第一話 雇われ、アーニャ・ロッソベルト

 二月某日。

 昨日未明に起こったアインゴルト製薬会社への放火事件。

 一三五名を焼き、それを上回る数の人々に言えぬ傷を与えた痛ましい悲劇。この地で失われた命を天が涙するように、黒を白く塗り潰す雪が降り注いだ。

 霜月の天気は雪。鼠色の空から降っているのだから。無論のこと市を一望できる丘にも降り注ぐ。


「あぁ、寒ッ。なんなんですかねぇ、昨日はそんなに寒くなかったと思いますが……」


 純白を踏み抜く無粋が一つ。

 それは革靴であり、くたびれた濡れ烏色のスーツであり、身体を縮ませて震わせる少年である。

 サイズのズレた漆黒のシルクハットを被り、左右に分けた青みがかった黒髪は空気を擦ったかのように膨らむ。腰には幾度となく何重にもベルトで巻きつけた鞘と、それをホルスター代わりに携帯した拳銃。

 余った袖を捲り、手首につけた耐衝性に優れた特注の腕時計へ視線を落とす。短針が指し示す数字は六、登校には僅か以上に時が早い。


「確か霜月しもつき教会はこのまま真っ直ぐでしたな」


 適当な独り言を零しながら少年は足を進める。

 霜月空港から途中までは市バスに乗るだけで問題なかったのだが、どうも教会直近にバス停がないらしい。故に丘で下車してからは徒歩で移動するしかない不便な仕様となっている。

 当然、一分や二分で到着する距離ではない。

 若さを盾に穏やかな坂道を進むこと一五分。


「ようやっと見えましたか」


 光なき深淵の瞳が、屋上に十字架を突き立てた施設を映し出す。

 漸く目的地についたかと溜め息を一つ。

 少年が最後のひと踏ん張りと、足に一層の力を込める。

 教会へ近づくにつれ、重厚な調が鼓膜を震わせた。鍵盤楽器の類だろうか、少年に音楽は分からぬがミサで流すには不足がなく思える。

 扉に手を当てれば、木の軋む音と共に重々しく開かれた。

 まず視界に飛び込んできたのは、奥に掲げられた色鮮やかなステンドグラス。

 寒色系を多様し、十字架へ磔にされた男が脇から唯一の暖色たる赤を刺した構図。復活の前段階に当たる磔刑を図に落とし込んだものであろうか。

 次に意識を集めるのは、礼拝堂の一角を占める大型のパイプオルガン。

 そして鍵盤を叩き、発音管を介して荘厳なる調を奏でるカソック姿の男が一人。


「おや、随分と遅かったですね。アーニャ・ロッソベルト」

「文句を言うなら、教会前にもバス停を建てて下さいよ。黒筒木くろつつき神父?」


 扉を閉め、アーニャと呼ばれた少年は椅子から立ち上がった神父へと向き直る。


「それで、今回はどのような依頼でしょうかい。空白機関のエージェント様?」


 黒筒木天人あまひと

 長年に渡って霜月教会の神父を務め、教会は地元の住民から彼の名前を取って『黒筒木教会』とも称されて親しまれている。こんな交通の不便な場所に建てられていながら親しまれる程の客足があるということは、相応の人格の持ち主であることを意味していた。

 そしてこれは表の顔であり、裏では国際連合随意身体異常対策機関、通称空白機関のエージェントとして現場の監督官を兼任している。

 監督官が依頼を求める男に呼び寄せる。これが意味することは至極単純。


「……昨日のアインゴルト製薬襲撃事件は把握しているでしょうか」

「ロベルトって社長が死んだ放火事件でしょう。ただの放火魔であれば手を出すべきなのは警察では?」


 言いながらもアーニャは半ば確信している。

 襲撃事件の犯人が警察では手に負えない存在、空白機関が出張る案件なのだと。そして機関側も何か失策を犯した末に外部の人間である自身を頼ろうとしていると。


「犯人は罹患者の可能性が極めて高いです。証拠は……ロベルトに護衛を依頼された際に本社へ赴いたエージェント、ドゥルガー及びコンキスタドールの両名が現在も行方不明という状況証拠だけですが」

「なるほど、確かにそれは大問題」

「負傷者の中には犯人と遭遇し、手から炎を放出している所を目撃したという話も散見されます。機関での情報操作にも限界があり、社会秩序維持の観点からも罹患者の存在は厳重に秘匿すべきなのです。貴方なら、理解も及ぶとは思いますが」


 如何に国連の下部組織で各国上層部とコネクションがあろうとも、開いた戸は塞げない。

 大規模な情報統制ならば幾度となく繰り返してきたが、個人間の噂話など土台不可能。精々がネット上に流出した動画へ尤もらしい種明かしのコメントを残して数日後に削除する程度が限界。

 対応が早過ぎれば先に視聴した者達が違和感を覚え、遅過ぎれば無限に複製された動画が不死鳥の如く甦り続ける。こういうものは適切なタイミングがあるのだとは、アーニャの知人であるハッカーの弁だ。


