。ところでそなたには兄弟や姉妹がおるか?」

「ええ、数え切れないほど」

 娘は歌うように答えた。

「それほどか。ならお父上はおひとり位私にくださっても良かろう。どうだ、私と一緒にならぬか?」

 国造りにあたって有力な国つ神と誼を結ぶのは良策である、という事は常々、思金神とも語り合っている。有力者同士の婚姻が争いをなくす手段と考える点では天津神も国つ神も大した違いはない。今、この場に思金神はいないが、いたとしても反対せぬであろう、と迩々芸は考えた。このようなところで大山津見の娘と偶然にしても出会うことができたのは思わぬ幸運である。偶然とはいえ、幸多き出会いではないか?

 だが煎じ詰めれば迩々芸はこの娘に一目惚れをしたのである。迩々芸の言葉に俯くと、暫く考えた様子だったが娘はやがて美しい顔に華やかな微笑を浮かべた。

「そんなことを申されたのはあなたが初めてでございますわ。国つ神の皆さまは私を欲しく思っても父の力を恐れ何も言ってくれないのでつまりません。本当に嬉しゅうございます。でも父に相談しないとなりませぬ。その御答えは父から申し上げる事になりましょう」

 娘の答えに迩々芸は嬉しそうに何度も頷いた。

「では、今日はこの辺りに仮寝かりねの宿を取ろう。さっそく父上に尋ねてみてその答えを私に呉れ」

「でも、あなた様からのお遣いがありませぬと」

 娘はねたような表情で迩々芸を見つめた。その表情がまた愛らしい。確かに、嫁を取りに行くのに使者を立てぬ法はない。

「そうだ、その通りじゃな」

 と迩々芸は慌てて一行を見渡すと、

「ではお前が遣いとして姫を貰い受けてこい」

 中で一番気の利きそうな男を選んで娘に副わせることにした。思金神がいれば迷わず遣いに選んだのだろうが、残念なことにこの旅には同行していなかったのである。

男と連れ立った娘が姿を消すと、迩々芸は一行をその場に留め、幕を張らせて仮宮かりみやを設けそこで眠りに付いたのであった。


 翌朝、迩々芸は耳慣れぬ不思議な楽の音に目が覚めた。

 床を離れ、幕を外させると目の前には数えきれないほどの男たちが、ある者は荷を担い、ある者たちは楽を奏していたが、迩々芸が姿を現すなり一斉に腹這うと、頭を地に付けた。遣いに出した男がその中から進み出て、夢を見ているような目つきで奏上をした。

「大山津見命は、御子様からのお申し出を殊の外お喜びでございます。ついてはかように百取ももとり机代つくえしろの物を添え、奉りたいとのお申し越しでございます。なお、」

 と言葉を切ると、

「物どもはこの地で差し上げては差支えがございましょうから、高千穂の宮に忽ちに」

 そう言い終えるや否や、荷を担った者たちの姿がぱっと消え残ったのは楽の奏者と言上をする男、そして布で姿形を隠したまま蹲る二人の姫であった。右側の娘は花のような鮮やかな色合いの衣装を羽織っている。もう一人は地味ではあるが高価そうな流紋りゅうもんの衣装を羽織っていた。

「それは重畳であった。しかし、なぜ姫が二人おる?」

 迩々芸の問いに使者は夢見るような目つきのまま答えた。

「大山津見命はさようなことであれば、ぜひ姫をもう一人差し上げたいとの事でございました。そのお一方とは神阿多津比売命の姉上様、石長比売命いはながひめでございます」

「そうか。分かった。確かに戴くことにしよう」

 迩々芸は頷いた。妹があれほど美しいのである。それには及ばぬかもしれないが、姉も人並み以上の器量に違いあるまい。迩々芸の返答を聞き、それでは、と使者が手をかざすと右側の姫が立ち上がった。

