赤帯罹患

幼縁会

第0話アインゴルト製薬会社襲撃事件

 どれだけ言葉を発しても行動に移さぬ限り、賢者と衆愚に差はなく。彼等よりも思想犯やテロリストの方が余程世界に貢献している。

 ──無原満和むはらみちがず、『新時代に向けた警句』より。



 夜の帳が降り、空から光が絶え果てた闇。

 鈍色の世界に彩りを加えるのは、繁栄を極めた現代社会。

 赤、青、緑に黄色。単体であれば灯火にも思えぬ光の軍勢は群れなし連なり、無明の大地を染め上げる。そこに人類創生以前からの恐怖は影もなく、発展の妨げなど夢想の果て。

 故に時計の短針が一〇を指し示していても往来は相応に存在し、無事眠らぬ街が完成する。

 窓越しに明かりを加えるビルが一つ、都市の中心部からやや離れた川の付近に居を構える。

 漆黒の大理石に刻まれた会社の名は、アインゴルト製薬会社。


「今夜は夜分遅くに申し訳ない」


 ビルの最上階、八階の最奥に位置する部屋にて、自前の車椅子に腰を下ろした男が一人。

 彼の視線の先には、部屋の明かりで艶々しく光る革製のソファーに腰を下ろす男女が一組。間には蒸気を発するコーヒー入りのコップとそれが置かれたガラス製のテーブル。

 二人は異質な恰好をしていた。


「気にすることはありませんよ。そちらは社長業で忙しい身、空白機関の下っ端との話よりも大切な要件がゴマンとあります」


 一人は白のローブで顔を隠した男。声色はとてもではないが少年からかけ離れ、ローブの奥から覗ける腕には、黄金の籠手が装着されている。

 嫌味がかった声色は、わざわざ夜一〇時などという非常識な時間帯に呼び出されたが故か。


「私達としても、アインゴルトが一八年前から出資して下さっているお蔭で今日までの活動が行えたといっても過言ではありません。

 多少の無理なら工面しますとも」


 もう一人は重厚な黒のロングコートに紫のセーターを着用した少女。右目は隠れるようにしつつ短く切り揃えられた黒髪の奥からは、幼い顔立ちに似合わぬ紫の眼光がさながら抜き身の刃が如く覗き見る。

 口調こそ丁寧であるが、テーブル越しに向き合う男への視線は隣に座る男にも負けない。


「それはそれは僥倖。この件につきましては、一日でも早い協力体勢の確立したいと思っておりましてね」

「それで、ロベルトさん。今回はどのようなご用命で」


 ロベルトと呼ばれた男は少女を一瞥し、表情を引き締める。

 それを切欠に男は首を鳴らし、少女は一層視線を細めた。

 意識を切り替えた二人を合図に、ロベルトは口を開く。彼等をこのような時分に呼び出した、その理由を。


「近頃、霜月も物騒になりましてね。やれ放火だやれ通り魔だと……そしてどうにも放火の対象は我がアインゴルトの社員に集中してまして。

 ですので、空白機関の方々には護衛を願いたい」

「放火……」


 呟いたのは少女。

 右手で手首を硬く掴むのは、何らかの感情の発露であろうか。それとも右手以外で感情を表層化していないのを流石というべきか。

 しかして相手は目と鼻の先。何かを察したのか、ロベルトが口を開く。


「もしや、火にトラウマでも?」

「……昔のことよ、気にしないで」

「ただの火遊びであれば構わないのですが、こと今回に関しましては相手のやり口に──」

「八月事件よッ」


 苛々しげに。忌々しげに。

 コップの中身が零れるのにも構わず乱暴にテーブルを蹴れば、ロベルトは口を閉ざした。

 地雷を踏んだな。

 少女の横で腰を下ろす男は、静観しつつ評する。

 彼女──骸銘館刻未がいめいかんきざみに限らず、霜月に住む人間であれば八月事件で心に負った傷の一つや二つ、別に珍しい話でもない。故に過去の詮索をしないのは暗黙の了解にも等しい。