「そこで、フリーランスである私の出番と」

「理解が早くて助かります。

 目標はアインゴルト製薬会社を襲撃した犯人、若葉わかば火継及び彼に与する者の確保。現段階でのコード登録はなされていませんが、数日中に指定されることでしょう」

「若葉、火継……ねぇ」


 咀嚼するように、噛み砕いて再び名を呟く。

 複数回凶行に及んでいる危険人物であれば、知人伝手にアーニャの耳まで話が届いていてもおかしくない。だが若葉火継などという名は始めて聞いた。

 初犯にしては中々に大胆な所業。

 彼は心中で拍手を送り、天人へ言葉を投げる。


「聞いたこともないですねぇ。裏に誰か控えているのでは」

「目下それも調査中……残念ながら現段階でこちらから渡せる情報はありません。ですが、それも時期判明するかと」

「でしたら、次はこちらの話をしますか」


 言い、アーニャは親指と人差し指を擦り合わせる。

 無償で雇われを働かせられる訳がなし。無賃で行わせる行為ほど不安を抱かせることもなし。

 それを理解しているからこそ、天人も下手に値切るつもりがなく真摯に報酬を提示する。


「報酬に関しては、そうですね……僕が出せる範囲で貴方が望むだけの物を提示するというのは?」

「言い値か、悪くないですねぇ……でしたらたとえば、そこの椅子はどうです?」


 アーニャが指差す先はパイプオルガンの椅子であるものの、それを額面通りの意味で捉える程お人好しではない。

 霜月教会の神父、否、空白機関霜月支部の監督官。アーニャはその地位を寄越せと図々しくも要求している。ニヤついた笑みからは真意を読み取れず、本気なのか試しているのか判別がつかない。


「なるほど、そうきましたか……」


 顎に手を当て、天人は黙り込む。

 沈黙の時間は数秒。外で鳴く小鳥の囀りだけが、時間の経過を実感させる。


「残念ですが、火継にそこまでの価値があるとは思えませんね……ですが、僕の下で働き、いずれという形であれば検討しますが」

「いえいえ、そこまで本気で検討して下さっただけで充分でございますよ。そも、私は誰かの上に立てる側とは思っていませんからねぇ」

「つまり試した、と」


 僅かばかり視線に鋭角さが増す。

 これは怒らせたか、などと思案するも気にすることなくアーニャは交渉を進めた。


「元はそちらの失態隠し、いったいどこまで本気で予算を配分してくれるのか。気になっただけですよ、悪意はありません」

「そうですか……」


 向けられる視線が和らぐものの、込められた感情に変化は見られない。むしろ背を向けた辺り、誤魔化すのが限界を迎えたということか。

 天人は足を進め、礼拝堂の一角に置かれた和風の鉢物──盆栽へと手を伸ばす。正確には、付近に備えつけられた鋏へと。


「随分場違いな代物ですねぇ。教会に置く花ならばもっと華やかなものがあるのでは」

「これは僕の趣味ですから。不要な枝を剪定し、より美しい形となるように手を加える……中々いいものですよ、貴方もやってみては」

「冗談、根無し草に植物の管理など面倒この上ない」


 天へ向かい一直線に伸びた幹は、根元から離れるに連れて細く鋭く研ぎ澄まされる。前後左右順序良く伸びた枝も下が広く、上へ向かうに従って狭くなるよう整えられていた。趣味という割には随分と気合の入った完成度であり、彼自身の造詣の深さが伺える。

 小気味のいい音がする度、不要に栄養を吸った小枝が切り落とされ、盆栽全体がより鋏の担い手が望む形へと変化する。


「それで、本当の依頼料はどうしますか」

「ひとまず前払いで二〇〇〇万、後は内容次第だが全てが終わり次第一〇〇〇万を追加ってところでどうです」

「いいでしょう。その程度であれば僕個人でも充分に支払い切れます」

「交渉成立、と」


 言い、アーニャも踵を返して出口へと足を進める。


「どちらへ?」

「どうせ教会も火継の詳細を把握していないのでしょう。でしたら、私は私単独で情報収集を図ってみますよ。この職について九年はいますからねぇ、独自のルートもそれなりに豊富なんですよ」


 教会の扉が開かれ、やがて音を立てて閉じた。

 一人残された天人は振り返ることもなく、ただ盆栽の一本一本に神経を尖らせて剪定を続行。彼の中で理想像が確立しているのか、鋏を操る手捌きに淀みはない。

 小気味よく、淡々と鋏の音が鳴り響く。


「それでは頼みましたよ、アーニャ・ロッソベルトさん……」



 教会を後にしてアーニャが最初に訪れたのは、アインゴルト製薬会社跡地であった。

 世界的な大企業というだけあり、敷地の外から眺めればその膨大な規模が理解できる。

 放火によって溶解しながらも原型を保った骨組みを除き、ほぼ全てが灰塵と化した現場。全焼と言っても差し支えない情景は白煙が燻り、風が吹けば今なおも熱気が肌に纏わりつく。

 足元を白く染め上げる雪も、熱の籠った黒には効果を見出せない。


「おうおうおうおう、これは大惨事ですなぁ」


 軽薄に、酷薄に。

 さながら屍には微塵も関心がないと強調するように、肩を大袈裟に竦めて足を進める。

 封鎖テープの前にまで辿り着けば、警察官が眉を潜めてアーニャを睨みつけた。


「なんだ、君。ここは立ち入り禁止だぞ」

「あぁ、そういうのは結構なので」


 何を言っているんだ、この小僧は。

 警察官は脳裏に過った当然の言葉を発することが出来なかった。

 突如、全身を苛む漠然とした不安。身体が今すぐに遍く職務を放棄して、この場を離れてトイレにでも駆け込めと訴えてくる。足腰が震える、額には冬であることを忘れてしまう程の汗が滴る。

