第2話 大蛇(おろち)

 払暁ふつぎょう、白々と山肌を覆う霧の中から、一人の男の影が頂に現れた。

夜を徹して登ってきたのだろう、身にまとう白の装束の裾は朝露に濡れそぼっている。結わえた髪、左右に垂れた豊かな髯、眉から伸びた長い毛もみな木肌を剥いたばかりのこうぞのように白い。

 杖を片手に持っている。

 いで立ちは老人のようだが身のこなしは軽々と、山頂から脇に突き出た磐座いわくらを、恐れる様子もなく進むとその者は先端にどっかりと腰を下ろした。

 体は歳にしては意外とがっしりとしている。巨体といっても差し支えない。頬は削げて皺が縦に深く刻み込まれた厳しい顔つきであるが、目は澄んでいる。だが濡れた灰を思わせる知性的な色のひとみの奥には、深い憂いと躊躇の色が滲んでいた。

 その眸が望むなだらかな丘の木々は早くも紅や黄に染まり、その奥の山々にはやがて雪をもたらすであろう雲がかかっている。

 考え事があるとき影の持ち主はその場所にやってくる。磐座に腰を下ろしてしばらくすると、山の気が体に満ちてきた。

「はて・・・」

 影の持ち主は山の発する気の中に一つの情景が浮かぶと、心を平らかにした。それはまだ若かった頃に見た、身もよだつような殺戮の風景であった

「父神は、あの時果たして正気であられたのだろうか?」

 呟いた男の名を大山津見おほやまつみという。あの日、あの時、

「お気を確かに」

 と叫んだのはこの大山津見である。他の呼びかけにわき目もふらなかった父が、「お気を確かに」という大山津見の言葉にだけは振り向いた。それは言い様のない、描き様もない恐ろしい視線であった。

 大山津見はあの時、その眼に憤怒や瞋恚しんいと違う、深い悲しみと狂気を見たような気がする。


 山の気がその情景を浮かばせたのは、あの子殺しの後に起こった一連の出来事が、今の自分に覆いかぶさっている憂いと躊躇に繋がっているからであろう。そう大山津見は読んだ。

「『あのお方』が戻ってこられる大本は、突き詰めればあのでき事じゃから・・・の」

 そう独白するなり、大山津見は自嘲するようにひくりと頬を震わせた。「あのお方」か。果たしてかの男を「あのお方」と呼ばねばならぬのか?

 たかが我が弟ではないか、とも思うのだが、彼が惹き起こしたとてつもない二度の厄災を思い起こすと気軽にそう呼ぶには憚りがある。

 一度目は荒れ果てた灼熱しゃくねつの大地。白茶けたしほに満ちた、海の底にあるべき丘や谷を眼下に見ながら呆然と立ちすくむ神と人草ひとくさ・・。・

 二度目は上がらぬ太陽、続く夜。凍てつく寒さの中を走る狐火きつねび。どよむ大地に怯える神と人草・・・。

 どちらの風景も・・・・思い出すだけで身が竦む。


 最初の厄災は黄泉の国から戻って来た父が、母との間ではなく、自らのみで成した三人の子に治めるべき場所を告げた後に起きた。

 自らのみで子を成す。

 それは父が真に高天原の神であったからこそできた事だろう、と大山津見は考えている。自分にはとてもできない所業である。

 父は産まれたばかりの一人目の子、天照大御神あまてらすおほみかみを天に、二人目の子、月読命つくよみのみこと夜之食国よるのをすくにに、三人目の子、建速須佐之男命たけはやすさのをのみことを海に、と告げた。

 天照大御神を天にと、告げた時、国つ神たちは、おお、と驚き、まさに天を仰いだ。地で産まれた子が天をしろしめす。そのようなことを高天原が受け入れるのか、と疑ったのである。しかし、受け入れるか否かは高天原の神次第である。それが高天原との関係をこぼつことになりはしないかと懸念しつつも彼らは受け入れた。

 月読命に統しめせ、と命じた夜之食国の名を聞いた時は沈黙と共に首を捻った。それがどこを示すのか誰も知らなかったのである。

 しかし、建速須佐之男命が治めるべき場所が海と告げられた時、皆、どよめき慄いた。

 そこは既に治めるべき神々のいる場所だったからである。海の神々がその詔に憤激するであろうことは容易に想像がついた。もしや戦いが起こるのではないか?

 ところがそうはならなかった。

 そう告げられた「あのお方」が先に拒んだのだ。そしてどことも知れぬ洞穴に籠って始終泣きわめいていたという。そこがどこだったのか知る者は、今となっては誰もいない。

 ただ、その時に起きた途轍もない厄災の記憶だけが残っている。海は干し、地は灼きついた。ありとあらゆる植物は枯れ、僅かな種を土に残したまま死んでいった。獣や魚たちは行き場や餌を失い、生き残ったものはほんの一握りであった。これならば戦いが起こった方がどれだけましであったか、とさえ思えるほどであった。

 人も然りである。食物を失い、水を奪われた人は次々と倒れていった。地は獣と人の骨で白く埋まった。

 人が死ねば祀られねば生きていくことのできない神も当然この世から消えねばならぬ。もはや終わりが近いと考えた神々が祈るような思いに絶望を折り重ねた時、漸く父神は「あのお方」を放逐することによってこの世を救ったのであった。

 海の神々は父神が海を「あのお方」に下されようとしたことも、厄災を暫くの間放置したことにも腹を立てていたが、文句を言う暇もなく厄災の後片付けに追われたのであった。

 そして、二度目の災厄は「あのお方」が父に追放されたあと天に別れの言葉を述べるために赴かれ、そこで天照大御神に無礼を働き、天照大御神が天の石屋いわやにお隠れになった時に起きた。

 「あのお方」は高天原の神々がおろおろと惑う姿をふてぶてしい顔で見据えていたと聞く。天地は闇に覆われ全ての色は消えた。慌てふためいた葦原中国あしはらのなかつくにの国つ神たちはただなす術もなく太陽の復活、すなわち天照大御神の帰還を乞うばかりだった。高天原の神々もわれらの祈りを聞くまでもなく必死に元に戻そうとなさった。


 母が死んだときに見せた父のあの悲しみと狂気が「あのお方」の血にも流れているのであろうか?と大山津見は問う。だが、その答えはどこにもない。

 「あのお方」は高天原やこの葦原中国を滅ぼそうとなされたのだろうか・・・?

