第4話 雉(きじ)

 大山津見が短い旅から出雲に戻ると、新たな国造りの骨格は早くも定まっていた。 

 米を作るだけではなく、それを基に酒を醸し味噌を作り、また鉄を鍛え産業を興し国を富ませることによって、民の暮らしを豊かにするという方向は少名毗古那の教えを反映したものだった。その考えを葦原色許男から聞いて頷くと、大山津見は密かに高天原に赴き、神産巣日之命をおとなった。

 神産巣日之命は独神ひとりがみである。独神であっても子を持つことができるが、そうするには所以ゆえんがある筈だ。なぜ神産巣日之命が少名毗古那を産み、敢えてこの国へ遣わしたのかを知りたかったのである。

「あれは確かにわしの子だ」

 神産巣日之命は厳かに頷くと手を僅かに広げて見せた。

「わしの手の俣から生まれた手俣たなまたの神じゃ。その意味は分かろう?」

「はい」

 大山津見は頷いた。手は技術である。

「しかし、わしのしたことを快く思わぬ方々もいらっしゃる。いずれは高天原に戻さざるを得ないこともあろう」

「さようでございますか・・・」

 大山津見は呟いた。

「高天原は高天原、葦原中国は葦原中国。それぞれ各々の神がつつがなく治める。それがわしの願いだ。高御産巣日神たかみむすひのかみ殿もわしと同じ考えじゃが、わしらは古神ふるかみじゃ。新しい神々の中にはわしらと違った考えを持つ者たちもおる。それはそなたたちも弁えておるじゃろう?」

 それだけ言うと神産巣日之命は大儀そうに手を振った。

「さあ、もうお行き。二度とわしを訪れることはするな」

 それが、大山津見が聞いた神産巣日之命の最後の言葉だった。


 それから数十年の時が立ったある日、いつもの通り宮に立った葦原色許男は少名毗古那が、漂着した時と同じ、鳥の羽根を毟って仕立てたような毛皮を着て、羅摩かがみの小舟に乗り空中に座っているのを見て驚いた。

「大国主命、わたしはお暇をせねばならなくなりました」

 静かな口調でそう言った盟友の言葉に葦原色許男は慌てて駆け寄った。

「なぜでございますか」

「父が天之御中主神の身許に参られることになりまして・・・」

「え?」

「その代わりとして私は高天原に戻れとのことにございます」

「そんな・・・国造りはまだ途中にございますぞ」

「いえ」

 少名毗古那は緩やかに手を振った。

「私が教えることのできることはすべてお教えいたしました。これ以上私がいても役にたちませぬ」

「そんな・・・」

 縋るように舟に取りついた葦原色許男に

「ご容赦くださいませ」

 と少名毗古那は首を振ると、

「父神から言伝がございます」

 と静かに言った。

「何でございましょう?」

 葦原色許男は少名毗古那の体を見上げるようにして尋ねた。いつものような穏やかな微笑を浮かべるとと少名毗古那は諭すように答えた。

「やがて高天原より言向け和す遣いが参りましょう。もし来られたらいかようにも遇し、喜ばせ、ここに留めるようになさるが宜しい。ですがもし剣を逆しまに立てその上に乗り、言向け和す遣いがやってきたら、争わずその者に従いなさい、とのことでございます」

「それは・・・?」

「争いは国を滅ぼしかねませぬ」

 蒼い眸で葦原色許男を見つめ、静かにそう言うと、握っていた拳を開きぱっと手を振った少名毗古那の前に揺蕩たゆたう水が広がった。その上に小舟を据えると少名毗古那は天上に向かって舟を漕ぎ出した。

 葦原色許男は呆然とそれを見送るだけであった。


 少名毗古那が去って一年も経たぬ秋、おそれていた高天原からの遣いがやってきた。

天之菩卑あめのほひと申します」

 端正だが、どこか神経質そうな顔立ちの男はそう名乗った。美しい着物を纏った五十ほどの連れを伴ったその男は、黒く美しい髭を蓄え、綾織あやおりの衣装は連れの者たちよりも一段と豪奢である。

「お待ち申し上げておりました」

 葦原色許男はにっこりと笑って出迎えた。報せを受けて、周りに着飾った美しい女たちを侍らせ、馳走を贅沢に盛り付け、酒をふんだんに用意して迎えたのだが、天之菩卑はそれらに全く目を向けることなく厳しい表情をして、

「我が母、高天原に坐します天照大御神の名代として、この地を治められておられる葦原色許男命に言上申し上げますためにやってまいりました」

 葦原色許男を見据えると、性急な口調で話し始めた。

「それは、それは、遥々と遠いところからようこそおいで下さいました」

 そう答えつつ、

「これは駄目だな・・・」

 女にも酒、馳走にも興味を示そうとしない天之菩卑に葦原色許男は、内心呟いていた。どうも酒色でどうこうなるお方ではないようである。だが剣を抜くこともなく、ましてその上に坐すような荒々しい神でもないことにほっとしてもいた。

「天照大御神は、その御子であり、また私の兄天忍穂耳命あめのおしほみみのみことを以ってこの葦原中国を治めさせるとの言依ことよされました。葦原色許男命の御心はいかに」

 そのいかにも事務的な口調に、

「さて・・・」

 葦原色許男は微笑を浮かべたまま答えた。

「私共、国つ神は争いを好みませぬ」

「いや」

 天之菩卑は葦原色許男の言葉を遮るようにせわし気に手を振った。

「兄神はひとたび、この地に降りようとなされましたが地をご覧になられ、『豊葦原の水穂の国はいとさやぎて有る』、と申された。それは争いが絶えず起こっておると憂いてのお言葉にございます。失礼ながら国つ神たちの間では争いは収まらぬようですな。今や岩や樹木、草葉のような者でも一人前に物を言うと聞いております。そは乱れの素。直ちに高天原からの神を迎えその下にお降り成されませ」

 立て板に水を流すかのように言い終えた目の前の男に葦原色許男は静かに答えた。

「それは昔の事でございます。今の葦原中国はあまねく、ごく平穏にございます」

 天之菩卑が指しているのは恐らくは兄たちと争っていた頃の事であろう。兄たちと自分の争いばかりではなく、あの頃は各地で土地を争う者たちがいた。しかし、それらの者たちを葦原色許男が平定した今は、あずまとの国境を除けば騒擾一つ起きていないのである。

「まことか?」

 疑いの表情を見せた天之菩卑に、

「存分にご自身で御覧なされませ、さ、さ、今は酒など」

 葦原色許男は勧めたが、天之菩卑は

「それはなりませぬ。私は天の遣い故」

 と拒絶した。

「さようでございますか。では、ゆっくりとお休みくださいませ。食事は皆様の部屋へと運ばせることに致しましょう。明日から私の子、事代主神ことしろぬしのかみにこの国を隈なく案内をさせますのでじっくりとご覧いただきたい」

「わかりました。ではそうさせて頂きましょう」

 存外と素直に頷いた天之菩卑を葦原色許男は神を迎えるために新しく築いたやしろへと案内した。

「ほう、これは」

 宮の真後ろに建てられた新しい社を見て天之菩卑は目を瞠った。

「国つ神が高天原のご使者様を迎えるために力を合わせて作った物にございます。高天原のものと比べれば貧相にございましょうが」

 宮よりも一段と大きな構えの社には国中から取り寄せた様々の文物が飾られていた。その中の一つである大鏡に魅せられたように見入っている天之菩卑に、

「それはこの国の者たちが造ったものでございます」

 と葦原色許は囁いた。

「これは見事な・・・なかなか高天原でもみかけぬ。少名毗古那神が技を伝えたとは聞いていたがこれほどまでとは・・・」

「さようでございますか。お褒めに預かり光栄にございます。今、国つ神が悉くこの地に集まりつつございます。天之菩卑命にお目にかかるために」

「なるほど、ではその者たちの声も聞かねばなりませぬな。まことにこの地に争いがないのかどうか」

 天之菩卑は満足げに言うと社をもう一度眺め、ゆっくりと中へと入って行った。


「いかがでございました?」

 宮の中には既に各地からの神々が集っていた。葦原色許男に尋ねたのは息子の事代主神である。

「うむ。たいそう律義なお方だ。女や食事、酒には目もくれぬ」

 酒色で歓待して骨抜きにしてしまおうなどとは浅はかであった、と葦原色許男がこつりと自分の頭をつ真似をすると、集っていた国つ神たちはその滑稽な仕草に緊張が解れたのか、さざめくように笑った。

