第3話 兎(うさぎ)

 建速須佐之男と奇稲田が旅立ってから幾星霜いくせいそう、出雲の地から望む峰に溶け残る雪が年ごとに積り、年ごとに溶け、少しずつ重なっていくように薄く、だが確実に年月は積み重なっていった。

 その出雲では、建速須佐之男命から数えて七代。その七代目の子が母の胸に抱かれて懸命に乳を吸っていた。

「どうじゃな?子は元気にしておるか・・・」

 大山津見はしばらくその様子を眺めると、熱心に赤子をあやしている母親にぽつりと尋ねた。

「まあ、御祖様・・・。ええ、この子はとても健やかに育っておりますよ」

 まだ若い母は、顔を上げ、大山津見に微笑んだ。どこから忍んでくるのか分からぬが、大山津見が突然現れるような事があってもこの女人は決して驚くことがない。

「どうも兄者たちは乱暴者が多いが、この子もそうなるのかのう?」

 この子の父で大山津見の血を引く天之冬衣神あまのふゆきぬのかみには妻も多く子どももたくさんいるが、どうにも手の付けられないような悪ガキばかりである。そんな中、大山津見が、この女人の初めての子である赤子に寄せる期待は大きかった。

 母親はまだ乳を飲み足りない様子で母を仰ぎ見ている赤子の頭を軽く撫でると、その子の唇を指で拭いた。

「この子は真っ直ぐな佳いおとこに育ちましょう」

 そうだな、と大山津見は素直に頷いた。刺国若比売さしくにわかひめという名の、幼児の母は天之冬衣の妻の中では取り立てて神性が高く、杉の木のような真っ直ぐな性格をしている。

 大山津見はこの頃になると、ほとんど姿を消して暮らしていた。正当な跡継ぎの目はさすがにごまかせぬが他のものには自分の姿を目に見えなくすることができる。例え血を引いていても凡庸ぼんような者にはその姿が見えない。だが、自分の正統な血を引くわけでもないのに、宮に入ったその日にこの女人は姿を隠して隠棲している自分の姿に気が付いたのであった。よほど神性が高いと見える。

「名前はなんと致しましょう?」

 そう言って、女人は名付けを祖神おやがみに頼んできたのである。散々考えた末、大山津見は今日、それを伝えに来たのであった。

葦原色許男あしはらしこをではどうかな?」

 老人が考え抜いた名を口にすると、

「あら、素敵な名前でございますこと」

 女は目を輝かした。

「この葦原の国で一番に強い漢になってもらいたい、と思ってな」

 鼻の下を擦ると大山津見は照れたかのように笑った。女が何のためらいもなくその名を受け入れてくれたことが嬉しかった。

「葦原色許男、それがお前の名前になりましたよ」

 と言われて、母を見つめたまま暫くきょとんとしていた赤ん坊は、大山津見の方を向くと手を差し伸べて触ろうとでもするかのように指を差し伸べた。

「おお、この子にはわしの姿が見えるようじゃ」

「ほんとうに・・・。名前を付けてくださったお礼を申し上げているのでしょうか」

 きゃっきゃと自分に笑いかけながらもそもそと体を動かしている赤ん坊を愛おしそうに見遣ると、

「他の子供たちもさんざん見てきたが、誰一人としてわしに気付くものはおらなんだ。この子こそがわしの正統な跡継ぎであろうよ」

 大山津見の言葉に刺国若比売は口元を綻ばせ、

「この子は夫の子供の中で一番の年若でございますから様々な辛いことが待ち受けておりましょう。それでも優しく強い漢に育ってほしい、そう願っております。ぴったりの名前でございますこと」

 と応えた。

 色許しこは神性の高いことを顕わしている。母親の血を継いで神性が高く勁い男になることを大山津見が願ってつけた名である。

「そうか、それでよいか」

 では、この子の父である天之冬衣にも名を伝えよう、と言って大山津見は立ち上がった。

 建速須佐之男が去って七代、高天原はその間葦原中国に手を伸ばしてくることがなかった。おそらくは建速須佐之男が戻ってきはせぬかと警戒しているのであろう。七代といっても天にとっては須臾しゅゆの間である。気を緩めることはできない。むしろ日に日におそれが高まってると大山津見は考えている。今のように国つ神がばらばらと勝手に動き、互いに争っているようでは、高天原の神々にとって葦原中国を切り伏せることなど容易たやすいに違いあるまい。乱れ切った葦原中国を統べるという名目も立ちやすい。

 この子こそ国つ神の命運を左右するような子になるのではないかという強い予感が大山津見にはあった。

「この子は建速須佐之男命の正しい血を引いておる。お前の申す通り、さぞかし強い漢になるであろう。そして国を率いることのできる漢になろうよ」

 大山津見の言葉に母親は小さく頷いた。

「さようでございますね。きっと大神様はこの子を守って下さることでございましょう」

 母親はうつらうつらと眠り始めた子供の頬を愛おしそうに撫で続けている。

 大山津見の予言通り、その子こそ建速須佐之男から大国主神おおくにぬしかみ宇都志国玉神うつしくにたまのかみという名を授けられる子であり、やがて国つ神を束ねることになる子である。


 葦原色許男は穏やかで優しい母に守られ、すくすくと育った。朴訥ぼくとつな、性情が優しすぎるほどの子供は、粗暴な兄弟と違ってのんびりと幼い日々を過ごしていた。

 だが十二の歳のある日、そののんびりとした日々は突如、終わりを告げることになった。その日、葦原色許男の許に一番上の兄が、三人の弟を引き連れてにやにや笑いながらやってきた。

「お前は稲羽いなば八上比売やかみひめのことを知っておるか?うすぼんやりめ」

 いえ、とまだあどけない顔を兄に向けると、葦原色許男は首を振った。

 兄弟の中で唯一「葦原」という国の名を与えられた弟のことを兄たちは快く思っていない。葦原色許男を「うすぼんやりのみこと」、あるいは「うすぼんやり」、挙句の果ては、思い切りつづめて「うす」などと呼んでいる。

 大人しい末弟はいつも海や川を眺めたり、草花に話しかけたりしている。そんな弟を兄たちは事あるごとに馬鹿にしていた。

「花は口も耳も持たん」

 腰を下ろして草に話しかけている葦原色許男の背中を蹴って嘲る兄弟たちは、その弟に話しかけられた草たちが他の草よりも早く、多く花をつけることなど気づきもしない。葦原色許男にしてみれば大祖おおおやである大山津見が統べる景色を楽しんだり鹿屋野比売の手になる草花と話すのは当たり前のことであるし、海や川や風の神たちと挨拶を交わすのも何の不思議もないことである。

 だが兄たちの曇った眼には末弟は覇気はきの乏しいうすぼんやりとしか映らない。そのうすぼんやりに、

「たいそう美しいおなごだそうだ。皆で相談してな、我々のうち誰がその女を射止めることができるか、賭けをしようという事になった。お前もついてこい。もしかするとお前も姫を射止めることができようぞ。まだあそこに毛もろくろく生えていないお前でもな」

 長兄の放った卑猥ひわいな言葉に他の三人の兄たちがどっと笑ったが葦原色許には何のことかわからない。

「いえ、私はおなごなどには興味ございません」

 手を振って断ろうとする葦原色許男をぎろりと睨むと、

「いいから、ついてくるのだ」

 兄は脅すように言った。もとより葦原色許男が嫌がるのは想定済みである。そんな弟に無理やりいう事を聞かせるのが楽しいのである。

「分かりました。では、母上に相談を・・・」

 兄から無体なことを言いつけられたら必ず私の所に相談に来なさいと母から常々言われていたのである。だが、兄は鼻でせせら笑うと葦原色許男の言葉を遮った。

「お前はその歳になっても何事も母に相談せぬと物事を決められないのか?兄弟皆、もう支度を終えておる。お前もすぐに準備をするのだ」

「はい・・・」

 やむを得ずそう答えた葦原色許男を見てにやりと笑みを零すと、兄はどっかりと腰を下ろした。他の兄たちも遠巻きに取巻いてじろじろと葦原色許男のことを見つめている。

「支度するのを見守っていよう。末弟殿が母御のもとに逃げださぬとも限らぬからな」

 どうやら逃れられぬらしいと悟った葦原色許男は仕方なく小さな包みをこしらえ、兄の後ろについて行った。葦原色許男が兄たちの後ろについて現れたのを見ると、おお、と八十神の兄弟たちはどよめいた。葦原色許男が現れるか現れぬか、の賭けをしていたのである。負けた者たちは項垂れた。

 賭けの中身は負けた者が勝ったものの荷物を運ぶという些細なものである。だが葦原色許男が現れない方に掛けたのは人数が少なく、一人当たりの荷物が山ほどになる。

「これで我ら兄弟はうち揃った。稲羽の八上比売を奪いに行くぞ。誰であれ一番先に比売の左手を握ったものが比売を得ることが出来る。いいな?」

「おお」

 再びどよめきが起きた。そんな兄弟たちをぐるりと見渡した長兄は悪意を滲ませた笑みを浮かべ、

「先ほどの賭けに負けた者も喜ぶがいい。荷は全て末弟殿が運んでくれることになっておる。それが年長者に対する務めじゃ、と自ら申し出てな」

 そう言って葦原色許男の背を強く叩いた。思わず前につんのめった葦原色許男の姿はそれを肯ったかのように皆の目に映った。

「おお」

 今度のどよめきには歓喜の色が混じった。

 葦原色許男は兄弟たちが手に何も持たず嬉しそうに出掛けていくのを目で追いながら、やれやれと嘆息をついた。出雲から稲羽まではさほど遠い道のりではないが、山ほどの荷物を拵えている者がいる。中を覗くと干し魚やら米やらがたっぷりと入っている。どれだけ食い意地が張っているものだろうか、とあきれるほどである。その上、荷の中の幾つかには弓矢や刀が混じっていた。それらが年長の兄たちの荷物であることを確かめると、葦原色許男は首を傾げ暫く考えたが、結局見なかったことにしようと決めた。

 母から教わった呪いをかけて、荷物を変じて一つの小さなはこに押し込めると葦原色許男はそれを竹竿の先に吊るし、兄たちの後ろを歩き始めた。母からは滅多なことで呪を使ってはいけないと諫められてはいたが八十人もいる兄たちの荷物を一人で担げ、と言われたら呪でも使わねばとても無理である。

 海沿いの道をとぼとぼと歩いて行くと、前を歩いていた長兄が血相を変えて戻ってきた。

「うすぼんやりめ、荷物はどうした?」

「持ってきております、ほらそこに」

 葦原色許男が竿の先をさした。そこには竹ひごでできた粗末な匣が揺れている。

「馬鹿を申すな。あれほどの荷物が中に入るわけがなかろう」

「では戻して進ぜましょう」

 そう言うと竿から匣を外し、葦原色許男が、ちょんと指で突くと、全ての荷物が砂原に現れた。

「ぬ」

 薄気味悪そうに葦原色許男の顔を覗き見た長兄は、言葉に詰まったまま暫く立ち尽くしていたがやがて、

「良かろう」

 と不機嫌そうに呟くとそそくさと行く手の方へ去って行った。

「やれやれ」

 葦原色許男は荷物を面倒くさそうに匣に戻すと再びとぼとぼと兄たちを追って歩み始めた。


 その頃、稲羽の宮では八上比売が磨き上げた珠に映る男たちの群れを見て、細く美しい眉を顰めていた。横では両親が心配そうにその姿を見守っている。

「何と乱暴そうな男たちでしょう。品性のかけらも感じられない。あのような男たちとくことなど到底できません」

「とは申せ、断固拒否すればいくさになるぞ」

 父は姫の肩越しに珠を覗きながら呟いた

「何か良い手はないものかな?」

 父の嘆息に、暫く俯いて考えていた八上比売はやがて決然としたまなじりとなると、

「私にお任せくださいませ」

 と、答えた。


 気多けたは、伯耆ほうきと出雲との国境から東に僅かに外れた地にある。その地の国人たちは、見るからに乱暴そうな男の群れが意気盛んに国境を越えていくのを不安そうに眺めていた。

 その気多の浜辺を貫く道沿いに、毛を抜かれた一羽の兎がうめき声を上げている。

「おやおや、兎がこんなところに寝ておるぞ。取って焼いて食ってしまおうか」

 兎のあげる泣き声に気付いた一人が叫ぶと、男たちはどれどれと集まってきた。

「かように貧弱な兎では、焼いてもまずくて食えそうにないな。それに毛が抜けている。やまい持ちの兎ではないか」

 集まった男の一人が杖で兎をつつくと、兎は悲鳴を上げた。

「お前そんな姿でどうしたのだ?ここで何をやっておる」

 杖で兎を突いた男が尋ねると、

「鮫に皮を剥がれたのでございます。どうかお助け下さいませ」

 息も絶え絶えに兎は答えた。

「何、鮫にだと?鮫が陸に上ってきたとでもいうか?或いはお前、分も弁えず海を泳いで鮫の怒りを買ったのか?」

 別の一人がもう一突きを加えると、兎は再び悲鳴を上げ突っ伏すと恨みがまし気な目で男たちを見た。

「違います。兎は毛が生えておりますので泳ぐのは無理でございます。ですから私は一計を案じたのでございます」

「兎の分際で一計を案じたと?生意気な奴じゃ。でこのざまか・・・。面白い。何が起きたか教えよ。土産話にもっていってやる」

 と言ったのは長兄である。

「はい・・・」

 兎は辛そうに息を一つ吐くと話し始めた。

「私はあの島に住んでいる兎でございます」

 兎が指をさしたのは沖と言うには足りぬ、ほど近い瀬に浮かぶ小さな島であった。

「どうにかして、こちらへ渡りたいと常日頃思っていたのでございます。何と言ってもこちらには草がたくさんございますので、たらふく腹を満たせます。あちらの島ではもうあらかた草を食べつくしてしまいましたので」

「食い意地の汚い奴じゃの、で、どうした?」

 嘲笑った長男に向かって兎は弱弱しく答えた。。

「橋もございません、泳ぐこともままなりません。何か良い方法がないかと徒然、海を眺めておりますと鮫がたくさん泳いでおるのが見えましてございます。そこで、ふといい考えが閃いたのでございます」

「何と閃いた?」

 長兄が尋ねた。

「あの鮫の背を橋にすれば、こちらに渡って来れるのではないかと」

 なるほどの、という声がどこからともなく上がり、兎はひげをぴんと伸ばした。少し得意げである。

「で、私めはその中で一番大きな鮫に向かって申したのでございます。お前らは随分と偉そうに群れておるが、数えてみるとたいしたことはなさそうだ。私たち一族の方が、よほど数が多いと思う。どうだ?と」

 何を申す、うがらの数なら、われわれこそが一番だぞ、見よ、などと手を拡げてちゃちゃを入れた弟を制して長兄が尋ねた。

「で、鮫はどう答えた?」

「はい。たいそう怒って申すには、飢えかけた薄汚い兎などに馬鹿にされてたまるか。わが一族はここに見えるだけではない。海原深く潜っておるものもたくさんおる。お前らになど数で劣るわけがない、と・・・」

 それは大変な剣幕でございました、と兎が付け加えると長兄は、呆れたように兎を見下ろした。

「喧嘩を売れば相手が怒るのも無理はなかろう。で?」

「私は申したのでございますよ。ならば、あの岬まで並んでみよ。私が数を数えながらお前らの背を走って行こう。そして吾らが族の数と多寡を計る。それで勝負をつけようではないか、と。そうすれば数を数えるふりをしながらこちらへ渡って来れるではございませぬか」

「なるほど、兎の癖に下らん知恵が回る奴じゃ」

 長兄は長い髭をしごくと、その指で兎の頭をつついた。

「痛うございます」

 兎は悲鳴を上げた。

「これは悪だくみをした奴への罰じゃ。まあ、いい。続けよ」

「はい、それで、鮫どもは背を波の上に立てて並んだのでございます。思惑通りでございますよ。私めは喜び勇んでその背を走り抜けました。そこまではうまくいったのでございますが・・・」

「どうした?」

 兎は視線を落とすと深いため息をついた。

「つい、喜びすぎたのでございます。最後の鮫を踏んだ時に、馬鹿な鮫ども、私はここに辿り着きたいがためにお前らを騙したのだよ、と口走ってしまったのです。一番陸に近いところにおりました鮫は私が最初に話しかけた鮫で、それは大変大きな、一族の長のような鮫でございました。偉そうに私を馬鹿にした鮫が波打ち際でぐったりとしているのがおかしくて、思わずからかいたくなったのでございます」