 そんなこと、純粋な余所者ならともかく、アインゴルトの社長であれば理解できるだろうに。


「ついでに見とく。これ?」


 烈火の如く燃え上がる眼差し、そして髪に隠れた右目にすくみ、捲られる前にロベルトは小さく頭を下げた。


「申し訳ない……他意はないのです。ただ……」

「相手は火に由来する罹患者の可能性が高い、といったところでしょうか。確かにそれなら不安を抱くのも仕方ない」

「何が言いたいの?」


 横から突き刺さる鋭利な視線を意にも介さず、男は言葉を続ける。


「別に。お前の仕事っぷりを見ればすぐに掌返しそうだなぁ、と思っただけだよ」


 鋭利な視線は変わらないものの、多少和らいだのは気のせいだろうか。

 それに、ロベルトが過剰な不安を覚えているとしても仕方ない話である。

 視線を彼の足──膝から先が存在しない右を眺める。

 車椅子であることを差し引いても逃走に適さない状態。眼前に放火魔が現れてしまえば、彼は成す術もなく黒炭と化すことであろう。


「では、我々空白機関が一員たるドゥルガー及び私コンキスタドールが、アインゴルト製薬会社の護衛の任につきたいと思います」

「頼みましたよ。お二人さん」


 籠手の男、コンキスタドールがロベルトへ手を伸ばす。

 このまま握手を交わせば交渉成立。機関がアインゴルトに迫る放火魔を迎撃することとなる。

 その友好的な瞬間を待ち切れず、けたたましいサイレンが鳴り響く。


「なッ……!」

「……噂をすればなんとやら、ってか?」

「なんて都合のいいタイミング」


 三者三様の反応を示し、扉へと足を運ぶ。

 ドアノブを掴んだのはコンキスタドール。

 途端に籠手へ暴力的な熱が伝達するものの、扉を開く所作は涼しい顔。

 扉一枚隔てた先に広がる光景、それは地獄であった。

 右も、左も。上も下も。

 視界に映る尽くが業火に包まれ、本来の用途からかけ離れた薪となる。

 廊下を彩っていた大輪の花々は、加熱によって破砕した花瓶と共に炎を一層燃え上がらせ。歴史に名を残す画家の作品群は、価値の一切を理解しない焼畑により塵屑以下の処遇を受ける。


「あ、あぇ……」

「……仕事が早いわね、全く」


 胸の奥より涌き出る嫌悪感を隠すことなく、骸銘館は吐き捨てた。

 視線の先には、場違いなコートを着込んだ人物が一人。

 目深に被ったハンチング帽とサングラスに遮られて視線こそ不明。しかして日に三度も社員が通れば繁盛といえる社長室直近に土足で踏み込むなど、尋常ならざる用事と断じるに容易い。