「天之菩卑命はこの地が昔のように国つ神が争っているのでは、と憂いておられた。どうやらあのお方は我々では国を纏めきれないというご心配のようである。しかし我ら、既に国を一丸となって纏めておると申し上げるとご安心召されたようだ」

「しかし、気を抜くわけにもいくまい。国つ神の争いがなければないで、天津神はこの地に降りてわしらの上に立とうとなされるだけでいいことになる」

 野太い声を出したのは三輪の大物主おおものぬしである。少名毗古が去った後、海を渡ってやってきて、今はやまとの三輪山に坐ますこの神と共に葦原色許男は国を纏めているのである。

「お主の申される通りじゃ」

 葦原色許男は頷いた。

「この地が平穏に治まっているからと言って高天原の神々が満足するとは思えぬ。だが、まずやって来られた使者をこちらの味方にすることが賢明であろう。その上で今のままで良いのではないかとお考えになられるように仕向けるのが得策じゃ。高天原の中にも、葦原中国は葦原中国のものに治めさせるが良いとお考えの方々もいらっしゃる。そう少名毗古那命はかねがね仰っておいでであった」

 葦原色許男の言葉に、国つ神たちは一斉に頷いたのである。


「いや、これは・・・」

 翌朝、宮の前にある広い敷地に一分の隙間もなく集まった国つ神たちが一斉に低頭したのを見て天之菩卑は言葉を失った。整然と一糸の乱れもなく、その有様は高天原でさえ見たことのないような荘厳さである。

「皆、高天原より参られた天津神にお目通りを願って集まった者たちにございます」

葦原色許男の言葉にも天之菩卑は集った国つ神たちを呆けたように見ているばかりである。葦原色許男はその様子に満足げに頷くと手にした鈴を振って声を張り上げた。

「では、これより遊びを」

 遊びとは舞や音楽のことである。大物主の太い声と共に社の近くに設えた神楽かぐらを覆った白い布が取り払われ、中から男神、女神が現れると笛の音と共に舞始めた。葦原色許男が根堅州国へ赴き、建速須佐之男命から受けた試練を掻い潜り、やがてその娘と共に葦原中国に戻って国を統一した一部始終を歌物語にした舞である。

最初は落ち着かなそうにあたりを見回していた天之菩卑も暫くするとその舞を食い入るように見始めた。

「ほほう、では葦原色許男命が妻は建速須佐之男命の娘でござるか」

 舞が終わると天之菩卑は感じ入ったように呟いた。

「はい、さようにございます。父のことはご存じであらせられますね?」

いつの間にか天之菩卑の傍に寄り添っていた須勢理毗が答えた。

「もちろんじゃ。そなたと私は母こそ違え、兄妹の間柄」

 天之菩卑は頷いた。

「ええ、私はあなたさまの庶妹でございますよ」

 頭を下げた須勢理毗を優し気な眼差しで眺めると、天之菩卑は須勢理毗の手を取った。

「父上はご健在のようですな」

「ええ、私共があのような目に遭わせたにも拘わらず、最後はお許し下さいました。もっとも逃げるときには散々黄泉の国の中を追いたてられましたけど」

「ははは、それはいかにも父上らしい」

 高天原で暴虐を尽くしたと謗られてはいるが、父建速須佐之男の持つどこか人懐こい性格に天之菩卑は密かに惹かれてたのである。物静かで律義な者ほど型破りな男に惹かれる傾向が神の世界にもあるらしい。

「それにしても葦原色許男命は頼もしいお方。あの建速須佐之男命さえ翻弄なされたのですからな。葦原中国をお纏めになられる力量を十分にお持ちのようでございますな」

 隣に座っている葦原色許男を振り向いて呟いた天之菩卑に、

「いえいえ、私一人の力ではございません。なれど、この国は昔のようではございませぬ。それをお分かりになっていただくためにもぜひ、国中を見て頂きたいと、そのように考えております」

「分かりました。そう致しましょう」

 そう応じると、翌日から天之菩卑は事代主神と共に葦原中国を巡る旅に出かけたのであった。


「天之菩卑を遣わして、はや三年になります。なれどあの者が復奏かへりごとをして来ぬばかりか、一度たりとも便りを寄越さぬのは、いったいどういう訳でしょう」

 美しい眸を顰め、天照大御神は高御産巣日神を責めるように言った。

 天之菩卑を遣いに推したのは高御産巣日神の息、思金神おもひかねのかみでありそれを認めたのは高御産巣日神である。とはいっても天照大御神もそれを追認したのであるし、そもそも天之菩卑の母は天照大御神ご自身でいらっしゃる・・・。

「御子息、天之菩卑命は聡くまた真摯なお方、ゆめゆめお忘れになっておられるわけではございますまい。今は葦原中国の国の様子を確かめておられる最中なのでございましょう」

 高御産巣日神は慎重に言葉を選んだ。天之菩卑であれば公平に物事を判断することができる。今の葦原中国が平穏であるときちんと調べ、その報せを高天原に持ち帰れば、いかな天照大御神といえども息子のいうことを無視できぬであろう。そう思金神と話し合っていたのである。

 だが・・・神産巣日神が少名毗古那を葦原中国に密かに遣わし、天の技術を葦原中国にもたらしたとがで隠居させられたのはごく最近の事である。

 疑わし気な眼差しで自分を見つめて来る天照大御神の視線は自分も国つ神の味方をしているのではないか、と疑っているようでもある。

「私は葦原中国を言向け和らげ、と命じたのです。調べよと言ったわけではない。もうあの子を信じるわけにはいかぬ。次の遣いを送ることにします」

 きっぱりと言い切った天照大御神に視線をやり、

「しかしそれでは天之菩卑様の御面目が・・・」

 と言いさして高御産巣日神はやめた。天照大御神の眼に自分に対する疑念の色だけではなく、この件に関する強い意志を看て取ったのである。

「しかし、なぜだ?」

 高御産巣日神は考えている。天照大御神は天之御中主神の代わりを十分に務める立派な神である。だが、こと葦原中国の事となると妙に意固地になる。天の事は天の神、地の事は地の神に任せれば良いではないか・・・。それに国つ神たちは天照大御神と同じ、伊耶那岐命の血を引く者たちである。その素性を重んじ地は地の者たちに任せるべきではないか・・・。胸の内で沸き起こってくる思いをそのまま胸の内で握りつぶすと、高御産巣日神は天照大御神に

「では、次の遣いを選ばせましょう。思金神に命じて諸神を集めさせるように申しておきます」

 と答えた。

「そうなさって下さい」

 愁眉しゅうびを開いたような表情になった天照大御神の許を辞すと高御産巣日神は思金神のいるところへと足を運んだ。思金神は高御産巣日神の息子だが、高御産巣日神も神産巣日之命同様に独神である。本来なら子はいない筈だが、おとがいと首の俣から子を産んだのにはそれなりの訳がある。

 何事にもとらわれず純粋に考えさせるために敢えて独立した神と成した息子は常にもっとも正しい道を指し示す。ただ、その道は思考としての正しい道であり、それに纏わる色々な事情を勘案するのが自分の役割だ、と高御産巣日神は考えている。

 天照大御神の意思を父親から聞いた思金神は、暫し押し黙った。

「どうしてもとおっしゃるならば天尾羽張神あめのをははりのかみがもっとも宜しいのですが」

 漸く口を開いた思金神に、

「しかしそれではあの時のまがと同じことが・・・」

 高御産巣日神は首を振った。

 天尾羽張神、別の名を伊都之尾羽張いつのをははりと呼ばれる神は伊耶那岐が迦具土神を斬った時の剣が、神性を与えられそのまま神と化したものである。神となったものの、その所以となった己の所業を恥じ、天尾羽張神は以来、天の安河やすのかはの瀧を逆さに堰きあげて、その奥で蟄居ちっきょしている。神の子を殺したという罪業は深い。その深さはいざとなれば子さえも殺すという、己を律することのできない心根に及んでいる。再び地上に降り立てば何をしでかすかわからない、と天尾羽張神自身が思っているのである。