その答えもどこにもない。

 ただ一つ確かなことは、いつの間にか国つ神たちのおさのような立場になってしまった自分が今、直面せねばならぬのが、「あのお方」との対峙たいじだという厳然とした事実である。

 海の神たちは「あのお方」が惹き起こした忌まわしい過去を思い出してか、ひっそりと海の底に潜り、息をひそめているのみである。頼みの父神はどこに行ったやら、消息しょうそこの一つもない。

「まことに・・・どうしたものやら」

 大山津見は深い吐息をついた。


 「あのお方」とは建速須佐之男である。

 天地いずれでもその名を知らぬ者のないその男が二度目に引き起こした高天原での異変の時、葦原中国では太陽があがらぬ日々が続いた。地は凍てつき植物は枯れ、人も動物も寒さと飢えで次々に斃れていった。その原因が建速須佐之男だと知ったのはこの異変が何によって引き起こされたのか知るために、密かに凍てつく空をくぐり、天に昇った大山津見自身が確かめたからである。

 国つ神の中で、自力で高天原に上る力を持つものは数少ない。大山津見と大綿津見おほわたつみの僅か二人であるが、海からいっかな出ようとしない大綿津見であるから、実際のところは大山津見こそが、唯一と言っても差し支えなかろう。

 もっとも大山津見が高天原に達した時に既に建速須佐之男はどこかへ隠れていて直接その姿を見ることはかなわなかった。

 第一見ようにも光がないのである。わずかに月読命が照らす淡い光の中で、高天原の神々は建速須佐之男の名を呪うような口ぶり、吐き捨てるような口調で口にしておられた。

 高天原の神々の機転の御蔭でようやく天照大御神が姿を現した時には実にほっとしたものだが、直後に下界の葦原中国を視た時はぞっとした。地は氷に覆われ、緑一つなく、動くものは何も見えなかったのである。

 その災いを齎した建速須佐之男が再び地に降り立つのである。再びとんでもない災禍さいかを招かぬとも限らぬ。

 だが大山津見の憂いはそれだけに留まらない。

 光の戻った高天原では、建速須佐之男を高天原から黄泉の国へと放逐したならいよいよ天照大御神の御子が葦原中国を治めるために降っていくことになろう、という噂がまことしやかに囁かれ始めたのである。それこそが大山津見の真のうれえのもとである。

 確かに建速須佐之男と父神がいなければ、高天原の神々はこの地を自らのものとするのに何のさわりもない。早々にそうした事態に直面せざるを得ないかもしれぬ。

 しかし、今の我々にそれに対抗する術はない。力の不足している者たちの長であることはなかなかに辛いものがある。父神と母神から正当に生まれた我々が、父神が独神として産んだ子供をびくびくと畏れねばならぬというのはどうにも不条理ではないか、と大山津見は溜息をもう一つ吐く。

 子供というのは建速須佐之男のことに限らない。いや、むしろ長い目で見れば天照大御神こそが悩みの根源である。

 天照大御神がおらねば、この地がどうなるかは実証された。大厄災である。まことに必要なお方である。だが、葦原中国に御子を下ろすとなると話は別である。いなければならぬ尊いお方も、さて、自分たちの領を侵すとなれば悩ましい限りである。

 あの兄弟のうち、月読命のみが悩みをもたらさぬ。夜之食国を統べよと父に命じられた物静かな神は、父から受けた詔が静寂な夜を守れという意味と解し、じっと父の言いつけを守っている。中にはあれは男女よ、などというものがあるらしいが、そんな悪口にも一切沈黙を守ったままである。夜の神になるのを望むものは少ない。だからこそ月読は争う必要もない。そして我々に月の満ち欠けで季節を教えてくれなさる。存外、世の果てには月読こそが残るのではあるまいか。

 だがそのようなことは先のこと。今は目の前にあることを片付けねばならぬ、と大山津見の思いの軌道は元に戻る。

 二度目の厄災が起こってから百余年。荒れ果てた地に細々と芽吹いた木々を育て、雨水をこつこつと蓄えて漸く元の姿に戻したばかりと言うに・・・。


 目をふと開けば、陽は遥か高みへと昇っていた。眼前には谷を流れる美しい川が一筋、遥か遠くの地平まで延びその周りにはみどり成す美しい田が広がっている。日差しはたっぷりと田の水面にきらめき、その上でたわわに稲が揺れている。己が妹であり妻でもある野椎神のづちのかみと、娘の奇稲田くしいなだが丹念な仕事を成しているのがわかる。

 その風景に僅かに心が慰んだ時、かなたで遠雷えんらいが轟いた。

 見れば彼方の山の一つに黒い叢雲むらくもがかかり稲光が瞬いている。穂の実り始めるこの時期、父の手に掛ってばらばらに切り裂かれた末の弟の肉はむずがるかのように雷を鳴らす。

 さしずめ、あれは正鹿山津見まさかやまつみの統べる山であろう。火之迦具土神ひのかぐつちの頭で成ったあの山の神は他の分神よりも一段と気に障る音を立てる。


 身一つの神は神によってのみ死を賜り、死すると体は四散し別の神々を生み出すことがある。母の最後の子供たち、三人のうち二人は死を賜り、死することによって別の神々を生み出した。

 その一人は父に斬られた火之迦具土神、もう一人はあの時母を担ぐ父に連れられて、山道を登って行った女の子の方であり、その名を大宜都比売神おほげつひめのかみという。その神は「あのお方」によって、無法にも殺されたという噂がある。

 大宜都比売神は豊穣をもたらす土の神であり、肥の神である。その神が「あのお方」に請われて自らの体から食物を産んだ姿を「あのお方」は「きたないものを食わせようとした」と怒り、殺したというのである。だが、大宜都比売神は死んで五穀を成して人を養うことになった。一方の火之迦具土神は死んだのち、雷を成して人を遠ざけている。

「なんとも・・・」

 神は神。

 それが人のためになろうと、なるまいと神である。だが、人のためになることによって崇められる神と、人を恐れさせ、害をなすことによって崇めさせる神がある。いずれにせよ神は人から崇められることを欲する。それは神の生まれついての呪縛であり、死してもなおそれを欲する。

 父と母の間にできた末妹と末弟はそれぞれ不幸な死を遂げ、その両極の神になった。

 では、母は・・・。

 大山津見の思いは再びゆらりと過去の思い出に流れ込んでいく。


 父は母を諦めきれなかった。

 母の死から暫く経った頃、突然父は子供たちに向かって黄泉よみの国へ母を迎えに行く、と告げた。

 世は三つの世界で成り立っている。天津神のまします高天原、自分たちのいる葦原中国、そして黄泉の国である。黄泉の国は死者の穢れた国であり、神性も劣る国である。

 だが高天原から降り、葦原中国という国を築きつつある父といえども、黄泉の国に降りていけばその力は黄泉を統しめす神に及ばないかもしれない。そうなれば戻れぬ。子供たちは皆、必死に諫めた。