 即ち下手人。アインゴルトに火を放った張本人に他ならない。


「この世の汚泥、シミどもが……純白なる世界から消え去るがいい」

「ハッ……放火魔が嗤わせるじゃない。純白な世界とやらは、放火魔が毎日パレードでもしてるのかしら」

「ロベルトさん、ひとまずお下がり下さい。ここは我々が対処します」

「あ、ありがとう……」


 サングラス越しに伝わる烈火の殺意からロベルトを庇うように立ち塞がる骸銘館、そしてコンキスタドール。

 骸銘館の周囲の時空が歪曲、歪みの起点より現れ出でるは青白い四肢。朽ち果て、内から罅割れた骨を覗かせながらも、彼女を守護する四本腕。

 連なる四本の足も同様に、重力の制約から解き放たれて爪先を下手人へ突きつける。

 コンキスタドールの籠手も続いて融け出し、足元に金色の泥を落とす。


「その成金染みた泥で世界を穢すな」

「おいおい、ここはお前の庭じゃねぇんだぜ」


 籠手が融ける。

 原型を失い、個としての存在を消失させ、秘匿していたはずの腕を白日の下に晒す。

 金の融点は約一〇〇〇度。厳密な数値を算出すれば多少の修正が必要だが、ともかくとして尋常ならざる高温を以って初めて、金はあるべき形を喪失する。

 だが、人間の生息には極めて不適な高温で融けた物体が、人体に一切の害がないなどというのは虫が良過ぎる。

 本来なら男の腕も融けた金で焼かれ、人体も発火することこそ道理。

 なればそれが発生しない理由とは。


「とっとと捕まりな!」


 答えは単純。

 男が自主的に籠手を液状化させたから。

 蠢き波打ち、今正に放火魔を抉らんと殺到する金の泥こそその証左。


「万物を浄化した後でならなッ!」


 異形の技を使う手合いが立ち向かう敵もまた、異形。

 放火魔が右腕を振るえば、連なるは見るだけで目が乾燥するほどの赤。

 金と赤が激突。互いに互いを譲らなければ当然の帰結に、勝利するは燃え盛る赤。

 故に殺到する紅蓮の猛火を、左右に身を転がすことで回避。素早く状態を起こして、骸銘館はコンキスタドールを睨みつける。


「何よッ。あれだけ大見得切ってやられてるじゃないッ!」

「言ってる場合かッ?」

「……!」


 視線を放火魔へ向けてみれば、両手を紅蓮に燃やして自身との距離を詰めているではないか。

 その間合い、一メートル弱。

 もう一歩踏み込めば彼女の肢体を掴み、芯まで炭化させうる熱を伝播させられる距離である。


「貴様もだ」

「ハッ。甘く見られたものねッ」


 一歩を踏み込み、両腕が伸ばされる刹那。


「……!?」


 両腕に重くのしかかる加重。

 梃子でも動かぬ剛力と万力に締め上げられるにも等しい激痛を前に、放火魔も思わず腕へと視線を落とした。

 視線の先で腕の自由を奪っていたのは、主無き四本腕。

 青白い肌の奥から骨を外界に晒していた骸が、燃え滾る両手の進撃を食い止めたのだ。


「いつの間、にッ……!」


 一瞬の隙を逃さず、腹部に叩き込まれる四本足。

 肺から空気が押し出され、地を離れた身体は元いた地点へと蹴り戻される。


「よくやった、ドゥルガー!」

「相手が分かりやすい動力捻出で助かったわ」

「ならこっから続けて……!」


 足元の泥を変質させ、コンキスタドールが追撃を仕掛ける寸前。


「なんだ、これ……?」

「歌? どうして……」


 誰かの歌声が鼓膜を微かにくすぐった。

 周囲を焼く音に掻き消される程度の音は、徐々に意味を持った旋律へ。

 燃え盛り、今もなお炎上を続ける会社内で歌を紡ぐ余裕などあるはずもないのに。


──呪いの三つ 世界が軋み

 呪いの四つ これから壊れる──


 火災がノイズと不協和音の役割を果たす中、紡がれる旋律は呪詛。

 振り撒く災厄は、地響きを伴って社全体に波及する。


「こんなタイミングで地震……!」


 姿勢が崩れ、骸銘館は廊下に手をつく。見渡せばコンキスタドールも同様に膝をついていた。

 放火魔だけが、まるでこの展開を予想していたかのように立ち続けている。

 足を進めることこそ叶わぬものの、奴には掌を翳すだけで離れた相手に害を成す手段がある。


「この世界のため、塵一つ残すな!」

「チィッ」

「させるかッ」


 放火魔の掌が発火。

 背筋に冷たいものが走り、コンキスタドールが金泥を前面に展開。骸銘館も魔手の軌道を逸らさんと四本腕の内二本を射出、推進剤もなく左右から放火魔の腕を目指す。

 しかして、僅かに遅い。

 世界を焼却せんと、廊下を舐めながら業火が迫る。軌跡の先には、黄金の泥で前面を守護しているコンキスタドール。