「おお、待っておったぞ」

 歓びの声を上げ、迩々芸は近寄ると神阿多津比売の手を取った。華やかな色合いの婚礼衣装を纏った姫は一段と、輝くように美しい。

「お父上はいかがあられるか?」

「たいそうお喜びでございました。私のようなふつつかものを・・・と」

「手放すのを大層惜しんだのであろう」

「いえ、心からうれしそうにございました」

「さようか・・・?」

 そう言うと迩々芸はもう一人の姫に目を遣った。

「姉上も私にくださるとのお言葉を頂いたと聞いた」

「ええ・・・お姉さま、お立ちになられませ」

 神阿多津比売が声を掛けたが、もう一人の姫はぴくりとも動かない。

「お姉さまは恥ずかしがり屋でいらっしゃるから」

 神阿多津比売は呟くと繋がれていない方の手を姫の肩に掛けた。

「さあさ、天の御子がお待ちでいらっしゃいますよ」

 そう促した。その言葉に蹲ったままの姫がようやく立ち上がった。その立ち上がった姿を見た時、迩々芸は腰が砕けるばかりの衝撃を受けた。

 そこにいたのは、神阿多津比売とまるで違う様子の女であった。

 袖から覗く肌の色は灰汁あくを塗ったような色である。顔はとみると肌は腕と同じで、口は薄い唇が黒紫のような色、鼻は平べったく、小さな瞳は良く言えば琥珀こはく、貶せば濁った黄色のような色をしている。

「おおっ」

 と思わず悲鳴に似た声を上げ迩々芸は後退った。

「まるで山椒魚はんざきのようであるな」

 と心の中で唸る。ハンザキとは川に住む巨大な生き物である。岸から落ちた蛙を姿から想像もつかぬような素早い動きで飲み込むのを迩々芸も狩の途中でたびたび見たことがある。思わず繋いでいた神阿多津比売の手を離すと使者を目で招いた。

「何でございましょう?」

 恭しい口調で答えた使者に、小声で

「お前はこの御方が送られてくると知っておったのか?」

 と問うた。使者は相も変わらず夢見心地な目で答えた。

「いえ。ですが、大山津見命が殊更に大切にしておられる姫と聞いておりました」

「かような化け物・・・いや、」

 慌てて口を掌で抑え、

「大山津見命が殊更に大切にしている姫だと、確か言ったな?」

 と使者を睨みつけた。

「はい」

「ならば、この姫と一緒に大山津見命のもとに戻り、私は神阿多津比売一人で結構でございます、と申して来い。大切な姫を二人も頂くわけには参りませぬと・・・」

「しかし、御子様。御子様は先ほどお二人を頂くと口になさったばかりでございませぬか」

 古代では文字がなかった代わりにそれだけ口を衝いて出た言葉は神聖である。軽々と取り消せるものではない。だが、

「愚か者。お前は誰の従者じゃ?」

 迩々芸の口調は尖った。

「何としてもお引き受けかねると申して来い」

 そう叱責した迩々芸の言葉に被さるように

「良いのでございますよ」

 という女の声が聞こえた。見ると当の石長比売がこちらを見ている。その表情は怒っているのか、悲しんでいるのか、平然としているのか、見ただけでは区別はつかないが、声は穏やかで妙なる音色であった。