「あの方も容易にお受けなさりませぬでしょう。ところで天之菩卑命はどうなさいます」

 思金神が話題を転じた。

「そのままうっちゃるしかあるまい。戻られても天照大御神がお許しになるか、分からぬ」

「そうですね」

 思金神も頷いた。

「どうやら天照大御神は葦原中国をお諦めになりそうにございませんね」

「なに故かのう?」

 高御産巣日神が嘆息した。

「天之忍穂耳命が、建速須佐之男命とのお子だからでございませぬか?」

「そうか?」

 高御産巣日神は眉を上げると、不思議そうな顔で思金神を見た。今まで高御産巣日神は一度たりともそんな風に考えたことがなかったのである。思金神の言う事は常に自分の考えのどこか片隅に引っかかっているもので、それを理路整然と話すのが思金神の役割でもある。従って自分が全く思ったことがないことを思金神が話すことはほぼ皆無である。なぜまたそのような事を唐突に言いだしたのか、と怪訝な面持ちのまま、

「あのお方の暴戻には天照大御神さまもほとほとお困りになられて、天の石屋にお隠れになったほどじゃ。その方との間に産まれた御子をそれほどまでに慈しむものかの?それにそれを言えば天之菩卑能命とて同じこと」

 と言った高御産巣日神の言葉に、思金神はいえ、と首を振った。

「天之忍穂耳命こそ、建速須佐之男命が正勝吾勝勝速まさかつあかつかつはやとご自分の勝利を高らかに冠したご長男。かつ天照大御神の左の御美豆良みずらに成りまされた神でございます。天照大御神ご自身も伊耶那岐命が左の御目を洗われた時お生まれになった神。左こそ正統の証し、そうお考えなのではございましょう。天照大御神は女の自分が高天原に上り、男の建速須佐之男命が命をお受けにならなかったことを心底では哀れに思っておられるのではございませぬか。ですからこそせめて、その正統の御子に葦原中国を治めさせたいとお考えになられているのではないかと」

「ふうむ・・・」

 高御産巣日神は腕を組んだ。

「もしや、天照大御神は建速須佐之男命様を未だにお忘れになれないのではございませぬか?」

 天照大御神が自分の弟を男として愛しているのではないか、と思金神が暗に示唆しているのに気付いた高御産巣日神は一笑に付した。

「そのような馬鹿なことがあるか」

「いえ、男と女というものは分からぬものでございますよ。それはともかく、葦原中国のことに戻りますと、もし万一でも可能性があるという事なら・・・」

 思金神はそれまで腹の底にしまっていたらしい考えをひそひそ声で高御産巣日神の耳に囁いた。

「なるほどの」

 聞き終えた高御産巣日神は頷いた。

「うむ。考えておこう」

 高御産巣日神にとって思金神と話すことは自問自答のようなものである。心の底にあることがぽっかりと浮き上がって来ることもあり、思っていることがすっきりと纏まることもある。

 思金神の住まいを後にした高御産巣日神は、天照大御神が建速須佐之男命の乱暴を最初のうち、妙に擁護していたことをふと思い出し、首を傾げた。そういえば、建速須佐之男が天に来ると聞いた時にはあれほど驚き軍勢を率いて阻止しようとなさっていたのに、いざ建速須佐之男が来てからは妙に庇いだてをなされるようになられたのはなにゆえか・・・。

「まさか、本当にあのお二人は情が通じ合っていたのか?」

 あの時はご兄弟だからこそ、と考えていたのだが兄弟だからこそ許さないということは往々にある。しかし、情を通じ合っていたのならば・・・無意識のうちに自分もそう思っていたのだろうか?だからこそ思金神は唐突にあんなことを言いだしたのであろうか・・・?


「実は・・・、兄上は高天原をお出になるのがおいやなのかもしれないのです」

 連れ立って歩いていた天之菩卑がふと吐くように漏らした呟きに事代主神は目を上げた。二人は今、高志(越)の国を旅している。高志は葦原色許男の治める国の北のはずれであり、そこから先は蝦夷えみしりょうする国となる。眼前に広がる海をそのまま南へ下っていけば、再び出雲へと戻る。その帰りの道筋であった。

「と仰る所以は?」

 事代主神は高まる気持ちを抑えながら尋ねた。天之菩卑が高天原のことを語ることはない。それを敢えてすれば、天之菩卑はもはや天には戻ることをあきらめねばならぬ。だが、天之菩卑はゆっくりと言葉を継いだ。

「もし、そのおつもりがあるなら例えこの葦原中国に騒擾があったとしても降ることを躊躇いは致しませぬ。兄上のお力があれば失礼ながらあなた方を切り伏せるのは容易いこと。私と違ってあの方は天照大御神と建速須佐之男命の正統な跡継ぎとしてそのいずれの力も継承なさっておられるのでございますから」

「なるほど」

 事代主神は頷いた。天から遣いに出されて三年、旅をしているうちにこの二人は生まれついての兄弟のように仲良くなっている。

「わざわざ私を遣いに出す謂れなどないのです」

 遥か彼方の波間に目を遣りながら呟いた天之菩卑の言葉に事代主神は相手の鬱積うっせき垣間かいま見た。天之菩卑にしてみれば兄の遣いとして葦原中国に下されたことは面白いことではなかったようである。なぜ兄が望まぬならば、自分を正当な支配者として葦原中国に下さなかったのか、とも考えておいでであったのだろう。だがその理由がご自身の力の不足にあるという事も同時にはっきりと悟っておられるのだ。天之菩卑は律儀で真摯な性格の持ち主だが、いざ国を治めるとなるといささか小心に過ぎるのではないかと事代主神も思っている。

「ですが、そのおかげでこうして同胞はらからのようになれたのでございますから」

 そう言うと天之菩卑は僅かに愁眉を開いたように事代主神を見遣った。

「それもそうでございますな」

「これからどうなさるおつもりか?」

「さて」

 天之菩卑は眼を彷徨わせた。

「天照大御神は私のことをどう考えておわすやら。遣いに失敗したと見なされれば私も罪を得ましょう」

「いっそ、こちらに住み着いてしまわれたらいかがですか」

 事代主神の言葉に天之菩卑は再び遠く海へと視線を遣った。

「そうですな。私個人としてはそれでもかまわない。ですが母はそんなに簡単にお諦めなさりますまい。いずれ私の代わりをこの葦原中国に送りなさるに違いない」

「さようですかな」

 だとしても、当分先のことになるだろう、なにせ天之菩卑能命は天照大御神の子なのだから、と考えながら応じた事代主神のもとに急ぎの遣いが現れたのはそれから間もなくであった。


 報せを聞いて高志の国から急いで戻ってきた事代主神と天之菩卑の二人を目の前にして、

「よう戻ってきてくれた」

 と葦原色許男は言った。国つ神たちも再び出雲の地に続々と集まって来つつあり、その場にも多くの者が同席していた。

「迎えに出した者たちからの報せでは、天若日子あめわかひこという新たな使者が高天原より下って来られるとの事だ」

「天若日子でございますか」

 天之菩卑は怪訝そうに呟いた。

「ご存知のお方かな?」

 葦原色許男は柔らかな視線を天之菩卑に送った。

「ええ、存じております。しかし、またなぜ?」

 「しかし、またなぜ」と首を傾げた天之菩卑に国つ神たちの視線が集まった。

「なぜ、とは?」

 天之菩卑は自分に集まった視線にたじろいだように身を一瞬引いていたが、葦原色許男の問いに胸を反らせた。

「高天原の神にも格式や位というものがございます。不遜ながら私は天照大御神の子。高天原の神々の中で決して他の神に引けをとるつもりはございません。天若日子とて貴い身分には変りございませんが、私の後に来るべき遣いとは思えません」

「それは、どう解釈すればよいのかな?」

 葦原色許男は首を捻った。

「我々の間では、位の低いものを遣いに出すとき、それは往々にして相手を軽く見ていることを意味するのですがな」

「いえ、この場合そうとも言えませぬ」

 暫く考えてから天之菩卑は答えた。

「と、申されると」

「高天原の中で、葦原中国の服従にそれほど力を入れるべきでない、ここは時間を置くべきだ、そう考えている神々がおられるのではないかと推察いたします。位が低くとも武力の神であるなら警戒すべきでしょうが、天若日子にはそうした力もございません」

