エピローグ

潮風

 波は何度も何度も岸に押し寄せては、押し返される。大地と海は決して交わらぬと言うように。


 蜂蜜色の肌をした少女は漆黒の髪を潮風に弄ばされながら、その様子を飽くことなくただ見ていた。彼女はティアレトという。今までいくつもの名前で呼ばれていたため、自分の本当の名前すら忘れかけていたが、そのうちの一つが彼女の心を波のように打ち寄せては、薄れていく。


「リェータ……」


 確かそんな名前で呼ばれていたのだが、誰にそう呼ばれていたのか、全く思い出すことができない。思い出そうとするのだが、心に深い霧がかかったかのようにその先を見通すことができずにいた。忘れるくらいだから、たいしたことではないのだと心の中で何度も言い聞かせるも、自分の心を騙しきるには至っていない。


 この心の底に沈殿した澱はいつ払拭することができるのか、胸に小さな痛みを覚えた時、つんざくような汽笛の音が響く。


 見れば、外輪船がデルフィス港に入っていくところだった。あれに乗るのだと、ティアレトは何気なしに思う。故郷の大陸へと渡る船だった。


 あの船を見ていると、切ない気持ちになる。この大陸へきた時はまだ右も左もわからない幼子だったが、おそらくはあれに乗って、渡ってきたのだ。母娘揃って奴隷に落とされたのだから、複雑な気持ちを抱くのも仕方がないと、ティアレトは思う。


「戻ろう」


 あの船から多くの人が下船し、積み荷が降ろされたら、すぐに乗船手続きが始まる。そのことを同じ大陸出身の船乗りが教えてくれた。彼もまた故郷をなくし、奴隷階級に落とされたものの、この海で自分一人の力で自由を買い戻したのだという。今は妻と三人の子供を抱え、人生を謳歌している最中なのは、見ているだけでわかる。


 すごいことだと、ティアレトはその男を素直に賞賛した。一方自分は、と思ってから、どうやって奴隷から解放されたのか、記憶が曖昧なところがあったことを思い出した。その男のように働いて金を返したわけではないからだ。逃げてきたような気がするが、途中までの記憶はやはり霧の中だ。


 ティアレトはかぶりを振る。今考えるべきは故郷に帰ることだけだ。念願叶って、大陸に渡る船に乗ることができる。今はそれを喜ぶことにしよう。


 港に戻ったティアレトは早速乗船手続きを始めた。彼女のものではない旅券が役に立ち、ここまで彼女を連れてきてくれた。今回もそれを見せ、何の問題もないことが確認されると、ティアレトは緊張した様子で船に乗り込んだ。


 その時、知り合った男が駆けつけてきてくれて、彼の妻が作ってくれた弁当を手渡してくれたのだ。ティアレトが無事故郷に帰れるようこの港から祈ってくれるという。ありがたくて、何度も礼を言って、乗船した。


 さほど大きな船ではない。隣に停泊している帆船など、この船の二倍はありそうだ。それを差し引いても、転落防止の手すりから海面を見ると、目が眩むくらいに高い。足の裏がむずがゆくなるような感触を覚えて、ティアレトは後退すると、船体後部へと移動する。大きな外輪が目に入った。この外輪が回ることで、風がなくても船が進むと言うが、あまり難しいことはわからなかったので、半分も理解できてない。


 わかるのはこの船が間違いなく故郷へ行くことのみだ。一体どんなところだろうか。本当ならば、故郷を思って、逸らずにはいられないのだろうが、なぜか心の中には大きな穴が明いたように無感動に事実だけを受け止めている。目を凝らしてみるも、空と海の彼方に見えるものは二つを分かつ境界線のみだ。


 どのくらい海を見ていたのか、再び汽笛の音がして、ティアレトは我に返る。碇を上げる音が止むと、船はゆっくり岸から離れていく。せめての見納めとばかりに、ティアレトは離れゆく港を何気なしに見ていた。


 港ではまばらな人々が出航する船を見送っている。見れば、ティアレトの近くでも港に向かって手を振るものもいた。見送るものと見送られるもの、一体その胸にはどんな思いが去来しているのだろうか。


 船が離れるにつれ、ティアレトの胸は痛み出す。何か大事なものを置いてきたかのような感覚、その焦燥感がティアレトを蝕もうとしたその時、ある一人の少年が目に入った。彼は鮮やかな赤毛をなびかせ、ひどく満足げな顔を浮かべながら、金色の瞳はじっとティアレトを向いていた。その口が何事かをつぶやいた。聞こえるはずもないのに、ティアレトには確かに聞こえた。


「行け、リェータ。もうおまえを邪魔するやつはどこにもいないんだ。どこまでも心の赴くままに生きろ。さあ、旅立て」


 少年の声を聞いた瞬間、ティアレトの胸の痛みは熱へと変化した。耐えがたい熱は今まで心を覆っていた白濁した霧を吹き飛ばし、思い出が鮮明に蘇ってくる。その中心にいたのがその少年だった。皮肉屋で、口が悪く、性格もよくはなかったが、彼が身を挺して守ってくれなければ、ここにはいられなかったはずなのだ。


 記憶をすべて取り戻したティアレトは双眸から熱い涙を流しながら、手すりから身を乗り出して、心の限り叫んだ。


「レェェェェェェェフ!」


 もう居ても立ってもいられなかった。ティアレトは一度後ろに下がると、そのまま手すりに向かって走った。手すりの手前で飛び、さらに手すりを踏み台にして跳躍した時、彼女の身体は宙にあった。翼を持たない人間なので、ティアレトは重力によって海面へと落ちていき、船の後方に小さな水柱を上げる。