「母上がいなくなった今、父上までが黄泉の国へと封じ込められなさったら、この葦原中国をいったい誰が全うするというのです」

 しかし、父は頑固だった。おのが子たちのいう事など聞く耳を持たなかった。

「この国造りを全うするためには、どうしても汝らの母が必要なのだ。あれがおらねば天命は全うできぬ。他の手段があるというのか。それとも、なにか、汝らはわしに天命を捨てよと申すか?或いはお前たちがわしの業を引き継ぐか?その覚悟があるのか」

 そうまで言われたら、子供たちに引き留めることはできぬ。それほどまでに父神の力は強く、子供たちに逆らうすべはなかった。

 葦原中国と黄泉の国は母の墓を通して繋がっている。その頃はまだ往来が可能な場所であったが、それはその当時、生と死が今よりもよほど近かったからであろう。ただ往来が可能であると言っても基本は片道通行、生から死への一道である。それでもなお父は子供らが固唾かたずを飲んで見守る中、独り黄泉の国へと降りていった。


 その時の話を父は後に大山津見と、大山津見の兄である速秋津日子はやあきつひこだけにした。

 あの時、父は少し躁であったような気がする。

「昏い場所であった。ただただひたすら昏い。光などどこにもない道をわしは辿っていった。比良坂ひらさかという坂は平であり、なお坂であるという不思議な道じゃ。そこはうねうねとまがりくねっており上へ登っているのか下へ降っておるのかさえ分からなくなるが、いつの間にか道はまっすぐとなり坂も消える」

 父は息子二神を目の前にそんな風に語り始め、大山津見と速秋津日子は目を見合わせた。話したいことがあると呼ばれたが、まさか昔話を聞かされることになろうとは思っていなかったのである。

 父に呼ばれたのはかの建速須佐之男がひたすら泣き喚いたせいで洪水と旱魃かんばつが繰り返し、葦原中国に最初の甚大な被害をもたらした直後であった。だから、当然父の話は建速須佐之男が惹き起こした災いの後始末をどうするかという事だと思っていた。大山津見は山の神、速秋津日子は海の神、いずれも各々を代表し、災いに見舞われたそれぞれの地を立て直さねばならぬ立場にあったからである。

 本来なら海の神としては大綿津見が呼ばれるべきだが、そのころ大綿津見は父とそりが合わぬことがあり、かわりに速秋津日子が呼ばれたのだろうと、二神ともすっかり思い込んでいたのである。

 大綿津見が父といさかいをしたのは建速須佐之男が原因である。父はそれまで海の神としてその領域を治めていた大綿津見の存在を軽んじて、建速須佐之男を新たに海の神に任じようとした。神は自らの領域を侵すものを憎む。大綿津見が激怒したのも無理はない。建速須佐之男が放逐されたおかげで諍いの原因はなくなったのだが、大綿津見の父への怒りは収まっていなかったのだ。

「なぜ・・・」

 と速秋津日子が尋ねた。

「なぜ私たちだけにその事を?と言いますか・・・今は他に緊要のことがございます」

 大山津見も同意するように頷いた。その二人を父はじっと見つめると、不意に遠くに目を遣った。

「他に緊要のこと?あの馬鹿者の後始末のことか。何、そのことは大丈夫だ。時をおけばすべて元に戻る。なぜおまえたちを呼んだかということなら、それはお前たちが妻を持っておるからだ」

 と答えた。

言われてみれば伊耶那岐と伊耶那美の子で正式に妻を持つのはこの二人だけである。

「はあ」

 と二人は要領を得ぬように頷いた。

「まあよい、聞け」

 妻を失った当時に比べて肌に艶が戻り、一時は骸骨のように痩せ細っていた体格も戻ってはいたが、父の目は爛爛らんらんと輝いている。そこには息子を手に掛けた時や母を黄泉から連れ戻すと宣言した時に掛かっていた濃いもやのような狂気の残渣ざんさがまだ残っているようであった。

「そこは暗かったが、確かにわしにはその先に妻がいるのが分かった。何十年、何百年と連れ添った妻じゃ。気配というものがある」

 父は大山津見たちの当惑など気にせぬかのように話しを続けた。大山津見と速秋津日子はもう一度目を見合わせると仕方なしに父の言葉に耳をそばだてた。

「やがて、遠くに仄々ほのぼのとした灯らしきものが見えた。何というか、大山津見、お前は存じておろう。あの石のようなもので微かに光る・・・」

りんでございますか?」

「そう、その燐じゃ」

 父は手を打った。その音が耳障りなほど大きく響いた。

「それはどのようなものでございますか」

 速秋津日子が大山津見に尋ねた。大山津見がどう答えるべきか戸惑っていると、代わりに父が答えた。

「夜の海、暗い海原に時折光るものが浮いておろう」

「ははあ、夜に光る虫どもですね」

 水戸みと(港)を統べる速秋津日子は夏になると毎夜それを見て過ごしている。夜光虫である。

「その通りじゃ。あれと同じような淡い光だ」

 速秋津日子が

「なるほど」

 と頷くのを見て父は話を続けた。

「その灯の所に戸があった。中は暗くて良く見えなかったが、戸を叩くとあれが出てきおった」

「母上でございますか?」

「うむ、病に侵される前の姿、それは美しい姿でな」

 その時のことを思い浮かべたかのように父は目を細めた。

「わしは妻に向かって言った。お前とわしとが天に託された国造りの仕事は終わってはおらぬ。戻ってくるのじゃ、とな」

「ははあ」

 速秋津日子が相槌ともなんともいえぬ嘆息をついた。国造りの話をする時の父の話は長く執拗である。

「それはどのようなことで?そのう・・・つまり国造りを終えるという事ですが・・・どのようになれば終わったことになるのでしょうか?」

 速秋津日子の問いに父はあっさりと答えた。

「筋目を付けることじゃ」

「筋目・・・?」

 大山津見と速秋津日子はみたび目を見合わせた。

「筋目をつければ、物事は自ずと進んでいくものじゃ。そうでなければ、後には混沌こんとんのみが残る」

 父はそう答えた。わかったようなわからぬような答えである。では母を連れ戻すことが叶わぬと知った父は、別の形でしか筋目をつけられぬと悟り、最後の力を振り絞って自ら神を生んだのであろうか?黄泉の国から帰った直後、伊耶那岐は黄泉の国で纏わりついた穢れを落とすと、自らの顔をそそぐ事で天照大御神、月読、建速須佐之男の三神を生み、その中で最初に産まれた神、天照大御神を以って天地を統べることを目論んだのである。

