雨が止んだら、きっとぜんぶ忘れる
「錫が何度で溶けるか知ってます?」
後輩が唐突にそう言ったのは、忍び込んだ空き家で雨宿りをしている時だった。
朝はいつも憂鬱な気分で目が覚める。俺がベットから這い出す頃には太陽はとっくに朝を連れてきていて「おはよう」なのか「こんにちは」なのか、よく分からない時間になっている。欠伸をしながらベットを這い出して、クローゼットとにらみ合うこと数分。
俺は結局、いつも通りに制服に袖を通した。家の最寄駅から乗り換えを含めて、二時間と少しのところに、その制服の学校はある。ブレザーを着込んで、金色のボタンを留める。俺と出会って二年目になるそいつは、袖のところがもうくたびれてきている。小さく息を吐き出した。それは勝手にため息みたいな色を含んでいた。
制服を着て、部屋を出て、母親が用意してくれた朝食の前を素通りして、空のリュックサックをもって、俺は家を出る。行き先はない。散歩と言えるほど心地のいいものでもない。ただ、毎日制服を着て家の玄関からどこかに向かっていれば、まともな人間でいられる気がするだけだ。玄関をでた先は、田んぼと畑と果樹園と民家がおもちゃ箱の中みたいに乱雑に並んでいる。いや、田んぼだけは随分前に区画整理があったらしいから、碁盤の目みたいに綺麗に整頓されているけれど。植えられたばかりの短い苗がそよそよと風に揺れている。その間をアメンボが泳いでいて、手前の用水路にはザリガニが居た。田植えが終わった田んぼとそうではないものが五分五分くらいである。太陽の光を反射してきらきらとしている田んぼを眺めながら、俺はぼんやりと歩いた。なにをしているんだろう、と思う。
ほんとうに、いったい、なにをしているんだろう。
もう着てはいけない制服を着て、どこにも行けないのに、ただぶらぶらと道を歩いて。朝ご飯を食べなかったからお腹が空いてきた。やっぱり朝飯くらい食べてくればよかった。引き返そうかと思ったけれど、どうにも椅子に座る気持ちになれなくて結局空きっ腹を抱えたまま俺は歩き続けた。
家からしばらく歩くと、右手に川が見えてくる。その川沿いをさらに進むと、橋の下に潜り込むことができる。落書きだらけで日が当たらなくて、いつもじめっとした空気の橋の下。そこには大抵、俺の知らない制服を着た少女がいる。大体いつもシャボン玉と一緒に。
「あー先輩、おはよーございます」
「おはよ、後輩」
後輩に「後輩」と呼びかける先輩はたぶん俺だけなんじゃないかと思う。でも、初対面の少女に名乗るのは気が引けたし、名乗らないのに名前を教えて貰うのはフェアじゃなくて気に入らないしで、俺は結局彼女を「後輩」と呼び続けている。橋の下の日陰に入ると、ようやく深く息が出来る気がした。柱に背を預けて、俺は地面に座りこんだ。教室にいるべき人間なのに、こんな場所の方が心地いいと感じるなんて、俺はいったいどうしてしまったんだろう。
後輩は吐き出したシャボン玉を端から潰している。弾けて水滴になった洗剤が地面の小さなシミになったけれど、暗くてよく見えない。彼女は飽きもせずにまたシャボン玉を吐き出しては潰している。自分で作って自分で壊す。癇癪を起した芸術家みたいだ。
「せんぱいは制服好きですね」
後輩はシャボン玉を吹く合間にそう言った。俺は屋根より高く飛んでいくことも、日陰の外に出ていくこともできずに死んでいくシャボン玉を見ながら「そうでもねーです」と答える。好きなわけじゃない。ただ、なんとなく、制服以外の何を着たら怒られないのかが分からないだけで。いや、ルール的には辞めた学校の制服を着ているほうが問題なのだろうけど、そういうことではなく、俺個人の精神的な問題として。
まだ一応高校生という身分である俺が、平日の昼間に制服以外のものを着ているととても「悪い事」をしているような気分になるのだ。家中のカーテンを閉めて、布団の中で丸まって「具合が悪いんです、だから許してください」と、誰かに言い訳したくなる。本当はすこぶる健康なのに。
「後輩さんだっていつも制服だろ」
「わたしは好きですよ、せいふく」
後輩は「似合うでしょ?」と言って、くるりと回ってみせた。校則に引っ掛かるのであろう短さのスカートがふわりと膨らんで、細い太ももが見えた。シャボン玉はいつの間にか空になったらしく、百円均一の袋に放り込まれている。彼女が一回転して止まると、スカートもそれに合わせて吸い付くようにしずかになる。まるで主人に付き従う凄腕の執事みたいだった。
「似合うよ、たぶん世界で一番」
「世界中のせいふくを着たひとを見たことがあるんですか?」
「ないけど」
「なるほど、てきとうですか。先輩モテないでしょ」
「モテるやつはこんなところに座り込んでねーよ、たぶん」
「あはは、そうですね」
後輩は楽し気に笑って、シャボン玉が入った袋を持ち上げた。「すこし歩きましょ」と言って、俺の返事を待たずに彼女は歩き出す。日向に踏み出す時に一瞬躊躇したように見えたのは、たぶん気のせいではない。太陽はいつだって、身を隠したい人間まで照らしてしまうから。
俺は後輩の半歩後ろから彼女についていく。歩くたびに黒のボブカットとグレーのスカートが揺れる。タン、タン、タン。跳ねるように歩く姿は楽しそうに見える。灰色の雲が太陽を覆い隠して、辺りの気温が僅かに下がった気がした。風の温度が変わったように思う。
「一雨来ますかねえ」