「私は父の許へ戻りましょう。その代わりと言っては失礼でございますが、妹だけはいつまでも末永く大切にしてやってくださいまし」

 聞こえていたか、とほそを噛んだ迩々芸であったが、同時にほっとしたのも事実であった。

「命を懸けて妹御は大切に致します」

 その言葉に石長比売は、微かに笑ったように見えた。

「それでは」

 と言うと後ろを振り向く。

「さ、父上のもとへ帰りますよ。連れて行っておくれ」

使者もそれに付き従ったが、その行く手を阻むように神阿多津比売が縋りついた。

「お姉さま」

使者が戸惑ったように立ち止まったが、

「神阿多津、心配することはないのですよ。お前はいつまでも御子に可愛がってもらいなさい。私の事は良いですから」

 という声が返ってきた。澄んだ綺麗な声であった。この声だけなら、迩々芸はふと思った。

 この声だけならばこの姫を妻にしてもよかったのだが・・・。

 神阿多津比売を一人残して、もう片方の姫はあっと言う間もなく使者や楽の奏者と共に姿が見えなくなったのである。


 その夜、迩々芸は神阿多津比売を抱いた。その甘美さは昼間起こった出来事にまといつく後味の悪い思いを消すのに十分であった。

 翌朝、迩々芸は爽快な思いで目覚めた。横の神阿多津比売はすやすやと寝息を立てている。その頬を優しく撫ぜると迩々芸は朝の野に出た。春の野にはもやが微かに残っているが見渡す限り若緑の葉が芽吹いている。

「良いところだ」

 高天原には季節がない。眼前に広がるような新たな命の芽吹きを感じることは殆どない。その代わり、暑い夏も、寒い冬もないのだが・・・。

 年がないから神は老いない。朽ちるように歳を重ねていく。老いと言うには余りに遅く、石の表面がゆっくりと削れるように朽ちていくのである。

 だがよほど、こちらの方が良い、ここにはいかなる時も命の営みを感じることができる、それに比べ高天原は退屈なところだ。そう考えながらぼんやりと景色を眺めている迩々芸の目に遠くから一人の男がふらふらと道を辿たどって来る姿が映った。

「あれは・・・?」

 石長比売を送って行った使者ではないか?不思議なのは出雲とここを一夜で往来することができるという事である。どうやったらそんなことができるのか?よし、あの者に聞いてみようと、迩々芸は使者に手を振った。

 使者はその姿に気付いたのか、その場でへたるように拝礼をしたのだが、そのまま動かなくなった。迩々芸は驚き、警固の者を呼ぶと使者を担がせて仮宮へと運ばせた。

 疲れ切っていたのか使者はそれから一日余りこんこんと眠り続けた。翌日目を覚ましてからも、まだ足がふらつくようなありさまである。どうやって大山津見の所まで行ったのだと迩々芸が尋ねても眼を彷徨わせ、要領を得ない答えをするばかりであった。

「私が覚えているのは神阿多津比売命をお送りするために発ったところ、そこから何も覚えてございません。次に覚えているのは長く白髭を生やした老人が言った言葉だけでございます。二度とも同じ老人でございましたから、あれこそ大山津見命でございましょう。それにしても本当に私は大山津見命のところへ二度も参ったのでしょうか?」

「ああ」

 迩々芸は頷いた。

「さようでございますか・・・」

 男は何かを確かめるように自分の脚元に目を遣った。

「気付けばあの道を彷徨っておりまして、足はくたくたになるほど疲れておりますが傷がございません。いったいどのようなあやかしにあったのでございましょう・・・」

「それでそのご老人はなんと仰ったのだ?姉姫を返しに行ったときに?」

 迩々芸が気になるのはそこである。

「はあ」

 と使者は心許なげな声を出して迩々芸の傍らにいる神阿多津比売をちらりと見遣った。

「ですが・・・」

「良い。神阿多津は私の妻だ。隠し事はせぬ」

「はあ・・・」

 ともう一度従者は嘆息を混ぜたような返事をすると迩々芸を見上げ、語り始めた。

「では、そのまま申し上げます。ご老人の言葉はこのようなものでございました。

『わが娘を二人差し上げたのには理由がございます。石長比売を傍におけば天津神の子孫代々のお命は堅固この上なく末永く長寿であるように、木之花佐久耶比売を傍におけば木の花が咲くように栄えるように、そう神に託して差し上げたのでございます。木之花佐久耶比売をお手元に残しなさったからには子孫代々栄えることは間違いありますまい。ただ、木の花の命は短くございます。栄えても長い間と言うことはございませぬ。そのために石長比売をえてお送りしましたのでございます。あの娘は見栄えこそしませぬが流紋の岩の強さ、ハンザキの長い命を象った者でございます。それにもかかわらずお戻しになるとは・・・。ですが一度日子番能迩々芸命が石長比売を一度お受けになられた以上、神託は成就してしまいました。その上でお戻しになられたという事は神託を御自ら覆したことになるのでございます。ついては神の御子のご子孫は木の花のように栄えはしますが、そのお命はやはり木の花のように短く、儚く短いものとなりましょう・・・』