 天之菩卑の言葉に

「なるほど・・・。それは我々にとって良いことでございましょうね」

 葦原色許男の問いに天之菩卑は頷いた。

「それに天若日子には弱点がございます」

「なんでしょうか、それは?」

 さすがに大勢の前で天津神の弱みを暴露するのが躊躇われたのか、天之菩卑は葦原色許の耳に何事かを小声で囁いた。

「なるほど、それは・・・」

そう呟いた葦原色許の顔面が綻んだ。

「それは良いことを伺いました」


 天若日子が従者を率いて高天原から下ってきたのはそれから間もなくであった。

尊大な態度で、

「吾は高天原の遣い、天若日子と申す。葦原色許男命とは汝か」

 と名乗りを上げるなり問うた天若日子に、葦原色許男は恭順のしるしとして地面に頭をつけたまま、

「さようにございます」

 と答えた。

「先に天照大御神の御子であり、この地を統しめすべき正勝吾勝々速日天忍穂耳命の弟君、天之菩卑能命がこの地に降り立った筈じゃ。そのお方から高天原の意向は聞いておろう」

 横柄な態度を崩さない天若日子の質問に、

「もちろんでございます」

 「正勝吾勝々」とは、また大仰で脅しめいた冠を付けたものだ、と内心思いつつも葦原色許男は頭を地面につけたまま答えた。さしずめ高天原の権威を示すつもりであろうと考えたのだが、まさかその名の由来が妻の父にあるとは思ってもいなかった。

「正勝吾勝々」は建速須佐之男が天照大御神と契った時、自分の優位を誇示するために付したことに由来する。その意味とは「この勝負、俺の勝ちだ」という単純なものである。

「ところで天之菩卑能命はいかがなされた。みとせを経たというのに一向にかへりごとがござらぬと、天照大御神はたいそうご立腹じゃ」

 そう言いながら辺りを見回したが当の天之菩卑の姿はそこにない。

「あのお方は、病を得られて籠っております」

「なに?病だと」

 天若日子は眉を顰めた。

「はい、さようにございます」

 答えてゆっくりと顔を上げた葦原色許は目の前に立つ凛々し気な男を初めて仰ぎ見た。

「なるほど麗しいお顔をなさっていらっしゃる」

 葦原色許男は心の中で呟いた。

「わしの子といい勝負だな。というか、よく似ておる」

 葦原色許男が須勢理毗の反対を押し切って宗像に住む多紀理毗売たきびりめを婚いで産まれた阿遅鉏高日子根あぢすきたかひこ命は、国つ神の中でも随一の眉目秀麗と謳われている。多紀里毗売もまた天照大御神と建速須佐之男命の子である。美しいのはおそらく母の血を引いたのであろう。

「だが、あやつはこのお方と違って色に興味がない」

 天若日子の弱みとはそこである、と先だって天之菩卑は葦原色許男の耳元に囁いたのだった。

「たいそう、見栄えが良いので女たちが放っておきません。そのためか高天原で妻を娶ってからも様々の噂がございます。夫のあるものまで手を出していると幾度となく訴えがございました。こたびの遣いに任じられたのは、もしかしてこの機に乗じて厄介者を外に出してしまえという意味が込められているのかもしれませぬな」

「なるほど・・・」

 その癖が地に降り立っては出ることがあるまいと天津神たちはお考えになられたのだろうか。或いは国つ神の中に天若日子の興味を引くような女はいるまいと考えたのだろうか?だが・・・。

「さあ、高比売たかひめ。御子様の足を洗って差し上げなさい」

 葦原色許男の言葉に、はい、と柔らかな声を上げたのは葦原色許の隣で這いつくばっていた女であった。その女が顔を上げたのを見て天若日子は、

「おお、これは・・・」

 と一瞬息を呑んた。葦原色許男の娘、高比売は阿遅鉏高日子根命の妹である。兄が国つ神の中で一番の男前なら妹は一番の美女であった。

「なんと美しい」

 目の色が変わった天若日子に、

「これは私の娘でございます」

「さようか・・・」

 言葉を失ったまま足を高比売に任せ、見惚れている天若日子を面白そうに見つめていた葦原色許男の許に一人の男が近づいてきて耳元で何かを囁いた。

「うむ」

 と葦原色許男は頷いた。天若日子の従者の中の一人の女の顔を見つめた葦原色許男の眸が細く光を帯びた。隣の部屋との間に拵えた覗き穴から天若日子の一行の様子を見ている天之菩卑からの伝言は、

「一行のうち、浅黄の着物を着ている若い女が、天佐具女あめのさぐめという探り女、天照大御神直々に仕えていたものです。佐具は探りの意にございます」

というものであった。

「あの女がの」

 高天原から来たにしては地味な身なりの女は見事なまでに目立たない存在であった。容姿も格段に優れているわけではない。それでも地味ななりの中に滲む気品がる。

「ふむ」

 呟いた葦原色許男の眸に、次第に興味の色が湧いていった。


 表情にこそ露わに出さなかったが、天佐具女はふくろうの住む森の夜の栗鼠りすほどに警戒していた。なぜ葦原色許男が、秘密裏に自分ひとりだけを呼んだのか一向に分からなかったのである。探り女だという正体がばれたのかと恐れていたのだが、どうもそうではないらしい。

 目の前の男はずっと自分で喋り続けており、天佐具女が発することのできる言葉は、

「さようでございますか」

「なるほど」

 といった相槌位のものである。目の前の男の語る事と言えば、いかに国つ神を束ねるのが大変なのかということと、妻への愚痴である。適妻の須勢理毗は勘気が酷く葦原色許が他の女に手を出すと大層怒るらしい。だが葦原色許男としても他の国つ神との交わりを深めるために、高天原から妻を娶り子供が欲しい。娘を嫁に出して有力な国つ神と交わりを結ぶのは大切なことだ、と葦原色許男は目の前で力説している。

 妻の勘気を掻い潜り何人かの娘を持ったおかげで今、葦原中国に平和が保たれているのである。もし産まれた子が息子なら力量に応じて、それなりの役目を与え、家を守る役目を果たすことができるのだとも力説してくる。それにたいして天佐具女は頷くだけである。探るべき相手がこうも赤裸々に別の女との関係を語るのに呆れてもいる。

 恐らく天津神と国つ神の間でも同じであろうし、天津神の間でもそうなのではないですか、と葦原色許男は目の前の女に同意を求めた。

「そうでございますね」

 と答えた天佐具女に向かって大きく頷くと、

「そこで、今度の天若日子と高比売の結婚でございます」

 と葦原色許男は気を昂らせて言った。

「嬉しいことに話がまとまりましてな。天若日子様から是非にとのお申し出があり・・・おや、これは迂闊なことを」

ぽんと葦原色許男は自分の頭をはたいた。

「まだこれは秘密でございましてな。内証ないしょうにしておいて下され」

 一瞬、驚いたのだが天佐具女は表情を巧みに押し殺して頭の中で計算をした。遣いが葦原中国の有力者と結ばれるのは決して悪いことではない。相手の懐のうちに入り込むことができるからである。

 とはいえ、いささか性急に過ぎるのではないか。天若日子が女性に弱いとは知っているが、ここまで早すぎるとは・・・。もしや、あの美しい女性と目の前にいるその父親に籠絡ろうらくされたのではあるまいか?しかし眼前の男はそんな疑念を膨らませるようなことは一切なく滔々と話し続けてくる。

 できれば国つ神の長である自分も天津神の有力な娘と婚ぎたいが、妻の勘気のためにそれができないのは国つ神の長としては困るのだと、愚痴は続く。須勢理毗は、天津神との婚姻だけはどうしても赦そうとしないそうだ。ただでさえ、黄泉の国で生まれたことに引け目をもっているのに、高天原で生まれた姫などが来たら、適妻の地位が脅かされると恐れているらしい。

「以前、余りに酷い悋気に、妻と別れようと馬の鞍に腰かけたぐらいでしてな」

 遠い目をして暢気そうにその頃のことを思い出しているらしい男に天佐具女は思っていたことをついに口にした。

「それにしてもなぜそのような事をこの私に?」

 目の前の女が自分の心を覗き込むような目をしているのを見て葦原色許男は、や、や、と叩頭こうとうして微笑んだ。

「これは、これは、老人の退屈な話でしたな。いや、貴女を見ているとつい生みの母のことを思い出しましてな」

 これは嘘である。葦原色許男の母親は大柄な女性で胸も尻も大きい豊満な女だったが、天佐具女は小柄でほっそりとした、少年のような胸と尻をしている。

「つい愚痴を申してしまいました。ご迷惑でしたかな」

「いえ、そのような・・・」

 天佐具女にとって、葦原色許男から、愚痴交じりとは言え国つ神の情報を聞き出せるのは有益な事である。

「私のようなもので宜しいのでしたらいつでも話をお伺い致しましょう」

 微笑み返した天佐具女に、

「それは有難い。どうも葦原中国の者たちに今のような話をするのは弱みを握られるようで心地悪い。かといって天からやってきたお歴々は皆、一段と高い身分の方ばかりですし、迂闊に気を許せません。貴女のように誠実で口の堅く見える方はそうはおられませぬのでな」