 暴力的な熱量が遮るものもなく金に直撃。


「クッソ、冗談キツイぞッ。タイミングやらなんやらよぉッ!」


 金泥の内側に構えるコンキスタドールだからこそ理解する。

 徐々に金が融け、その上横に回避しようにも拡散した炎のせいで逃げ場が失われているという事実を。


──誰か 彼か 望みは断たれ

 誰か 彼か 奇跡を信じ──


 鼓膜を揺さぶるはこの世の不幸を嘆き、怨嗟の呪いをばら撒かんと紡がれる旋律。

 ただでさえ生存の望みすら怪しいというのに、嫌がらせの類なのかと本気の殺意を抱いた刹那。

 金泥に、亀裂が走る。


「は?」


 有形の物質ならばともかく、無形にして万別に姿を変化させる炎が相手では、たとえ一ミクロンの罅であろうとも致命には充分。

 堰を切ったように殺到する炎がコンキスタドールを飲み込み、同時に施設としても限界を迎えていた廊下が崩落を開始。

 天井が鉄筋を晒して崩れ去り、壁面も連動して通行の妨害を果たす。対象は人々が立つ足場も例外ではなく、蜘蛛の巣の如く広がった亀裂が炸裂し、巻き込まれたコンキスタドールが黄金と自身を飲み込む業炎と共に落下した。


「イアソンッ!!!」


 思わず真の名で叫ぶも、骸銘館の言葉に応える者はなし。

 悲しむな、嘆くな。今はそんなことをしている余裕はない。

 彼が落ちていった場所から、素早く視線を移す。

 憎悪で研ぎ澄まされた視線の先には、季節外れのトレンチコートを羽織った敵。何の感情もなく、ただの現象に過ぎないと穴を見つめる人物。


「お前ぇッ!」


 咆哮。そして四本足。

 激情に従い、骸銘館の叫びに呼応して、四本の足はピンポン玉を連想させる軌道で廊下を跳ね回りながら高速で飛来。

 耐火加工の施された壁を蹴り砕き、戦車が轍を刻んでも耐え抜く廊下を跳ね回り、尋常ならざる高速移動を以って縦横無尽に駆け回る。

 一本ならばともかく、四本同時となれば最早人の動体視力を超えて有り余る。事実として、放火魔も視認を放棄したのか首を微動だにしない。

 代わりに呟くのはたったの一言。


「来い」


 同時に、一際大規模な爆発が巻き起こり、黒煙が放火魔と骸銘館を遮る。


──歪な 歪な 歪な 歪な

 世界を壊して 全てを焼いて

 淀んだ 淀んだ 淀んだ 淀んだ

 世界を洗って 浄化して──


 壊れた音程が、破綻した音階が、狂ったリズムが。

 壁を砕き、黒煙を薙ぎ、骸銘館の身体にまで骨が弾ける程の衝撃を与える。

 距離を置こうにも酩酊感を覚える振動と会社の揺れが足止めし、地を這うので精一杯。


火継ひつぎ様。後は私に任せて」


 黒煙が晴れて視界が明瞭となるに連れ、放火魔の前に立ち塞がる少女の姿が露わとなる。

 簡易的な病院服で腰まで覆い、剥き出しとなっている腕や脛は骨に皮を張りつけたと揶揄できる程に脆弱。手入れされることなく無造作に伸ばされた白髪は腰にまで達し、内より覗く眼光は憎悪に濁った黒。

 骸銘館にまで届く声色は、聞き覚えがあった。


「この声……お前があの歌声かッ!」

「えぇ、そうよ……!」


 獣にも似た唸り声を上げ、逆世と呼ばれた少女は歯を露出させて威嚇。


「頼んだぞ」


 穏やかな声色で告げ、放火魔は足を進める。

 気づけば、揺れが収まっていた。


「ふざけ……!」

「ア゛ァァァッ!」

「ッ……!」


 咄嗟に腰を上げようするも、その前に動作を予測した少女が跳びかかり両腕を押さえつけられる。

 しかし、腕にかかる力そのものは脆弱。空白機関のエージェントとして訓練を繰り返してきた彼女にとっては、無にも等しい。


「邪魔ッ!」

「ァ……!」


 そうして少女を振り払い、起き上がった先には──


「──」


 煮え滾る溶岩にも、恒星の爆発にも似た、人体を容易く蒸発させうる獄熱の赤を帯びた掌。

 伝播した空気を一吸いしただけで肺が焼け爛れ、臓腑が茹で上がる暴力的なまでの熱量が骸銘館へ照準を合わせられる。付近に転がる少女を巻き込むことも厭わず。


「クッ……!」


 停止した思考を無理矢理回転させて数瞬、骸銘館は咄嗟に四本腕と足を総動員して自らの身体を殴打。

 極炎から少しでも距離を取り、生存の確率を高めるためであったが、果たして解き放たれた赤が背後の壁諸共に全てを焼き尽くしたのは思慮の外である。


「カッ……!」


 宙に身を躍らせる中、彼女の全身に纏わりつくのは肺を焼き尽くすに充分な暴温を帯びた空気。間接的に呼吸が封じられたにも関わらず、殴打の衝撃で身体は水分と共に酸素も要求してくる。