 口が意味もなく唇を重ねる様は、酸素を求めて口を開く金魚を連想させた。

 放心、などという領域ではない男は最早行く手を立ち塞がる門番の役目を果たせず、アーニャが脇をすり抜けても意識を傾ける余裕すらない。


「面倒な手続きを踏む手間も省けるし、罹患者サマサマですなぁ」


 罹患者は体内に存在するウィルスを大気に散布することで周囲のテラ・フォーミングを為し、自身が生存しやすいように調整する能力を有する。

 一度テラ・フォーミングが行われれば、以降は罹患者が最も活動しやすい環境となる。そして非罹患者は強烈かつネガティブな感情が全身を支配し、即時撤退ないし放心状態へと追い込んでしまうのだ。

 天人が宣った通り、こんな潜入や破壊工作に適した能力を標準で備えている罹患者の存在が公になれば、それこそ社会との軋轢は致命的なものとなるだろう。

 無意識に能力を行使していた人間も、性質を把握してしまえば何を仕出かす分かったものでもない。何せあらゆる警備員、ボディガード、一般人も無力化できるのだ。強盗も強姦もやりたい放題のし放題。個人の倫理観で抑制させるには限度がある。


「絶対捕まらないという安心感は、格別ですものねぇ」


 独り言もそこそこに、アーニャは瓦解した会社へ足を踏み入れた。

 一歩踏み込むごとに、煤が革靴を黒く穢す。地面から伝わる熱気はさしずめ、地獄の責め苦に耐え切れずに漏らした死者の嘆きであろうか。

 そして死者の情報は物語る。この地で起きた出来事を。


「さて、それでは始めますか」


 まずは目視による物色。

 警察が事件現場へ踏み込む際に行う万物を無視した闊歩は、現場保存の原則への喧嘩という他ない。

 だが、事は元より罹患者絡み。

 どうせ警察が真面目に捜査へ乗り出した所で、いずれ空白機関の息がかかった政府からの捜査中止の命令で台無しになるのだ。ならばいっそのこと、始めから手がかりなど掴めない方が彼等のためでもあろう。

 製薬会社という都合もあるのか、奇跡的に焼け残った物には聞き慣れない名がラベリングされている。

 しかし文字が掠れていて全文は読めない上、門外漢のアーニャには名前を聞いたところで理解も用途も及ばない。

 精々、残留物の多さから火力の差を予想する程度である。


「尤も、八階建てともなれば落下した分も混ざるでしょうがね」


 それでも、不自然なまでに焼却が著しい地域もある。

 例えば、研究成果に由来するであろうものが殆んど見当たらない。レポートの類が火に耐え切れないのは当然としても、データとして保存しているパソコンや薬品の保管室なども塵一つ残されていない。

 あるいは、専門の捜査機関に言わせれば証拠隠滅にはまだ詰めが甘いのかもしれないが、我流にならざるを得ないアーニャには関係ない話。


「と、なりますと、あまり現場を荒らさず、後で機関の関係者から情報を聞いた方が効率的ですかな」


 当初は手に触れて確認もしてみる予定であったが、自身の手で情報を掴めないのが半ば確定しているのであれば、無闇矢鱈と現場を荒らすこともあるまい。


「それじゃあ、ここは後にしますかな」


 言い残し、アーニャは踵を返した。



「さて、ここからどうしたものでしょうか」


 製薬会社の傍を流れる星噛川の眺め、アーニャは呟く。

 天人は信用ならない上、わざわざ前言を撤回する意味がある程の情報を握っている訳でもなく、他の情報筋も今から調査を開始する段階で犯人の輪郭さえも掴めない。

 端的に述べれば、手詰まり。

 天高く昇った日の光を浴びて爛々と煌めく川とは対照的に、アーニャの思考は底なしに沈殿してゆく。


「次に事件が起きれば、現場に急行するだけなんですが、ねぇ……」


 事件現場へ可及的速やかに赴けば、当然の如く犯人と接敵、そして捕縛も叶う。

 だが、それは犯行を食い止めることが叶う訳ではない。

 罪を新たに一つ重ね、多くの犠牲を出し、その上での解決である。最終手段としてならまだしも、積極的に次の犠牲を求めるのは関心しない。

 日が昇り気温も上昇しているからか、地面に蓄積した雪も解け、湿度の高まりだけが白色の妖精の存在を証明した。

 故にか、川沿いの異物に意識が傾いたのは。


「ん……?」


 護岸や洪水時の水制を目的として設置された消波ブロックに、肌色の何かが挟まっている。

 幸いにも消波ブロックは進行方向の先、道すがら確認すればいいとアーニャは進む。

 距離が近づけば、曖昧な色合い程度であった輪郭にも、意味が宿る。

 半身以上を川につけて折れ枝の如きか細い右腕で三脚の消波ブロックにしがみつき、意識を手放して目を瞑る少女。無造作に伸ばされた白髪は餓狼の体毛を彷彿とさせる長さで川に浸る。

 川の流れが穏やかだから今も掴まれているが、少しでも波打てばたちまち彼女の矮躯は飲み込まれてしまうだろう。

 そう、確信できる状況。


「おいおい、この川が飲み込んだのは女の子じゃなくて星じゃなかったですか?」


 星噛川ほしがみがわの由来を呟き、アーニャは緻密な計算の元で積み重ねられた消波ブロックへ器用に飛び乗る。元より荒れ事には慣れたもの、この程度なら目を瞑っていても造作ない。