 と言うと葦原色許男は、さあさ、と酒を勧めた。

「では少しだけ」

 慎ましやかに天佐具女は器を空けた。

「おお、これは、良い飲みっぷりでございませぬか」

 葦原色許男は褒め称えるように天佐具女の両手を取ると上下にゆすった。その純真爛漫な仕草が自分の心にいつもと違う感情を灯したことに天佐具女はその時、まだ気付いていない。


 しかし二度、三度とそのような事が続くうちに天佐具女は次第に葦原色許男に心が惹かれている自分を意識し始めた。自分の役目を忘れたわけでなく、葦原色許男と会った日には夜遅くまで聞いた話を頭の中で整理することも忘れてはいない。だが、そうしているうち、ふと思いに沈んでいる自分に気付く時がある。その時目に浮かんでいるのは葦原色許男の優し気な眼差しである。

 探り女として生を受けた自分は一生男と心交わることはなかろうと天佐具女は考えていた。場合によっては体を使い秘密を探り当てねばならぬこともある。だが決して心を許すわけではない。自分を抱いた男が例え死をたまわるようなことがあっても何の感情もそこにはない。一つの仕事が終わったというだけのことである。

 天佐具女の探りの対象になる男たちは、神と雖も薄っぺらい善人面の下に醜悪な心を隠している者たちであった。その善人面を剥がしているうちに男という生き物はそんな者たちだと思うようになってしまったのかもしれない。だが葦原色許男という男は茫洋とした表情の奥に深みのようなものがある。剽軽ひょうきんな仕草の中に温かみがある。初めて話した時に聞かされた女との交わりの話さえ、不愉快なものではなく自分もそんな女の一人になりたいものだ、とふと思う。いけない、と慌てて記憶を辿りはじめるのだが、思いもよらずふと触れ合った指が熱く燃えるように思え、女の芯までが熱くたぎって気がしてくるのである。


 二人が只ならぬ関係になったのは、それから間もないことであった。酒の器を渡すときに触れあった指が、そのまま天佐具女の襟に掛り衣から白い肌をのぞかせた。女はそれを待っていたかのように男に身を寄せた。二人は唇を求めあうようにしてゆっくりと倒れ込んだ。天佐具女の小さな胸は葦原色許男の太い指に弄られ、やがてその指は裾を割った。天佐具女はすすり泣くように欣喜きんきの声を上げた。

「子だけは・・・ご容赦を」

 天佐具女は葦原色許男が天津神との間で子供を作りたいと願っているのを知っている。だが、自分はその願いをかなえるほどの地位にもいなければ、天から与えられた役割上、葦原色許男との間に子など作ることは到底許されない。その嘆願に葦原色許男は頷いた。

 事が終わると、ぐったりと葦原色許の厚い胸に体を委ね、

「須勢理毗比売命に申し訳ございません」

 と天佐具女は呟いた。

「なに、あれは今、旅に出ておる。母と一緒にな。天の沼琴を返しに根の堅州国に行っておるのだよ。暫くは父と積もる話があろう。母と共に春まであちらにおると言っておったわ」

 葦原色許男はあっさりと答えたが、言葉の中に建速須佐之男とのよしみがあることをそれとなく忍ばせている。万が一この女が心変わりして天に報せを送ったとしても建速須佐之男と誼が妻を通して残っていることが分かれば高天原も躊躇うに違いない。

「でも・・・それでは留守中にを盗んだと思われてしまいます」

 女は肝心の部分を聞き流し、ひたすら男の妻に向けて悔いているようであった。その様子に葦原色許男は、この女はもはや再び寝返ることはあるまい、と確信すると同時に、いとおしいという感情が胸の奥に沸き上がって来るのを感じた。容易く裏切る女には何かが欠落している。それは人が他者への愛と呼ぶものだ。そんな女たちの心と体にはその代わりに自己愛がいっぱいに詰まっているものである。だが、この女はそうではない、と葦原色許男は見た。今、この女は自分と出会って初めて他人への愛を得たのであろう。

 初々ういういしい女じゃ・・・。探り女である以上、本来初々しい筈はないと思うのだが、だがそれだからこそ、却ってそれまで隠していた、本当の女としての初々しさが浮かび上がるのかもしれん。

 それは今までの女に対して抱いたことのない感情であった。

「心配なさるな」

 そう言うと葦原色許男は女の頬を軽く撫でた。須勢理毗は葦原色許男の好みを知っている。夫は今まで天佐具女のような地味な女には決して手をつけたことがないのである。だからこそ気軽に旅にも出たのであろう。

「だが、このような女は意外と良いものだ」

 葦原色許男は思い始めている。この娘は男から真の愛撫を受けたことが今までなかったらしい。それゆえにみずみずしい。しおらしい。こうなったからには天に帰るのも憚られよう、なら一生ここに居つかせ手元において可愛がってやろう、などとしからぬことを葦原色許男は考え始めている。

 一方で、男の胸に顔を押し当てている天佐具女の方の心は千々ちぢに乱れている。本来なら葦原中国で力のある鳥を捕らえ、天に放ち葦原中国の様子を伝えるのが役目である。しかし、天佐具女は既に鳥を探す気持ちを失っている。鳥に言葉を伝えれば、その中に天佐具女自身の想いも混じる。天照大御神がそれを聞き逃す筈はない。


 それから八年の歳月が過ぎた。

 なぜ八年もの間、天上の神々が葦原中国を放置したかと言うとその間に高天原では、太子ひつぎのみこ天忍穂耳命の婚礼と出産という一連の祝い事があったからである。天忍穂耳命の相手は高御産巣日神の娘である。以前、思金神が高御産巣日神に諮ったのは、娘を持ちそれを天忍穂耳命に娶せることであった。

「そうすれば、天忍穂耳命様も高天原に未練ができましょう。また娘御、と申しますか、吾が妹には葦原中国に行きたくないと言わせることもできましょう」

 思金神の言葉に高御産巣日神は頷いた。天照大御神がそんなことで葦原中国を諦めるかは些か心許なかったが他に良い方策が思い当たらない。天忍穂耳命が高天原に留まりたいと望むのが丸く物事を納めるのに一番の手である。

 高御産巣日神は独神として娘を産むのではなく、高天原でもっとも美しい姫を素性の正しい者の中から探し、それを養女として娘にした。すぐに二神の間には子供が二人産まれ、天照大御神は孫の誕生と成長に葦原中国の事をつかの間の間忘れていたのであった。だが一人目の孫が八つになり、一人前の口を利くようになると天照大御神はふと子や孫の行くべき先である葦原中国の事を卒然そつぜんと思い出したのである。


 と或る朝、突然召し出された高御産巣日神は天照大御神の

「葦原中国に遣わした天若日子は、なぜ未だに戻って来ぬ?」

 という言葉に

「さて」

と首を傾げる素振をした。

 高御産巣日神は天照大御神が探り女を一行に紛れ込ませたのに気づいている。その報告を受けている筈であるから自分より天照大御神の方が葦原中国の現状に関して知っている筈だ、と考えていたのである。では、あの者は何の報告もしてきていないのですか?と言う問いが喉元まで出かかったが、自重した。探り女を一行に忍ばせた事に気付いていると天照大御神に知らせても良いことは何一つない。

「それでは鳴女なきめを遣いに出して様子を探らせてみましょう」

 高天原と葦原中国を行き来するのに鳥はもっとも便利であるが、小さな鳥は力がない。かといって鷲や鷹では人里で目立ちすぎる。烏かきざしほどの大きさがちょうどいい。

 牡の雉では目立ちすぎ、烏は知恵が回りすぎる。雌の雉を推したのは目立ちすぎず、余計な知恵を回しすぎないようにとの考えであった。雉は天照大御神と高木神に呼び出され重い役目を仰せつかったことに喜び勇んで高天原を後にした。それを高御産巣日神と一緒に見送った思金神は、

「お忘れになったかと思っておりましたが・・・」

 と呟いた。

「なんの」

 と高御産巣日神は弱々しく笑った。後は天忍穂耳命のお気持ちにかかっている。残念ながらこうなってしまった以上我々が何を言っても聞く天照大御神は聞く耳をお持ちになりはすまい。