との事にございます」

 一挙に言い終えた使者は怯えを帯びた目で迩々芸を再度見上げた。

「ぬ?」

 低く怒声を発した迩々芸が膝を前に進め剣の柄に手を副えたのを見て、使者は震えながら後退さった。

「おやめください。その者に非があるわけではございませぬ」

 神阿多津比売のりんとした声に迩々芸は柄に掛けた手を緩めたものの、今度は神阿多津比売を睨みつけた。

「お主の父上は、私の子孫に呪をかけなさった」

「さようなことはございませぬ」

 神阿多津比売はきっぱりと答えた。

「ご子孫はいつまでも栄えるのでございます。そのどこが呪でございますか?あなた様と私の間に子が産まれればあなた様のご子孫であると共に私にとっても子孫、父にとっても子孫。その父が悪意で呪を掛ける筈がございませぬ」

「それはそうだが・・・」

 迩々芸は苦々し気な口調を変えなかった。

「天照大御神から頂いたこの命の糸の末、末までも長くあるべきであるというに・・・」

「この葦原中国ではすべてのものの命は高天原のように長くありませぬ。その代わりに、短ければこそ命を慈しみ、子をなし末永くそれを伝えていくのでございます。命を慈しむことこそ大切だと、父が教えてくださったとお考え下さいませ。と同時に葦原中国には様々な命がございます。それを美醜だけで区別してはならぬ、と父はあなたさまに教え諭してくれたのでしょう。それを知らずに姉上をお戻しになったのは、父のとがでもなければ、私の咎でも、ましてこの使いの咎でもございませぬ。どうしても、というならば、それはあなたさまの罪でございましょう」

「・・・」

 無言のまま神阿多津比売を睨みつけると、迩々芸は比売と震えたまま伏している従者とを残し、荒々しく戸を蹴り出ていった。

 そしてその日のうちに、神阿多津比売はいずこともなく姿を消したのである。


 高千穂宮に戻った迩々芸はひどく不機嫌であった。

 大山津見にしてやられたというのが理由の一つであることは間違いないのだが、神阿多津比売に言い負かされたのも不機嫌の理由である。その神阿多津比売があの日以来行方知れずになったのも機嫌を損ねている大きな理由の一つであるが、それらがないまぜになっていてうまく整理がついていない。

 そのもやもやとした感情の塊もまた不機嫌の理由である。


「御子様」

「おお、伯父上・・・」

 狩りから戻ってその日のうちに思金神が迩々芸の許を訪れた。久しぶりに顔を合わせた思金神に迩々芸は宮に戻って初めて顔を綻ばせた。

「いつもながらご機嫌麗しゅう、といいたいところですが、そうでもございませぬようですな」

 微笑を浮かべてはいるものの、どこかさえない表情の迩々芸の心のうちを思金神は推し量ったようである。

「ああ・・・」

 相談をするならこの伯父しかあるまいと迩々芸は思っていた。笠沙での出来事をつまびらかに話し、

「どう思われる?」

 と迩々芸は問うた。思金神はふうむ、と呟くと腕を組んだ。

「大山津見命と交わりを持ったことは悪くございませぬな。諸々の品がいずこからとなく届いたのはそういうわけでございますか・・・」

 思金神が語るには姫二人が迩々芸の前に現れたちょうどその日に、荷が宮に届けられ、その多さは蔵にも入りきれないほどであったという。半数は木細工の美しい調度で、残り半数は石でできた頑丈そうではあるが見栄えのしない調度であった。運んできた者たちに謂れを尋ねても要領を得る答えはなく、ただ引き出物でございます、というだけでどんどんと運んでくる。最後には諦めて見守るだけであった。運び終えると男たちの姿はふっと掻き消え、山のような調度が後に残った。