 手の届く範囲につき、アーニャは少女の右腕を掴み上げる。

 軽い。

 衣服や腰にまで届く白髪が水を吸い、中学生相応の身長である少女がアーニャの片手で苦もなく持ち上がってしまう。

 その事実に不穏なものを感じ取り、直後に予想の一部が外れていたことを理解する。


「はぁ?」


 少女は、一糸纏わぬ姿で持ち上がったのだ。

 上着や下着は勿論、パンツやブラジャーのような年頃の少女であれば身につけていて当然の代物さえも。陽光を浴びて死人を思わせる白い肌が一層輝き、肌に滴る水滴にも煌めきを与える。

 停止した思考が再開したのは、消波ブロックに衝突した波が彼の肌に飛び散った時。


「いや、外で乙女が裸はマズイでしょ」


 ひとまず消波ブロックから傍の道へと飛び移り、少女を横にする。

 次に自身が着崩していたスーツを脱ぐと、意識のない少女に袖を通した。気分は着せ替え人形であるが、抵抗がなくとも人の体躯では面倒な部分が多い。

 幸いはスーツよりも少女の方が大幅に小柄なお蔭で、上半身だけでなく腰の辺りまでも覆い隠せることであろう。

 強風が吹けばめくれ上がるし、おぶった状態でも覗こうと思えば覗き込める。ここは素肌を太陽に晒した状態で市街を歩き回るよりは遥かにマシと、割り切るしかないか。


「ひとまずは霜月……西病院でしたっけ。そちらに運びますか」

『本社へ赴いたエージェント、ドゥルガー及びコンキスタドールの両名が現在も行方不明という状況証拠だけですが』


 脳裏に甦ったのは教会での一幕。

 ドゥルガーやコンキスタドールが誰を指しているのかは分からないが、製薬会社に程近い星噛川で意識を失っている少女が、まさか放火事件と無関係などとは思えまい。

 病院に預けて意識の回復を待ち、それから事情聴取を行うのが適当であろう。


「ん……」

「おや、起きましたか」


 か細く、ともすれば掻き消えてしまう小さな声が鼓膜を震わす。

 顔を覗き込めば少女が鉛にも似た重さの目蓋を開き、濁りに濁った黒目をアーニャへ注ぐ。


「これはこれはお嬢さん。私はアーニャ・ロッソベルトと申す者ですが、いくつかッ──!」


 アーニャの挨拶は、途中で遮られた。

 突然跳びかかってきた少女が馬乗りになり、首を絞め始めたから。


「死ね、死ねッ。死ね死ね死ね死ねぇッ……!」


 掠れた声で何度も何度も殺意を口にし、その度に腕へ力を込める。

 極度に痩せ細った腕には枝に巻きつく蛇のように血管が浮かび上がり、先端が鋭利かつ鋸のように無数の刃が立った爪がアーニャの首へ突き刺さる。

 首の骨を折ったとしても違和の覚えぬ雰囲気を放ちながら、アーニャは多少の息苦しさを覚え──


「ぁ……!」

「ほい。形成逆転、と」


 左から少女の顔を押さえつけることで強引に上下関係を逆転させた。

 首を掴む手は冗談かと疑う程に非力であったが故、アーニャは大した労苦もなく状況を逆転せしめたのだ。

 歳の問題、だけではない。

 骨に皮を張りつけただけの腕では、禄な膂力も発揮できまい。彼女の肉体は凡そ戦闘に適したものではなく、一般的な社会生活を送れるかも疑問が残る。


「目覚めてすぐに襲ってくるとは、義務教育を受けてないんですかねぇ」

「黙、れッ……離せッ……!」

「嫌です。というか、いきなり首絞めておきながらそれは無法が過ぎるというもの」

「ガ、アァッ……!」


 呻き、更なる力を全身に込めるものの、それでもアーニャにとっては誤差の範囲。

 掌の隙間から彼を睨む眼光は抜き身の刀が如く鋭利、研ぎ澄ました金槌は憎悪であろうか。


「せっかく好みの容姿をしてますし、悪い奴だから逮捕。なんて淡泊なオチにしたくないんですよ。互いを知って仲良くする意味でも」


 まずは話しましょう。

 アーニャとの力の差を理解したのか、それとも逮捕という単語に怖気づいたのか。

 少女は小さな呟きを最後に全身へ巡らせていた緊張の糸を解した。


「分かった。従うから、まずはどこかへ移動しよう」


 呟きを信用し、アーニャは左手を少女の頭から放す。

 代わりに右手が殊更フリーであることを強調して見せびらかす。もしも再び反抗の意志を見せるのであらば、即座に返しの手段を用意できると主張するように。

 アーニャが立ち上がり、少女が続く。


「あ、れ。身体に、力が……」


 腕に力を込めるも産まれ立ての小鹿のように震えるばかりで、身体が持ち上がる様子は微塵もない。

 溜め息を一つ。

 アーニャは少女を軽々と持ち上げると、当初の予定通りに背中におぶった。


「ま、川で流れるかどうかの状態だったんです。早々動けませんよね」

「お、おいッ……!」

「まずは病院に行って治療、って所でしょうか」

「び、病いッ……!」


 病院という言葉を聞いてか、少女の声に引きつったものが混ざる。

 少女が纏っている服はアーニャが着せたスーツ一枚のみ。だからか、彼女の震えも背中越しに伝わってくる。


「……移動中に死なないと約束できるなら、病院ではなくこっちで借りたホテルにすると──」

「死なないッ、死なないからそっちにしようッ。び、病院は嫌ッ!」


 溜め息をもう一つ。逃げ出すだけの幸運は、後どれだけ残っていることか。

 まさかスーツを一枚身に着けただけの少女を担いでバスに乗車する訳にもいかず、アーニャはひたすらに徒歩を続ける。

 進みに進み、都度一時間。

 都市部の中心から離れ、自動車の往来も減少した道路を横に巨城の頂点を見上げる。

 掲げられた看板に刻まれた名はホテル赤帯あかおび。アーニャが霜月に滞在する間の拠点と決めた施設である。

 自動ドアを潜れば、歓迎するのは天井高くから何重にも反射した燈の光。シャンデリアと幾何学的に編まれたガラス繊維入りの糸が幾重にも光を屈折させ、ともすれば質素とも形容できる空間に彩りを与える。