 鳴女は軽躁けいそうに喜び勇んだわりには慎重な行動をした。先ずは様子を探ろうと出雲の宮の周りを歩き回ったのである。下手にうろつきまわっては捕まって肉にされてしまうと考え、人が忙しく立ち働く夕と眠りについている朝早くにだけ宮に近づいた。

 天若日子が若い娘と宜しくやっていることにはすぐ気が付いた。まるでこの宮の主人であるかのように振舞っている天若日子の様子に舌打ちをしたが、鳴女は他にも妙な事にも気付いたのである。朝早く、身なりの良い壮年の男が近くに建てられた新しい建物に通っていく姿を屡々しばしばみかけることである。

「もしや、あれは葦原色許男命ではないか」

 と考え、或る朝、男が忍び入った建物にそっと近づくと隙間から中を覗いた。男と睦あって忍ぶような声を押し殺している女の顔に鳴女は見覚えがあった。

「あれは天佐具女ではないか」

 勃然ぼつぜんとこみ上げた怒りに鳴女は我を忘れた。端女はしために過ぎない天佐具女が役目も忘れ、家まで賜って男と睦あっている様が許せなかったのである。もともと鳴女は神々から

「葦原中国についたら天若日子になぜ役目を疎かにして八年も何事も言って寄越さぬのか」

 詰問せよ、と言いつかったのだが、そんな事をすれば己の身が危ないと雉なりに考えた。だからこそ普段と似つかず慎重に探りを入れていたのである。天若日子の現状を見れば国つ神にたぶらかされているのは一目瞭然である。それを帰って報告すれば事は足りるであろう。雉の身で詰問などすれば傲岸ごうがんな天若日子のことである。命がいくらあっても足りまい。

 だが、鳴女は天佐具女の嬌態きょうたいを目にして我を忘れた。宮の湯津楓ゆつかつらの木に駆けのぼると、

「天佐具が役目を忘れて男と睦んでいるのはどうしたわけか。汝は役目を忘れたか。葦原色許男に誑かされたか。この好色女が、恥を知れ」

 と喚き散らしたのである。


 うとうとと男の胸に顔を埋めていた天佐具女は葦原色許男が、

「妙なことだ。朝に雉が鳴くとは。雨でも降るか」

と呟いたのを聞いて顔を上げた。葦原色許男には雉の鳴き声としか聞こえぬが、天佐具女はそれが高天原の遣いの声だと瞬時に聞き分けた。突然血の気を失い、目を見開いた天佐具女に

「どうした」

 と葦原色許男は不審げに声をかけたが、天佐具女は答えもせずに幽霊のように立ち上がった。前を合わせただけで、ふらふらと出ていった天佐具女の後ろ姿を葦原色許男は呆然と見送っている。

「大変でございます、天若日子さま」

 寝穢いぎたなく寝込んでいた天若日子は悲痛な叫び声に目を覚まし、床から身を起こした。傍らに寝ていた高比売が起き上がろうとするのを腕で制し、天佐具女の衣から微かにのぞいている白く輝くような肌を興味深げに一瞥すると、天佐具女をののしる雉の声に

「お前も宜しくやっておったのか」

 とにやにやと笑った。天佐具女は俯いた。天若日子はとうに天のみことのりなど眼中にない。このまま葦原中国で葦原色許男の娘と暮らしていけば、やがて国も自分の手に入るかも知れないと計算を始めている。だが天佐具女自身もそれをよいことに葦原色許男の女となってこの地で暮らしている。

 天若日子は鳴女が天佐具女の淫らな行状を喚きたてようと、てんとしていた。雉が天佐具女に嫉妬しているのは明らかであった。後で雉を懐柔して利を与えれば良い。鳴女など所詮、目先の利でどうともなるに違いない、そう考えた。だが鳴女は天佐具女だけを詰ったのではなかった。興奮して我を忘れた鳴女は喚き続けたのである。

「天若日子。は何をしておるか。汝を葦原中国に遣わせる所以ゆえんを忘れたか。汝の役目は其の国の荒ぶる神どもを言趣ことむけ、和することぞ。八年に至るまで覆奏せぬのは女と寝ることにあったのか。愚かにもほどがあろう。今すぐ天照大御神に吾が覆奏致そうぞ。首を洗って待っていろ」

 鳴女が自分を罵るのを聞くと天若日子は血相を変えて立ち上がった。そして高天原を去る時に天照大御神から賜った迦久矢かくや波士弓はじゆみを手に駆けだした。それを見て、慌てて天佐具女も後に続いた。

「おやめください」

 天佐具女の制止も空しく、天若日子は庭に出るなり弓に矢を番え、喚いている鳥を射た。矢は雉の胸を貫通し、果てしなく空に向かって飛んでいった。鳴女がどさりと地面に落ちる音があたりに響いた。

「恐ろしゅうございます」

 蒼い顔をして竦んでいる天佐具女の姿をちらりと見遣ると天若日子は口を引き結んだまま立ち去った。庭にうずくったまま、女はおこりを患ったかのようにいつまでも震え続けていた。


 天若日子が射た矢はそのまま天へと駆けがり天照大御神と高御産巣日神の許へと舞い戻った。安河のほとりにある神域に落ちた矢を受け取った高御産巣日神の手許を、天照大御神もじっと見ていた。

 矢羽が血に染まっている。

「はて」

 高御産巣日神は呟いた。なぜ血に染まった矢が戻ってきたのであろうか?

 いかに天若日子が愚劣でも天の遣いを射るようなことはすまい。詰問されて、その答えが天を欺くものであったとしてもそれだけで天若日子に死をぶことなどない。高天原に戻すことはならぬが、それ以上の事はない。だが、無体にも、もし使いの者を殺すようなことがあったならば・・・。

 高御産巣日神はそっと天照大御神の顔を盗み見た。その表情は硬く、冷たく、何も物語っていないようで、全てを物語っていた。遣いの者を殺すと言うことは、遣いを送った者その人を殺す意図ととられてもしかたない。

 致し方あるまい・・・。高御産巣日神は呪の言葉を矢に囁くと、そのまま矢を再び地へと下したのである。


「何事がおこったのでございますか」

 幽鬼のような足取りで館に戻ってきた天佐具女が何を尋ねても答えないのに見切りをつけると、葦原色許男は天若日子の許にやってきてそう問いかけている。高比売を下がらせ、一人にした婿に厳しく問うているが、婿は目を逸らしたまま何も答えようとしない。

 天若日子が憤怒の形相で雉を射た姿を葦原色許男も女を住まわせている館から見ていた。神域でそのような穢れを成した娘婿の仕業にため息をついたが、射られた雉を探させてもどこにも見つからないという。

 一体雉などを婿があれほど興奮して討った理由が分からなかったが、忽然と姿を消したという雉の話を聞いてどうやらそれは天からの遣いではないかと思い当たった。とすれば、何か良からぬことが起きるのではないか?

 そう考えて詰め寄って来る葦原色許男に、

「なに、舅殿、気にするまでもない。詰まらない事です」

 傲然ごうぜんと答えた天若日子は端正な顔を保ってはいたが、そこに僅かながら軽率な行為への後悔の色が滲んでいるのを見て取った葦原色許男が

「ですが・・」

 と膝を前に進めた時、にわかにあたりが暗くなった。葦原色許男は慌てて戸を開けた。空が青からどすぐろい紅に変わり、雲一つなかった空に一点の黒雲が湧きあがっている。その黒雲が見る間に猛烈な勢いで広がっていく。

「なんだ?」

 と葦原色許が叫ぶ間もなく、雷鳴が物凄い音を立て落ち、葦原色許は八度転げて木の柱にぶつかり漸く止まった。暫く動けずにいたが、何とかふらふらしながらも立ち上がったその眼に、倒れている天若日子の姿が映った。衣の胸の辺りに焼けこげた跡があり、既に目に光はない。

 呆然と葦原色許男が見上げた空は最前のように雲一つない青空である。


「どこに消えたのだ?」

 何度も見渡したのだがとむらいいにやってきた天若日子の親族の中にも、国つ神たちの群れの辺りにも天佐具女の姿はない。弔いの野辺で体を投げ出し夫の死を嘆く我が娘の慟哭どうこくを聞きながら葦原色許男は憮然としている。天若日子は天の怒りに触れたのであろうが、その経緯いきさつが分からぬ。天佐具女は確かにその事を知っている筈なのだがようとして行方が知れない。