 その姿は母を失った時よりも更に深い絶望に苛まされた男のあがきのようにさえ思えたのだが、驚いたことに父はそれをやり遂げた。だがそれは高天原の神々が命じた父伊耶那岐と母伊耶那美による国造りと少し違うように大山津見は思っている。

「あれは、分かったと言った。承知してくれたのだ、とわしは嬉しかった。だが、あれは更にこうも付け加えたのだ。

 『おいでになるのが遅うございました。私は黄泉の国の物を既に口にしてしまいました。ですからこのままでは帰れませぬ。黄泉神よもつかみと相談してみましょう』とな。

 黄泉神が誰とは知らぬが、妻の素振りを見る限り話の分からぬ神ではなさそうに聞こえた。あれは、しばらくお待ちください、でも黄泉神と話している最中は、決して中を覗いてはなりませぬと申した。だからわしはじっと待っておった。しかしあれはいつまで経っても戻ってこなかった」

「話が長びいたのでございますかな?」

 大山津見が口を挟むと、父は目を上げた。

「わしもそう思った。死んだ者を生き返らすのだからそれ相応の時間がかかるのであろう。そう思ったのだが、昼と夜とが一つずつ交代するほどの時間が経ってもあれは戻って来なんだ。わしとて黄泉の国へ長くおったらそれだけ寿命が縮むに違いあるまい。或いは黄泉神は返答を伸ばし、わしをここに居続けさせる気かもしれん。そう考えるとわしは次第に苛立ってきた。

 その時、ふと辺りが入ってきた時より明るくなっていることに気付いた。見回してみるとそれまでは燐の灯だけであったのに、壁に刺さった一木ひとつきの燭が周りを照らしておるではないか。妙な、と思ったが気持ちが急いておったわしはそれを手に中を覗いてみようと思いたったのだ。だが手に取ろうにも熱くて叶わぬ。仕方なしにみずらに刺してあった櫛を取ると歯を一本抜いて火を灯し、それを戸に近づけて中を覗いてみたのだ」

 その時の様子を思い出したのか、父はぶるりと体を震わせた。

「どうだったのですか?黄泉神がおられたのですか?」

「いや・・・そこにあったのはあれの変わり果てた姿であった。白いものが蠢いているので目を凝らせば、それはうじであった。体のあちらこちらがぼぅっと光っておったがそれはいかづちの子であった。思い返せば戸を照らしておったあの燐光は妻のむくろに宿っておった雷から零れ落ちた光であったのかもしれぬ。

 その時、わしはふっと思った。先ほどの火、あれは迦具土の化身だったのではないか、とな。迦具土は火の神じゃ。まさか、そう思って振り向くと火はもうどこにもなかった。一木と罵ったわしの言葉をあやつは忘れておらなかったのだ。だからこそ一木の燃えた姿でわしの目の前に現れたのだ。そして妻の正体を自らの手で明らかにしたのに違いない」

 父はその時の怒りが再び湧きあがってきたのか、髭と声を震わせた。

「卑怯な奴じゃ。自らは決してわしの手に取られぬように体を燃やし、そのような真似をしおるとは」

 妻のことはともかく、子のことは許せぬといった趣である。火の神である迦具土を産んだ時、伊耶那美はほとを焼かれて死んだ。その当の迦具土が妻をもはや子の産めぬ体にしたことへの怒りは冷めやらぬようである。

「で・・・?」

 速秋津日子は体を前に傾けた。

「どうなされたのですか?」

「・・・・・」

 答えがない。腕を組んで俯きながら聞いていた大山津見は顔を上げ、父に視線を遣った。

「わしは逃げ出した」

 怒りに震えていた父はがくりと肩を落としていた。その姿は、突如、ただの弱弱しい老人のように変貌していた。

「それが正しかったのかはわからぬ。後で考えれば、たとえそのような姿になっていたとしても、わしはあれを抱きしめてやるべきだったのかもしれぬ。だが、そうはできなかった」

「ごもっともでございます」

 大山津見は慰めた。

「そのような事をすれば、体に重い穢れが執り付いて、父上は黄泉から戻って来られなかったでございましょう」

「さようなことを考える暇さえなかったのだ」

 父の声は弱く、震えを帯びていた。

「ただ、ひたすら恐ろしかった。妻はもう生き返らぬ、このまま放置するしかない、今は逃げるばかりじゃ、とな。だが、あれはそんなわしの心のうちを悟ったのかいきなり起き上がったのだ。骸のまま起き上がったのだぞ。蛆をぼとりぼとりと落としながら立ち上がった姿が、手にした灯の向こうに浮き上がったのだ」

 父は再び体を震わせたがそれは怒りからではないようであった。

「妻はわしに向かって叫んだ。

 『私の恥ずかしい姿を見ましたね。よもつしこめ、追うのです。決して帰してはならぬ』

 そう何者かに命じたのだ。「おお」と応える声が妻の後ろからした。そこには、それは恐ろしく醜い女が立っていた。足は細く、腕は長く、痩せさばらえ、目が黄色くよどんでおって・・・とても生きている者の姿ではなかった。わしは慌てて逃げ出した。だが、その化け物は恐ろしく力が強く足が速かった。戸を叩き壊すなり一瞬で私の背後に走ってきた。剣を後ろ手に振り、逃げ惑う姿はとても誰かに見せられるようなものではなかったの」

「それで・・・」

 速秋津日子が身を乗り出した。

「父上はどうなされたのですか?こちらに戻って来られたということはその化け物を退治なさったのですか?」

「いや、それどころではなかった。だが・・・」

「どうなされたのです?」

 大山津見は促した。

「ふと思いついたのじゃ。戸の向こうではあれは亡骸の姿に変わり果てておったが、道では生前の美しい姿のままであった。ならば、わしが走っておるこの道では死んだ物でも生きていた時の姿のままになるのではないかとな。

 そこでわしは髪に刺しておったかずらを投げ捨てた。思った通り地面に落ちるなりそこから山葡萄が生え、たわわに実ったではないか。化け物は飢えておったようだ。わしを追うことなど忘れ、山葡萄にかぶりついたのだ」