「お疲れ様です。カードキーはこちらになります」

「へいへい。ありがとうございます、と」


 受付嬢に話しかけ、フロントに預けていた部屋のカードキーを回収。

 そのまま、アーニャは少女を背負った状態で丁度開いたばかりのエレベーターへ乗り込む。指が押し込んだボタンは、一一階。


「そいや、君の名前はなんて言うんです?」

「……」

「せっかくホテルに泊めて上げるんですから、その位は教えてくれてもよくないですか?」


 まだ信用されていないのか、少女はそっぽと無言を以って質問への回答とする。

 つれませんねぇと、わざとらしく呟いてみても彼女が態度を変化させることはない。

 やがて二人を乗せて上昇していたエレベーターが停止し、閉じられた扉が開く。

 廊下に広がる光景の第一印象は、ラウンジと同様の質素であった。否、シャンデリアの輝きが存在しない分、こちらの方がより質素か。

 頭上にあるのは豪奢な装飾品ではなく、落ち着いた雰囲気を提供するダウンライト。それも足元が見えづらいという苦情に対応したのか、廊下に闇が介在しないよう等間隔に埋め込まれている。

 構わず、アーニャが軽く足を動かせば、目的地たる一一〇一号室。


「ささ、遠慮せずに上がって下さい」

「ここはお前の家じゃない……」


 ドアノブ付近の機器にカードキーを読み込ませれば、電子ロックが解除される。

 踏み込んだ先には、最も稼ぎやすい都市部からやや離れた立地にしては豪勢な装飾。一K相当の室内にあるベッドも、テーブルも、冷蔵庫も皆一様に高品質かつ手入れに抜かりがない。

 それこそ、間を埋めるように設置された塗装剥げが目立つキャリーバッグが異物と思える程に。

 アーニャは背負った少女をベッドの上に下ろし、欠伸をしながらキャリーバッグの鍵を開封。


「ベッドはシングルですけど、私は適当なとこで寝ますのでそちらがご自由に。服はー……あぁ、当然ですけどサイズが合いませんね。後でなんとかしますか」

「別に……前の服よりもずっと暖かいし、このままでも……」

「それはいけない。私とお嬢さんは当分の間、同じ屋根の下で暮らすのですから、万が一にも間違いが生まれる余地は無くさなくては」

「なにそれ、馬鹿みたい……」


 少女は呟くが、アーニャは気にすることもなく物色を続ける。

 ケースの内より姿をチラつかせるは、濡れ烏色のスーツや内に着用するシャツ、あるいは簡単な保存食。そして黒光りする殺意、拳銃。

 薄く目を向ければ、彼女もそれを視界に納めてしまう。


「銃? 何しに来たの?」

「仕事ですよ。アインゴルトの襲撃犯をとっ捕まえる仕事のね」

「……!」


 二人の距離は決して離れてはいない。故に少女の歯軋りがアーニャの鼓膜をくすぐる。

 同時に、彼へ注がれる視線に鋭いものが混ざった。

 警戒心を強めてしまったか。内心でアーニャは反省するが、誤魔化すにしても限度がある部分。割り切る他ない。


「別に初手から射殺、なんて無作法を働くつもりはないですよ。穏便に済ませられるならそれに越したことはない、当たり前の話でしょう」

「信じられない」


 返ってきたのは、端的かつ強い拒絶の念。


「泊まる場所まで用意してくれたのはいい。けど火継様を狙う者は、私が許さない……!」


 苛烈で、鮮烈で、アーニャを射殺さんばかりの視線は秒を負うごとに鋭利さが研ぎ澄まされる。


「君とその火継様がどんな関係かは分からないですが、そいつは会社一つを焼いて結構沢山の人を灰にしてるかもなんですよね」

「そんなの自業自得だッ! アイツ等は死んで当然ッ。誰も奴等を裁かないから、火継様が正しい裁きを下しただけだッ!」

「正しい、ねぇ」


 少女の言葉に一層の熱が帯びる中、アーニャは肩を竦める。

 ここで議論した所で少女と火継がどの程度深い関係にあるのかも不明な上、そもそも火継が襲撃犯かどうかも確定していない。二人の間で前提条件が食い違っている可能性も否定できない。