 石の調度は重くて運べないので蔵に入れずそのまま放置しておいたのだが、翌日確かめると悉く姿を消していたとの事だった。

「なるほどの・・・。ところで、呪を・・・。解くわけにはいかぬか」

「さて、それは・・・」

 思金神は思案をするような顔つきになった。 

「大山津見命がいずれの神に託されたのか・・ですがおそらく相手は黄泉の国にて死を司る建速須佐之男命でございましょう。命の源は吾が父、命の末は建速須佐之男命が司るものでありますゆえ」

「建速須佐之男命か・・・」

 迩々芸は眉を顰めた。

 相手が悪い。

 建速須佐之男命は自分の大叔父ではあるが下手に接触を持てば黄泉の国へと引きずり込まれ命を奪われかねぬ。

 娘婿である葦原色許と娘である須勢理毗を追い遣った形の自分に、建速須佐之男が良い感情を持っていないであろうことは容易に想像がつく。万一建速須佐之男の機嫌を損じ、黄泉から戻れなくでもなったら、天照大御神から命じられた葦原中国を統べるという使命を全うできなくなる。

「ですが、物は考えようでございます」

 思金神は重々しく言った。

「大山津見命は子孫代々の繁栄は保証して下さったのです。天の日継の命が多少短くなったとて、子孫が絶えることはない。ならば国造りに差支えはないとお考えになれば」

「といってもな・・・」

 他の者がそんなことを言い出せば激怒する迩々芸であるが、思金神には全幅の信頼を置いている。耳は自然と聞く形になっていた。

「子・孫をたくさんおつくりになれば宜しいのです。産んだお子たちは大山津見命の申される通り全て栄えなさるでございましょう」

「さようか、の」

「で、その神阿多津比売と申される娘御はいずこに・・・」

「知らん」

 素っ気なく答えた迩々芸ではあったが、頭の中は神阿多津比売の姿で一杯である。初めての夜の事は今でもありありと覚えており、その甘美な感情は迩々芸の体の隅々にまざまざと刻み込まれている。自分の頬を触れてきた細い指、吸い付くような温かい唇、ほくろ一つない白く柔らかな胸・・・。

「では、他の国つ神の娘でも探されますか?」

 思金神の言葉に、思いがそらに飛んでいた迩々芸ははっと正気に戻ると、ぶっきらぼうに答えた。

「いや、結構だ」

「さようでございますか。ではその気になられたらいつでも仰せになられませ」

そう言うと、思金神は立ち上がった。


 「さくくしろ伊須受宮いすずのみや」は後に伊勢へと遷ることになるが、その頃はまだ高千穂にあり、迩々芸も思金神もこれをいつき祀っている。伊須受(五十鈴)とは日継の資格を持ちうる多くの子供であり、子孫繁栄を願うものであった。その宮の前に立って暫く手を合わせると、

「さて」

 と思金神は首を傾げた。ああは言っているが迩々芸が神阿多津比売を忘れることができぬらしいと思金神は感づいている。比売の話をしていた時、不機嫌そうな表情のままでありながら、心あらずという風情で遠くを見つめておられたのは何よりの証拠であろう。

 だが、その娘が今どこにいるのか、とんと想像が及ばない。おそらくは大山津見が匿っているのだろうが、なぜそのような事をするのかも見当がつかない。独神は男女の事に疎いと言った父の言葉を思い出し思金神は苦笑いを浮かべた。