「その間に逃げおおせたのですね?」

 大山津見の言葉に、いいや、と父は首を強く振った。

「そう簡単には参らなかった。化け物はあっという間に山葡萄を平らげると再びわしを追ってきた。山葡萄の汁が口から垂れて、顔面からまるで血が滴っておるようであった」

「思い描くだけで背筋が凍り付きそうな情景ですね」

 大山津見が呟くと、父はまさに、と頷いた。

「今でも時折夢でうなされるわ。次にわしは竹櫛を投げた。地面に落ちた櫛からは筍が生えた。筍は葡萄より食いにくかったのだろう。食らっているうちに竹がぐんぐんと伸び、化け物は竹に体を刺されたまま、高いところへ昇って行った」

「ではそのうちにお逃げになられたので?」

 今度は速秋津日子が尋ねた。

「いや・・・」

 父は太いため息を吐いた。

「その後ろから今度は母の骸に宿っておった雷どもがわしを追ってきたのだ。わしは再び剣を後手に逃げねばならなくなった。足は弱り、息が上がった。もうだめかと思った時、坂を登り切った事に気付いた。坂・・・?と、わしは思った。来る時、坂は黄泉と葦原中国を結ぶ比良坂だけじゃった。ということは、ここは黄泉と葦原中国の境ではないのではないか。そう考えた時、目の前に桃の木が見えた。その木に成る青桃三つ、掴むなりわしを追ってくる者どもに投げつけたのじゃ。青桃の実は妖気を払う実じゃ。奴らも黄泉の国をはみ出して追って来たのに気づいたのだろう、慌てて飛びのくと無念そうに戻って行きよった」

「ようございました。ご無事で」

 ほっとしたように呟いた速秋津日子に向かって父は違う、と手を振った。

「それで終わりという訳ではなかった。あれだけは執拗にわしを追ってきたのだ」

 あれ、というのは死んだ母であろう。死んだ母が化け物になって父を追い回す姿など想像したくもなかったが大山津見に父の話を止める術はない。

 父は熱に浮かされたように話を続けた。

「青桃の実もうつし世との境も、あれには効かなかったのだ。わしは焦った。もしあれが境を破って現し世に入り込んだらあれの行く限りそこは黄泉の国になってしまうに違いない。わしの命一つの問題ではない。あれと共に築き上げたものが全て失われ、国造りどころではなくなってしまうのだ。わしは渾身の力をもって石を担ぐと道を塞ぐと呪いをかけた。さすがにあれの力をもってしてもその石を越えることはできなかった。そしてわしはあれに向かって、二度とお前のもとを訪れることはない、永遠の別れじゃ、と申し渡したのだ」

「ははあ」

 大山津見は頷いた。父はその時漸く母の死を認めたのだ。

「だが」

 再び肩を落とすと、

「あれはわしに向かって呪を放った。

『・・・そんなことをおっしゃるならば、あなた。私はあなたの治める国の人を一日ひとひ千人縊くびり殺して見せましょう』」

 そう言ったのだ、と父は呟いた。

「縊り殺す、じゃぞ」

 ぶるりと体を震わせると父は繰り返した。

「なんという言い草じゃ、なんという恐ろしい呪いじゃ」

「一日に千人・・・。それではすぐに国が滅びてしまいますな。ですが・・・」

 大山津見は言った。大山津見は人を掌るわけではないので実情は知らぬが、人の姿が絶えていないことも減っていないことも知っている。いや、むしろ増えているように思える。父は頷いた。

「勿論、わしは呪返しを行った。お前が千人を縊り殺すなら、わしは一日、千五百の産屋うぶやを立てようとな。だが、それはひとひ五百の産屋を立てるのとは訳が違う。差し引きの数は同じだがな。千の者どもが我が亡き妻に縊り殺されるのじゃ、一日にな。それを考えるだけでも身の毛がよだつわ」

 大山津見は速秋津日子と目を見合わせた。国造りのためならいかなる犠牲を厭わなかった父がそんなことを言うとは思わなかったのである。五百増えれば、千の死が伴おうと、それまでの父は気にも留めなかった。それが今まで見てきた父の姿であった。

「今となって思うのだ。あれはわしが迦具土を斬ったことを赦そうとしなかったのではないかとな。そしてひと日千人、人を縊り殺すことによってわしにその事を決して忘れさせないようにしておる」

 そう言うと父は頭を抱えた。それまではどこか燥いでいたような父が、急にじっと背を丸めたまま動こうとしなくなった。

 父は母を愛していた。その母を亡き者にした己が子を斬ったのも母を愛していたからこそに違いない。父にはその向こうに国造りと言う目的があった。父はそれを成すために共に働く母を愛していたのだ。父にとっては国を作ることと母を愛することの間に何の矛盾もなかった。

 だが、その母はわが子を斬った父を赦さず、死んだ子と共に黄泉の国に引きずり込もうとし、それが叶わぬと知ると父に呪を掛けた。それは国造りと真逆の仕業である。

 母は自分や子を犠牲にして執拗に国造りを成そうとした父を次第に憎んでいったのに違いない。その思いが迦具土という形になったのかは分らぬが、迦具土を産むことによって母はもはや子供が産まれぬ体になり、そして死んだ。

 だというのに、自分が死に、その原因を作った子を殺してもなお、自分を黄泉の国から引き摺り出して国造りを続けようとした父を見た時、母の憎しみは頂点に達したのであろう。

 愛の形は男と女では違う・・・。

 母は家族を愛したのだ。国造りもその家族のためだったのに違いない。父は違った。二人の思いは同じ方向へとあざなう縄のように絡み合っていたが、先にある物が異なっていた。そして父はその事を理解しようとしなかった自分の非を認めているかのようであった。

「お前たちには妻がおる。わしと同じようなことになってほしくない・・・からの」

 やがて顔を上げそう言うと、父は力なく笑った。。

 あれが父の姿を見た最後の時だった。

 淡海あふみの宮に住んでいた父が姿を消したと聞いたのは、高天原で天照大御神が隠れるという思いもよらぬ事件が起きた時であった。国つ神たちがこぞって父の考えを聞きに淡海の宮に集ったとき、そこは空っぽだったのである。躁ぎみであった父が、自分たちに話をした後、いつしか鬱々と暮らすようになっていたというのを知ったのもその時であった。


 父は死んだのだという噂も流れた。だが、その骸を見た者は誰もいない。大山津見は父がまだ生きていると思っている。だから建速須佐之男が再び地上に降りてくるこの時、姿を現してくれるのではないかと期待もしていた。

 だがその願いはどうやら叶いそうにない。十余日の後に「あのお方」は、この地に降り立つのである。だというのに父が現れる気配はどこにもない。

「あのお方」はわれらが母を慕って黄泉の国へと赴くという話もある。しかし父が一人で産んだ弟がなぜ、実母でもない我々の母を慕うのか?