「ほお」

 長兄は頷いた。

「で、どうなった?」

「鮫というのは何でございますね、あんなにぐったりしていたのに陸の生き物に比べて大層動きが素早いものでございます。あっという間に私は口にくわえられてしまいました。そのまま食われそうになったので、慌てて私は慈悲を乞うたのでございます。私の毛深い体では海を泳げないのでございます。出来心で、嘘をついてしまいました。どうぞお許しくださいませ、と。

 そうしますと、その鮫はせせら笑って、なるほどお前のいう事もわからぬではない。では、お前の毛を全て刈り取ってやろう、と申したのでございますよ。そして今度このような真似をしたらあっという間に喰ってしまうぞ。毛がなければわしらにも喰いやすかろうて、などと恐ろしいことを」

 言い終えると、兎は心底情けなさそうな表情で、自分の体を見回した。

「で、寄ってたかって鮫どもにこんな姿にされてしまったのでございます。ざらざらとした肌をこすりつけてくるものやら、歯で毛をむしるものやら、非道の限りでございました。これでは同類の兎たちにも兎と見分けられぬかも・・・」

 一同はどっと笑った。

「確かにお前の姿はまるで耳の長いはだか鼠みたいなものじゃ。哀れよの。と言っても鮫の申すことも道理じゃ。泳ぐに毛が邪魔だとお前自身が言ったのだから、その毛を毟って泳げるようにしてやったのは親切なことではないか」

 長兄は喉から出るゴホゴホという笑いに髭を震わせながら何度も頷いて、

「ではわしも良いことを教えてやろう。せっかく毛が抜けたのだから、傷を治すことを兼ねて島に泳ぎ戻って、小高い丘の上で風に吹かれると良い。海の水は万物の本源、万病の薬じゃ。せっかく毛も抜けたのじゃ、泳ぐには差し支えあるまい」

 と教えた。

「ごもっともでございます。それではさっそくそのように致しましょう」

 兎は顔をしかめながら立ち上がるとふらふらと海の方へ下りていった。

「利巧なようで馬鹿な兎じゃの」

 長兄は嘲笑った。

「あんな傷で海に浸かれば死ぬほど痛むに違いあるまい。行くぞ」

 そう言って再び歩み始めた一行の背後で、ぎゃっ、という兎の魂切るような声が響いた。どっと笑い声をあげた一行はそのまま振り返ることもなく歩を進めていった。


「なんていけ好かない奴らだろう」

 兎に化けている八上比売は、波打ち際に腰を下ろすと片足を波で洗いながら呟いた。痛いと呻いていたのも魂消るような声を上げて見せたのも、みな演技である。

確かな目を持つものにはそこに美しい裸体の女が見えるであろう。

「神の末裔すえと言ってもあんなのばっかりなのかしら」

 一人くらいましなのがいるかと思ったのだが、誰一人として哀れな兎を助けようなどと考える者はいなかった。自分の本当の姿を見破るほどに目の澄んだ男もいなかった。

 そんなやからに死んでも身を許すことなど考えられなかった。こうなったら兎の姿のままあの島へ渡り、そこで一生暮らすことにしようかしら、などと考えている。

「父上、母上には申し訳が立たないけれど、お断りさせていただくしかない。でもそうなれば戦になることは避けられない・・・」

 そう考えながら男たちが通り過ぎて行った道をふと見遣ると、何やら竿の先に匣をぶらさげて、気のなさそうに歩いてくる男の姿が見えた。さっきの男たちと同じような旅姿である。

「あの男もあの一族の者なのだろうか?」

 慌てて兎の姿に戻ると、姫は最後の望みをかけて先ほど自分が倒れていた場所に駆け戻った。


 葦原色許男は一行のだいぶん後ろをぼんやりと歩き続けていた。ときおり左手に広がる海に波がきらりと光ると止まって眺め、良い風だなぁ、と呟いてみたりする。

 昨晩、泊まった原の片隅でなんということなしに兄たちの話を聞いていると、稲羽の宮にどうやって押し込もうか、と相談をしていた。荷物の中に剣や弓矢が混じっていたのはそのせいだったのか、と気付いたが何も言わずに黙っていた。

 いざとなれば、荷物を解いてやらねばいいのである。だいたい他の国の宮を襲って、姫を手籠めにしようなどとは困ったもんだ。当然国同士を巻き込んだ争いになるに違いあるまい。父上がそんなことを許すはずがない。どうせ、色と欲と暴力のないまぜになった兄たちの暴走に違いあるまい。

「兄上とは言え・・・碌なもんじゃないなぁ。本当に父上のおっしゃる通り年を取ればまともになるのかしらん」

 などと呟きながら歩を進めている。

 荷物を解かねば、兄たちはどうするであろうか・・・。

 つくねんとそんな事を考えながら歩を進めていると、浜木綿はまゆうくさむらの向こうから何やらうめき声がしてくるのが聞こえた。

 なんだろう、と覗いてみると花の影に裸に剥かれた兎がいる。呻き声はその兎が発しているものであった。

「おや?」

 葦原色許男は首を傾げた。一瞬、兎に女の裸体が重なって見えたのである。だが、目を擦ってもう一度見てみるとそこで呻いているのはやはり兎である。

「お前、こんなところで何をしておる。死ぬぞ」

 妄想を抱いたらしい自分の頭を一度、こつんと自らの拳で撲つと、葦原色許男は兎に向かって呼び掛けた。

 八上比売は覗き込んできた男の心配そうな優し気な表情に、思わず目を奪われていた。

「何と佳い漢でしょう・・・」

 歳は八上比売よりも若い。むしろ幼いと言ってもよいくらいである。だがその表情は沈着で、思慮深く真っ直ぐな気質を表している。見とれて思わず術が解けかかった。

 途端にその男の目に浮かんだ不審げな色に、慌てて気を取り直すと、八上比売は懸命に兎に化け直り、目の前の男に向かって精一杯哀れな声を上げた。

「おたすけを・・・」


「もしかしたら気付かれたかしら?」

 そう思いつつも、兎に化けた姫は先ほどと同じ話をしたうえで、前に行った男たちの酷い教えの話を付け加えた。それで男と愚者の群れの関係が分かると考えたのである。

 黙ったまま兎の話を聞き終えた目の前の男は、情けない顔になると

「兄上たちにも困ったものじゃ」

 と嘆息ためいきをついた。

「という事はこのお方もあの族の一人なのだ」

 兎は目を見開いて男の顔を眺めた。

「それにしてはさっきの男たちと比べて何と感じの佳い漢でしょう」

 希望という一筋の光明を兎にもたらした男はあたりを見回すと、

「おお、ここにある」

 と言って、一本の草を抜き兎に手渡した。

「お前は水門みなとに行って川の水で、体をお洗い。海の水ではだめだよ。傷口が痛むからね。

 そして沫那芸神あわなぎのかみさま、沫那美神あわなびのかみさま、どうぞ悪いものを取り落として下さいませ、と唱えるのじゃ。それをし終えたら、今度は近くに生えているがま、ほれ、この草じゃ、この穂から粉を振り落とし、野推神さま、傷を癒してくださいまし、と唱えながらその上を転がるのじゃ。そうすればきっと傷も癒えよう」

「ありがとうございます」

 兎は丁寧にお辞儀をしたが、葦原色許男は兎の前に座ったまま動こうとせず、大きなため息を吐いた。

「どうなされたのですか?」

 芝居そっちのけで尋ねた兎を見遣ると、男は半笑いのような表情になった。

「お前に申してもな・・・」

「いえ、ご恩返しに知恵を授けましょう。この地のことはこの地の者に相談すればきっと良い知恵が浮かびます」

 兎は熱心に説いた。

「そうか・・・」

 葦原色許男は兄たちが稲羽の宮で冒そうとしている企みをあらまし兎に話すと、最後に、

「どうやって止めたらいいのだろう」

と呟いた。

「それでは・・・」

 兎は暫く考えると口を開いた。

「そのまま、お進みくださいませ。きっと稲羽では、乱暴狼藉などなくとも門を開きましょう。そして皆様を歓待し、天之冬衣神命の御子の一人に姫を捧げると申しましょう」

「そうか?」

 葦原色許男は首を傾げた。そんなにうまい話があるのだろうか?裸に剥かれた兎の荒唐無稽な妄想ではなかろうか?だいたいあの兄たちの中で姫の目に適う者などいるのであろうか?

「ええ、必ず。ですから兄上たちの狼藉をお止め下さいませ。お願いでございます」

 兎が必死に説得する様子に葦原色許男は、つい微笑んだ。

「分かった、ではそうしよう。しかし、お前、体は大丈夫なのか?先ほどまではずいぶん痛がっていたようだが」

「あ・・・?あ、いたた」

 兎は慌てたように苦悶の表情を浮かべた。

「お国の大事でしたので、つい痛みを忘れまして。はい、申された通りに致します。それでは・・・きっと兄上たちをお止め下さいよ」

 そう言うと兎は走り去った。

「妙な兎よの。痛い、痛いと言っていた割には随分な早駆けをするものだ、おいそっちに川はあるのか?」

 呼びかけに返事もよこさず、たちまち姿が小さくなっていく兎を見送ると葦原色許男は、よいしょっと言って立ち上がった。

「まあ、兎の知恵も借りたいところだし、あれだけ強く申すのだ。なにやらいわくでもあるのだろう。ここは兎のいう事を聞いてみることにするか」


 葦原色許男の言っていた通り、稲羽の宮門きゅうもんは開いていた。せっかく思いのまま乱暴狼藉ができるかと思っていたのにと、兄たちはぶつくさ不平を零したが、

「もし、開いていなかったらその時は剣も弓も出しましょう。存分に闘いませ」

 と言った末弟の言葉に頷いてしまったのだから仕方ない。末弟は門が開いているなら荷は出しませぬと、いつもと違って妙に強硬であった。

 しかし門を入り、国総出といわんばかりの美酒・美食で歓待を受けると次第に彼らの顔も綻んできた。

 そして宴会のさなかに稲羽の国主が、

「さて、姫も年ごろになりましてな。由緒正しい出雲の血筋を引かれる皆様方ご兄弟のうち、いずれかの方に譲りたいと考えております」

 と申し出たので兄弟たちは大盛り上がりに盛り上がったのである。やがて座の様子を見て、宴席の奥を指さし、

「姫は、あの御簾みすのうちに参って皆様方の様子をみておりました。そろそろ姫がどのお方を婿に取るかを姫に決めさせたいと・・・」

 国主が言うと、

「待った」

 と手で制し、長兄がのっそりと膝を立てた。

「どの男が姫を娶るかは、こちらで決めておる。姫の左手を最初に掴んだものだ。それがわしら一同の決めてきた定め。それで決めさせて頂こう」

 国主は蒼ざめたが、御簾の内から清冽な女の声がした。

「それで結構でございます」

「では、手を出されよ」

 と長兄は美酒美食でぬるぬると湿った唇を袖で拭くと、にやりと笑いながら立ち上がった。

「年上の者から順にという事にさせて頂く」

 姫が御簾から差し出した手は白く、ほっそりとしていた。長兄は心の中で舌なめずりをした。

 この可憐な手を持つ女が、今夜俺のものになるのだ。そしてこの土地も・・・。満たされる征服欲が男の中で爆発しそうに膨らみ、乱暴に女の手を掴もうとしたとき、手に灼けるような痛みが走った。まるで手の皮をひん剥かれ、塩を揉みこまれたような痛みに男は女の手を握るどころではなく、あたりの調度をひっくり返し、泣きながら転げまわった。

 次から次に女の手を取ろうとした男たちが同じ目に遭った。最後の一人がやはりのたうち回って悲鳴を上げているのを見て長兄は憤怒の形相で御簾に詰め寄った。

「我ら兄弟誰一人、お前の手を握れぬ。それでは約束と違うではないか」

「いいえ、まだ一人おられましょう」

「ぬ?」

 長兄は一族のものを振り返った。皆、まだ痛みに顔を蒼褪めさせたままこちらの成り行きを見守っている。そんな中、相も変わらず竿に匣をぶら下げたまま立っている葦原色許男がぼーっとした表情で鼻を掻いていた。

「まさか、あのうすぼんやりの事を言っているのではあるまいな?あれはまだ男と呼べるほどのものではない」

「なれど、あのお方もご兄弟でございましょう?もし、あのお方も私の手を握れないという事でございましたら、確かに約束を違えたことになりましょう。ですが、そうでなければ約束を破ったことになりますまい」

 御簾の奥からしてくる声はきっぱりとしたものであった。

「ふん」

 長兄は舌を鳴らすと、

「致し方ない。うすぼんやりのみこと殿、どうぞこっちへ来られよ」

 そういって手招くと、小声で葦原色許男の耳に囁いた。

「痛いと感じたらすぐさま剣と弓矢をここに出すのだ。分かったな」

 は?と見上げた葦原色許男の肩を乱暴に叩くと長兄は怒鳴った。

「早くせよ、ぐずぐずするな」

 長兄は姫がこのうすぼんやりしたまだ男と呼べるほどでもない末弟を選ぶはずがない、と信じていた。

 葦原色許男は一見ぼんやりと成り行きを見守っていたのであるが、実は内心たいそう心配していた。万一誰一人として姫の手を握ることが出来ねば、どんなことが起こるのであろうか?そして、その時自分はどちらの味方をすべきなのか、悩んでいたのである。

「あ・・・はい」

 皆の視線が注がれる中、竿を負ったまま葦原色許男は簾の前へ歩を進めようとしたが、長兄が肩を掴みその耳元で囁いた。

「わかっておるな、すぐに武器を出すのだぞ。のろのろしていたら、お前を庭に埋めて皆でしとをかけてやる」

 しと、とは小便のことである。

 いやだなあ、と葦原色許男はその情景を思い浮かべた。兄たちはほんとうにやりかねぬ。仕方なく葦原色許男は頷いた。

「ではその時はすぐに」


 「うすぼんやり」が痛さに転げまわるさまを心に浮かべてにやにやと様子を見ていた長兄は、そろそろと伸ばした葦原色許男の幼さを残す手を姫の方から握ったのを見てたまげた。それどころか、姫が握った手を引いたので、葦原色許男はそのまま簾の中へ倒れ込んでいったのである。

「何をなさるのです」

 簾の中は良い香りで満ちていた。倒れこんだ先にある姫の体は殊の外柔らかく温かかった。何をなさる、などと口では抵抗しているが葦原色許男はたいそういい気分である。

「貴方は私の体をご覧になりましたね」

 小さく、ふっくらとした桃色の唇から漏れた言葉に驚いて葦原色許は自分を引き寄せた女の顔をまじまじと見た。なんと美しい・・・。

 ・・・?

「あ・・・」

 葦原色許は呆けたような声を出した。あの時兎と重なって一瞬見えた裸体はこの女ではないか?