「大山津見命は多くの妻と多くの子をお持ちであられるからな」

 男女の事となれば迩々芸や自分が敵う筈もない。暫くは様子を見るしかないだろう。


 年のうちを迩々芸は鬱々として過ごした。

 思金神が時折、手回しをして国つ神の美しい娘たちを側に侍らせるのだが、一向に手を付ける様子もない。国造りそれ自体は連れてきた神々の手で少しずつ進んでいるのだが肝心の迩々芸がそんな有様なのでどことなくたゆんできているのは否めない。

 新たな年がやってきて、漸く春めいてきた或る日、宮の外をそぞろ歩いていた思金神は、麓から屈強な四人の男が美しく飾った輿こしを担いで走ってくるのを見て瞠目した。輿という物は高天原にはないし、それまで葦原中国でも見たことがなかった。

「これは珍しいもの、それにしてもあの者たちただものではあるまい」

 思金神は呟いた。高千穂の宮のある場所は険しいとまでいわぬが、そのような物だけでも担いで来るには楽な道のりではない。

「もし」

 傍らを過ぎようとした輿に声を掛けてきた思金神を見ると、男たちは無言で輿を地面に置き、御簾を上げた。中には肌の透き通った美しい女が乗っていた。まみは黒々と、髪はみどりに輝き、唇は花のように紅く美しい女である。

「なんでございましょう?」

 そう問うた女の腰のあたりを見て、思金神はその女が身重であることに気付いた。

「これは・・どなたをどこへお連れに?」

 と問いかけようと見まわすと輿を運んできた男たちの姿は既にない。怪訝な面持ちで女に向かい、

「どこに参られる?」

 と尋ねた。

「私は天迩岐志国迩岐志天津日高日子番能迩々芸命あめにきしくににきしあまつひこひこほのににぎのみことの許に参るのでございます」

 女は美しい声色で答えた。迩々芸ふとさっき消えた男たちが、以前宮に調度を担いできた者たちと同じ姿であったことを思い出し、迩々芸の本名をすらすらと答えた女に向かって

「もしやあなたさまは神阿多津比売命でございませぬか」

 尋ねると、女は優美な仕草で礼をし、

「いかにもその通りでございます。私は大山津見命の娘、神阿多津と申します」

 と答えた。

「それはまた・・・身重であらせられるのに大変でございましたでしょう」

「いえ、さほどには」

 娘は身重の体をゆっくりと持ち上げると輿から降り立った。

「あなたさまは天迩岐志国迩岐志天津日高日子番能迩々芸命の所縁のお方でございますね」

「ええ」

 身重とはいえ美しい娘の姿に見惚れつつ思金神は、

「こちらには何用で参られたのでございましょうか」

 と聞いた。想像は容易につくが、一応尋ねずにはいられない。

「私は子供を身籠りましてございます。もうすぐ産み月でございます。そしてこれは天の御子の子供でございます。それを隠したまま産むことはならぬとこうして参上したのでございます」

「なるほど・・・。それではなぜ、今までお姿を現しにならなかったのでしょうか?」

 思金神の問いに娘は悲しげな表情をした。

「天の御子様は私の姉を醜いという咎で親元に戻されなさいました。また父の言葉に大層お怒りのご様子でございました。ならば私もうとんじておられましょう。それでかしこまり、父の許へと戻っておりましたのでございます。そのまま父の許で過ごそうと考えておりましたがまもなく身籠っていることに気付いたのでございます。そこで父に頼み、父の裔である大国主命のところで匿って貰っておりましたが、いよいよ産み月となりました。命とも相談いたしましたが私のお腹にいる子供は神の御子の子、そのままにはできまいと諭され恥を忍んで参ったのでございます」

「さようでございますか。では、御子にそのようにお伝えしましょう」

「お願い申し上げます」

 宮に入ろうとはせず、姫はそのまま留まって輿の横で思金神を見送っている。

「たいした女子だ」

 と思金神は感心した。臆することもなく堂々と一人でやって来てはっきりと自分の所存を申し述べる。迩々芸命のところへ行っても同じように申し立てるつもりであったのだろう。だが私に頼んだ以上、そこで留まり全てを預けてくる。

