無意味で黄金よりも価値のあるもの
甲池 幸
雨の日と君を怒れる人
「雨は好き?」
「場合による」
少女はぼんやりとした目で窓の外を眺めていた。僕は彼女に倣って、窓の外に視線を向けた。黒い窓枠の外側は、昨晩から降り続いている雨が世界を細かく分断していた。すぐ近くにあるはずの果樹園も、その手前の自転車置き場も、僕らのいる教室からはとても遠く感じる。雨が降っているせいだろう、と思う。
もし、雨粒がすべて小さな刃物なら、いまごろ世界はみじん切りになっていたのだ。玉ねぎに刃物を差し込むように簡単に、世界は終わっていた。
──いや。雨粒がチョコレイトだったら、いまごろ全人類がチョコレイトに埋もれて窒息死するなんて素敵なことになっていたかもしれない。宇宙にだって行ける人類を滅亡させたのがチョコレイトだなんて。やはり、とても素敵だ。
「もしも」
僕のくだらなくて些細で、でも覚えておきたいような気がする意味のない思考を少女の声が遮る。
「出かける予定があるなら雨は嫌だけど、一日中外を眺めてもいい贅沢な日なら雨は都合がいいよ」
僕は「一日中眺めるなら晴れた日の空のほうが健全で素敵だよ」と反論しようとして、結局彼女の言葉を肯定した。この話題には大した意味はないし、重大な話題ではないなら、わざわざ反論することもない。争いなんて、なるべく少ないほうがいい。特に、彼女との間では。
少女は特に言葉を発することもなく、ただぼんやりと窓の外を眺めていた。その瞳が何を見ているのか、僕にはまるで分らない。果樹園の木かもしれないし、誰かが乗り忘れた自転車かもしれないし、空から落ちてくる雨粒かもしれない。そんな現実的な、そこに存在しているものを仮定として挙げながら、僕は彼女の見ているものがこの世には存在しないことをよく理解していた。
窓の外には相変わらず雨が降っている。少子化で生徒が減るまでは教室として使われていたはずのここは、今ではすっかり物置と化していた。
いつ使ったのか分からない学園祭のポスター。
誰かの置き忘れた雨傘。
ほこりが積もった机と脚の曲がった椅子。
色褪せた本を今でも収納している棚。
そういうものが、乱雑に配置されている。僕と彼女は、その片隅で──正確には窓が見える位置の机の上に座って、窓の外を眺めていた。多くの生徒が部活動をしているこの時間帯、物置部屋は、とても静かになる。僕と彼女は、そういう静かな場所を好んだ。お昼ご飯に焼きそばを選ぶか、クリームパンを選ぶか。そんな気軽な好みの話だ。特に深い理由はない。
「くだらない哲学的な思考」
少女は窓の外から目をそらして、僕のほうを見た。その声に抑揚はない。まだ、言葉をしゃべるように作られたロボットのほうが人間らしい話し方をするような気がする。彼女はさらに言葉を続ける。
「今のは疑問形だよ、少年」
少女は先ほどよりも人間らしい声で話した。その口元が僅かに歪んでいるから、彼女はきっと愉快な気分なのだろう。その歪みを、一般的な笑顔と同じものだと定義することは難しい。けれど、僕と少女の間では、それは紛れもない笑顔の一種だった。僕はなるべく意識して綺麗に口角をあげた。一般的には微笑み、と呼ばれる種類の口元のゆがみを、少女は真似しようとする。けれど、結局うまくいかずに、彼女は僕から世界へと視線と意識を移す。僕は、彼女の意識が完全に世界と接続するのを待ってから口を開いた。
「哲学がなにかも、僕は知らないよ」
少女は僕に言葉を返さない。
「君のほうが、よっぽど世界と哲学とくだらない暇つぶしを理解している」
僕はそれを承知したうえで、言葉を続けた。僕を見ている少女に話すには少し気恥しい僕の話だ。少女は、ただ窓の外を眺めていた。その目はいつも通り、ぼんやりと濁っている。僕や担任の先生や、隣の席の佐藤さんには、決して見ることのできない何かを、その瞳は見つめている。
「僕は、いつか君の眼になりたい」
くだらなくて、決して叶うことのない願い。
「人間は目にはなれない、と思う」
少女は窓の外に目を向けたまま言葉を発する。その声には相変わらず抑揚がない。僕は言葉を続ける。
「願いも夢も、叶えるのが困難なほどいいよ。願いをひとつ叶えるたびに、この世界はつまらないものに変わっていくんだから」
彼女は一瞬だけ僕のほうを見て、僕と目を合わせた。ゆっくりとした瞬きの合間で、少女の瞳に自分の姿が反射しているのが見える。僕と彼女は、そんなにも近くにいた。少女は僕が三回瞬きする間に、窓の外に目線をそらしていた。
「そうだね」
少女の肯定を聞きながら、僕はその言葉が嘘であることを理解する。僕が彼女への反論を飲み込んだように、彼女も僕への反論を飲み込んだのだろう。短い肯定に含まれた多くの嘘をわざわざ暴こうとは思わない。日常生活に争いは少ないほうがいいし、争いを減らすために使われる嘘は正しい。
僕は少女から目をそらして、雨が降り続ける外を眺めた。部活動を終えた生徒の一団が自転車置き場へと走っている。雨に降られる、という些細な非日常に高揚しているのか、彼らはひどく楽しそうだった。笑い声が窓の隙間から僕と彼女の静寂に侵入する。僕は持ち込みが禁止さている腕時計を鞄から取り出して、時刻を確認した。そして、そのままため息を吐き出す。少女は、僕のため息を気にした様子もなく、窓の外を眺めていた。
「そろそろ帰ろう」
「そうだね、見回りよりも先に帰らないと面倒だから」
もう五分もすれば下校時間を告げる放送が鳴り始めるだろう。この学校は、校則を積極的に守らせようとしない代わりに、下校時間にはうるさいのだ。
「君は人に怒られるのが苦手そうだ」
少女は通学鞄を肩にかけながら、僕の目を見つめる。机から降りた彼女は、人と目を合わせて話すことを好む。僕は視線を受け止めて、動きを一度止める。
「そんなことはないよ。尊敬するごく僅かな人々になら朝まで怒られたってかまわないもの」
「君を怒れる人はこの世に存在するの?」
少女は口元を歪める。それは世間一般の笑顔と同義で、僕と彼女の間では笑顔ではない歪みだった。
「いるよ。きっと、すぐそばにね」
僕は少女から視線をそらした。
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