「ご覧になりましたね」

 女はきっとした目で葦原色許男を睨んでくる。

「あ、はい・・・でも」

「でも、ではございません。体を見られた以上、私はあなたのものでございます。皆様にそうおっしゃいなさいな。私を婚くと」

「分かりました。そう致します」

 葦原色許が答えると女はにこりと微笑んだ。その微笑は葦原色許をぼーっとさせるのに十分以上である。葦原色許男は立ち上がると御簾を出た。その頬は上気している。そして、唖然としている兄弟に向かって高らかに宣言したのである。

「兄弟の方々。ということで、私はこの姫を婚くと決めました。ここはひとつそういうことで」

目を丸くした兄弟が見守る中で葦原色許男は一つ、こほんと咳をしてから続けた。

「祝ってくださいませ」


 出雲に戻っても、兄たちの腹立ちは一向に納まらなかった。納まるどころか、考えれば考えるほど自分たちは騙されたのだと、腹立ちは募っていく一方である。

「俺たちはめられたのだ。だいたいよく考えれば稲羽の国主が俺たちを歓待するはずがない。あれは、うすぼんやりが最初からしくんだことに違いあるまい」

 長兄の言葉に他の兄弟たちは一斉に頷いた。次いで次兄が憤激したように

「姫はなぜあの男をわれらが兄弟の一人と知っておったのだ?あいつは荷物持ちとして宴にも加えなかったのだぞ」

 と喚くと、集団は再び一斉に首を縦に振る。

 だが、そもそも稲羽に姫を奪い取りに行く事を考えたのは彼ら自身であり葦原色許男が企めるはずもない。だいたいにおいて身勝手な方向へとこの男たちの思考はなびく。姫が葦原色許男のことを知っていたというのは事実であるが、そこだけを切り取って自分の都合に合うように物事を組み合わせる思考法は愚者の特徴である。だがそんなことに思いが至るわけもなく、長兄は叫んだ。

「あれは我々に対する裏切りである。許せん」

 そうだそうだ、と男たちは連呼した。八上比売が弟と仲睦まじく、幸せそうにしているのが余計に彼らを苛立たせている。

 美しかった姫は葦原色許男と一緒になってより艶を増し、その行く先々はあたかも大輪の花が咲いたかのように華やかであった。

 それを遠くから眺めながら、ちっと舌を鳴らして

「あの姫が夫を失って嘆くさまをみたいものだ。それはそれで、美しかろうよ」

 そう呟いた長兄は、葦原色許男には想像もできないような残忍な考えに囚われていた。


「このようなことを家に嫁いだわたくしが申しあげるのはたいそう心苦しゅうございますが・・・おまえ様。ご兄弟には心を許されますな」

 或る日、葦原色許男と二人きりのときに八上比売は夫の耳元でそう囁いた。

「なぜだ?我ら、皆同じ父を持つ一族だぞ。確かに、時に目に余る所業もなされるが、歳を重ねればいずれ落ち着くであろうと、父上は申されている」

 葦原色許男の言葉に八上比売は静かに首を振った。

「それは失礼ながら親の僻目ひがめというものでございましょう。あの人たちが私を見るたびに、私の眼にはあの人たちの顔に卑しい心が透けて見えます。あのような性情は直るものではございません。むしろ歳を重ねるほど悪くなるものでございます」

 そうか、と葦原色許男は頬杖をつくと、八上比売をまじまじと見た。稲羽へ赴く道中で、自分もそんな風に考えたのを思い出したのだが、

「母も、時々同じようなことを言うのだ。そなたは母上に似ているなぁ」

 と母にかこつけた。

「まあ・・・」

 八上比売は恥ずかし気に袖で顔を隠した。八上比売にとって、義母と似ているというのは誉め言葉である。母と八上比売とはたいそう睦まじく、そのことが葦原色許男には何よりも嬉しい。八上比売を連れ、出雲へと戻ってきた時には、意見も聞かずに勝手に嫁を取ったことを母が不満に思うのではないかと葦原色許男は心配していた。しかし貰ってきた嫁を戸口で迎えるなり母は驚くほど熱意を込めて二人を寿いだのである。

 暫く後二人きりの時に、なぜでございましょう、と問うと母はあきれたように葦原色許を見遣った。

「お前は迂闊ですね。姫がこちらにやってきたとき、御祖さまが垂木の上に腰掛けられておられたでしょう」

「ええ、いつものことですから」

 大山津見は外から客人が来ると必ず宮の大垂木おおたるきに腰掛けて迎える。しかし、そのことに気づくものは滅多にいない。

「そのとき姫は御祖様にすぐにお気づきになりましたよ。私が袖を引っ張って黙っているように知らせたのです」

「ああ、そうだったのですか」

 葦原色許男は感心した。

「それは気づきませんでした」

「御祖さまもそれは嬉しそうににっこりと笑って頷いておられました。あの姫こそは、余人に代えがたいお方。あなたにとってなくてはならぬ嫁御になりましょうよ」

 そう言った母は妻と年の離れた姉妹のように、つかず離れず一緒に暮らしている。

その母も稲羽での経緯を聞き、息子やその嫁がいつか兄たちに酷い目に遭わされるのではないかと心配らしく、事あるごとに葦原色許男に注意をしている。


「狩りに行くぞ。猪を捕らえ、父上に献上するのだ。そなたの妻も身ごもっているのだろう。肉を分けてやるから養ってやるがよい」

 次兄にのあにが葦原色許男をそう言って誘ったのは、八上比売が妊娠し、腹の膨らみが目立つようになった頃の事である。八上比売の妊娠を知ると、長兄は憎悪を隠し切れなくなり葦原色許男と会うのを避けるようになっていた。

「はあ、分かりました」

 次兄が妻の身の事を案じてくれているのだと解した葦原色許男も、やや迂闊である。だが、さすがに日頃の母や妻の言葉を思い出すといま一誘いに乗り気になれなかった。かといって兄が親切で言ってくれているとしたら断るのも礼を失する。

「一の大兄さまさえ・・・」

 葦原色許男も兄弟たちが自分を苛む大本が長兄であることを知っている。他の兄弟たちは長兄の尻馬にのっているのだろう。しかし結局はだらだらと考えあぐねただけで母や妻に打ち明けられぬまま狩の日を迎え、葦原色許男はとぼとぼと伝えられた狩場へと赴いた。自分が注意さえすればなんとかなるだろう、くらいの半端な心構えである。

 狩場に集まっていた兄弟たちの中に長兄の姿はなかった。

「大兄さまは?」

 と葦原色許男が問うと、次兄は、

「来られぬそうじゃ、何が面白くて狩などやるのだと呆れておった。あのお方は父上をあまりお好きではないからな」

 と答えた。それを聞いてほっとした葦原色許男に向かい、次兄はさも親し気に話しかけてきた。

「この山には大赤猪おおあかいこがおる。わしらが勢子になって追うから、お前は下で網を張り、捕らえるのじゃ、いいな?」

「はい、承知しました」

 長兄が来ぬと聞いて葦原色許男は次兄の言葉を暢気に承諾したのだが、その頃長兄は狩場からほど遠からぬ場所で大きな岩を瞋恚しんいの火で焼いていたのである。


「ほーれ、ほーれ」

「そーれ、そーれ」

 山の下で待っている葦原色許男の耳に獲物を追う声が聞こえてくる。

暫くすると遠くからざざざと、木々を薙ぎ倒す凄まじい音が聞こえてきた。よほど大きい猪のようだと、葦原色許男は地に足を踏ん張り備えた。その眼にちらりと赤いものが映った。来たぞ、と身構えた葦原色許男の鼻になにやら焦げ臭い匂いがした瞬間、真っ赤に焼けた巨岩に圧し潰され葦原色許男は気を失った。


「葦原色許男が狩りの最中に死んだ」

 という知らせが宮に届いたのはその日の昼下がりである。闇山津見くらやまつもの統べる山で狩りをしたことが怒りにふれ、火を噴いた山の焼け石に当たって死んだというのである。八上比売はその報せを聞くなり卒倒し、母刺国若比目は大山津見の許に駆けつけた。

「あの子がなぜそのような目に遭わねばならないのでしょう。そもそも生き物を好んで殺すことなどいたしませぬ。きっと兄たちに騙されたのでございましょう。

なんとか生き返らせていただけないものでしょうか?」

 必死に縋る葦原色許男の母親に、大山津見は悲し気に首を振った。

「もし闇山津見命の怒りに触れたというのが本当ならば生き返らせる術はない。闇山津見命は確かに後にわしより産まれたが、迦具土命の陰から生まれた神じゃ。力があるばかりか、もとの神、迦具土命のこの世のものへの恨みは尋常ではない。闇山津見命はその恨みを受け継いでおる」

 迦具土の恨みを未だに国つ神たちは畏れている。その恨みは本来なら父神に向けられるべきであるのだが、いかなる時にその恨みが父の子や子孫である自分たちに向けられるのか知れぬ。恨みは炎となって国つ神を灰になるまで焼き殺すと信じられていた。

「ですが・・・」

 絶句した母親に向かって、大山津見は、ならば、と申し渡した。

むくろを運ばせて見せよ。傷を見れば闇山津見命の仕業かどうかすぐ分かる」

「はい」

 藁にもすがる思いで母親が運んできた骸を見ると確かに焼け爛れた跡はある。だが思ったより爛れは少なかった。迦具土のすえならばこのような手加減はしない。大山津見は、なるほどの、と呟くと、

「これは闇山津見命の仕業ではあるまい。とはいえ、わしには治せぬ」

「では・・・」

がっくりと俯いてすすり泣く母親に

「だが、これならば手がないでもない。そなたと八上比売の二人で高天原に参り、神産巣日之命かむむすひのみことに願い事をするのだ。あの神であれば癒してくれよう」

 叶う事ならば、高天原の神の力を借りたくないというのが大山津見の本音である。高天原の目を葦原中国に引き付けるようなことなどしたくないのだ。しかし、この子の命を助けるためには仕方あるまい。どのようにすれば神産巣日命の許へ参れるのですか、と縋りつく母親に向かって大山津見は厳かに

「二人ともこれから二日、二夜潔斎けっさいを執り行うのじゃ。その上でわしが送って進ぜよう」

 と答えたのである。

 身籠った者を高天原に送り込めば必ず神産巣日之命に会うことができるという話は誰から聞いたのであったろうか。父であったか母であったか、あるいは別の者からだったのか、その記憶は定かではない。だが神産巣日之命は生を司る神である。その言い伝えは間違えなかろう。葦原色許男の骸は忌みと称して、神域から離れた喪屋に安置した。そこを大山津見が訪れると、葦原色許男の父である天之冬衣が骸を前に静かに座っていた。大山津見の気配を感じ取ったのか振り向いた天之冬衣の顔は苦悶に歪んでいた。

「ここにおったか・・・」

 大山津見の言葉に父神は項垂れるように頷いた。

「妻とこれの嫁を高天原にお送りくださると聞きました」

 末息子の骸を指さした天之冬衣に、大山津見は頷いた。

「闇山津見命の仕業というのは嘘だと・・・も」

「うむ」

 大山津見は短く答えた。

「では、これは・・・やはり・・・」

 葦原色許男の身に起こったことは他の子たちの仕業であるまいか、と天之冬衣も考えているのだ。

「分からぬ。だが葦原色許男はこの国を統べるべくして産まれた子だ。助けねばならぬ。さもなくば、この葦原中国の国つ神たちを束ねうる者は二度と現れるまい」。

「そうですか・・・。では、私はこれで」

 そう呟くと天之冬衣は静かに立ち上がった。去って行く父親の蹌踉そうろうとした後ろ姿を大山津見は眺めている。

「他の子供たちを諭すつもりであろうが、あの者たちがそれを聞く耳を持つであろうか」

 大山津見は独り言を呟くと、喪屋の周りに注連しめを結った。これであの愚かな子供たちは入って来れまい。魂が再び肉体に戻ってくるまでの間、遺体を損なうものがないようにせねばならぬ。


「なるほどの」

 高天原まで昇ってきた二人の女の話を聞き終えると神産巣日之命は顎髭を左手で触った。さわさわと秋の野を吹く風のような音がする。

「良かろう。大山津見命とそなたの子に免じて助けてやろう」

 八上比売の腹を指して、そう言うと神産巣日命は手にした杖をさっと振った。するとそこに二人の童女が現れた。

「さき貝と蛤貝うむかひじゃ。これ、客人にご挨拶をなさい」

 神産巣日之命が命じると二人の愛らしい童女は地上からの訪問者にこくりと頭を下げた。

「さあさ、お前たちはこの者たちについていってその男を生き返らせてやりなさい。その男、どうやらとんだうっかりものらしい」

 ころころと鈴のような声を上げて笑った二人の童女は頷いた。

「だが、このようなことは二度とはない、と思いなさい」

 神産巣日之命は授け物として扇を手渡しながら葦原中国からの二人の使者を前に厳かに言った。

「国つ神を助けることは高天原の本意ではない。だが汝の子・汝の夫は、もとは高天原に発した伊耶那岐命・伊耶那美命の子、大山津見命の末裔。あの者たちに葦原中国を造れと言う重い任を与えたのはわしらじゃからな。今回に限って私の裁量で助けるのだ。そこを良くわきまえよ」

 葦原色許男の母と妻は篤く礼を述べ、童女たちの小さな手を取ると再び葦原中国へと舞い戻ったのである


 さき貝の持つ珠を削り、蛤貝の持つ殻に入れ二人の童女が二日二夜混ぜ続けて乳のようになった汁を、母と妻が焼け爛れた葦原色許男の皮膚に丹念に塗ると爛れはみるみるうちに消え、まるで生きている時そのままの姿に変わった。

 そして母と妻の二人が昼夜違わず、天から授かった扇で風を送り続けると、三日目の夜、葦原色許男は目をぱちりと開け、生き返ったのである。

「ここは・・・?」

 葦原色許男はぼんやりと呟いた。煽ぎ疲れて痺れた手から扇を放り捨て、二人の女は泣きじゃくりながらその体にしがみついた。

「どうなさったのです」

 不思議そうに尋ねた葦原色許男に母と妻は葦原色許男の身におきたことを審らかに語った。兄弟たちが、葦原色許男は闇山津見の怒りを買ったのだと嘘を吐いたことまで話すと、

「はて」

 葦原色許男は首を傾げ、

「では、あれは何だったのでしょう?」

 と呟いた。

「確かに赤猪のようにも思えたのだが・・・、そう言えば山が吐き出す火の岩のようにも見えました。闇山津見の吐き出した岩と言われればそんな気もしないでもないが・・・」

「何を暢気なことを仰っておるのです。そなたの庶兄ままえたちが謀ってあなたを亡き者としようとしたのに違いありません」

「はあ」

 おぼつかなげに答えた葦原色許男であったが、妻は必死の面持ちをするとその手を握り、

「お願いでございます。どうぞご注意なさってくださいませ。私の身にはあなたとの子が、ほら・・・」

 そう言って自分の膨らんだ腹に押し当てた。

「おお、そうであった」

葦原色許男は初めてにっこりと笑った。

「気をつけようぞ。我が身一つではないのだからな」

 それを聞いて漸く安堵した二人の女を目の前に、葦原色許男は眠っている間に見た夢の話を始めた。

「それは、たいそう大きな、ぼさぼさの髪と髭を生やした男でございましたよ。不機嫌そうな顔をして、私を見るたびに『去ね、去ね』と棒のようなものを振り回して追っ払おうとするのです。あれは黄泉の国だったのでございましょうかね?」

「まあ、そのようなこと、気味の悪い」

 二人の女は目を見合わせた。

「でもまあ、それほど悪いところでもなさそうでしたよ」

 あっけらかんと葦原色許男は言うと、それでは父上と御祖様にご挨拶してまいりますと、軽々と立ち上がった。


 父は他の兄弟を集め、諭している最中であった。

「父上、お久し振りでございます。戻って参りました」

 葦原色許男が言いながら部屋に入ると、中にいた兄弟たちがその声にぎょっとしたように振り向いた。その表情はたちまち怯えとおそれに凍り付いたが、そんな中、ひとり長兄だけは鬼の形相をして葦原色許男を睨みつけてきた。。

「おお、葦原色許男か。よう戻って参った」

 父神は微笑むと、

「ちょうどよいところだ。今、皆に兄弟が助け合って国を作ることの大切さを説いていたところだ。さあ、お前もそこに座りなさい」

「はあ、それは良いところに参りました、では」

 そう言って葦原色許男が隅にちょこんと座ると、まわりのものたちは気味の悪い物でもあるかのように、慌てて身を引いた。


「まさか・・・。確かにうすぼんやりは死んだ筈だ」

 次兄の言葉に別の場所に集まった兄弟たちはみな頷いたが、その眼には怯えが混じったままである。ただ一人、長兄がぎらぎらとした目で虚空を見つめていた。

「どうなされました、兄上」

 次兄の言葉に長兄は火を吐くような口調で答えた

「父上はこの土地をあの男に継がせようと考えておられるのだ。わしもお前も、あのうすぼんやりの下につけ、そう仰せになられておられるのだ。だからこそ、あの男を生き返らせたに違いない」

「まさか・・・」

 次兄は息を呑んだ。八十もの兄を差し置いて末弟が国を譲られるなどということが許される筈もない。

「いや、さっきのお言葉の端々に、確かにそう聞いた」

 言われてみれば、葦原色許男が戻る直前、父は皆を前に話していた時に、

「この中で最も優れた者を皆が助けてこそ、我らが代々受け継いできた土地を守ることが出来る。それが兄弟というものの力だ」

 と言ったのである。皆は聞き流したが長兄だけは「最も年長の者」ではなく「最も優れた者」と父が言ったのを聞き逃してはいなかった。そしてその時父神が自分ではなく、葦原色許男がそののちに入って来た戸に目をやって僅かに微笑んだのを見逃していなかったのである。見捨てられつつあると自覚しているものの鋭敏さは、時に侮れないものがある。

 長兄の指摘に、集まった兄弟たちのそれぞれの表情から怯えの色が失せ、憤りに染まって行った。欲と嫉妬が恐怖に打ち勝ったのである。

「故無き事にはございますまい」

 長兄の言葉に最初に答えたのは三番目の兄である。

「どうもあのうすぼんやりが生き返った訳が分かりませんでしたが、あの男の母と妻とが高天原へ直談判しに行ったという噂がございます。高天原の恩を買ってまであの男を蘇生させたという事であれば、並々ならぬことでございましょう」