「単に美しいだけの女子ではないな」

 迩々芸は外見だけに惹かれたのではあるまい、そう思いつつ思金神は迩々芸の居所に赴くと神阿多津比売が言ったことをそのまま伝えたのであった。


 迩々芸は思金神の話を聞き終えると、高い鼻の穴を膨らませ、苦々し気な口調で吐き捨てるように言った。

「どうだか。あの者と契ったのは僅か一夜、去って行ったあの者の子が私の子であるとどうやって確かめられよう。誰か国つ神の子を私の子と偽って国を国つ神の手に戻そうと大山津見命は考えておられるのではあるまいか」

「美しく、気象のしっかりとしたおなごでございますな」

 思金神は迩々芸の言葉を聞き流すように答えた。そのような嘘をつくような娘には思えなかったのである。迩々芸は思金神の言葉に沈黙で答えた。だがやがて、

「それは確かに美しい女ではあるが・・・。だが、あのおなごの父上は私に呪をかけたのだ。いや私にではない、私の子孫全てにだぞ。その上私に告げもせずに去ってしまったのだ。許すことはできぬ」

 憎々し気に言った迩々芸に

「わかりました。では仰られたそのままを伝えましょうか」

 思金神は平静に尋ねた。

「そうしてもらって結構だ」

 ふん、と鼻を鳴らすと迩々芸はそっぽを向いた。


 若い娘にはいささか残酷な言い様だと思いながら思金神は迩々芸の言葉をそのまま神阿多津比売に伝えた。目の前の娘がそれを聞いてどう答えるのかに興味があったたまま神阿多津比売は畏まって聞き終えると暫く俯いていた。

 その時ふと背後に視線を感じて思金神は振り向いた。宮の高みから迩々芸がこちらを覗いている。だが思金神が振り返ったのに気付いたのか、慌てて身を隠した。

「困った御子だ」

 笑みを両頬に浮かべると、

「いかがなさいまする?お帰りであれば乗り物を担ぐ者をこちらで用意いたしますが」

 思金神の言葉に神阿多津比売は伏せていた目を上げきらきらとした瞳で見つめ返すと、首を振って声を張り上げた。

「それでは腹のうちにおります御子のお子が余りにも不憫ふびんでございます。私も疑いをかけられたまま親の許に戻ることは嫌でございます。それほどまでにお疑いと言うことであればこれから産殿うぶやにて一人で子を産みまする。あなた様はその産殿に火をかけて下さいませ。もし私の申していることが嘘偽りございませぬなら、私も子供たちも助かりましょう。そうでなければ私共は焼け死にしましょう。そう御子にお伝えくださいませ」

 この娘は我々に対して宇気比うけひを行うと宣言したのだ、と思金神は一瞬たじろいだ。宇気比とは簡単に言えば、何かを犠牲にする覚悟で白黒をはっきりさせる事である。そしてこの人は命を質にして、自らの潔白を証明しようとしているのだ。

しばらく沈黙した後、神阿多津比売の覚悟に重々し気に思金神は頷いた。

「ようございますな、御子・・・この宇気比、お受けいたしても」

 声を張り上げた思金神の声に、

「好きにせよ」

 細い声が高いところから降ってきた。


 白木でできた産殿の戸は内側から出られぬように泥で塗り固めてあった。近くに据えられた篝火かがりびあぶられて、その泥も乾き、ひびが入り始めている。中からはもう出産も間近なのか、神阿多津比売の苦しそうな呻き声が聞こえてくる。

「良かろう、火を放て」

 思金神の声に手に松明たいまつを掲げた男たちが産殿に向かって進むと、薪に火を放った。もくもくと煙が上がったが、舐めるような赤い炎が産殿を包むまでには少し時間がかかった。未明の春の気の中に、やがて焦げる木の匂いが満ちていった。