 視界の端に掠めるのは、幾らかの焼け残った残骸と辛うじて少女の原型を留めるナニカ。近くで視認すればより詳細が把握できるかもしれないが、今の骸銘館に他者の健康を確かめる余裕は皆無。

 黒煙を棚引かせる四本腕を巧みに操り、自身の落下地点をアスファルトから近くを流れる星噛川へと変更させる。

 地上二五メートルともなれば自由落下における人体の許容限界を遥かに上回り、たとえ水面に落下しようとも衝撃で人体が内より弾ける可能性が高い。

 だが、罹患者であらば僅かな抵抗で誤差程度でも生存率が上昇させうる。


「助け……お母さ……」


 一七にも満たない少女は薄れる意識で漏らし、微かに残った強靭な意志で口を紡いだ。



 夜闇の進行に対し、沈みゆく太陽が最期の抵抗を見せるが如き赤を遠目に眺め、霜月を一望できる丘に建てられた教会からピアノの音色が奏でられる。

 永遠の安息を求める鎮魂の歌。

 憐れみ深い神を賛美し、罪人が憐れみを冀う音色。

 モーツァルトが生前最後に手掛けた作品にして、完結へ導けなかった作品。

 ケッヘル目録六二六。レクイエムニ短調。

 教会の中に明かりはなく、闇に目を凝らさなければ無から音が生えているようにも思えるだろうか。


「主よ、我が祈りを聞き届け。絶えざる光もて照らし給え」


 教会の前面の大半を占める特大のパイプオルガンを爪弾くは、カソックに身を包んだ一人の男。

 男の指が鍵盤を叩く度、対応した発音体に空気が送り込まれ、設定された音高を奏でる。注がれた空気にのみ尽力し、指が離れれば即座に音を停止。

 音の強弱もなく音色の変化も見せない様から、著名な作曲家からも呼吸をしない怪物と揶揄された管楽器を巧みに操る様子は、男の腕前が一朝一夕ではないと断ずるに余りある。


「主よ、憐れみ給え。この地に万感の憐れみを注ぎ給え」


 嘆く言葉は真に救済のため。

 今この瞬間にも失われていくあまねく命に対し、せめて魂の救済だけでも為されん事を祈り念じる。


「あぁ恐ろしき怒りの日、終末の時。予言の如く下されし審判よ」


 詠唱をここに。

 燃え盛るアインゴルトに留まらず、万象全てへの嘆きを。


「審判を逃れる術無し。高らかな福音と共に屍すらも甦り、玉座の元で裁きを待つ」


 発音管が奏でる音は時になだらか、時に激しく。

 強烈な緩急が織り交ぜられた音色は、コーラスの幻聴が聞こえてくるほど。


「無償の慈悲よ、泉の如く沸き出でてて我らに救いを与え給え」


 外では救急車のサイレンが喧しく鳴り渡り、赤の明滅が緊急性を物語る。

 元来であれば明らかな速度違反も、火事場に急ぐ専用車両には適用されない。むしろ、周囲の乗用車こそが彼に道を譲り、後より轍を一層深くする。


「我が祈りに価値はなく、されども永遠の業火と山羊を遠ざけ給え」


 厄災が、炎熱の地獄が再びこの霜月に降り注がれた。

 克明に刻まれた悲劇の続きを奏でるように、あるいは既に引き終えた楽譜から次のページを捲るように。

 なればこそ、聖職者が奏でる歌はただ一つ。


「呪いを焼き、終末を払い、我らの御心を灰より掬い上げ給え」


 即ち、神への救済を求めた祈りの歌。


「主よ、我らが父よ。灰塵より流れし涙を許し給え、エィメン」

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