 仕方なしに天之菩卑に尋ねたが、首を振るだけでその表情には恐怖と憔悴の色が貼りついている。もしや明日には我が身にも天の降す死が訪れはしないか、と恐れているに相違ない。詳しいことはもはや知る由もないが、高天原の神々が新たな手を打ってきたことは明白であった。葦原色許男は夫を失った自分の娘の泣き声を聞きながら懸命に考えている。


「どなたじゃな」

 竿を手にした老人は、年に一度訪れる農家の、勝手に使って構わないと言われている掘立小屋の中に先客がいるのに気づいて声を掛けた。たばねて幾重にも積まれた藁に顔を埋めた若い女が背を向け蹲っていた。自分が入って来ても振り返ろうともせずに、ただ震えている。老人は首を傾げるとそっとその娘の肩に手を置いた。

 その老人のことを我々は以前一度だけ見たことがある。その時は久延毗古と名乗った老人は、あの事がきっかけで今は名を変えて土地土地を彷徨さまよっている。

「何か良からぬことがあったのだな。男にでも襲われたか?話してごらん。気が楽になろう」

 肩に手を置かれた娘はのろのろと顔をあげた。その顔を見て老人が驚いたように

「お主、天の者だな」

 言うと、娘はこくりと頷き、

「怖い・・・」

 と呟いた。

「何が怖いのじゃ」

「雷が・・・」

「雷?」

 老人は開いている戸から外を見た。空は秋の薄い青に染まっている。雷の気配などどこにもない。だが老人が深く頷き

「お主、天を欺いたな」

 と尋ねると、娘は再びこくりと頷いた。目が虚ろで吊り上がったままである。

「よしよし、雷など怖くはない。手を出してごらん」

 老人の皺だらけの手を娘の白く艶のある手が恐る恐る触れた。その途端、娘の震えはぴたりと止んだ。吊り上がっていた目は次第に穏やかに緩み、そのひとみが澄んで来る。

「名前は何という?」

 娘は俯いたまま暫く答えなかったが老人が辛抱強く待っていると

「佐具と・・・」

 とだけ答えた。

「ふむ、天佐具と申すか」

 女は押し黙っている。震えは止まっているが眼の中にある怯えは消えていない。

「どれ、話してみてごらん」

「あなた様は?」

 探り女の習性なのか、女は自分の事を語る前に相手の素性を確かめようとした。

「わしか。わしは・・・山田の曾冨騰そほどという名じゃ」

老人は答えた。

「やまだの・・・そほどさま・・・?」

「うむ、夏秋になるとこうして田を回って鳥や虫を追い払うのじゃ。それを生計たつきにしておる」

「そのような・・・お仕事がございますか」

 呆けたように女は呟いた。

「うむ、大した手間にはならぬがの・・・孫への手伝いじゃ」

 老人は嬉しそうにそう言った。

「色々と嫌なこともあったが、この歳になると、それと知られずとも孫をたすけて暮らすようなくらしが楽しいわい」

「はい」

 娘は答えると合わせた手を見て

「でも、どうして」

 と首を傾げた。

「どうして、震えが止まったか、か?」

「はい」

「わしと手を合わせておる限り、お主が雷に撃たれることはない、とお主の体が知っておるからじゃ。親殺しはいかな神であろうと許されん」

 謎めいた言葉であったが、娘は素直に頷いた。

「さ、お眠り。怖くて寝ることもできなかったんじゃろう」

 老人がそう言うと、娘は安心したかのように床に体を横たえ、やがてすやすやと寝息を立て始めた。

「何があったか話を聞くのを忘れたわい」

 老人は頭を叩いたが、

「まあ、良いか」

と静かに呟くと安らかに眠る娘の寝顔をじっと眺めている。


「天若日子命がお亡くなりになったそうじゃな」

 大山津見は、天若日子の葬儀が終わった二日後に出雲に姿を現すと娘婿の喪に附している葦原色許男の許を訪れた。

「はあ・・・」

 葦原色許男は御祖の言葉に力無げに頷いた。

「どうした」

 無遠慮に覗き込んで来る大山津見の視線に葦原色許男は思わず目を伏せた。

「天若日子命とはうまくやっておったのですが・・・残念でなりませぬ。また新たな遣いがやってくることになるでしょう」

 少名毗古那が最後に残した言葉は既に大山津見には伝えてある。剣を逆しまに刺し、その上に座す遣いが来たなら、いかに策略を施そうと、或いは戦おうと無駄である、という神産巣日神の予言である。今までの天からの遣いはなんとか凌いできた。遣いを丸め込みできるだけ長い間手元においておけば次の遣いが来るまでは安泰である。だが次こそは少名毗古那が告げたような遣いがやってくるかもしれぬ。それを考えると鬱々とした気持ちが湧きおこるのは致し方ない。

 だが、葦原色許男が悄然しょうぜんとしている理由はそれだけではない。妙な悪戯心で始めた天佐具女との情事であったが、意外と深くそれに自分がのめり込んでいたことを、女を失って初めて気付いたのである。大山津見はそんな事とは知らない。もちろん葦原色許男にもそれを告げるつもりはない。

「天若日子にいずれ国を譲るつもりであったか?」

 と大山津見が尋ねると、葦原色許男は苦笑を浮かべ首を振った。

「それでは高天原も葦原中国も同時に敵に回すようなものです。あの若者に、国を束ねる力はございませなんだ。娘もそれを承知で嫁いだのでございます。ですが嫁いだら嫁いだで情も湧いたのでございましょう。いつまでたっても泣き暮らしておりまして・・・」

 葦原色許男の答えに、ふん、と大山津見は鼻を鳴らした。

「ではもし、次に神産巣日神命のお言葉のような遣いがやって来られたならどうする。戦うのか?」

 挑発するような言葉に葦原色許男は暫く黙り込むと、今まで思いを重ね考えあぐねた末に、漸くたどり着いた答えを大山津見に告げた。

おもいますに、そもそも天照大御神のお子であれば、私と源は同じでございます。同族の戦いに国つ神の全てを巻き込み、負けると分かっている戦をするのは賢明とは思えませぬ」

「ならば降るか」

 あっさりと聞き返した大山津見の顔をまじまじと見て、

「さように簡単には参りますまい」

 と葦原色許男は重々しく首を横に振った。

「私の息子たちでさえ、戦わずに降るのを潔しとしない者たちがおりましょう。国の長として何もせずにただ降るというのでは纏まりがつきませぬ。またたとえ私らが降ったとしても果たして天から参られる御子がうまく国つ神たちを従わせることがおできになるか・・・おできにならねば国つ神は無理を承知で戦いを挑み、殺されるか無理やり服従させられることになりましょう。それでははじめから戦って滅びるのとさして変わりがありません」

 国つ神は個々では気の良い者たちが多い。だが、隣り合ったり集まったりすれば各々の利害を主張し始める。それがある域を越えればすぐに争いが起き、その争いはたちまち国を二分、三分する大きな争いへと発展する。その芽を摘むように目配りを行うことができるものであれば国を治めるものは何も自分でなくともよいのである、と葦原色許男は言った。

「そうか」

 その答えを聞くと大山津見はふっと、宙を見た。

「ならばどうしようとする?」

「私一人が国を譲ることはいといませぬ。しかし譲ると言っても何をされても構わないという事ではございません。国を治める方々が理非りひに応じて曲直きょくちょくを正すことができればよろしいのでございます。それ以外は望みませぬ」

「なるほど、の」

 大山津見は深く頷いた。

「良く考えたものよ」

「さようでございましょうか」

 葦原色許男は心もとなさそうに答えた。

「うむ・・・。わしとて国つ神を束ねるには上に立って率いねばならぬと考えておった。そのためには建速須佐之男命のような力を持った者に率いてもらうのが一番じゃとな。しかし・・・。」

「はい?」

「おぬしの今の言葉に、そればかりではないと気付かされた。ならば良いことを教えて進ぜよう。万一降ると決心したなら、その時は使者に向かって『もも足らず八十垧手やそくまでに隠れる』と言うが良い。以って、一旦は譲るが、治世が乱れればいつでも取って代わるとの意じゃ。必ず『百足らず』と言うのだぞ。それこそが呪の肝じゃからな」