 意味が分からぬ。


 それにしても・・・。

 と、大山津見の考えは「あのお方」をどう扱うかというところに引き戻された。

 母の許へ行く道中にこの地に降り立たれるというのは仕方ない。高天原と黄泉の国は直接繋がっていないのである。再び降りてこられるならば、海の神同様に息を潜めて見守る事しかできないのであろう。

 だが、大山津見の思いは別のところにある。「あのお方」の力に縋って高天原の企みを阻止できないものであろうか、という考えがひらめいた時から、その思いは大山津見の頭の中から消えない。

 高天原での暴虐は、もしやと思わせるものがあった。男神として女神の天照大御神の下につかされたことを、建速須佐之男命は心底では納得しておられないのではないか。ならば、建速須佐之男命は我等が請えば高天原と対峙なさってくれるのではないか?

 若し、父が現れていたならそれは決して思いつかぬ考えであった。いや、父がいたなら一蹴するに違いない。しかし、と大山津見はその考えにしがみつく。それは天津神と国つ神を共存させるもとになるかもしれぬ。

「危険ではあるが・・・」

 と大山津見はひとりごちた。

 毒こそ毒を制することができる。病とて毒を以って制することがあるのである。とにもかくにも天照大御神と対峙することができるのは、父神を除いては「あのお方」しかいないのだ。

 あのお方の心根と真情を推し量り、もし正しければ娘と神聖な武器を納め、この国の守り神になってもらう、というのが大山津見の思いついたことである。あのお方が葦原中国に留まれば、高天原とて迂闊に攻めてくることはなかろう。

 しかし、それは同時に危険な賭けである。建速須佐之男の力は疑いようもないが、それが正しく使われねばどうなる?天に従わされる前に葦原中国が自滅してしまうかもしれぬのだ。そう考えると躊躇わざるを得ない。

 唯一の方法は大山津見自身が建速須佐之男の真情と力を試すことである。その方法は既に考えてある。とはいえ大宜都津比売を無残に殺したという噂が本当ならば・・・・。

 ぐるぐると迷いは大山津見の頭を駆け巡る。


「お父上ぇ」

 愛らしい声に、突如大山津見は現実へと呼び戻された。

 見ると遥か眼下の田の中で、白の衣に赤のたすきをかけた愛娘まなむすめが手を振っている。気づけばもう太陽は正中せいちゅうにある。

「おお、奇稲田・・・」

 大山津見は微笑んだ。

「お父上、降りていらっしゃいまし。下の田で穂が実をつけましてよ。重い実でございますよ。立派な稲でございますよ」

「おおよ、分かった」

 そう応えると、大山津見は腰を掛けていた磐座から立つと雲を呼んだ。この美しい景色を娘のためになんとしても残したい。いや娘だけではない。この国にいる全ての国つ神のために・・・。

「娘は承知するかの・・・?」

 そう自らに問いかけたとき、大山津見は初めて己の心が定まっていることを知った。


 古びた鋤と鍬を並べて据えると大山津見は呪を唱えた。あっという間に鋤は老爺に、鍬は老婆に変じた。二人はびっくりしたように自分の姿を見、互いの姿を見合って笑った。

「さて、爺よ、お前の名は足名推あなづちじゃ。婆よ、お前の名は手名推たなづちじゃ」

「ははあ」

 二人は手を合わせて大山津見を拝んだ。

「お前たちはこれ、ここにおる奇稲田比売の親として比売を守るのじゃ」

 大山津見の横には父親の巨体の、縦も横も半分ほどしかない美しい娘が座っていて、二人に丁寧なお辞儀をした。奇稲田比売は大山津見と鹿屋野比売かやのひめ、すなわち妻、野椎神のづちのかみとの間に産まれた子である。

「よろしゅうお願い申し上げます」

 娘は慎ましやかにお辞儀をした。建速須佐之男に命を奪われた大宜都津比売をまつり、大切に育ててきた姫は父の目にも眩しいほどである。名の由来はうつくしい稲田という意味であり、大宜都津比売が死して産んだ稲こそがこの娘の命である。

 化したばかりのおきなおうなは慌てて手をついた。

「おお、おお、なんと美しい姫様じゃ。我らのような古物にかような姫様の親になれとはたいそう勿体もったいないことでございます。もちろんおいいつけに従いましょう」

 爺は歯を見せて笑った。婆はその横でしきりに頷いている。

「どれ、二人とも歯を見せよ」

 歯茎を剥きだした二人の老人ににっこりと笑いかけると、

「丈夫じゃな。歯はお前らの命じゃ」

 満足げにそう言うと、さて、と大山津見はひそひそ声になった。

「もう暫くすると肥河ひのかわの中洲に天から建速須佐之男命と言う神子みこがお降りになる。その時、肥河にわしははしを流す。神子は人が住んでいると思って、必ず上流を目指すであろう。そこでじゃ・・・」

 大山津見の言葉に爺と婆は素直に耳を傾け、しきりに頷いている。奇稲田はそんな新しい親と実の親の会話をにこにこと笑いながら隣で聞いている。

 どうやら、父のはかりごとをこの娘は楽しんでいるようである。


 大山津見は身を潜めたまま事の成り行きを見守っていた。

 足名推も手名推も奇稲田比売の真の親のように演じ、姫を慈しんでいた。

 高志こし(越)の国からやってくる八俣やまたの大蛇に今までに七人の娘が食い殺され、最後に残った奇稲田がまた今年食い殺されんとしております、と建速須佐之男に告白するくだりなど、大山津見が聞いていても思わずほろりとするほどの熱演ぶりである。

 娘も調子を合わせ、いかにも不幸な身の上を演じて、さめざめと泣く姿は哀れではあるが・・・。

 と、大山津見はそこで少々複雑な気持ちになる。娘はかように巧みに偽りを演じることをいつ、だれから学んだのであろうか?