 うむ、と長兄は頷くと

「あの男もその産まれてくる子も生かしておいてはならぬ」

 ほとばしるように言葉を継いだ。

「子、もですか?」

 次兄は慄き、尋ねた。

「無論じゃ。あの男の血を全て絶やさなくては、いずれわしらは干上がってしまうに違いない。なんとかせねばならぬ」

「私に考えがございます」

 突然立ち上がってそう言った三番目の兄に、長兄は探るような視線を向けた。

「お兄様方お二人はもうあの者に声を掛けても警戒されるでしょう」

「そうだな」

 次兄が頷いた。

「ですが、私ならばまだ大丈夫でございます」

 三番目の兄は次兄が謀をした時にもその一味に加わらなかった。いくら何でもそこまでして女に関わる恨みを晴らそうというのは馬鹿げた仕業に思えたのである。長兄と違って女にそれほど関心のない男だったが、欲は深かった。長兄と次兄が葦原色許男を殺そうと企んだ時、加担しても彼らを利するだけだと冷ややかな目で見ていただけであった。

 寧ろ父親に嫌われぬよう動いていた方が最後には良い割り前が来るに違いないと考えていたのである。長兄や次兄がしくじって父の怒りを買い追い出されれば、自分が頭になる事だってありえる。だが、もし末弟がこの地を受け継ぐようなことになれば・・・。

 とても受け入れられるものではない。

「どんな考えだ、申してみよ」

身を乗り出した長兄に向かって、三番目の兄は声を低め、自分の考えた謀をひそひそと話し始めた。


「うす・・・、いや・・・葦原色許男命、よろしゅうございましょうか」

 野辺でいつものように草花に話しかけていた葦原色許男が、声に目を上げると三番目の兄が神妙な面持ちで立っていた。

「何でございますか、兄上殿」

 産まれてこの方、兄が初めて敬称で自分を呼んだことはない。戸惑っている葦原色許男の前にべったりと膝をつくと兄は、

「誠に済まないことを致しました。葦原色許命には兄弟えおとを代表して謝りたいと思っております」

 と頭を下げた。

「頭をお上げください、兄上殿」

 慌てふためいて葦原色許男は自分も膝を折った。だが。地に頭をつけたまま

「いくら大兄、次兄が命じたとはいえ、弟たちの中に葦原色許男命を亡き者にしようとした者たちがいたのは事実でございます。もちろん私はそれに加わろうとは思わなかったのですが、その企みをあなたにも父上にも告げなかったのは事実。父上にもその事で散々叱られました」

 むせぶように謝罪をしてくる兄に向かって葦原色許男は、

「兄上様、もう十分でございます。あの場に兄上様のお姿がなかったことは存じております。そうですか、二番目の兄上も・・・やはり私を憎んでおられたのですね」

 と嘆息をついた。

 人が良いのにも程がある、今更それに気づいたのかと思いつつ三番目の兄は

「そうです。ですから我々は、長兄様やその取巻き、二番目の兄上様とその企みに参加した者たちを除いた兄弟の間で話し合ったのです」

 と言葉巧みに感情を押し殺した。

「何を、でございます?」

 頭を上げて尋ねた葦原色許男は相手がまだ地面に頭をすりつけたままでいるのを見て、慌てて頭を下げ直した。

「あのような目に遭ってなお生き残った葦原色許男命こそ、わが兄弟の中の正統たる後継者であろう・・・と。そこで葦原色許男命を奉じて兄弟で力を合わせて国造りを致そうと。父上のお言葉を我々はそのように解したのでございます」

「そのような」

 葦原色許男は地面に手をついたまま後退った。

「いや、ぜひともそうさせてください。一度死んでも生き返る、そのような力を持ったお方に率いてもらってこそ一族も栄えるというものです。私のこの目をご覧ください。誠の目でございます」

 葦原色許男が目を上げると、三番目の兄は真摯そうな目で葦原色許を見つめている。

「兄上様。そのような事はございませぬ。あの蘇生は神産巣日之命がなされたこと、私の力ではございませぬ。それに母は二度と同じことはできぬときつく言われたそうでございます。だから命を大切にせよと・・・私も母から大変、叱られました。ありがたいお言葉です」

 葦原色許男は言いながら目を拭った。それを聞いて三番目の兄がにやりと笑みを零したのに、地べたにへばりついて低頭している葦原色許男は気づかない。

「いや、いずれにしても我らの心は一つ。父上にわれらが覚悟を申し上げたら、良くそれに気付いたとお褒めの言葉を頂き、葦原色許男命のために宮を作る木を切り出す許しを得たのです」

 そのことは事実であった。父は三男がそう申し出たとき嬉しそうに、うむ、と頷いたのである。だが、その申し出を父神が肯定したということは、父がとりもなおさず葦原色許男を、やがて自分たちの上に立たせようとしていることを示している。

 そうなるともう迷いはなかった。うすぼんやり、と貶めていた弟の下に就く気などさらさらないし、二度と生き返る惧れがないと知れば躊躇う理由などどこにもない。死にぞこないを治癒する薬を作ったという妖しい二人の童女は桜色と碧色の貝殻を二枚残してどこかに消えたという話も確かめてある。

「もうすでに準備は始まっております。一度木を切り出しているところを見に来てくださいませ」

 馬鹿にしていた末弟に対して敬語を使わねばならない屈辱も、謀の成功と共に一挙に晴らされるに違いあるまい。神妙そうに俯いた顔の陰で笑みを噛み殺しながら、男はそう考えていた。


 かーん、かーんと木を切る音が山々へ渡り、澄明ちょうめいな秋の空気の中を木霊こだまとなって帰って来る。なんとも心地よい響きだ、と葦原色許男は思いながら山間やまあいを三番目の兄と共に歩を進めている。

 木の神には申し訳ないが、木を材として宮を立てるというのはいかにも生産的な仕事である。兄たちがそうした業を行っているということが葦原色許男にはたまらなく嬉しかった。かーん、かーんと鳴る音色は兄たちの改心の響きにも聞こえる。それまでの兄たちといえば、狩りはともかく、食べ物を強奪したり、女を連れ去ったり、喧嘩を仕掛けたりと、とかくろくなことしかしていなかった。だがそんな兄たちも改心さえしてくれれば共に国を束ね、新しい技術を取り入れ、一緒に国を豊かにすることができる。

 身重になった妻にはあと三月もすれば子供が産まれる。つわりが消えた今のうちに、と供を連れて昨日稲羽に戻って行った。身軽になった葦原色許男は。さっそく以前から申し入れのあった材木の切り出しの場へと赴いたのである。

 一段と高くなった所に切り出した材木で拵えた立派な座が設えてあった。

「葦原色許男命よ、そこにお座りください」

 兄が微笑を浮かべて招いた。

「命のために特別にしつらえたのでございます。ここからは木を切り出す様子が良く見えますゆえ」

かたじけのうございます」

 葦原色許男は導かれるまま、その席に座った。確かに小高くなった座からは皆が働いている様子が一望で見渡せた。兄たちの幾人かが杣人そまびとを忙しなく立ち働かせ、切られた木を川の中に落とし込み、そこで材木を束ね、流していく。その作業を終えると杣人たちはまた木を伐り始めた。伐採する高い音が風の中へと消え、木霊となって帰って来る。

「あしはらしこおは」

 ふと木霊の音がそう聞こえ、葦原色許男は耳を澄ました。

「おひとよし」

 ん?と葦原色許男はさらに耳をそばだてた。

「うすぼんやりに」

「死をたまえ」

 腰を上げかけた葦原色許男の背後からめりめりと音を立て、尖った杭を幹に仕込んだ大木がのしかかってきた。


 三番目の兄を筆頭とした兄弟たちが、神妙な表情で父神にその時の様子を語るのを大山津見は傍らで聞いている。

 家長の天之冬衣神にこそ大山津見の姿は見えるが、その息子たちにその姿は見えていない。天之冬衣は大山津見が傍で聞いていることを素振に表わさないが、大山津見を時おり見遣ってくる視線は苦悩に満ちていた。

「誠に意外なことでございました」

 三番目の兄は袖で涙を拭くような仕草をすると、

「木々を司る久久能智神命くくのちのかみを丁寧に祀った上できこりを始めたのでございます。お怒りを買うような事は決してしてございません。ですが・・・。もしかしたら葦原色許男命のために設えた台座が分不相応とご不興を買ったのかもしれませぬ」

 久しぶりに耳にした兄神の名を聞いて大山津見は苦笑した。久久能智神は木の神で大山津見の一つ前に産まれた神である。だが、兄神がそのような事をするはずがない。木々を司るあの方はその司る木々と同じで、ごくごく気前の良い優しい方だ。それに葦原色許の体にできた傷はただの木の枝でできたにしては鋭すぎる傷がいくつも刻まれていた。

 遠くで葦原色許男の母が泣く悲痛な声が聞こえ、大山津見は人知れずため息を漏らした。

 木霊に問い質し、大概の様子を大山津見は知っている。目の前に神妙な様子で座っている三番目の兄が首謀者であることも承知している。

 それにしても神の血筋を引いている筈なのに、堕落した者の数の何と多いことか。唯一、高天原の神々と対峙できると思われる、この葦原色許男を国つ神自身たちが弑そうとするのは何ゆえか?自分の血を引いているはずのこの兄弟たちでさえ、己の欲を満たそうと欲しいがままにするのはどうしてなのか?国つ神の将来を憂い、気力が萎えるような思いに大山津見は囚われていた。蹌踉と大山津見が席を立つと天之冬衣は、皆を払って大山津見の後に続いた。

 葦原色許男の母、刺国若比売が

「神産巣日之命様は一度きりと確かに仰ったのでございます。もうあの子の命は取り返せません」

 と泣き叫んでいるのを宥めて、今一度妻である八上比売と共に高天原に昇るように説得したのは大山津見である。天之冬衣はその横で押し黙っていたが、最後に妻の手を取り、「頼む」と額をその手に押し付けて、

「私の力が足りなかった。あの子たちを諭してももはやどうにもならぬ。葦原色許を生き返らせねばこの国も葦原中国もしまいじゃ。そのためには残りの子たちはあきらめよう」

 と掻き口説いた。刺国若比売は涙を袖で拭くと、

「そこまでおっしゃるなら」

 と頷いたのである。だが・・・。

 今回の旅はとりわけ八上比売には辛いものになるに違いあるまい。身重の体で天に昇るというそのこと以上に・・・。と大山津見は思っている。済まぬとは思うが、ここで葦原色許男を失うわけにはいかないのだ。

 泣き腫らした顔そのままに、八上比売を連れ戻すために稲羽へ赴く刺国若比売の姿が旅路に消えると同時に、大山津見は、今度は宮そのものに強い結界を引き、葦原色許男の兄たちを宮から追い出した。


「何ゆえか?」

 長兄は憤激していた。宮から放逐された長兄を始めとする八十神やそかみの兄弟らは、焼いた石を赤猪と偽って葦原色許男を殺したまさにその山に盤踞ばんきょしていた。長兄の憤怒み満ちた形相は、山を統べる闇山津見の神がその身に宿ってしまったのではないかと思えるほどである。

 血を吐くように長兄は吼えた。

「父神は我ら一同をあの者故に捨てなさるのか?ならばこの上は父神と雖も許してはおけぬ。まとめて成敗してくれるわ」

「落ち着かれませ」

 三番目の息子は宥めるように言った。

「いずれにしろ葦原色許男が生き返ることはございません。高天原の神は、あの者の母と妻に二度と生き返らせることはできないと言ったそうにございます。それに・・・やがて父神様のお怒りも解けましょう。なにせ、継ぐ者は我々を措いて他にはございませぬのですから。ですが今軽率なことをすれば取り返しがつきませぬ」

 長兄はうむ、と頷いたが、

「しかし、なぜあの者の肉を割き、骨を砕き、火にくべて二度と戻って来ぬようにしなかったのだ。万が一という事を考えなかったのだ」

 と責めた。

「そのようなことをしたら私は追い出されるだけではすみませぬ。木が倒れて死んだというのに、そのような真似をしたら私が殺したと白状しているようなものではございませぬか」

 三番目の息子があらがった。

 「その何が問題なのだ?二度と生き返らせぬことが肝要じゃ。お前が罪を負うか負わぬかなどどうでもよい」

 まあまあ、と次兄は割って入ると、反抗的な眼で長兄を睨みつけている三番目の息子に

「もう二度と生き返ることはないと本人の口からきいたというのですから、宜しいではございませぬか。そうであろう?」

 と確かめた。

「ええ」

 三番目の息子ははっきりと答えた。

「それは間違いありませぬ」


 葦原中国から再びやってきた二人の女を前に、神産巣日之命は困惑していた。

「一度きり、と申したではないか」

 目の前に頭を地に付けたまま腹這っている二人の女に不愛想に呟くとそっぽを向く。

「そこをひとえに」

 母神は声を押し殺して頼み込んでいる。

「そう申しても、わしにも立場というものがある」

 葦原色許男を生き返らせたことに関して、天照大御神が快く思っていないらしいことを神産巣日之命は伝え聞いている。

 天の事は天の事、地の事は地の事。

 地のことは伊耶那岐と伊耶那美の子に任すと言う天地発時あめつちひらくときの三神の約定はその一人である天御中主神あめのみなかぬしのかみが天照大御神に座を譲ってからというもの、曖昧になってしまった。

 それはひとえに天照大御神の出生に起因している。

 神産巣日之命自身は伊耶那岐・伊耶那美の実の血を引き、国つ神を纏める力量のある葦原色許男を生かし葦原中国を治めさせ、天と地の境界を明確にしておくことの方が望ましいと考えている。それこそが天地初めて発く時に三神が合意し、天津神あまつかみ諸々が伊耶那岐・伊耶那美に賜った詔に沿った話である。三神の残りの一、高御産巣日神たかみむすひのかみも同じ意見である。

 とはいえ天照大御神は建速須佐之男命との誓約で産まれた天忍穂耳命あめのおしほのみことこそが葦原中国を治めるのが正しいとのお考えだ。だが・・・。

 お二人は伊耶那美の血を引かぬ。当然その子である天忍穂耳命も当然伊耶那美の血を引かぬ。葦原中国を治めるものは伊耶那美の血を引くのが約定の筈である。伊耶那美が死して黄泉津大神よもつおほかみとなった今もなお、その約定は生きている筈だ、と高御産巣日神は考えている。

 天と地を分明にするために地に働きかけている今の自分は矛盾した存在である。

神御産巣日之命はふっとため息をつくと、

「そなたも同じ願いなのか」

 母神の隣に伏している八上比売に問いかけた。八上比売は地に頭を擦りつけたまま、

「はい」

 と答えた。

「しかし、そのような事をすればお前は大切なものを失うことになるぞ」

「私の命でございましょうか」

 目を上げ自分を見つめてきた八上比売に

「わしは命を司るものだ。むやみに命を奪ったりせぬ」

 神産巣日之命は穏やかな口調で答えると、

「だが世の中には命と同じほどに大切なものもある。それを失っては仕方なかろう」

 と続けた。

「いえ、夫の命さえ救えるならば、私も母上様と同じ考えでございます」

 答えた八上比売の真剣な表情からふっと目を逸らすと、 

「どうしても葦原色許男の命を救って欲しいというならお前の体に宿る子を貰い受けざるを得ない。といってもむやみに奪い取るというわけではない。その逆じゃ。この子の命が危ないとなったら貰い受ける。それでよいか?」

 と尋ねた。八上比売は一瞬目を彷徨わせた。神産巣日之命の言葉の意味を考えたのであろうが、すぐに思い切ったかのように頷いた。

「それでようございます」

 神産巣日之命は幽かに溜息をつき、

「分かった。その時は近くにある木の俣にこの子を置くのだぞ。どのような荒ぶる神でもそこに置きさえすればこの子に害をなす事はなるまい。ただし、もう次はないぞ。お前たちは、あの男の命をあがなうような物をもはや持たぬ」

 そう言い終えると奥底に憐れみのこもった目で女二人を促した。

「もうお帰り。帰った頃にはあの男は生き返っておるに違いない」

 女たちは目を見合わせ、喜びに満ちた目で頷いた。踊るように帰って行く女たちの後姿を見ながら神産巣日之命は視線を若い妻の後姿に向け続けていた。自分の夫を生き返らせてももはや、その夫はお前のもとに帰ることはない。そして腹の子は夫の跡を継ぐことはあるまい。無理に継がせようという素振りを見せれば、その子は引き取らざるを得なくなるのだ。どれほど言い繕ってもそれは命の引き換えに過ぎない。