 祖の言葉に葦原色許男は怪訝な顔をした。

「さような事を天津神のお遣いに対して申しあげて宜しいのでしょうか?」

「なに、神産巣日神命のおっしゃったような神であれば、武を以って制する類の神に違いない。呪の意味など知るまい。お前が降るようなことになれば、後は衝立船戸神つきたつふなとのかみ時量之神ときはかしのかみらの力を借りて葦原中国を離れ暫く英気を養っておればよかろう」

 衝立船戸神や時量之神らとは伊耶那岐が黄泉の国から逃げた後、黄泉と葦原中国を距離と時間で分かつために産んだ神、すなわち居所と現世とを分かつ神である。

「御祖様は負けが分かっていたとしても国つ神一人残らず戦え、と仰るのではないかと思っておりましたが・・・。果たしてそれで宜しいのでございましょうか」

 その問いに大山津見は

「さようなことをわしが申すわけがなかろう。国つ神、民あってこその国じゃ。無駄に戦って滅びるよりもずっと良い」

と答えた。

「はあ」

 葦原色許男は些かもの足らぬ思いであるかのように自分の顔をまじまじと見ている。にやりと笑うと大山津見は

「それでは不足か?」

と尋ねた。

「いえ・・・ですが・・・国つ神の想いは天に届くのでございましょうか」

 そう尋ねた葦原色許男に大山津見は、

「お前の思っていることを率直に述べればよい。そしてわしの言ったとおりにするが良かろう。例え、呪の意味が図りかねても遣いの者は悉くお主の言葉を天照大御神に伝えるであろう。さすれば天照大御神もお主の意を知ろう。そしてお主がおり、万一の時は取って代わるつもりと知ることで、御子にもたゆまぬことが肝心と伝えよう。それもまた国を治める技の一つかもしれぬ。わしには思いつかなんだ」

「分かりました。もしいざというときに国つ神たちがいう事を聞かぬ時は私が何とか致しましょう」

 葦原色許男の言葉に大山津見は再び深く頷いた。表に出ずとも陰に隠れて国つ神の心を纏め、守り抜く。それこそが実はわしの探していた答えだったのかもしれぬ。

ならばそれが成就するまで、わしもこの国の行く先を見届けることにしようか。


 思金神が天照大御神のお召しによって神々を率いて参上したのは天若日子が命を失ってから程無くしてであった。その席に父、高御産巣日神の姿がないのを奇異に思い、

「父神がおわしませぬが」

 と尋ねた思金神に天照大御神は眉を顰めたまま、

「汝の父は、二度に渡る遣いのしくじりの上、天若日子の命を奪わずにおれなかったことを悔やんでおられる。そのため今は籠っておられるのじゃ。この度は私一人が責を負う。汝も父神の面目を保つため葦原中国に遣わすべき最も善き神を選べ」

 と厳かに命じたのである。

 父はやはり疑われていたのだ、と思金神は悟った。

これまでに自分たちが高御産巣日神へと推挙した二人の天津神が国つ神に籠絡され、役を果たすことができなかったことを天照大御神はお怒りになられているに違いない。他の神々もそう考えたのだろう、暫く席はざわついた。だが、

「もし、次の遣いが役目を果たすことができなかったならば、私自身が葦原中国に赴くことにします」

 という天照大御神の言葉に皆沈黙した。

 万一そのような事が起これば葦原中国は灼熱の地と化し、ありとあらゆるものが滅びざるを得ない。その言葉は一度すべてを滅ぼし、そこから作り直してでも葦原中国を我が子の手で統べさせるという決意の表明なのである。

「承知仕りました」

 思金神は頭を地に付けると天照大御神に答えた。

 神々の議論は紛糾とまではいかないまでも白熱した。あるものは天之菩卑の弟である天津日子根命あめつひこねのみことを推し、ある者は思金神その人を推した。だが、思金神は最後まで一貫して天之尾羽張神を推し続けた。

「ですが、かの神は天にましましてからというもの、お籠りになったまま、この場にさえおられない。それにあの方が・・・」

 思金神の主張に一人の神が反駁した。天之尾羽張神がまだ刀剣としてのみ伊耶那岐に仕えていた時、迦具土を斬ったことで神性と共に狂気を帯びたことを神たちはみな知っている。

「地に降り立った時、果たして正気のままでおられましょうか?」

「分かりません」

 思金神は静かに答えた。

「だが、あの方には一念というものがある」

「一念?」

「そうです。そういうものを持たぬ者でなければ必ずや籠絡される。葦原色許男命を侮ってはいけない。今度こそし遂げねば、却って国つ神のためにならぬと知らしめねばならぬのです」

「だが、あのお方が参られれば葦原中国は血の海となるのではないか」

 と更に難じた神に思金神は答えた。

「ですが、天照大御神ご自身が参られるより良いではないでしょうか。今度しくじれば天照大御神は必ずやご自身で参られることになりましょう」

 思金神の言葉に、

「ならばあなたが参られれば」

 と反論したその神は

「私が行けば、必ずや父の命を人質とすることになる。皆様もこの場にわが父がおらぬことの意味をお分かりでございましょう?そのような事は神のなすべきことでしょうか?」

 と言われ遂に押し黙った。

「だが、あのお方は天の安河を堰上げてその奥に籠っていらっしゃるという。どのように伝えるおつもりか」

 別の一人の神の疑問に思金神はにっこりと笑った。

「私に考えがあります。信用なされませ」

 その言葉で大勢は傾いた。


「天之尾羽張神が宜しいかと存じます」

 思金神の言上に天照大御神は整った眉を上げた。天照大御神ももちろん天之尾羽張神、別名伊都之尾羽張神が地上に降り立てば国つ神を根こそぎ斬り殺しかねないことを承知している。だが、天照大御神は即座に頷いた。

「分かりました。そのようになさい」

「つきましては、遣いとして先だって天若日子のお命を取りました迦久矢をお貸し願いたく。空を往く迦久矢であれば、聊かの差し障りもなくあの神の許へと行きつけましょう故」

「宜しいでしょう」

 天照大御神は矢を持ってこさせるとそれを思金神に手渡した。矢羽の血は洗い流され、天若日子の命を取った時についた雷光による焼け跡も綺麗に消されていた。思金神は手渡された矢に何かを囁くと、力いっぱいに矢を投げた。

 囁かれた言葉は、

「波士弓はこの高天原には、もはやない。汝が添うべきは天之尾羽張ぞ。あの者は、汝と同じく神を弑したもの。あげつらって最も良き方策を携えて戻れ」

 矢は弓で射られたごとくたちまちに飛び去って行った。

 

 天之尾羽張が天照大御神の許へと、天の安河の堰を蹴破って現れたのはそれから間もなくのことであった。傍らには細身の美しい女と立派な若者が連れ添っている。天照大御神はすっとその二人に視線をやったが、何も言わずに天之尾羽張に視線を戻した。

「思し召しによりまして、参上した次第でございます」

 天之尾羽張の口上に

「如何に?」

 と天照大御神は短く問うた。

「思し召しの通り致しましょう。ただ、葦原中国へは私ではなく、私と天迦久神あめのかくのひめの子である、この建御雷たけみかづちを行かせたいと存じます」

 脇に控える凛々しい若者が、迦久矢が神性を得て天迦久神となり天之尾羽張と共に作り磨き上げた子だと知って、集まっていた神々はどよめきを上げた。神を斬り、或いは射殺した者同士が産んだ子は一片の曇りもなく見事に輝く若者である。

「宜しいでしょう」

 天照大御神は頷いた。

「供として鳥之石楠船神とりのいわくすふねのかみを伴うがよい」

 鳥之石楠船神は、別名天鳥船あめのとりふねという、伊耶那岐、伊耶那美の最後の三人の子の一人、伊耶那美のほうむりの時に妹と共に山を登って行った男の子の方である。

 弟迦具土が伊耶那岐に斬られるという場面を目撃し、妹大宜都比売が建速須佐之男命に斬られたという噂のある天鳥船は兄弟を斬った二人に複雑な感情を持っている。そしてまた伊耶那岐が天照大御神に天を治めさせると決めた時、妹の大冝都比売と共に高天原に上ることを許された天鳥船は天照大御神に恩義を感じてもいる。

 伊耶那岐の作った葦原中国にも建速須佐之男命の統べる黄泉の国にもよもや籠絡されることはあるまい。またいざ建速須佐之男が現れたとしても天を翔けるその速足は建速須佐之男を遥かに上回る。うってつけの供であった。

「すぐさま発ちなさい」

 との天照大御神の命を受け、二柱の神はその足で葦原中国、出雲へと旅立った。

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