 まあ良い、と大山津見はざわめく気持ちを無理やり抑えつける。

 あとは建速須佐之男が娘をみそめるかどうかであったが大山津見はその点は心配していなかった。

 きらきらと輝く瞳、ふくよかな唇、そこから覗く真白の歯、若々しくいたずら好きな振舞い、およそ男であれば神であろうと人であろうと奇稲田に魅入られてしまうのである。その上、放っておけば食い殺されてしまうという哀れな身の上を嘆けば、いかな建速須佐之男が金石きんせきのような心の持ち主であろうと、放っておくことなど決してできまい。

 実際、思い通りに事は運んでいる様子である。

「さて、後はわしの出番じゃの」

 大山津見自身が八俣の大蛇を演じるのだから命懸けである。

 神のみは神をしいすることが出来る。従って建速須佐之男の剣に斬られる前に体を離脱させねばならぬ。さもなければいくらいにしえの神とは言え、自分自身が死ぬことになりかねない。

 山の中で良く育った蛇を八尾見つけてそれを大きく変じて中に自分が潜り込む算段であり、その蛇たちは既に見つけてあった。この地に降り立ったばかりの御子に自分の立てた謀がばれる筈はないと思うが、それだけに向こうも真剣に向かってくるに違いない。

 すでに建速須佐之男は奇稲田比売を己のものとして、櫛名田比売くしなだひめと名を変えさせたばかりでなく、八俣の大蛇から守るために櫛に変じてみずらに刺している。そこからも伺えるように、この建速須佐之男という神は相当の力を持っている。

 その神との闘いの時のことを考えると尻がもじもじしてくる。なぜ建速須佐之男命の力や心を試そうなどと思い立ったのか・・・。素直にその心情を問い質し、国つ神の柱となってくれと頼んだ方が良かったのではあるまいか?

 だが今となったらそう思うが、もともと建速須佐之男がどのような男か分からなかったのである。娘の身の上を案じ、老夫婦の話をうんうんと素直に聞いている実直そうな様子を見てからこそ、そう考えるのだろう。

 とはいえ・・・。

 男が娘の名を勝手に変えたのも、娘がそれを嬉々として受け入れたのもなんとなく大山津見には気に食わない。

「まあ、これが父の運命さだめよ」

 いつの間にか、相手の力量を確かめる理由の中に父としての思いが混じりこんでいる。

 建速須佐之男は母を慕って泣き続けたとか、高天原でひどい暴力を振るったとか聞いていたので、この策を思いついた当初は内心危ぶんでいたのだが奇稲田比売一家に対する振る舞いにはそのおもかげなど微塵みじんもない。見つめているのは寧ろ凛々りりしい男の姿である。

「はて、まことのところはどのような男なのか?」

 八俣の大蛇に酒を振る舞い寝かしつけてから斬り殺そうなどとはなかなかの知恵者ではないか。

 せっせと娘夫婦のために米から酒をみ、かもしている老夫婦を見ながら、さて相手の用意した酒は飲まねばなるまい、かといって寝込んでしまうわけにはいかぬ、どうしたものかと大山津見は案じている。

 大山津見は大の酒好きである。そして何の因果か酒を飲むと眠くなってしまう癖がある。


 ぶん、

 激しい風切りの音と同時に容赦のない太刀たちが襲ってきた。首の皮一枚というすんでのところで大山津見は大蛇おろちの体を抜け出した。

 背筋の毛が全て逆立った。舞い上がった空から下を見れば、大蛇の八つのくびことごとく切り刻まれその血は山から湧き出る肥河を赤く変じている。

 「やれ、危ないところじゃった」

 つい、漏らしてしまった。それは雨となって今、下の景色を白く霞ませている。

 酒を飲みすぎたのがいけなかったかもしれん、と大山津見は反省している。老夫婦たちが八入やしおに醸した酒は殊の外旨かった。飲んでいるうちに気が大きくなって、まあ何とかなるじゃろ、などと考えたのはとんだ油断であった。

 雨に濡れるのも構わず、建速須佐之男命はのたうち回っている八つの尾を次々に切り刻んでいる。

「さて、どうすることやら」

 尾の一つには大山津見が千の鎌を溶かして作った剣が仕込んである。もし建速須佐之男に異心があれば、それを以って天の軍と闘い千年は対等に戦うことができる。草を薙ぐ鎌で作った人草を和ぐ剣、それはこの地を治めるための剣、草那芸剣くさなぎのつるぎである。建速須佐之男命のような力の持ち主であれば、剣を見た途端にそれが持つ力を察するに違いあるまい。

 やがてはがねの打ち合う音がして、建速須佐之男命が手を止めた。

「見つけたか」

 大山津見は首を伸ばして、何が起こるのかと唾を呑んだ。


 雨上がりの空に向け男は躊躇うことなく太刀を日に向けて突き上げた。

「高天原の神々、納められよ」

 太い声に応じたかのように一筋の光が天から降りてきた。その光の中、するすると引かれるように剣が天に昇っていく。

 なんともはや・・・。大山津見は呆然とその光景を見つめていた。

 建速須佐之男に天に対して謀反を起す心はなかったのだ。あの男は本当に黄泉、根之堅須国ねのかたすくにに行くことだけを望んでおられたのだ。

 だとしても・・・・

 男の見せた思いもよらぬ清々すがすがしい心根は、まさにこの国を治めるにふさわしい。たとえ草那芸剣を天に納めても、なおあの男ならば葦原中国を治める十分な資格と力がある。どうも、噂で聞いていた男とは全く違う・・・。となれば、大山津見には迷いはない。自分の目で確かめたことのみが大山津見の分別の基準である。

 海を治めよと父に言われ、泣き喚いて抵抗したのは既に神々の坐す海を治めることになればその神々の面子をつぶすことになるとお考えになられたのではないか、と好意的に解釈するほどになっている。

 大山津見は素知らぬ顔をして足名椎の家を訪ねた。かねてからの打ち合わせの通り、足名椎と手名椎夫婦は自分たちの御祖として大山津見を建速須佐之男に引き合わせた。

「これは御祖みおやさま」

 建速須佐之男は丁重にに膝を屈すと大山津見に頭を下げた。

「いや、もとをただせばそなたと私は兄弟、頭をあげなされ」

 大山津見が頻りに促しても建速須佐之男なかなか頭をあげようとしなかった。神は崇められることを殊の外好む。大山津見はますますこの男のことを好ましく思い始めている。


 建速須佐之男は一つの年が過ぎるまで大人しく暮らしていた。大山津見もまた足名椎の家で一緒に留まった。もしかしたら建速須佐之男が、娘の奇稲田と一緒にこの地に留まるように心変わりしたのではないかと期待したのである。