 だがそれよりも・・・。高御産巣日神は深い憂慮の色を面に浮かべ、太い溜息をつくと呟いた。

「この先、葦原中国をどうすべきなのか・・・。もう我らの出る幕ではないのだろうか。わしもそろそろ身を引きたくなってきた」


 高天原から母と妻が戻ってきた時、すでに葦原色許は息を吹き返していた。傍らには大山津見が座って葦原色許男と何やら話していたが、女たちを迎えると立ち上がり、

「さあ、後はお前たちが話すとよい」

 と言って立ち去った。泣き笑いのような表情を浮かべて縋りついた母に、

「お前はここにいてはいけない。兄者たちにいつか殺されてしまいます」

 と訴えられ、さすがに葦原色許男も真剣に考えざるを得なかった。いくら結界が張られているとはいえ、葦原色許男としてはいつまでもその中で安穏として暮らしているわけにはいかない。やがて父を継ぐようになったとしても宮を出ることが出来なければ大山津見に命じられた国つ神を束ねる仕事もままならないではないか。

 母は近くの山に盤踞している兄たちを恐れておられるようだが、葦原色許男はそれよりも自身が兄たちの制約の下で生きていかねばならないことを恐れていた。互いに手を取り合って国つ神を纏めていく筈だった兄弟たちは、今となってはもはやくびきでしかない。

「お前もそう思うか」

 そう尋ねた葦原色許男に八上比売は美しい眸に憂いを浮かべつつ、切なげに頷いた。

「どうした?何か気にかかることでもあるか」

 眸を覗き込んできた葦原色許男に、

「いえ、主様としばらくはお別れしなければならないと思いますと・・・」

 と妻は視線を逸らせた。

「なんだ、そのような事か」

 笑顔を作ると、葦原色許男は

「お前も連れていきたいが、兄者たちの私に対する恨みは深いようだ。身重の体ではとてももつまい。暫くの間はここか、里で待っていておくれ。私はしばらくここを留守にする」

 そう言うと、暫く妻の体を抱きしめた。妻はなされるがままに身を委ねている。

 やがて妻の体から腕をほどき、

「ところでこの度も私は先だってと同じような夢を見たのでございますよ」

 葦原色許男は真面目な顔でと母と妻に語り始めた。

「以前お話ししていた、恐ろしいお方の夢ですか?」

 母が尋ねた。

「ええ、私を見てうんざりしたような顔をして、また来たのか。お前はよほどのうつけじゃな、と」

 うつけとは、ひどいじゃないですか、と言って葦原色許男は苦笑いをする。

「あら、先様はあなたの事を覚えておられたのですか?夢だというのに」

 八上比売は不思議そうに目を見開いた。

「うむ。それで、そのお方が今度もまた私に向かってまたね、去ねと・・・」

 そう言いつつ、葦原色許男はその夢の中の風景が以前の時と何かが違っていたと思った。何であったか?

 そうだ、あの髭面ひげづらのむさくるしい男の側に娘が一人・・・。奇妙なものでも見るような眼で自分を見つめていたのである。そして・・・私に笑いかけた。

「どうなされたのですか?」

 八上比売に尋ねられ、葦原色許男は慌てて手を振りその娘の姿を脳裏から掻き消した。

「いや・・・何でもない。そうだ。あまりぐずぐずもしておられない。母上、私はどこに行けばよろしいのでしょう?」

 母は即座に答えた。

「木の国(紀国)に大屋毗古神おほやびこのかみという古い神様がおられます。家構えの神様でどんなに敵が攻めてきても守り、逃がすことのできる神様です。御祖様の兄弟であらせられますよ。そこにお行きなさい」

「分かりました」

「御祖様やお父様にもきちんとご挨拶してから発つのですよ」

「ええ、もちろんです」

 葦原色許男はにっこりと笑って母の言いつけに従うこととした。


 身をやつし、わざわざ道なき道を辿って山越えをしたにも拘わらず、どうやってそれを知ったのか兄たちは葦原色許男の後を追ってきた。

 まさか再び葦原色許男が再び生き返るなどと思っていなかった兄弟たちは宮に戻れる望みも断たれ、もはや葦原色許男を討つことだけしか頭にない。長兄ばかりでなく、すべての兄弟が憤怒に駆られ、目を怒りで真っ赤にして葦原色許男を追って木の国に居座った。

「さてさて・・・」

 大山津見の頼みで葦原色許男を匿うことにした大屋毗古にしても荒ぶる神に居つかれるのは迷惑この上ない話である。何度も火をかけてきては、焼けた残った木々の向こうから葦の原の葦の茎のように多くの矢をつが

「葦原色許男を出すのだ」

 と脅して来る者どもにうんざりしていた。

 愚かな者たちだと思うが、愚か者ほどしつこい。あの者たちの放った火のお陰で治めている森の半分ほどが燃えてしまったのである。その上、武具を作るために勝手に木を切り倒しておる。このままではあっという間に森自体が消えてしまいそうである。

「ここに居ては危ない。そこでわしに一つ考えがあるのだが・・・」

 三月ほど匿ってくれた上で言い難そうにそう切り出した大屋毗古に、葦原色許男は静かに頷いた。

「何でございましょう?」

「ここから北に根の堅州国かたすくにというものがある。そこは死者の国であるがわしはそなたを生きたままそこに入っていかせることが出来る。むろんあの者どもには生きたまま入ることは叶わぬ。その国はそなたの遠いおやである、建速須佐之男命が統しめされる国じゃ。建速須佐之男命であれば何かそなたに良い知恵を授けられることができよう。どうじゃ、行ってみぬか?」

「さようでございますか」

 葦原色許男は頷いた。

「ではお言いつけに従い、その国に参ることに致しましょう」

 これ以上大屋毗古に迷惑をかけるのは忍びないと常々考えていた葦原色許男は即断した。大屋毗古が兄たちからの攻撃を防ぎつつ、葦原色許男に木の俣を潜らせるとそこは既に根の堅州国の入り口である。または生と死の境界である。

 葦原色許男を逃がすと大屋毗古は軍衆いくさびとどもに向かって叫んだ。

「ここにはもう葦原色許男はおらん」

「どこへ逃がしたのだ」

 長兄が吼えた。

「根の堅州国じゃ」

「どこにある、それは?」

「今は丑寅うしとらじゃ」

「今?」

「根の堅州国の入り口は定まっておらん。今はここから千里、丑寅の方角にある。案内が欲しければからすを貸そう」

「くそ、手間をかけさせやがって。ここにある木を燃やし尽くしてやろうぞ」

「さようなことをすれば、案内は貸さぬ」

 大屋毗古の言葉に兄たちは押し黙ると、互いに相談した。

「わかった。案内を貸せ。森はそのままにしよう」

 兄たちの答えに、やれやれ礼儀の知らないやからどもじゃ、とぶつぶつと文句を言うと大屋毗古は黒鴉を放った。男たちはそれを追って去っていく。

 そうやって何とか兄たちも根の堅州国についたのだが、その境にいる道返之大神ちかへしのおおかみが頑として動かず、死ねば入れて進ぜようとしか言わない。大屋毗古が先に放った白鴉が、しばらくの間、警戒を怠らず人が来ても決して入れるな、と道返之大神に伝えていたのである。長兄は、なら死んで見せようと剣を抜いたのだが道返之大神は、

「宜しい、だが死ねばそなたの記憶も恨みも全て消えようぞ。それで良ければ勝手にするが良い」

 とせせら笑ったのである。さすがにそれでは意味がない、と兄たちはひそひそ相談した挙句、

「いずれにしろ、葦原色許男は元の宮に帰って来るだろう。その時殺せばよい」

 と衆議一決して再び闇山津神の統べる故郷の山へと戻って行ったのである。


 さて、葦原色許男が入って行ったのは死者の彷徨さまよえる国である。

 死者は言葉を話さない。建速須佐之男が坐ます宮殿はどこかと尋ねても、虚ろな目を向けぼやっと指でその方向を示すのがやっとである。八十の死者に尋ね、尋ねて後、漸く葦原色許男は宮殿へとたどり着いたのであった。やれやれと、その国の宮殿の門へ向かいその前に立つと、その景色をどこかでみた覚えがある。どこで見たのだろうかと首を傾げていると、門が開いてそこから娘が一人現れた。

「おや」

 それが死んでいた間に夢に出てきた娘だと思い出すのにさほど時間はかからなかった。娘もその時の事を思い出したかのように、にっこりと葦原色許に笑いかけた。その瞬間、葦原色許は自分が追われている身であり、妻子がいることさえ忘れてしまうほどの衝撃に貫かれた。

「なんと美しい娘だろう」

 美しさに加え、凛とした雄々しさを感じる娘であった。大柄だが、色が抜けるように白い。葦原色許男はは兄弟の中でも下から数えるほど背が低く父似だが、母は大柄な女性であった。大柄な美しい女性に惹かれるのはそのせいなのかもしれない。そして色白の女性が好みである。笑いかけてきた目は切れ長で鼻梁は美しく、何か言いたげな唇はふっくらと桜の花のような色である。つやつやとした髪は綺麗に巻かれ、毛先が風に揺られるさまは春の柳の枝のように若やいでおり、とてもこの世のものとは思えぬ・・・。もっとも葦原色許男が今いるところは「この世」とは言い難いのであるが。葦原色許男は乾いた舌で、もつれるように

「こ、ここは、ね、根の堅州国の宮でございますか?」

 とその娘に尋ねた。問いかけられた娘の方も現れた男に気を取られていた。

 なんて素敵なお方だろう・・・。

 もっともこの感想は多少割り引く必要があるのかもしれない。何と言っても根の堅州国を訪れる男などそうはいない。入ってくるのは殆ど死人だけである。死人はまともに口もきけず茫洋と彷徨うばかりの者たちである。時折迷い込んでくる生き人もいないではないが、そうした者たちはおおかた迂闊なうつけ者ばかりであった。それに比べればどんな男でも佳い男に見えるのは当たり前である。とは言っても、黄泉の国と知った上で堂々と現身うつしみで入って来られることこそ驚嘆に値すると考えれば、割り引いた感想をもう一度割り戻すことができようから、全体としてはまあ妥当なものとも言えよう。

「さようでございます。あなたは・・・?」

 娘が問い返した時、宮の中から太い声がした。

「おい、須勢理毗すせりび、どこにいる。こっちへ来い。どうも胡乱うろんな臭いがする」

「はい、お父様」

 娘はちらりと葦原色許男を見やって、

「ここでお待ちくださいな」

 と言い残すと、そのまま宮の中へ走り去った。後に残された葦原色許男は仕方なしに宮を眺めながら立ち尽くしていた。

そこ石根いわね宮柱みやばしらふとしり、高天原たかのあまはら氷木ひぎたかしる」宮とはこういうものを言うのだろう。だがその中からしてくる声は、その立派な宮さえも震わせるほどに大きかった。

「須勢理毗、まだか?何をしておる」

 そして、その声こそ死にかけていた時に夢の中で「去ね」と面倒くさそうに自分を追い払った声であった。


 建速須佐之男の機嫌は余りよくない。

「春が来るたびに里へ帰るというのはいかがなものか」

 と妻、櫛名田比売の留守に少々苛立っている。妻は稲が芽を出し、刈り取られるまでの間のおよそ半年、葦原中国に戻って不在になる。

「これがわたくしの仕事でございます。あなたもご承知の上で私を婚いたのでございましょう。わたくしがおらねば、民は飢えてしまうのでございますよ」

 と言い残して里へ去っていくのだが、どうも里帰りにしては頻繁でかつ長すぎるのではないか、と建速須佐之男命は思っている。その思いは年を追うごとに募っていき、妻のいない間はずっと仏頂面である。

 目の前にようやっと姿を現した娘に向かって、不機嫌な男は怒鳴った。

「生臭いにおいがする。またどこぞの愚か者が迷い込んだに違いあるまい。さっさと片付けねばならん。道返め、近頃耄碌もうろくしておるのではないか」

 道返之大神は葦原中国と黄泉の国の関を固めているのだが、歳を重ねたせいか時折居眠りをして、そんな時に生き人が迷い込むことがある。生き人のままにしておいては都合が悪いので、その時は建速須佐之男が殺さねばならない。黄泉の国で一番うっとうしい仕事である。

「はい、お父様。とてもい漢でございますよ」

「佳い漢?」

建速須佐之男は娘が何を言っているのか分からず、鸚鵡おうむ返しに尋ねた。

「以前、二度ほど魂が迷い込んでいらした・・・あの」

「ん?」

 胡散臭うさんくさげな表情を作った次の瞬間、建速須佐之男は顔を真っ赤にして、

「では、あの男が参ったというか?」

 と怒鳴った。

「はい。この度は現身で」

「なんとたわけた・・・。すぐその男を連れてこい」

 須勢理毗は暫くすると男を率いてきた。その間中、建速須佐之男は指で床をいらいらと叩き続けてた。その音だけで宮がどよむほどである。

 さて建速須佐之男の前に現れた時こそ離していたが戸の前までは須勢理毗と葦原色許は手を握りあっていたのである。

「なんと積極的な・・・」

 須勢理毗の方から手を握ってきた時、葦原色許は天にも昇る心地であったが、神代の言い伝えでは男女関係において女性が積極的に出るのは不吉とされる。それを思い出して、一度手を離すと葦原色許男は自分から女の手を握り直したのである。手を離された時こそ須勢理毗は不服そうな目で葦原色許男を睨んだが、葦原色許男がしっかりと指を組むように手を握り直すと、うぶな乙女のようにうっとりとした目をし、喘ぐようなため息をついた。

 この二人には建速須佐之男が神経質に指で床を叩く音などろくろく聞こえていなかったらしい。だが、さすがに建速須佐之男の前に出て怒りに満ちたその顔を見た時、二人はびくっとしたように床に目を落とした。

 目の前に現れた葦原色許男をねめまわすように眺めると、建速須佐之男は

「このたわけものが。こっちに来るなとあれほど申したであろう」

 といきなり雷を落とした。比喩ではなく実際に閃光せんこうが迸り、葦原色許男は慌てて飛びのくと建早須佐之男の前に跪づいた。その姿を睨んだまま、

「道返は何をやっておったのだ。あのうつけものを呼べ、須勢理毗」

 と建速須佐之男は喚いた。

「お父様、まずこの方のお話を聞いてからになさいませ。道返さまを呼べば、あそこに誰もいなくなります。あちらからまた生人が来るばかりでなく、こちらから死人があちらの世界に出てしまうかもしれませぬ。物事はよくお考えになってから仰ってくださいませ」

 須勢理毗はしらっと男を弁護した上に、父を詰った。娘のその不遜な態度に建速須佐之男は憤然として怒鳴り返した。

「生意気なことを言うではない。道返が道を開けるのは、わしかいにしえの神が許した時でしかない。道返の耄碌がさぼっておったに違いない。こいつは葦原色許男という名でわしの末じゃ。以前、魂がふらふらと彷徨って来おったのは半死半生の目に遭ったからだ。わしの正統な末があの程度のことで死ぬようなことはないと追い払ったにもかかわらず、またのこのこと・・・」

「ですが、私は古の神に教えられてこちらに参ったのでございます」

 それまで俯いていた葦原色許男は面を上げると反論した。そして建速須佐之男の放った雷で白の衣装の袖が少し焼け焦げたのをはたきながら、

「大屋毗古命が・・・」

 と続けた葦原色許男を建速須佐之男は遮った。

「なに?大屋毗古だと?」

 その名で建速須佐之男命は以前、高天原で自分が起こした事件を思い出している。

建速須佐之男は大屋毗古が天から召されて作った高天原の宮の屋根を滅茶苦茶に壊し天馬を逆さ剥きに皮をはいで落としこんだことがある。その時思いもかけず機織り女が一人亡くなってしまったのも苦い思い出である。

 お陰で大屋毗古を怒らせたに止まらず、天照大御神は天の石屋いわやに引き籠り、自分はといえば神々から散々の非難をこうむり高天原を追放されたのである。

「たかが若気の至りじゃないか」

 とその時は思った。確かに自分の犯した悪戯いたずらのせいで機織り女一人の命を奪ったことは反省している。その見返りの気持ちもあって、黄泉の国で女の魂を探し出して、良い暮らしをさせている。

 あの頃、自分がなぜ乱暴を働いたのか実は建速須佐之男自身も良くはわからない。偉そうな父といつも正しい姉と無口な兄と一緒に育っているうちに酷く孤独を感じたことを覚えている。自分たち三人以外の兄弟たちには母がいたということも知って羨ましかった。母のいない自分はつまるところ誰にも愛されていないのだとも思ったこともある。そんなこんなで行き所のなくなった苛々が暴発することもあった。ひどい乱暴狼藉を働いたと皆が非難するが、その力は生まれつきのものである。他の者が乱暴を働いてもさして被害がなくたいして叱られぬのに、自分が乱暴を働くと皆が首を取ったかのように大げさに言うのはいかにも不公平である、とその頃は思っていた。

だが、さすがにこの歳になると、若かったとはいえなんと馬鹿なことをしたものだろうと反省し、自然に苦虫を潰したような顔になっている。

「なぜ大屋毗古が・・・」

 あやつ、昔の恨みを根に持って厄介ごとを送り込んできたのか?己の末裔を己で始末せよということか?