 ならば今やるべきことは無為な議論などではなく、もっと建設的なことである。


「何がおかしいッ?!」

「いえいえ、何も可笑しくはないですよ。

 ただ私は何でもいいから襲撃事件の情報が欲しい。君は火継様とやらに会いたい。どうも利害関係が結ばれている。そうは思いませんか?」

「お前は火継様を捕まえる気だろッ!」

「捕まえるかどうかは証言次第。それに、アレなら火継と共同で私の邪魔をすればいい」


 尤も、やられるつもりもないですけどね。

 言外に含めてみても、少女が気づくはずもなく。

 沈黙は、少女が思案にふけっている証。

 ベッドに内蔵されているデジタル時計の端数が一巡し、答えが発せられた。


「……分かった。お前を手伝う」

「それはよかった」


 アーニャが浮かべたわざとらしい笑みは、少女から元々皆無に等しい信頼の下限を割り、なおも下落させる。

 気づけば彼は予備のスーツを身に纏っていた。少女に着せたのと寸分違わぬデザインは、彼の拘り故か。


「それじゃあ、スリーサイズを教えて下さい」

「……は?」


 少女の思考が止まる。

 男の、あまりにも配慮に欠けた唐突な質問によって。


「言葉が分からないですか? じゃあこう言いましょうか。バストウエストヒップの数字、あるいは少々下品ですけどおっ──」

「死ね!!!」


 乾いた破裂音が、室内に轟いた。



「ただいまー、っと」

「……」


 ドアノブが下がり、アーニャが室内へと帰還する。右頬を青紫に腫れ上がらせて。

 一方で、室内に留まっていた少女は扉とは反対方向を向いたまま、備えつけの雑誌へと目を通す。

 挨拶の一つもなし、ですか。

 僅かに虚しさを覚え、手に持つ紙袋を床へと下ろす。


「とりあえず、聞いたスリーサイズを参考に何着か買いましたので気にいったヤツにでも着替えて下さい。

 風呂場なら、今は空いてますよ」

「うっさい」


 辛辣極まりない彼女の言葉に、今日何度目かも分からぬ溜め息を一つ。

 多少サイズが合わないスーツ一つ纏った少女をエスコートなど、それこそAVの撮影か何かかと疑念を抱かれる。警察に目をつけられれば最後、最早空白機関の依頼など手につかない。だからこそ彼女には部屋に待機してもらった上で単身、女性ものの洋服店を巡ったのだ。

 意図は既に少女にも説明済み、だというのに。


「じゃあアレですか、サイズが欠片も合ってないブッカブカの服でも買えば満足でしたか?」

「そんなことはない。でも聞き方ってものがあるでしょ」


 少女は置いてあった紙袋を持ってアーニャの横を通り抜けると、そのまま風呂場へと入った。信用など当然置けぬ、内側から鍵を捻って念を押す。

 風呂場とはいったものの、彼が借りてから未だに未使用なのか、前任の使用者が残した水気はすっかり抜け落ちている。

 紙袋の中からまずは目に入ったものを手に取り、自身の体躯が隠れるように鏡の前で翳す。


「ボロボロのポロシャツ……」


 少女には縁遠い話であるが、これはパンクファッションと称される類の衣服である。鋲打ちの黒革や片側だけを極端なまでに切り取ったジーンズ、ペンキをぶちまけたような派手かつ大雑把な塗装もまたパンクが持つ反逆のイメージと合致する。

 手に持った分を畳むことなく紙袋へ突っ込み、代替となる服を取り出す。


「次は、女中?」


 黒を基調としたレースやフリルがふんだんに取り込まれたドレス。スカート部が足首程もあり、確かに女の子であれば少なからず憧れるだろうデザインである。だが舞踏会に出るならともかく常用するには難が多すぎた。

 惹かれるものはあるものの、少女は再び紙袋の中にドレスを戻す。


「もしかしてお前、趣味全開で選んでないだろうな!」

「……」


 扉の向こうに待つ男へ声を張り上げるが、当の本人は閉口して雑誌を開いた。

 着る相手の趣味嗜好を考慮した幅広さにしては、あまりにも選択肢が偏っている。というか、ボロボロの服か女中の服では格差社会もいい所ではないか。

 不満を露わにした表情は、一時的とはいえアーニャと手を組むことにした数時間前の自分へ文句を言いたくなる程。

 どうせ次もおかしな服だろ。

 諦観の混じった眼差しで、少女は次の袋へ手を突っ込む。


「ん?」



 もう夜ですねぇ。

 アーニャが窓の外を眺めれば、そこには人工の光が乱舞していた。

 闇の領分たる夜を克服するために発達した街灯や看板を強調するための光、生活の証たる光に労働時間と利益が直結していると錯覚した者共が灯すビルの光。

 指し示す意味は多々あれど、ホテルの眼下から覗く光景は一様に綺麗である。

 道路を走る自動車も街灯に負けじと存在を主張するが、幸いにも周囲に真紅の光をばら撒くサイレンの音色は聞こえない。


「……今日はもうゆっくりしますかな」


 彼個人であれば未だ体力に余裕はある。が、今から捜索を行えば間違いなく〇時を回る。それも確実に火継へと繋がる情報が掴めるとは限らない、不確定な状況。

 つい数時間前まで消波ブロックにしがみついていた少女を連れていくには、不安が多すぎる。

 ならばいっそのこと、今日は少女の療養に徹して翌日から本格的に調査や聞き込み、質問を増やしていけばいい。

 風呂場の扉が開いたのは、丁度今後の方針が纏まって伝えに向かったときであった。


「どう、似合う?」

「ぉ……おぉ」


 少女が着用しているのは、白のリブ生地で編まれたオフショルダーのセーター。そして幅広かつ足元まで隠れた黒のロングスカート。

 シンプルな装いは他の紙袋に纏めてあった服装群とは異なり、強烈な癖やインパクトの伺えない代物。他が酷いせいで誘導されたような気がしないでもないが、ゴスロリを普段から着用する手間と天秤にかければこちらに傾く。

