古事記異伝(天地の章)
西尾 諒
第1話 <序章>鵺(ぬえ)
「美よ、美・・・。わしがわかるか?わしの声が聞こえるか?」
痩せさばらえた姿で伏す妻の傍らで、男は必死に呼び掛けた。落ち窪んだ妻の眼が男の声に反応して重たげに開きかけたがすぐに力尽き、ふたりと音を立てて閉じた。床の近くに据えた
だが・・・まだ生きている。
「美よ、お前とはまだ別れぬぞ。私たちにはまだやるべきことがあるではないか。死んではならぬ」
妻の手を取って揺すりつつ言った男の太い声に、部屋の隅で眠っていた赤ん坊が目を覚まし、火がついたように泣き出した。
男は泣き声の方を憎々し気に睨んだ。この子を産んだせいで妻は病み臥せることになったのだ。だというのに。己の母が死の淵を彷徨っているこんな時に泣き喚くとは。
「
泣いている子の名を、妻がか細い声で呼んだのが聞こえ、男は撃たれたように妻を振り返った。妻の声が聞こえた途端、赤ん坊は泣き止んだのだが、男はそのことにさえ気づかない。男の耳の中に、この数日間、一言も喋ることがなかった妻の声が
「美よ。気付いたか。しっかりせよ」
妻はうっすらと
ひょう・・・。
闇の奥底から
弔いは霧雨の中だった。
男は妻の遺体を
「
登り坂の途中、濡れた顔を拭うために立ち止まると、男は呼ばわった。
「はい、おじい様」
霧を通して、どこからか声がした。
「お前は泣いているのか?この雨はお前の涙なのか?」
「いいえ、おじい様。私はただここにいるだけでございます」
「そうか・・・。他の者たちは?」
男の問いに天之狭霧はしめやかな声で答えた。
「皆も・・・。各々の居るべき場所で見守っております」
「うむ」
男は頷くと空を仰いだ。昼だというのにあたりは仄暗く、音一つしない。妻の死を皆が嘆き悲しんでいる。
背に負った妻の遺体は驚くほど軽かった。しかし体の軽さに比してその死は遥かに重い。二人で築くと約したこの国は、このまま未完のままに終わってしまうのだろうか?
亡骸を納め、暗い洞から出ると、後をついてきた二人の子供たちが所在無げに雨の中に佇んでいた。男の子が運んできた赤ん坊を入れた籠は雨に濡れぬように、葉の生繁る木の根元に置かれている。男はちらりと籠に目を遣ると、二人に声を掛けた。
「お前たちの母を葬ってきた」
子どもたちは仕方なさそうに頷いた。だが、あたかも男の言葉を理解したかのように、籠の中の赤ん坊がまた甲高い声で泣き始めた。
「泣くな」
男があげた気短な怒鳴り声に、幼い子供二人はびくりとしたように男を見上げ、身を後退らせた。
しかし赤ん坊の発する、気の滅入るような泣き声は、むしろ男の怒声に抗議するかのように高まった。抑えてきた男の怒りがめらりと燃え上がった。
「何を泣く?そもそもお前が、吾が妻を殺したのではないか。子の一木に我が妻の命を代えざるを得なかったのは
叫ぶなり、男は腰に佩いた剣を抜くと泣き声のする方へと駆け寄った。
「お父様」
「おじい様」
「おやめください」
「・・・。お気を確かに」
ありとあらゆるものが一斉に悲鳴を上げた。だが男の剣は怯むことなく、籠と共に赤ん坊を一刀両断に切り裂いた。
頸が跳ね飛んだ。
血が奔り、岩に点々と赤い跡がついた。男は無表情のまま腕、足あらゆるものを切り払い、ばらばらに裂かれた赤ん坊の体は無茶苦茶な方向へと飛んでいった。
だが、その泣き声は天に
「黙れっ」
と、男は天に向かって吼えた。その右腕には剣から滑り落ちた血が流れていく。指の間に溜まった血を雨が流していく。
突然、泣き声が止んだ。
すべてが静まったその瞬間・・・。目を潰さんばかりの光雷が轟音とともに、割かれた赤ん坊の肉体の破片に向かって次々と墜ちていった。
雷光がきれぎれに光りそして消え、呆然としている男の横顔を照らし出す。
その男の名を
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