「いずれにしろ・・・」

 黄泉比良坂よもつひらさかを越えた者は死者にならねばならぬ。その上で只の死者に留まるか、自分のように神の力をもって支配する側に回らねばならぬ、その覚悟はあるのかと尋ねかけ、建速須佐之男は思いとどまった。そんな覚悟があってここに来たのでないことは若者の態度で明らかである。死と生の境を越えてきた切迫感などどこにもない。のほほんと、時折娘の方を見ていたりする。

 思い起こせば自分がこの国にやってきたとき、母と慕った黄泉津大神は戦いを挑んできた。

「母上、おやめくだされ」

 と叫ぶ建速須佐之男に向かって、

「お前など産んだ覚えはない。この母なし子が」

 黄泉津大神は吼えるような声を出して向かって来た。母と慕っていた当の神から母なし子と呼ばれ酷く傷ついたのだが、妻を再び櫛と成し縵に刺して戦いを続けているうちに次第にそんな気持ちはどこかに消し飛んで行った。

 雷神いかづちどもとよもつしこめと名乗る妖怪のような女を次々にほふると、恐れをなした黄泉津大神はいわおと巌の狭間を通って逃げていった。

「われこそ、この地の主であるぞ」

 と雄叫びを上げた時にはきれいさっぱり母への思いなど忘れていた。そう割り切れたのも共に喜んでくれる妻の存在があったからであろう。

 とにかく自分のような覇気があってこそ、何とかこの国で生きていけるのである。だがこの若者にそれを求めるべくもない。

 今さら聞いてもどうにもなるまい。むろんのりを違えるわけにはいかぬ、と目をかっと見開いて目の前の若者を見つめている。だが当の若者は、

「私は兄たちに疎んじられて二度も生死の境を彷徨ったのでございます。大屋毗古命が仰るには、建速須佐之男命であれば何か良い知恵を授けて下さるのではないかと・・・」

 そう言いさしてまた娘の横顔をちらりと見遣ったりしている。落ち着きのない男である。

「ふん、知るか。兄弟喧嘩など掃いて捨てるほどあるわ。現にわしだって・・・」

 と言いかけて建速須佐之男は言葉に詰まった。姉とのいさかいを兄弟喧嘩などという軽い言葉で表して良いのか躊躇ったのである。かといって、他に代わるべき言葉が見つからぬ。一層不機嫌になると、

「そんなことはどうでもよい。須勢理毗、こやつを例のあの部屋に通せ」

 と須勢理毗に命じた。例のあの部屋とは黄泉に彷徨いこんだ生身の人間を死者にするための部屋である。

「はい、お父様」

 須勢理毗は素直に答えた。建速須佐之男は娘と若い男が既に心を通じ合った仲だとはまだ気づいていない。二人が揃って部屋を出ていくのを建速須佐之男は憮然ぶぜんと見送っている。


「さあさ、お前様」

 須勢理毗は部屋を出ると、甲斐甲斐しく葦原色許男の焦げた衣の裾を両手で払い、自分の首に掛けていた領巾ひれを取って葦原色許男に渡した。

「今から私が案内する部屋には、夜になると蛇が出ます。人をあだする、毒のある蛇でございますよ。それが出たならばこの布を三度振るのです。蛇は恐れ、二度と現れません。そうしてから、ぐっすりとおやすみなさいませ。裾は後で私が繕って差し上げましょう」

「でも・・・」

 共に夜を過ごしたいのだと葦原色許は目で訴えかけた。葦原色許は出雲を抜け出してこの方、ひと時も気を休めることができずにここへ辿り着いたのである。美しい女と語り合いたい、できれば添い寝をしたいと考えては適妻むかひめである八上比女に失礼だろうか。だが、敢えて言うならばこの時代においては、それは普通にあることである。

 須勢理毗も頬を染めて頷いた。

「私も同じ気持ちです。ですが、父は厳しいお方。ここでそんな事をすればきっと許しますまい。でももし、あなたが生きて私を連れ出して下されば・・・いつでも」

 濡れたような瞳でそう語りかけてきた須勢理毗に

「分かりました。しかし私はこの国の外に命を狙うあたを持っております」

 葦原色許の言葉に須勢理毗は微笑んだ。

「それは私が何とか致しましょう」


 翌朝、建速須佐之男は目を覚ますと娘を呼び、葦原色許男を連れて来いと命じた。てっきり死者になっていると思っていたが、娘の後ろについてやってきた葦原色許男は生きたままであった。その上、少し酔っているのか足元がおぼつかないようである。頬も赤く染まっている。

「生きておったか。・・・それにしても何で酔っておるのだ?」

 建速須佐之男の問いに葦原色許は真っ赤な頬のまま答えた。

「黄泉の国の物を食らうと死者になるという言い伝えがあります故、代わりに少々お酒を。しかし朝酒はよくありません。すっかり酔ってしまって」

「酒?」

 伊耶那美が黄泉の物を食べたために、元の世界に戻れなくなったという伝説はあるが、それはやはり黄泉の国へ死者として入ってきたからで食物のせいではない。すぐに自分の所にやって来なかった伊耶那岐に対する恨みをぶつけただけである。それはともかく・・・、

「朝から酒など出す奴があるか」

 建速須佐之男は苦虫を噛んだような顔で須勢理毗を叱った。だが、須勢理毗は

「それでもお父様、このお方は客人でございますから。お望みの物をお出しするのが良いかと」

 と、平然としている。

「こやつを客人として招いた覚えなどないわ。だいたい食い物がだめで酒がいいなどとどうして考えるのじゃ。あつかましいにもほどがある」

 そう怒鳴ると建速須佐之男は壊れるのではないかと思うほどの音を立て、戸を激しく閉めて部屋を出た。どうも調子が狂う男である。それにしてもどうやって蛇を追いやったのか?

「酒か?」

 自分自身も八俣大蛇やまたのおろちを酒に酔わせて斬り殺した覚えがあるのでつい酒に思いが飛ぶ。だが、実を言えばあの時酒を飲ませることを思いついたのは建速須佐之男ではない。櫛にさした今の妻が建速須佐之男の耳元で歌ったのである。

「私は稲の命。稲を醸せばなんになるでしょう。稲を醸せば酒になる。酒になれば素敵な方を酔わせることもできる。酒になれば大蛇を酔わせることもできる。さあ、酒で大蛇を酔わせなさい。さあ、私であなたは酔いなさい」

 そう歌って妻は密かに、しかし意図せずに父を裏切るような真似をしでかしたのであるが、それと同じことが今わが身に起こっているなどと、建速須佐之男は考えてもみない。

「まあ、今日こそは耐えられまい」

 今夜寝かせる部屋は大雀蜂おおすずめばちの群れと毒呉公どくむかでが仕掛けられている。蛇はともかく蜂やむかでが酒に酔うとは聞いたことがない。

「哀れだが致し方あるまい」

 そう自分に言い聞かせるように独り言つと建速須佐之男はのしのしと宮を出て行った。今日は黄泉の国中を見回る日である。一人宮を出ていった建速須佐之男の後ろにはいつの間にか亡者の軍衆が集まってその広い背中に付き従っている。


 翌朝・・・葦原色許男は相も変わらず生きたまま、唇の端に米粒をつけて現れた。その姿をぎろりと睨むと、

「米粒がついておるぞ」

 建速須佐之男は低い声で注意した。

「あ、申し訳ございません」

 急いで手の甲で唇を拭うと葦原色許男は手についた米粒をぺろりと舌で舐めとった。

「大層な御馳走を頂きまして・・・」

「馳走?」

 建速須佐之男は須勢理毗を睨みつけたが娘はそっぽを向いている。首を傾げもう一度葦原色許男に目を戻した時、自分が焦がしたはずの裾が丁寧につくろわれているのが目に入った。

「ははあ」

 ここで漸く建速須佐之男も気が付いた。

 こやつ須勢理毗め、色気づきおったか、と舌打ちを心の中でする。わしが繕い物を頼んでも、そのうちやりますから、とか何とか言ってうっちゃって置く癖に・・・。

 娘も年ごろである。情を交わす男を欲しいと思うのも仕方あるまい。だが、だからと言ってこの男を許すわけにはいかん。娘の助けで生き延びたからと言ってこの男に価値があるかどうかは分からぬではないか。余計なことをしよって、と声に出さずに呟くと建速須佐之男は、平静を装った声で葦原色許男に誘いかけた。

「どうじゃ、腹もくちかろう。賭けでもせぬか」

「賭けですか?」

「お前の悩みを消す賭けじゃ」

「どのような?」

 葦原色許男は思案気に建速須佐之男を見た。須勢理毗は突然そんな事を言い出した父親を不安そうに見つめている。

「もしお前が勝ったなら、ここから出てもお前の兄弟に手出しをできぬようにしてやろう。そうでなければ、わしのいう事をお前が聞く。どうだ」

「はい、喜んで」

 首を横に振って止めようとしている須勢理毗ににっこりと笑いかけ、葦原色許男はあっさりと承諾した。

「では、わしが弓でこの大鏑おおかぶらを・・・」

 と建速須佐之男は手元にある矢を指し示した。

「野に放つ。お前がそれを見つければ、お前の勝ち、見つけられねばお前の負けじゃ。時も限ろう。そうじゃのう、今日の夕刻」

 建速須佐之男命はいかにも鷹揚だとばかりに胸を反らせた。

「いや明日の夕まで猶予をやる。それで良いか?」

「結構でございます」

 葦原色許男は深々と頭を下げた。


 ぶうん、と唸るような音を立てて矢は放たれ、あっという間に視界から消えた。どうだ、と言わんばかりの自慢げな顔で建速須佐之男は傍らにいる葦原色許をふりむいた。

「すごい力でございますね」

 葦原色許男は素直に感心して矢の飛んで行った方向を見ている。

「と言っても、わしが統べるこの野のどこかに必ず矢はある。お前は見つけられるか」

「はあ」

 聊か頼りない返事を返すと葦原色許男は、

「では行ってまいります」

 と頭を下げた。その下げた頭を上げた瞬間に男が須勢理毗と目配せをしあったのを、今度こそ建速須佐之男も見逃さなかった


 葦原色許男がでかけてからしばらくすると、

「須勢理毗、火をもて」

 と建速須佐之男が命じた。

「火、でございますか?」

 須勢理毗は美しい眉を幽かに顰め、尋ね返した。その視線は葦原色許男の去っていた方角を見つめたままである。

「うむ、春もまだ浅い。歳を取ったせいか、寒くてかなわん。黄泉の国で死んだなら、さて次は何処へ参るのかな?」

「そのような情けない事を仰いますな」

 と言いながら、仕方なさそうに立った須勢理毗の後姿を見て建速須佐之男はにやりと笑った。


「何をなさいます」

 須勢理毗が目を離した隙に建速須佐之男は須勢理毗の運んできた火を野に放ったのである。慌てて火を消そうとする須勢理毗の前に建速須佐之男は立ちはだかった。

「消してはならん」

「おどきくださいませ」

 須勢理毗は女と言っても建速須佐之男の娘である。気が強いだけではなく力も強い。押しのけようとする娘と父の争いで黄泉の国は動んだ。

「なんだ?」

 葦原色許男は縺れかかった足で揺れる大地を踏みしめ直すと背後を見た。稲妻が宮殿のあるあたりで荒れ狂っている。そればかりでなく、その方角から火の手があがり、強い風に煽られてどんどんとこちらに迫って来る。

 まさに「地震、雷、火事、おやじ」が一挙に揃った状況である。とても矢を探すどころではない。

「うわっ」

 叫んで葦原色許男は駆け出した。


 遂に火に四方から取り囲まれ、葦原色許男は進退窮まっている。ごぉごぉと熱風が巻くように襲ってきて髪は焦げ、背中が焼けるように熱い。

「これはもう・・・」

 諦めるしかないか、と葦原色許男は思った。こんなことならまだ葦原中国の方がましだったかもしれない。せめて生きた国で死にたかったものだ。何でまた死者の国に転がり込んで死ぬような目に遭わねばならないのか?

「母上・・・御祖様・・・。申し訳ございませぬ」

 弱々しく呟いて俯いた葦原色許男の目に地面から顔だけひょっこり覗かせた畑鼠はたねずみの姿が映った。黒いまんまるの眸が驚いたような表情で自分を見ている。

「お前も火に巻かれたか・・・」

 同情したような声を出すと、畑鼠は、

「うちはほらほら、そとはすぶすぶ」

 と謎のような鳴き声をあげ、出していた首をひょいとひっこめて土の中へ隠れた。

「鼠は助かるのに私は火に巻かれるか」

 そう思ってよろりと膝をついた途端、葦原色許男は深い穴に落ち込んでいた。


 半時ほども立ったのだろうか、葦原色許男が気付くと眼前にぽっかりと穴が開いていた。その穴の向こう側ではぷすぷすと音を立てて煙が漂っている。深呼吸をした鼻腔に葦の焦げた匂いと湿った土の匂いが貼りついた。

「いたた」

 と声を上げながらひょいと横を見ると、畑鼠が心配そうな顔をして自分の顔を覗き込んでいる。

「お気付になられましたか」

 畑鼠の声に、

「ここはどこだ、黄泉の国か?私は死んだのか」

 と情けない声を上げた葦原色許男に畑鼠は困ったような声で、

「もとより黄泉の国におられたではございませぬか」

 と指摘した。

「あ、そうか」

「大丈夫でございますか」

 畑鼠は黒いまん丸な眼を瞠り、髭をぷるぷると震わせながら尋ねてきた。

「うむ。しかし黄泉の国では鼠も喋るのか?」

 昔、喋った兎を妻としたことも忘れて葦原色許男は尋ね返した。

「私めは神様に助けられたものでございますから」

 ひくひくと鼻を動かして鼠は答えた。

「ほう、神に助けられた鼠は喋るのか、それは知らなかった。ところでその神とは誰のことだ?」

「もしや、私を覚えておられませぬか?」

 畑鼠の言葉に葦原色許は首を傾げた。残念ながら鼠を見分ける方法は知らぬ。人には美醜があるのだから鼠にも区別があるのだろうが、そのような目で鼠を見たことがない。

「私めは、以前お兄様に捕まって嬲られていた時にあなた様に助けていただいた鼠でございますよ」

「そうだったか」

 その当時の記憶が鮮やかに蘇った。家の倉によく鼠がやってきて貯めてある米をくすねて行こうとしては兄たちに捕まえられていたのである。だが、兄たちは何匹も鼠を捕まえてはなぶっていたし、そのたびに葦原色許男は自分の餅と引き換えに鼠を逃がしてやっていたのである。目の前にいるのがそのうちのどの鼠なのかは判然としなかった。

「覚えておる・・・ような気がする」

 葦原色許男の自信なさそうな様子にもかかわらず、

「それはよろしゅうございました。助けていただいた神様に忘れられては悲しゅうございます」

 と畑鼠は満足げに答えると、穴の暗闇に向かって

「ほら、お前たち、出ておいで」

 と声を掛けた。するとちゅうちゅうと可愛らしい鳴き声がして、何匹もの子鼠が鏑矢を捧げるようにして運んできた。

「お探しになっておられたものはこれでございましょう」

「おお、そうだ」

葦原色許男は莞爾かんじと笑みを浮かべた。

「羽はこの子たちが齧ってしまいましたが、火に焼けずに残っていたのは幸いでございました」

「うむ、有難くいただいておくぞ」

そう言うと葦原色許男は鏑矢を手に取ってしげしげと眺めたのである。


「いい加減に機嫌を直せ」

 建速須佐之男は怒鳴ったが、言葉尻はすぼんでいる。須勢理毗はそっぽを向いたままだ。

「つい、勢いでやってしまったのじゃ」

 余りに娘が強く歯向かって来たので、最後には稲妻を力の限り振るって、とうとう娘を気絶させてしまったことを建速須佐之男はちょっぴり後悔している。あのたおやかな櫛名田から、このような力の強い娘が生まれるとは思ってもみなかった。恐らくこれは自分の方の血なのであろう。だが、強情さは櫛棚田の血を引いたに違いあるまい、と建速須佐之男は妻にそれを押し付けている。