 放逐した建速須佐之男がこの地に留まっているにも関わらず、依然として父神は姿を現さなかった。父神は、この男を許す気になったのかもしれぬ。あるいは本当に父神は妻の許へと旅立ったのであろうか?いずれにしろ、建速須佐之男の罰はもはや消えたと考えてよい。そう考えつつも、大山津見は娘の身を案じて大宜都津比売にかかわる噂についてそれとなく建速須佐之男にただしてみた。

「娘は大宜都津比売の御霊みたまを祀って育てました」

 話を振った父親の目はそれとなく婿の様子を窺っている。

「おお、あの大宜都津比売の・・・」

 と婿は瞑目めいもくし、

「立派なお方でございました。自ら死して人草に豊穣をもたらすと決意なされたと聞いております」

 と言葉少なく答えた。どうやら建速須佐之男が大宜都津比売を殺したという噂そのものを知らぬようである。大山津見がその死にかかわるもう一つの噂を持ち出して

「月読命に害されたという話もあるようだが」

 と話を振ると、

「まさか、そのような。月読命はそのようなことをなさる方ではない」

 と憤激した。その様子を見て大山津見は疑いを解いた。

 天照大御神が姿をお隠しになったきっかけは、建速須佐之男の乱暴で機女はたおりめが一人死んだことであったという。だが、それは事故とも言える。だが、大宜都津比売を殺したとなればやはり親として娘の身を案じざるを得ない。その懸念が掻き消えたことに大山津見は心底からほっとした。

 やがて、一年が過ぎ再び秋になり、建速須佐之男が娘と共に根之堅須国へと旅立ちたいといかにも言い難そうに持ち出した時、大山津見は強く翻意を促した。

祖神みおやさまである伊耶那岐命はもはや淡海におられぬ。この国におられるのかさえ分からぬのだ。そうとなれば罪を気にする必要はない。罰も与えられまい。どうだ、この国に留まってはいかがか?そしてこの国を束ねてくれぬか」

 そう大山津見が説得しても建速須佐之男は頑なに首を振り続け、挙句の果てに

「大山津見さまご自身が国をおまとめになれば宜しいのでは」

 などと言う。

「それはならぬのだ。わしの器量はこの国の山々に限られておる。海、風、人草それらすべてを束ねるにはそれに応じた器量がいる。陽と陰にさえ縛られぬ建速須佐之男命こそ相応しい」

 と持ち上げてみた。陽は天照大御神、陰は月読、だが、建速須佐之男には陰も陽もない。しかし陰陽に縛られぬ男の答えは

「いえ、私は母の許へ参ると決めておりますから」

 とにべもなかった。ついに

「なぜ実の母でもない伊耶那美命を慕われるのか?」

 といささか露骨に大山津見が尋ねてみると、男は

「はて」

 と首を傾げたが、

「確かに伊耶那美命から私が生まれたわけではございませぬ。しかし、あのお方が黄泉の国におられ、父神がそこから戻ってきてこそ私は生まれたのでございます。ならば母と言って差し支えないのではございませぬか?」

 と答えた。

「そんなものか、の」

 と大山津見は言った。理屈は理屈だが腑に落ちたわけではない。伊耶那美の胎内から生まれた自分でさえ、黄泉の国の母を慕う気持ちなどかけらほども持てないのである。だが建速須佐之男の意志を変えることは困難であった。それまでは結婚したばかりだというのに夫と共に忙しく立ち働いていた奇稲田も田の稔を刈り終えればあとは春を待つばかりである。男に寄り添う奇稲田は娘というより女のかおになっている。奇稲田ではなく櫛名田になっている。

 時折男の顔に混じり始めた険しい表情と微かな苛立ちを見てとると大山津見も再び、この男が引き起こした暴虐を思いださざるを得ない。これ以上無理を重ねれば、いずれ三度目の厄災がこの地に降りかかるやも知れぬ。この男が底知れぬ力を秘めているのは確かだ。それを表に出すか出さぬかの境目がわしには分からぬ。

 そう考えると、大山津見もあきらめざるを得なかった。


 旅立っていく二人の後ろ姿を見る大山津見はいささか寂しそうである。奇稲田は、時折振り向くと大山津見に向かって手を振り、父は元気なさそうに手を振り返した。

 気持ちの良い男であった、娘は良い婿を取ったのだと心を慰めている。黄泉の国はよほど心地よい場所になるような気がした。母のことを悪く言いたくはないが、どうも母の父への仕打ちは恨みがましくて、陰惨なにおいがし、そのこともあって黄泉の国に対する印象も良くなかったのだが・・・。

 娘の奇稲田のことは心配していなかった。黄泉に行っても毎年春、娘は稲の苗を植える頃に蘇り、この国へと戻って来る。冬の間会えなくなるのは寂しいが娘は娘なりに正しい男を選んだのだ。仮に親になっただけの足名椎、手名椎は情がよほどに映ったのであろうか、見送るのも辛いと元の姿に戻って倉の奥に引き籠っている。

 妻、野椎の姿もない。今の季節は雪を起こし、薪を集めるのに忙しいのである。女親は殊に娘には冷たいの、などと大山津見は思っているが、実は娘の通って行く先でしっかりと待ち合わせをしていることなど大山津見はとんと思いつかぬ。

 不在の妻の代わりに、去って行く男のもう一人の妻であり、やはり大山津見の娘である神大市比売かむおほいちひめが横に立って夫婦を見送っている。

 娘夫婦の姿が遠ざかっていくのを見ながら、大山津見は神大市に抱かれている子の頭を撫でると、神大市の耳元にそっと囁いた。

「お前は・・・行かなくてよかったのか?」

 神大市は足名推、手名推を親に見立てたため奇稲田と叔母、姪の関係に見えるが実は姉妹である。

「ええ、お父様。お姉さまの子ばかりでなく私の子供までお父様に面倒を見させるわけには参りませぬもの」

 神大市は微笑むと子供たちを見遣った。

「この子たちにはお姉さまの守って来られた大切な田を代々、世話をさせようと考えております」

 手に抱いている子は自分の産んだ子であるが、脇に立って神大市を見上げているのは去って行った夫婦の子である。いくら何でも産まれたばかりの子を黄泉の国に率いていくことだけはならん、と大山津見が主張し、そうでございますな、と建速須佐之男が頷いたのである。この子たちの末のいずれかに建速須佐之男の生まれ変わりが出るに違いあるまいと大山津見は望みをつなぐことにしたのだ。

「そうか・・・」

 呟くと、大山津見は視線を再び彼方へと移した。その視線の先に、旅立っていった娘夫婦の姿は既にない。

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