 少女の目線がにわかに研ぎ澄まされる。返答の催促か。


「あぁ、似合ってますよ。まるでお人形さんだ。いやぁ、素材がいいと何着ても似合いますね」

「そう、まぁ……お世辞でも嬉しい」

「世事でしたら国宝とかまでいきますよ」

「随分達者な口なのね。吐き気がする」


 捨て台詞を残し、少女は再び風呂場へと閉じ籠った。

 アーニャが理由を問えば、寝間着に着替えるとのこと。

 確かにリブ生地のセーターやスカートは就寝するには不適合か。納得しつつもアーニャは寝間着を購入していたか疑問を浮かべた。

 来客を告げるチャイムが鳴ったのは、丁度スーツを脱ごうとしたタイミングであった。


「……」


 右手を空にしたまま、拳銃を握るイメージを形成。

 弾倉を上部後方に移動させたことで握り易さを確保したグリップ。多弾数装弾弾倉を採用し、円筒状のケースに計五〇発もの弾薬を螺旋状に配置した異形の機構。銃身が後方に偏っている点は、既にアーニャの中では違和感も抱かない。

 一秒と経たず、脳裏に設計図を描き手元に再現。黒光りする殺意の具現、M九五〇A、通称キャリコをしかと掴み、アーニャはドアノブへと手をかけた。

 ホテル赤帯に宿泊するとは誰にも伝えていない。

 即ち、ここでチャイムを鳴らせるのはホテル側の人間か彼が宿泊すると常ならざる手段で周知した人間の二択。


「……どちら様でしょうか」


 前者の人間であればそれは良し。

 だがもしも後者であれば、扉越しに銃撃を開始することも辞さない。


「空白機関のコンキスタドール、と言えば伝わるか。アインゴルト襲撃事件の被疑者を匿っていると通報を受けた。

 本当に俺達と協力するつもりなら、被疑者を連れて扉を開きやがれ」


 扉越しに告げられた言葉は、高圧的ながらアーニャが反抗する理由のない提案であった。



 霜月大橋下部。地上の光に遮られながらも僅かに届く天上の輝きが、大橋の偉容に遮られる。

 橋の上を走る自動車もなければ、橋下での会話もスムーズに行える。


「で、何のようでしょうか。コンキスタドールさん?」

「お前は後回しでいい。まずはそっちの女だ」

「チッ……」


 会話の場に立つのは三人。

 アーニャ・ロッソベルトと付き添う少女。そして空白機関の関係者を名乗るコンキスタドールである。

 コンキスタドールの姿は、端的に述べれば重傷。

 生地の半分以上が擦り切れ、最早本来の役割を遂行するには役者不足のローブ。黄金の籠手には亀裂が走り、金髪が映える整った顔には幾重にも刻まれた裂傷の数々。

 そして左肩から先が喪失していた。


「あの時はよくもやってくれたな。お蔭で社長のロベルトは死んで、社員にも多数の死傷者が出ている。お前が俺達の邪魔をしたのが原因だぞ、分かってんのか?」

「それがどうしたッ。あんな会社の人間、死んで清々するねッ。むしろ私が生き残りを殺して回りたいくらいだッ!」


 ツバが飛ぶのも厭わず、少女は血走った眼で睨みつけて烈火の怒りを吐き出す。


「そこまで言うなら遠慮はいらねぇな。おい雇われ、一緒にそいつを確保するぞ」


 男がボロ切れ同然のローブを翻し、内より亀裂の走った籠手を露わとする。損傷分強度に難が生まれているだろうが、人を殴打する程度であれば誤差の範疇か。

 一方、アーニャも右腕を伸ばして愚かな征服者の要求に否と表明。


「確保? あなたが絡まなければ翌日にでも、その子に事情聴取する予定だったのですがねぇ?」


 少女が浮かべる悪鬼の如き表情を見れば、計画の破綻は疑う余地もなし。

 そも少女の確保だけが目的であれば、ホテルからアーニャだけを呼び出して彼女の耳に入らない形で今後のことを語らえばよかったのだ。

 わざわざ少女を煽る物言いをする時点で、別の思惑が透けて見えるというもの。

 それに──


「傷ついた美少女とボロボロの野郎。どっちに与するかなど質問の体すらなさない」

「そうかよッ。それが遺言かぁッ!」


 コンキスタドールが駆け出し、同時に籠手が弾ける。

 アーニャも即座にキャリコを形成すると、引き金を引く。

 強烈な発砲音と襲い来る地盤の掘削にも等しい反動に右腕を揺らしながらも、照準は変わることなく籠手の男を正確に捉え続ける。

 降りかかる弾丸は寸分違わず征服者へ迫り、しかして一発たりとも着弾しない。


「コンキスタドール……征服者……なるほど、簒奪した金を操る罹患者ですか」

「天人はガンスミスと言ってたが、まさかここまでストレートな意味とはな」


 男の眼前にアメーバを思わせる軟体で蠢く黄金が割り込み、弾丸を等しく取り込み体内に押し留めたのだ。そしてアメーバは軟体故に男の疾走に一切の影響を及ぼさず──


「らぁッ!」

「っと」

「お前ッ……」


 黄金は素早く男の腕に渦巻き、即席の刃として振るわれた。

 半歩反応が遅れていれば、スーツのみならず彼自身の肉体にも擦過傷が刻まれたであろうことは想像に難くない。

 アーニャは距離を取りつつ更なる発砲。

 しかし正面からではどれだけやっても同じこと、黄金が再度形を変えて弾丸を遮る。


「無駄無駄ぁッ!」

「へっ、でしたらお次はッ」


 アーニャが左手を翳せば、そこに握られているのは拳銃としては規格外のライフル弾対応の単発拳銃、トンプソン・コンテンダー。