 とはいっても黄泉の国で産まれた、唯一の娘となれば可愛さも一入ひとしおである。そっぽを向いたままの娘の姿をちらりちらりと自信なさげに目尻でとらえている。

「そのことを申し上げているのではございません」

 須勢理毗は答えた。

「分かっておる。あやつのことであろう。おまえとあやつが好きおうているのは分かっておった」

「では、なぜ?」

 須勢理毗の口調は更に尖った。

「蛇の室の時も、蜂、百足の時もあやつを助けたのはお前であろう?あやつが自分で何とかしたわけではない。助けを借りねば身を守れぬような男はお前にふさわしくない」

「私に好かれたのもあのお方の力でございます」

 須勢理毗は、振り向いて父を鋭く一瞥いちべつするときっぱりと言い切った。目つきに怒りを滲ませ、すぐにまたあらぬ方向に目を遣る。父親を見るのもいとわしいといった風情である。なるほど、そういう考えもあるのか、と建速須佐之男は話の接ぎ穂を一瞬失ったが、建速須佐之男は己の力を以って制するのが男の正しい姿だと信じている。惚れた女の力まで足して男の価値を決めるというのは建速須佐之男の考えにそぐわない。

「だが、あの火を制して、約束通り矢を持ってくればわしはあの男を認めるつもりでおった。それが出来ぬのは、あやつの力不足、そのような男に惚れるのはお前の見立て違いじゃ」

 言い訳がましい言葉にも娘は黙ったままである。

 焼野原を泣き叫ぶようにして走り回って男を探していた娘の姿は痛ましいものだった。だが、あの男の姿はどこにも見当たらなかった。その頃、まだ葦原色許男は鼠の掘った穴の中で失神していたのである。

「いずれにしろ、あの男は鏑矢を手にすることはできなかっただろう」

 と建速須佐之男は考えている。矢羽には万一、葦原色許男が近付いて来るようなことがあれば矢自身が身を隠すように呪いを掛けてあったのである。しかし、そんなことを言ったなら娘はますます怒りまくるに違いない。黙っているに越したことはない。

 そこはかとなく、卑劣なやり方であったかなと思いつつも建速須佐之男に後悔はない。娘には、どんな時でも挫けず、事を成しおおせる力の強い漢を娶せることが父の務めである、と建速須佐之男は固く信じている。

 だが喪具を揃え、焼け果てた野に向かって悼む娘の姿はまるで長年連れ添った男を偲ぶ妻の姿であり、心は多少痛んだ。ここまで情に厚い娘であったか、と意外に思っている。一体誰に似たのだ?

 母ではあるまい。あれは、毎年わしをここに残していそいそと嬉しそうに里帰りしよるのだ・・・。

「それにしてもあの男は何処に行ったのだ?」

 死んだのならば、自分の統べるこの国のどこかにいるはずだと考え、遣いを出して調べさせているのだが、一向に報せがない。死者になればせめてそのおもかげだけでも偲ぶためにこの宮で娘に仕えさせようとも考えてみたのだが、見つからないのでは話にならない。

 ぼんやりと明るい月の光が父と娘の姿を照らしている。

 じかの兄である月読命に願って黄泉の国を照らすようにしたのは建速須佐之男である。それまで黄泉津大神が支配していた時は闇の世界であった。どうもそれでは不便なので光をいれると決めたのだが、姉の天照大御神が照らす日は黄泉に似つかわしくないと建速須佐之男は考えたのである。姉の事を嫌っているわけではないが、どうもそのやたらと正義ぶっているところが苦手である。

 それに比べて無口ではあるが、兄は優しい。

 兄と言っているが、本当に月読命が男であるのかどうなのかは建速須佐之男も実はよく知らない。男の衣装を着けているから男と思っているだけで、兄は建速須佐之男が考える真の男の姿とはかけ離れた存在である。だが建速須佐之男は月読のことを悪くは思っていない。父や姉のように自分の価値観を押し付けることがないからである。

 その男か女なのか判然としない兄の所に行って明かりを乞うと兄は暫く考えてから頷いた。

「よいでしょう」

 優し気な声で答えるとその日から黄泉の国を照らしてくれるようになったのだ。黄泉の月に満ち欠けはない。いつも満月である。昼はより明るく、夜は本来の月の姿で黄泉の国を照らしている。


 焼けつくした野にふと目を転じた時、その月夜の淡い光の中に一人の男の姿がぼんやりと浮かび上がるのを建速須佐之男は見た。

「む?」

 建速須佐之男は目を細めた。蹌踉とした足取りであるが男は確かにこちらに向かってくる。やがてその手に自分が放った大鏑が握られているのがはっきりと見えてきた。

「葦原色許男・・・か?」

 建速須佐之男の呟きに、目を瞑り亡き男を悼んでいた須勢理毗が目を上げた。

「お前様っ」

 叫びをあげて、女は地を蹴るようにして走りだした。その姿を憮然ぶぜんと父は見守っている。


 今や公然と、更に言うならば父親に見せつけるかのように甲斐甲斐しく葦原色許男の世話をしている娘を時折横目でちらちらと見ながら、建速須佐之男は自分の心が変化しているのを感じていた。

 とにもかくにも男は約束を果たしたのだ。いったいどうやったのかは分からぬが・・・。

 受け取った矢を見ると矢羽が齧られた跡があった。これでは呪が効かぬわけである。運が幸いしたのかもしれぬが、須勢理毗の言う通り、女に惚れられるのも運が良いのもその者の力なのかもしれぬ。約束を果たした以上、葦原色許男に兄達から身を守る術を教えてやる誓約は守らねばならない。

 だが・・・と建速須佐之男は同時に考えている。あの時、わしは

「ここから出ても・・・」

 と言ったのだ。それは必ずしもこの男がここから出る、という事ではなかろう。いや、むしろここにいればあの男は安全なのだ。

 自分の都合を優先して考える思考は幾ら歳を重ねようとこの男からは消えてなくなっていない。建速須佐之男の心の裡には、いつの間にか娘夫婦にこの黄泉の国を任せて隠居した自分が娘夫婦の子供をあやしているという図柄が浮かんでいたのである。


「お前様」

 建速須佐之男がそんな企みを思い描いていた頃、須勢理毗は生きて還ってきた男の耳に熱い息を吹きかけ、囁いていた。

「なんだ?」

 葦原色許男はまめまめしく自分の世話をする須勢理毗に向かって、長年連れ添った夫のような口調で尋ね返した。

「すぐに私を連れてここから逃げて下さいませ」

「なぜだ?」

 しゅうとが折角兄者たちから逃れるための術を教えてくれるという約束をしたのだ。逃げたりしてその術を教えて貰わねば、葦原中国に戻っても今度は兄者たちから追い回されてしまうだけである。

 須勢理毗は強い女であるが、万が一にでも妻が兄の手に掛るようなことがあってはさすがに申し訳が立たぬ。やがて死んで黄泉の国に戻ったらその事で散々建速須佐之男に嬲られる事になるに違いあるまい。

 そう言った葦原色許男に、須勢理毗は

「そこのところは、お前様。私にお任せくださいませ」

 と断言すると、須勢理毗はこれから何が起こるか、その時にどうすればいいのかを事細かに葦原色許男の耳に囁いたのである。

「父はきっとあなたに髪をけずるように頼むに違いありません。父にとってそこは母を守るための大切な場所とのお考え。でも、ここではもう母を守る必要はございませぬ。父や母に歯向かうものなどおらぬのですから。大切とお考えのくせにちっとも自分で髪をお洗いにならないものですから、母も私も呆れて放っております。ですから・・・」

 うんうん、と頷いて話を聞いていた葦原色許男であったが、最後まで話を聞き終えると、はて、と首を捻った。

「しかしなぁ、そんな風にお父上を裏切るのはどんなものか」

 躊躇っている葦原色許を、きっとした眦で見据えた須勢理毗は

「父がどんな方なのかは長年一緒に暮らしている私の方が良く存じております」

 と言い切った。

 「どうしてもというなら、父にお尋ねになってみて下さい。父はあなたをこの国から出すまいとのらりくらりとなさって、決してあなたの兄者を倒す術を教えることはなさりますまい」

「そうか・・・?」

 葦原色許男の気のなさそうな返事に、須勢理毗は爪で男の手の甲を抓った。

「あ、いたた」

「いう通りになさいませ。さもないと、一生ここで閉じ込められますよ」

 ああ、分かった、という葦原色許男の答えを聞くと漸く須勢理毗はとろけるような笑みを浮かべたのである。


 身支度を整えた葦原色許男が姿を現すと建速須佐之男はにこにこと笑って出迎えた。つい先だってまで、苦虫を噛み潰した表情をしていた男とは別人のようである。

「たいそうさっぱりしたの、どうじゃ一杯」

「はあ、頂きましょう」

 建速須佐之男は並々と白酒を高坏たかつきに注ぎ葦原色許男に手渡すと、自分の分も手元の盃に注いだ。

「ずいぶんと男前になったの。須勢理毗は思いのほか良く気づく女子じゃからの」

 妙な褒め方をされて娘は居心地の悪そうな表情になっている。先ほどまで煤と泥とで無残な様子だった葦原色許男を湯に入れきれいに洗い流し、髪を結いなおしたことを父にからかわれたように思ったのである。今まで男に尽くしたことがない須勢理毗は妙にそんなことに敏感である、

「そこでお約束の事ですが・・・」

 葦原色許がいきなり本題を切り出すと

「ああ、お前の兄たちの事か。うむ、よく分かっておる」

 力強く頷いてはいるが、どこか半笑いの表情で、

「お前の兄者たちはそうとうお前を恨んでおるようじゃの。恨みが深い時は思ったよりも注意せねばならぬ。そこのところを良く考えないとな。そこはじっくりとわしが考えて教えて進ぜよう。それに時間が経てば恨みというのも自然と弱くなるものじゃ。兄者たちの恨みがなくなるのをここで待つというのも一つの手じゃぞ」

 ぬけぬけと言った建速須佐之男の向こう側で須勢理毗が目配せをしたのが見えた。

「はあ」

 葦原色許男は同意したような、そうでもないような曖昧な答えを返した。

 そんな悠長なことをしていたら、いずれ出雲の国で大きな争いが起きぬとも限らない。その時は父も母も妻も子も、巻き込まれるであろう・・・。妻と子・・・。漸く妻子の事を思い出して葦原色許は頭を掻いた。そんな葦原色許男に建速須佐之男は

「それよりも婿殿。厚かましい頼みじゃが、ちょっと頭がかゆいのじゃ。わしの部屋でしらみを取ってくれぬかの。そのうちにわしも兄者たちとのことをじっくりと考えてみよう」

 そう言って大広間のような自分の寝室に招き入れたのである。さっと立ち上がった須勢理毗は葦原色許の手にむくの木の実と赤土を手渡した。

「私が言ったようになさりませ」

 葦原色許男は耳元で囁いた妻の言葉に頷いた。


「なかなか佳い漢じゃ。須勢理毗の目は曇っておらなんだ」

 婿になる男が、妻や娘でさえ櫛削るのを嫌がっている荒れ放題の自分の髪を丁寧にかしているのを心地よく思いながら、建速須佐之男は機嫌よさげに昔話をしている。

「でな、わしらがこの国に入ったことを知ると黄泉津大神はわしを追い出そうとした。せっかく尋ねて来た息子を追いかけまわし挙句の果ては殺そうとなさったのだ。となればわしとしても戦わざるを得まい?そして結局わしが勝ったのだ」

 三度ほど同じ話を繰り返し、時折ふっと微睡まどろんだ。短い眠りから覚めて欠伸をしながら婿の仕草をみると、何やら赤っぽいものを口から吐き出しては時折手に取り水で濯いでいる。それは先ほど須勢理毗が渡した赤土と椋の実を噛んだものに過ぎないのだが、

「呉公かの・・・」

 虱だけではなく、毒虫まで住み着きおったか、と建速須佐之男は自分のことながら呆れている。昔はこの髪に妻を隠して戦ったものだが、最近妻は櫛に変じて髪に隠れることを嫌がる。しかし呉公が住んでいるのでは拒むのも無理はないかもしれぬ。

「どうも痒かったはずじゃ」

 ふあっ、ととりわけ大きな欠伸をすると、酔いのせいかいつしか建速須佐之男は深い眠りに引き込まれていったのである。


 天から降るような華美な音色が建速須佐之男の耳に飛び込んできたのは眠りに落ちて暫くしての事だった。はっと目覚めた建速須佐之男は、

「あれは天の沼琴ぬごとの音ではないか」

 と呟いた。時折妻に弾かせるだけで、大切にしまってあるもので、実は高天原から追放を命じられた時にこっそりと盗んできたものである。

「ん?」

 妻は不在である。須勢理毗があれを手に取ることはなかった。起き抜けでぼんやりしていた頭が急にすっきりとした。

「なんだ、盗人か?」

 慌てて跳ね起きようとしたとたんに凄まじい勢いで床に叩きつけられた。見ると縵は解かれ、髪の毛が四方八方に引き延ばされて垂木たるきに結わえ付けられている。

「くそ、あいつの仕業か」

 辺りを見回しても「あいつ」すなわち葦原色許男の姿はない。歯嚙みをすると建速須佐之男は、ありったけの力で起き上がった。その勢いで垂木は折れ、地震でも起こったような音がして天井が落ちてきた。落ちてきた垂木がすねに激しくうち当たって建速須佐之男は、うぬっと呻くと暫く動けないほどの痛みをこらえねばならなかった。

 だがそこは力のある神である。暫くして

「なにくそ」

 わめくなり、起き上がって戸に手を掛けた。だが今度は、戸が動かない。大石で塞がれているのである。ならば、と壁を乗り越えて出ようとしたが、髪に結び付けられた垂木が絡まって身動きが取れない。仕方なしに垂木から髪を一つ一つほどくと壁を蹴破り、逃げた葦原色許男の姿を探した。

 百里を見渡すことのできるその眼に、遥か彼方に娘を背負い手に沼琴と倉に隠してあった太刀・弓矢を持った葦原色許男の姿が見えた。建速須佐之男は猛然と二人を追い始めた。葦原色許男が盗んだ太刀・弓矢はそれ自体神のようなもので、太刀を振るえば必ず相手を切り伏せ、弓矢を撃てば必ず相手に当たる代物である。それさえあれば、何も建速須佐之男の教えなどなくても葦原色許男は敵を打ち破ることができるのである

 なぜ知ったのだと呻くように口走ったが、当然須勢理毗が教えたに決まっている。だが、それを認めたくない建速須佐之男の思考は空転している。思考は空転しているが、脚は大地を踏みしめしっかりと回転していた。

「そっちに行ってはいかん」

 大声で呼ばったが、それは逃げる側にとっては

「そっちに行け」

 と教えて貰っているようなものである。

 黄泉比良坂は嘗て父、伊耶那岐が黄泉津大神と化した母、伊耶那美に追い立てられて逃げ登った黄泉の国と葦原中国を繋ぐ唯一の道である。

「取って返せ、娘を置いて行け。この盗人め」

 力の限り走ると葦原色許男との距離はぐんぐんと狭まっていく。だが、葦原色許男の行く先に、桃の木が見えてきた。そここそ黄泉の国と葦原中国の境である。

「だが、追い付く」

 葦原色許男は娘を背負い、手に荷を持っている。必死で走っているが、足元はふらついている。にやり、としたその時足にしがみついてきたものがいた。

「なんだ」

 勢い余って転びかけ、思わず手をついた建速須佐之男が睨みつけた相手は道返之大神であった。

「この役立たずめ。肝心の時は役立たずの癖になぜわしの邪魔をしおる」

 腰に佩いた剣でしがみついてきた石を叩き割ろうとしたが、震えている石を見て思いとどまった。今でこそ黄泉の国と葦原中国の間の門番のような仕事をしている道返之大神であるが、もともと黄泉津大神が葦原中国に出るのを制した神である。この神の本務は黄泉の者が葦原中国に出るのを制する事であるのだ。もしわしを止めねばその瞬間、石は神性を失ってしまうのだ、と建速須佐之男はふと憐れに思った。これがわしを必死の目で留めるのも故ないわけではない。