「火が付いたぞ」

 男たちの声が上がったのと同時に産殿の中から赤子の泣く声が響いた。火をつけた男たちが無言のまま一斉に思金神を振り向いた。


 迩々芸は宮の中からその光景を眺めていた。

 うっすらとあかねがさし始めた地平に黒い煙が立つと、暫くして炎が熾き産殿の形が火の中で影のように浮き上がった。

「神阿多津・・・」

 迩々芸は呻いた。その両の眼から涙が滴った。

「神阿多津っ」

 迩々芸は駆け寄ると、欄干らんかんを握りしめて声を限りに叫んだ。


「おお」

 産殿のまわりにいた男たちが叫んだのはそれとほぼ同時だった。

「雨だ、雨が降って来たぞ」

 思金神は無言のまま、天を仰いだ。月の光に照らされ雲一つないのに、天から柔らかい春の雨が降っていて顔を濡らす。雨は不思議なことに産殿の辺りに強く降っていて、激しく立ち昇っていた炎はあっという間に勢いを失っていく。やがてぶすぶすと不満げな音を残して火は消え、陽炎かげろうとも煙とも区別のつかない白い気が辺りに漂っていた。

 朝の光が地平から溢れ、形だけ残った産殿を金色こんじきの光が染めている。

 そこに虹が立っている。見たこともない太い虹である。その根元の一つは産殿の天井を貫きもう片手は天に届いている。

「打ち壊せ、中を確かめるのだ」

 思金神の震える声に先ほど火を放った男たちは一斉に産殿へと駆け寄った。みしりという音と共に扉が叩き壊された。

「ご無事でおわします」

 一人の男の声が響き渡り、喚声が立ち昇った。思金神はゆっくりと立ち上がると燃え残った産殿へと向かって歩き出した。天井は砕け、きらきらと眩しい光が中に立ち込め、目を開けていられないほどである。

「これこそ、まこと御后おきさきに違いあるまい」

 思金神の想いは男たちも同じだったらしく、中にいた男たちは神阿多津比売を見るのを憚って、焼け落ちた炭が落ちた床に膝をついたまま突っ伏している。燃え残った木から今は止んだ雨の名残が黒いしずくとなって落ち、男たちの顔や手足を真っ黒に染めている。

 だが、産屋に設えた寝床の脇には真白い布にくるまれた三人の子供が何事もなかったかのようにすやすやと眠っていた。床には少しやつれた様子の神阿多津比売が目を見開いて横になっている。その白い頬に炭の跡が一筋鮮やかに筆で刷いたように残っている。後ろ髪が僅かに解れ、うなじに掛ってその乱れようがかえって女の美しさを引き立たせている。

 その前に思金神はひざまづくと、

「よくぞ成し遂げられましたな、おおきさき様」

 と声を絞った。

「子供たちにもう名を付けたのですよ、思金神さま」

 神阿多津比売は微笑むと右の端の子を指さした。

「この子は火が燃え盛っている時に産まれたから火照命ほでりのみこと、そしてこの子は火が収まり始めた頃に産まれたから火須勢理命ほすせりのみこと

 そう言って中の子を指さした。

「そして、この子は」

 左端の子を指さすと神阿多津比売はにっこりと笑った。

「天の雨に打たれて火が消えようとした時に産まれた子です。ですから、火遠理命ほをりのみこと

「子に名をつけるのは母親のお役目。良い御名でございますな。よくぞ火に囲まれてそこまで思いが至られた」

 思金神は静かに答えた。その声に目を覚ましたのか最後に産まれた火遠理命が小さくくさめをした。

 宮からもその様子は見えた。手を揉むようにして見守っていた迩々芸は、燃え残った産殿から明るい喚声が響いたのを聞くなり身を捩るようにして、昇ってきた日に手を合わせた。拝み終え開いたその眼に、野山の花が、梅も桃も桜も山吹も種類を問わず一斉に花開いている様が映った。


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