 直後、物々しい発射炎がアーニャの姿を覆い四五口径の弾丸が疾走。

 一発撃てればそれで良し程度の改造しか施されていなかったコンテンダーは反動に耐え切れず、拳銃用の銃身が内圧で半ばから四散する。

 しかし相手は視界が潰れ、黄金も拳銃を前提とした面積重視の薄い皮膜。


「がぁッ?!」


 障子紙を破くが如くに黄金を穿ち、空いた風穴から破滅が招来。咄嗟に反応しようにも、銃口すら伺えなかった状態からでは射線を読むのも限度がある。

 その中で身を翻すことで左脇を穿つ程度に収めることができたのは、なるほど空白機関のエージェントに相応しき技量か。


「ですが私の拳銃捌きには及びませんねぇ」


 銃身が壊れたコンテンダーを手放し、再び左手に形成されるコンテンダー。

 形状も中折れ機構も反動軽減用の複合素材を採用したフォアエンドも、装填された弾丸でさえも一ミリの誤差もない同一仕様。企業要らずの完全なる複製こそがガンスミスたる所以。

 足の一本でも捥がんと放たれる次弾は強度を調整した黄金に防がれるが、それでも衝撃でコンキスタドールの顔に数滴かの黄金を飛散させた。


「へぇ、器用器用」

「ふざけっ……!」


 機能を失ったコンテンダーを捨て、手元には更なるコンテンダーを装填。

 拳銃そのものを使い捨てての連続使用など、銃の愛好家からすれば怒髪天を突くやり口であろうが、そこはかつて火縄銃を採用した織田信長の戦術を単騎で行えるようにアレンジしたものと戦術愛好家に評価されるよう祈ろうか。

 加えて、今回は右手のキャリコも構える。

 コンテンダーの火力に耐え得るような厚みを持たせれば、キャリコによる制圧射撃で黄金でも覆えぬ場所を残らず蜂の巣。


「罹患者なら五秒と経たずに再生するでしょうが、それだけの時間があればあなたの拘束は容易。これが示す意味は、当然理解してますよねぇ?」


 嘲笑を露わにし、二丁拳銃の銃口をコンキスタドールへ向ける。

 最終勧告。降伏の意を見せなければ男は全身を蜂へ献上することになる。無論、アーニャの意志は彼にも伝わり──


「裏切者が……!」

「おいおいおいおい、裏切るなんてとんでもない。当然、襲撃事件の犯人も捕まえますよ。

 後ろの子の探し人でもありますしぃ?」

「だとしても、俺は貴様に屈するつもりはない……あんな下郎に与する奴にはな……!」

「……通じませんなぁ」


 断じ、両の手の拳銃達が火を吹く。

 雨滴の如く殺到する銃弾と、雷鳴を連想させる一射。面の制圧と点の突破、単純ながら隙のない組み合わせは男の抱える黄金の総量では防御し切れないことを意味する。

 せめて左腕が無事で籠手がもう一つ分あれば、コンテンダーとキャリコの両方に対応した防壁を構築できるのだが。

 ないもの強請りをしても現状は変わらない。幸いにもそれぞれの射速には無視できない速度差がある。ならばコンテンダーの一撃を防ぎ、その後にキャリコの面制圧に対応できるように黄金を操作すればいい。

 たとえ刹那の間しか時間がなかろうとも、実現不可能であると内心で認めていても、それを肯定する訳にはいかない。いけない。いく訳がない。

 脳裏に過ったのは、右足を失い車椅子で乗った男性──

 銃弾の雨が征服者へ降り注ぎ、逞しく生えた雑草を抉り飛ばす。


「なんですか、次は?」


 不快さを剥き出しにして、アーニャはコンキスタドールの周囲を浮遊する四本腕を睨む。

 コンテンダーから放たれた銃弾は中途半端な厚みの黄金を穿ち、男の胸元へと迫っていた。ライフル弾の口径とほぼ同一の穴が、何よりも雄弁な証人である。

 だが男の胸元から鮮血の華を咲かせるはずだった銃弾は、突如飛来した青白い死人の腕が殴りつけることで軌道を逸れ、すぐ脇の地面を大きく穿つに留まったのだ。

 類似の現象は各所に散らばったキャリコの銃弾にも引き起こされ、コンキスタドールに迫った弾雨は一発たりともその本懐を成し遂げることがなかった。


「この腕……来るのが遅いぞ、ドゥルガー」

「ハッ。片腕で無理するもんじゃないわよ、コンキスタドール」


 声の方角へと視線が集まる。

 霜月大橋の方角、真紅に染まった二つのアーチで目を引く構造の頂点に、誰かのシルエットがある。

 風にたなびく重厚な黒のロングコートに紫のセーター、黒のスカートは男の目には毒な短さで、コートの厚さに負けぬブーツ。

 現役軍人が着用しても違和感のない風貌に身を纏う人物は、短く切り揃えた黒髪や幼い顔立ちに似つかわしくない紫の鋭利な眼光。そして、少女特有の丸みが随所に伺えた。


「不愉快極まりない。礼儀を知らないのですかねぇ、小娘」


 弾丸の尽きたキャリコを捨て、右手に別のキャリコを形成。元より再装填に難のある仕様は同系列の銃に共通する問題点の一つ。素早く行う訓練を行うよりも作り直す方が遥かに手軽。

 銃口の先は、アーチの頂点。

 周囲に四本足を浮かべた、顔に惨たらしい火傷痕を刻みつけた少女──骸銘館刻未へと。

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赤帯罹患 幼縁会 @yo_en_kai

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