「くそ」

 先を見れば、葦原色許男がちょうど桃の木の境を越えるところであった。空を見ればまばゆい陽が照っている。天照大御神の照らす世界がそこにある。

 それを見た途端、建速須佐之男の怒りは急激にしぼんでいった。仕方なしに、建速須佐之男は葦原色許男の背中にむけ怒鳴った。

「大原の里に城を作り、お前の持っている太刀と弓矢で兄者どもを山に追い詰め川を背になぎ倒してしまえ。そしてそこを来次きすきと名付けよ。現世うつしよの大国主となり、宇都志国主となり、娘を適妻として立派な館に住まわせるんじゃぞ、こ奴め」

 大原は昔懐かしい出雲の地名である。もしここで戦うようなことが起きたなら、と建速須佐之男は幾度となくその時のことを空想しては戦いの仕方を思い描いていたのであった。

 ぽかりと青い空に浮かんでいる雲の下、父の怒鳴り声に気付いた娘が振り向いて、分かったというように手を振った。

「ばかめ」

 娘の背に向かって罵ると、建速須佐之男はきびすを返した。途中でうずくったままの道返之大神の手を取り立たせると、何も言わずにそのまま道を引き返していく。

 その行先に待っているのは自分自身でぶち壊した宮である。

「あやつ、早く帰って来ぬかな・・・」

 思い出しているのは妻である。天の沼琴を奪われたことを怒るであろうかのう・・・。だがあいつが怒って去りでもしたら、わしはひとりぼっちじゃ。なんとかせねばならん・・・。

 とぼとぼと引き返していく建速須佐之男の後姿を照らしつつ、月読命が静かに微笑を浮かべている。


 葦原色許男が黄泉の国から盗んできた太刀と弓矢で兄たちを討伐し、出雲の宮に戻ったのは稲の実り始める初秋の頃であった。父神は葦原色許男が戻ってくるのを微笑とともに迎え、その日のうちに国主の座を降り息子に国を譲ったのである。建速須佐之男の予言通り、葦原色許男は名実ともに大国主命、宇都志国主命となった。

 さて、このようにして葦原色許男が出雲に戻ったという報せを父母と共に稲羽で身を隠していた八上比売は人伝ひとづてに聞いた。八上比売は、葦原色許男を追ってその兄たちが出雲から消えた後、父母の許に戻って子を大切に育てていたのだが、葦原色許男が帰還したと聞いて矢も楯も堪まらずに、会いたくなったのである。

 ただ、帰還の報せと共に葦原色許男が黄泉の国から正妻を伴って来たとも伝えられた。八上比売はそれを聞き切なげな表情を浮かべたが葦原色許男への思慕が消え失せることはなかった。

「出雲へ帰りとうございます」

 決意を面に浮かべそう言った娘に、両親は目を見合わせると、心配そうに諭した。

「婿殿が連れ帰ったお方は建速須佐之男命の娘御と聞いておる。とてもお前が敵う相手ではなかろう」

「そうです。おやめなさい」

 諫める二人に向かって姫は首を振った。

「あちらの母様と共にあのお方の命乞いをしたのは私でございます。あのお方も無碍むげになさいますまい」

 両親の諌止かんしを振り切って幼い子と僅かな供を引き連れ旅立った八上比売であったが、出雲との国境を越えようとした時、不意にあたりが暗くなった。供の者を見ると皆、目を見開いているのに眠ったかのように動かない。どうした事かといぶかしがる姫の目に遠くから近づいてくる人影が映った。目を凝らすと、美しい大柄の若い女である。

「八上比売でいらっしゃいますね」

 低いがよく通る声で女は尋ねてきた。

「はい」

 頷いた八上比売に向かって女は命じた。

「この国境くにざかいを越えることはなりませぬ」

「あなたは?」

 震える声で尋ねた八上比売に女は静かに笑い返しただけで、問いには答えなかった。

「高天原の神の予言を覚えておられましょう。あなたは葦原色許男の命を守るかわりに大切なものを失うと・・・それが守らねばあなたの命はありませぬ」

 その口ぶりに明瞭な悪意が感じられた。八上比売自身も神性が高いが、目の前の女に優るとは到底思えなかった。腕の中に掻き抱いた子はすやすやと眠っている。あらがえばこの子まで殺されてしまうかもしれない。

 八上比売は震える手で我が子を木の俣に置いた。神産巣日之命に教えられたことを思い出したのである。すると女からふっと殺気が消えた。

「ここからは先に進めば黄泉の国への一道、あなたもこれ以上進むと命はありませぬ。引き返しなさいませ」

 震えながら頷いた八上比売に言い残し、背を向けると女は立ち去った。暫くして供の者たちは目を覚ましたが、木の俣に置いた筈の我が子の姿はいつのまにか消えていた。神産巣日之命がすくい取ったのである。あの女こそ建速須佐之男命の娘だったのだろう、と八上比売は肩を落とすと、稲羽へ戻ることにした。女の言ったことはただの脅しには思えなかったのである。海からの冷たい風が吹きすさみ、悄然と帰途につく一行を紅と黄の落ち葉を拾いながら隠していった。


 そんな出来事があったとは露とも知らず、葦原色許男は国の経営に取り掛かっていた。帰るとすぐに父が国主を譲った事もあり、他の事を考えているゆとりなどなかったのである。母、刺国若比目だけは八上比売とその子を気にかけていたが、御祖である大山津見が、二度目の蘇生の意味を教え諭した。

「無理をすれば、神産巣日之命との誓詞せいしを破ることになり、あの者たちの命がなくなるやもしれぬ。葦原色許男にも前の妻のことを思い出させてはならぬ。何、子のことは心配ない。あの神は殺すことなぞせぬ。神として蘇らせてくれようぞ」

 と言われればなす術はなかった。

 葦原色許男は打ち破った兄弟の子供たちの中で恭順を願い出た者たちを役につけ、田を作り、すなどりのための網を作らせると共に兵を募り、国の礎を固めた。兄たちの無法な収奪によって疲弊していた国はにわかに活気づき、民はいずこからともなく集まってきた。

 そんな或る日、葦原色許男は不思議な噂を耳にした。浜に一艘の小船が漂着し、中に奇妙な身なりをした小人が乗っていたというのである。

「その男を連れて

 と命じると手下の者たちが舟もろとも男を引き連れてきた。

 舟は小舟で、男が遠くから来たものとは到底思えなかった。ガガイモの実を割ったような舳先へさきの細く、底の浅い船である。男は子供ほどの背丈もなく、鳥の羽根を毟って繋ぎ合わせたような妙な身なりをしており、その瞳は青く、澄んでいる。つるりとした頬はまるで子供のようでもあるが、ゆっくりとした仕草は妙に老成した雰囲気を醸し出している。

「何処より参られたのです?」

 と尋ねてもにこにこと微笑を浮かべるだけで答えない。

「妙な男だなあ。お前たちの中でこの男の正体を知っている者はおらぬか」

 と尋ねても首を縦に振る者は一人もいない。取り敢えず客人として扱う事にして、国中に触れを回して男の身元を調べさせていると、山の奥に住んでいる一人の男が、恐れながら、と申し出てきた。清流の魚を漁り生計を立てているというその男は多迩具久たにぐくと名乗った。

「あの男の事を知っているのか」

 と葦原色許男が尋ねると、首を振って

「私自身は存じ上げませぬが、知っておりそうなものなら心当たりがございます」

「誰だ?」

久延毗古くえびこと申すご老人でございます」

「久延毗古?」

 周りにいるものを見回したが、誰一人としてその名にも心当たりはないようで、首を傾げるばかりである。

「ご存じないのは当然でございましょう。その男は日がな竿を手に田を眺めているような老人でございます。ですがこの世の事を隈なく知っております」

「その御方はどこにおられるのだ?」

「さて、この頃は比婆ひば山間やまあい辺りにおるのではございませぬか」

 そう答えた多迩具久をそのまま召して、手下を同行させて比婆に向かわせると、翌々日には腰の曲がったよぼよぼの老人を引き連れ、戻ってきた。老人は長い細竹の竿を肩に担いでいる。舟に乗って来た男と引き合わせてみると老人は目を細め、背負った竿をゆっくりと揺らしながら眺めた挙句、

少名毗古那神すくなびこなのかみでいらっしゃいますな」

 と男に声を掛けると、男は僅かに頷いた。初めて男が意思を表す仕草であった。

「神産巣日神のお子じゃよ。おおかた汝らを助けるために遣わされたのでござろう」

 久延毗古の言葉に葦原色許男は慌てて座を降りると少名毗古神に向かって低頭した。あたりの者もみなそれに倣ったが、一人久延毗古だけは立ったままじっと少名毗古を見つめていた。すると少名毗古の神はにこにこと笑みを浮かべたまま、老人に向かってうやうやしく会釈をしたのである。だが、葦原色許男をはじめ低頭していた者たちは誰一人としてその事に気づくものはなかった。


 少名毗古を丁重ていちょうに迎え国の舵取りを共にすることとした葦原色許男は、同時にその正体を教えた礼として久延毗古と多迩具久に褒美を与えようとしたのだが、二人はあっさりと断った。

「放してくれればそれで十分じゃ」

 久延毗古は不愛想に応じた。

「この歳になって褒美なぞ貰っても使い道がない。だがここに留められるのはまっぴらじゃ」

 朝夜と問わず山海の珍味でもてなそうとするのだが、老人は椀一つの米の飯以外は手を付けぬ。ただその米の飯だけはいかにもありがたそうに食べるのである。もう一人の多迩具久という方は、これは魚ばかりを食べている。

「ですが・・・」

 葦原色許男が残念そうに言うと久延毗古はかたわらの多迩具久を振り向いて、

「お前は頂いておけばいい」

 と促したが多迩具久も静かに首を振った。

「と、いう事じゃ」

 そう言うと二人は席を立った。宮殿の外まで出て名残惜し気に見送る葦原色許男のもとに大山津見がやってきたのはちょうどその時だった。

「ん?」

 大山津見の目に人ほどの大きな蟇蛙ひきがえると共に宮殿をゆっくりと去って行く老人の後姿が映った。背中に背負った長い竿がゆらりゆらりと揺れている。

「どこかで見た覚えがある背中だが・・・」

 呟くと、門の外で男たちを見送っていた葦原色許男のもとへ近づいて行った。

「御祖さま」

 肩に手を掛けられ、驚いたように振り向いた葦原色許男に軽く頷くと大山津見は、

「何者かな?」

 と去って行くものの後姿を指さした。

「あれは久延毗古と多迩具久というものでございます。多迩具久と申す男が浜に流れ着いたものの正体を知る男を明らかにすることが出来るご老人がいると言上してまいりまして、そのご老人が久延毗古と申す者でございます。そのご老人が申すには、なんと浜に流れ着いたのは神産巣日神のお子、少名毗古那命とのことでございました。私の手助けをするように神産巣日神が送って下さったとのことでございます」

 頬を染めて言った葦原色許男に、

「ほう、そなたにはあの者たちが人に見えたか」

 指をさしたまま大山津見は答えた。老人と蟇蛙の後姿はいつの間にか地平から姿を消すばかりまでに遠ざかっている。

「は?」

 疑わしそうな目で応じた葦原色許男に向かって、

「まあよい。わしも妙な者が漂着したという話を聞いて参ったのだが」

「是非とも、お目にかかってください」

 葦原色許男は手を揉むようにした。神産巣日神からの使者がやってきたことがよほど嬉しいのであろう。

「うむ・・・。だがその前に確かめたいことがある」

 そう言うと、大山津見は改めて男たちの消えていった方角に目を遣った。


 比婆の山に来たのは久しぶりであった。山の尾に辿り着いたのは、朝、まだ霧が滾々と湧いて道も分かたぬ頃合いである。

「天之狭霧よ、国之狭霧くにのさぎりよ、天之闇戸あまのくらとよ、国之闇戸くにのくらとよ」

 朗々とした声で大山津見は呼ばわった。

「なんでございましょう、お父上様」

 彼方、山の方から天之狭霧の声がした。美しい声は僅かに震えを帯びている。

「ひさしぶりじゃの」

 天の方に二つ、谷の方に二つの神の姿を認め大山津見は懐かしそうな声を出した。

「葦原色許男に遣いを出したのはそち等か」

 暫くの沈黙があった後、

「さようでございます」

 谷の方から男の声がした。

「国之闇戸か?」

「はい。蟇蛙を男の姿に化して遣いにしたてたのは私でございます」

「葦原色許男は欺けてもわしは欺けぬぞ」

 ふふふ、と忍ぶような笑い声が返って来た。

「御祖様を欺こうなどと不遜なことは考えておりませぬ」

「ほほう、では久延毗古と名乗った者の正体を教えよ」

 その問いに山峪やまたにの神々は押し黙った。大山津見はしばらく待ったが、答えがないと見て取ると、再び朗々とした声を張り上げた。

「その者は神産巣日神のお子の正体を見破ったそうじゃ。天と地の間の事を全て知り尽くしているとも言う。ならばそれこそはお前らとわしの祖、伊耶那岐命であらせられよう?違うか?もしそうだとしたならば、なぜわしに知らせなかった?」

 大山津見の言葉に気の動みが山を揺らした。

「申し訳ございませぬ」

 天之狭霧が愁いを帯びた声で答えた。

「父の消息をお前たちはいつ知ったのだ」

 大山津見の声に怒りの色はない。父はやはり世を捨てていたのだ。己自身が作り上げたこの世を捨て、その世の中で只の一老人として生きることを選んだのだ。

「淡海を去られたあのお方はここへ姿をお現しになりました」

 天之狭霧が答えた。

「あの頃、御祖様はたいそう心を病んでおられました」

 国之狭霧が沈痛そうな声で和した。

「おばばさまの墓のある山の麓で何日も、何日もただ座っておられました」

「そうだったか・・・」

 大山津見は母の墓の方を見やった。そういえば、母の墓にもしばらく訪れていなかった事を思い出す。

「御祖様はお隠れになろうかどうか迷っていたのでございましょう。我々はなす術もなくただ見守っておるばかりでございました。ですがある日ふと、上から声がしたのでございます」

 国之狭霧が言った。

「下がりなさい。あなたがたのともがらがここに参ります、と」

 天之狭霧と国之狭霧が身を引くと、陽光の下に刈り取られた稲の跡が広がった。そこに力強い足音と共に若々しい男と女が現れ、墓の前で項垂れていた老人など見向きもせずに黄泉比良坂を下っていったのだという。老人は呆気にとられたようにその二人を見送り、そして背後の田に目を見開き、声を上げたのだった。

「ほう・・・」


「それが、祖様がここに来られて初めてあげられた声でございました」

 その時、よほど安堵したに違いない。天之狭霧は懐かしむような口調になった。

「走って行かれたのは建速須佐之男命と祖様の娘御でございました。建速須佐之男命はそれがお父上と気付かれなかったようでございますが、御祖様の方はお気付きになられたと思います」

「そうか・・・」

 大山津見はゆっくりと頷いた。天之狭霧は言葉を続けた。

「それからというものの、毎年御祖様は竿を手に広がる田を回り、雀やら猪やらを追っておられるのでございます。そのときばかりは心から楽しそうにされておられましたので」

 大山津見は太い溜息を洩らした。子を斬り、妻を失ったことを悔い、父はそんな生活を望むようになっていったのかも知れない。と言って、耄碌もうろくしているわけでないことは葦原色許男からきいた話からも確かだ。でなければ高天原の神を見分けられるはずがない。

「御祖様を欺くような真似を致しまして・・・申し訳ございませぬ」

 国之闇戸が沈んだ声を出した。

「ですが、いかにも楽し気に雀を追うお姿をこれ以上悩ませるのはどうかと・・・」

「ふむ。なら、なぜ葦原色許男の許にやったのだ?」

「それはあの方のご意思でございました」

天之闇戸が高い声を上げた。

「葦原色許男命が血のつながる者であることをあの方はもちろんご存じでございました。末が悩んでおるなら教えるのは祖の義務であろうと。気配を消されてはおりましたが、国のことは見守っておられたのでございましょう」

「そうか・・・」

 大山津見は再び嘆息をついた。狭霧に下がれと命じたのは天照大御神であろう。あの御方もあのお方で、天から父の様子を時折心配してご覧になっていたに違いあるまい。

 父は・・・父は行き場を失っていたのだ。隠れるとすれば、母の統す、黄泉の国へ行きつく。しかしそこへ赴くことを父は躊躇ったのであろう。父からあの話を聞いた大山津見には、父の迷いは分かる。父が本気を出せば黄泉の国を制することは可能であろう。あの時父が逃げ出したのは母を屠るような真似をしたくなかったのだ。

「そうか」

 再び溜息をつくと大山津見は、

「良く分かった。これからはわしに隠し事などしてくれるな」

 そう言うと四神は、揃って頷いたのであった。

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