「そーかもな」
「びしょ濡れの高校生ふたりぐみは補導の対象になるとおもいます?」
後輩は歩調をゆるめて俺の隣に並んだ。こうして歩いているのを誰かが見たら、学校をサボっているカップルとかに見えるのだろうか。
「都会なら、な」
「あはは、このへん警察どころか近所のひともいませんもんね」
「人より野良猫と目があう回数の方が多い」
「先輩は猫が好きなんですか?」
「意志疎通の難しい生き物は全体的に苦手だ」
「なるほど、植物以外愛せないってことですね」
「苦手なものがそのまま嫌いってわけじゃないだろ」
例えば勉強とか。机に向かうのは苦手だけれど、新しいことを知るのは結構好きだ。他には雨とか。足が濡れるのは苦手だけれど、傘に雨粒があたる音は心地がいい。後輩はちらりと俺を見て、すぐに足元に視線を戻した。ローファーのつま先の汚れでも数えているんじゃないかってくらい彼女は足元ばかり見て歩いている。たぶん、きっと、前を見るのが怖いから。
「苦手を好きになるには、それ相応のきっかけがひつような気がしますけど」
俺はなんと答えるか少し迷って、結局「そーかもしれねーな」なんて、無難な言葉を返した。人の価値観なんて、否定しない方がいい。とくに名前も知らない後輩相手なら、尚更。風が頬をなぐるように強くなる。空が一気に暗くなってきた。いやな感じだ。少し湿っていて、生ぬるくて、雨の匂いがする。
「ほんとうに降りそうですね」
「どっか屋根みつけた方が良さそうだな」
俺はぐるり、と視線を巡らせたが、一番近い建物までも結構距離があった。雨が降り出す前にたどり着けるか、どうか。もっと他に雨宿りが出来そうな場所──ぽつり、と頬に水滴が落ちた。大きくて冷たい雫はあっという間にコンクリートを黒く染め上げ、ブレザーに浸み込んでいく。後輩は「降ってきましたねー」と無邪気に笑った。シャボン玉といい雨に濡れて嬉しそうなところと言い、彼女の好みは小学生みたいだ。俺は「走るぞ」と声をかけて、一番近い木造の家を指さした。後輩も頷いて俺の後を追いかけてくる。雨は叩きつけるように降り続いている。
俺たちがその空き家にたどり着いた時には、すでに全身びしょ濡れだった。濡れねずみというのは、今の俺たちのためにある言葉だろう。壊れた玄関の隙間から入り込んだ空き家はひどく荒れていた。虫とかダニとか、そういう生き物がたくさん居そうだ。土間より一段高いところにはまだ畳が残っていたが、さすがに座る気にはなれなくて、俺も後輩も立ったまま戸の隙間から外を見ている。灰色の空から落ちてくる雨粒は音を立てて地面にぶつかり、小さな雫をまき散らしながら地面に吸い込まれていく。もう少ししたら、田んぼの水を調整しに農家の人が通りかかるだろうか。空き家に忍び込んだことがバレたら面倒だな。怒られるかもしれない。
「錫が何度で溶けるか知ってます?」
不安になってきた俺とは正反対に、後輩はこの非日常的な出来事が嬉しかったらしく、いつもより早口になってそう尋ねた。スズ、すず、鈴? 何度で溶けるか、というのは金属の話だろう。鈴っていったい何の金属で出来ているんだろうか。俺は無言で首を傾げた。質問の答えも、どうしていきなり鈴なのかも、俺にはまるきり分からない。
「だいたい二四十度くらいなんです、凄いでしょ、家のオーブンで溶けるんですよ」
俺はゆっくりと瞬きを繰り返した。後輩の言葉を咀嚼して、飲み込んで、消化して。それでもまるで分からなかったから、もっと首を傾げることになった。分かったのは、後輩がしているのは音が鳴る方の鈴じゃなく、金属の錫なんだろうってことだけだ。俺が黙ったまま首をかしげていると、後輩は唇を尖らせるようにしながら早口に言葉を重ねた。その顔は拗ねているというよりは照れている、の方が近いように見える。
「せんぱいにもらうなら、錫の指輪がいいなっておもっただけです」
ぱち、ぱち、ぱち。俺はまた瞬きを繰り返した。
おれにもらうなら、錫の指輪がいい?
「溶けちゃうのに?」
口をついて出た言葉で後輩はちらりとこちらに視線を向けた。茶色い大きな瞳と視線が混ざって、とろける。白いおでこに張り付いた前髪は幼く見えるのに、うなじに沿うおくれ毛は艶めかしくて、眩暈がした。後輩がじっと俺を見つめたまま答える。
「とけちゃうから、ですよ」
薄い唇が言葉を紡ぐ様子を、俺はじっと見つめてしまった。雨に濡れて冷えたのか、それは紫色で僅かに震えている。どうしても、後輩から視線が剥がせそうになかった。たぶん、きっと、雨のせいで。後輩も珍しくつま先じゃなくて、俺を見ている。たぶん、きっと、雨のせい。
「指輪が溶けたら、全部忘れられるから?」
俺の問いかけに後輩は目を伏せた。
「雨が止んでも、きっとぜんぶ忘れますよ」
その言葉で指先が彼女の方に伸びたのは、無意識だった。ちょん、と彼女の手の甲に指が触れた感触で我に返って、謝って離そうとしたのに、後輩は何故かその手を握りこんだ。冷たくて、濡れていて、俺よりずっと小さな手。雨のせいだ。たぶん、きっと、全部。俺は静かに後輩との距離を詰めて、青紫色に変色した唇に自分のそれを押し当てた。やわくて、つめたくて、雨の匂いがするキスだった。
無意味で黄金よりも価値のあるもの 甲池 幸 @k__n_ike
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