 船上では乗客が落ちたと大騒ぎになった。外輪に巻き込まれたらひとたまりもない。だからといって、即座に停船などできるわけもない。打つ手もなく海面を見ていた乗員と乗客はやがて遙か後方に人の頭が浮き出たのを見た。ほっと胸をなで下ろしたのはいいが、彼女は船ではなく岸に戻ろうしている。なので、以降のことは港に任せることにして、船はそのまま沖へと去って行ってしまった。


 港でも一騒動だ。港湾の作業員が浮き輪をもって右往左往していたが、どうやら落ちた乗客は港まで無事泳ぎ着いた。浮き輪を受け取って、引き上げて貰った彼女は礼もそこそこに、少年の元へと矢のように一直線に走って行く。


「レフ……レフ!」


 どうして今まで忘れていたのだろうか。あの口をゆがめるような、あるいははにかんだような笑顔を。ティアレトは彼の胸へと飛び込もうとしたが、それは寸前で止められた。レフが渾身の力でティアレトの頭を押さえたからだ。


「ちょっと待て。おまえ、そんなずぶ濡れのまま、おれに抱きつくんじゃないだろうな? この服新調したばっかなんだから、少しは気を遣えよ! な?」


 感動の再会を邪魔されたティアレトだが、もうそんなことはどうでもよかった。レフが生きて、この場所にいる。ほかに何が必要だというのだろうか。それでも、実際に触れるまで安心できない。ティアレトはレフの手を振り切ると、彼の懐に飛び込んで、きつく抱きしめた。


 いた。レフは確かにここにいる。それが何よりもうれしくて、レフの胸に自分の顔を埋め、その温度と感触を確かめた。さらに強く抱きしめると、なにやら苦しげなうめき声が聞こえて、ティアレトは顔を上げた。


「お、おれ、まだ怪我治ってねえんだって……ぐっ……やべ……意識が……」


「あ! あ! ごめん、レフ」


 慌ててティアレトが離れると、レフの顔にも赤みが差し、どうにか現世にとどまることができた。まだ呼吸が整わないが、それでもレフは笑顔を作った。端から見れば、苦悶の表情を浮かべたとみられるかもしれないが。


「よっ、リェータ、久しぶりだな」


「ティアレト!」


「え? 何だ、いきなり?」


「わたしの本当の名前! ティアレト!」


 まるで今告げねば、レフが消えてなくなってしまうのではないかという不安がティアレトを揺り動かした。対するレフも突然のことだったので、いまいち把握しかねたが、ティアレトの必死な形相とずぶ濡れの姿が相まって、つい噴き出してしまった。


「え? わたしの名前、おかしい?」


「いや、そうじゃねえよ。いい名前だって。これは本当にそう思うぜ、ティアレト」


 レフに本当の名前を褒められて、ティアレトは満面に笑みを浮かべる。大事な人から貰った名前を同じくらい大事な人へと伝え、呼んで貰うことができた。これからが本当の始まりだと思うだけに、ティアレトの顔にはたちまち曇り空がかかった。もう二度とレフが逃げないようにと、その腕をぐっと捕まえる。


「レフ、わたし、どうして一人にした?」


「あ、あー……まあ、いろいろあったんだよ。そんでさらにいろいろあって、ようやくここまでこれたんだ。まさか再会できるとは思ってなかったけどな」


「レフ……わたし、一人で寂しかった。すごく寂しかった。でも、寂しいの、わからなかった。だって、レフの顔、思い出せなかったから」


 ティアレトの目には涙になりきれぬ光があった。よかれと思ってしたことが、逆にティアレトに「呪い」を掛けてしまったのだ。レフはティアレトの身体を引き寄せ、静かに抱きしめた。


「ごめんな、ティアレト。もう一人にしない。だから、一緒に行こう、おまえの故郷に」


「うん……あっ!」


 ティアレトはもう一つ大事なことを思い出したかと言わんばかりに、レフの腕の中でその身体を跳ねさせた。驚いて、レフはついティアレトを離して、その顔を見つめる。すると、ティアレトは視線をそらし、小さく口ごもる。


「あの……レフ、怒らない?」


「何だよ、その嫌な前振りは? 聞きたくねえけど、一応聞いておくぜ」


「さっき、船から飛んだ時、お金落としたみたい……」


 何かと思えば、そんなことだったので、レフはきょとんとした表情を浮かべた後、額を押さえて大笑いした。久しぶりな感じがした。こんなに屈託なく笑うのは。


「あーあ、締まらねえなあ。だったら、稼げばいいだろ? 船賃ぐらい、何とかなるさ」


「う、うん! わたし、働く。わたし、結構力持ち」


 そう言って、腕をまくると、ティアレトはしなやかな腕をレフに見せつけた。レフはもう一度笑うと、途端に偽悪趣味が首をもたげてきたようだ。からかうような表情を浮かべ、ティアレトに軽口を叩く。


「まあ、期待してるぜ。おれは当分傷を癒やさなきゃいけないからな。当分、休ませて貰うぜ」


「レフ、それだめ。男のカイショー、ケイザイリョクって言ってた」


「誰が言ったんだよ。まあ、正論だけどな」


 レフがにっと笑うと、ティアレトも負けじと白い歯を見せて笑った。


 明日になれば忘れてしまうような他愛もない会話。二人の笑い声は海の向こうからの風に吹かれ、彼方へと運ばれていく。


 そして、どこに届くのか、誰も知らない。世界はある少年と少女に優しく微笑んでいるかのようだった。



                 (了)

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幻光の詐欺師と桎梏の姫君 秋嶋二六 @FURO26

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