クジラの泳ぐ空の下

稀山 美波

空の下に浮かぶピンク色

 今日も空は淡い。

 段々と温かくなってきた塩水に気づいて目を覚ませば、霞んだ太陽が頭上で揺らいでいるのが見える。どうやら昼過ぎまで眠りこけてしまったようだった。


 ふわあと大きく欠伸をしてみせると、僕の吐き出した息が気泡となって天へと昇っていく。それが消えて溶け込んでいくまでの道程を目で追っていると、巨躯が太陽の光を遮って、その影が僕を包んだ。


「もうクジラが空を泳ぐ季節になったのね」


 優雅に空を舞う巨躯――クジラの姿にしばし魅入っていると、それを遮る人影と声とがあった。声の主は、まるで曲芸を披露するかのようにぐるりと一回転してみせたかと思うと、そのしなやかな腰と足とをくねらせ僕の背後へと回り込んでくる。


「夏ね」


 しんみりとした表情と声色とをした彼女は、ゆっくりと顎を上げていき、天を仰ぐ。僕もそれに倣い、先ほどまで淡く揺れていた光を掻き消したものへと再度目をやった。


 空の覇者、クジラ。

 僕らの住まうこの海において、彼らほど堂々たる佇まいのものはいないだろう。僕らの数十倍はある体を、水面近くでゆっくりと滑らせる。


 クジラは突如としてその巨躯をうねらせて、空の向こうへと跳び上がった。淡い太陽が一瞬だけその姿を現したかと思えば、たちまち空は大きく揺れる。それに伴って、霞んだ光も空の中でぐわんぐわんと揺らめくのであった。


「クジラって、哺乳類なんでしょ。このご時世に未だ肺で呼吸をするだなんて、前時代的よね」


 そう言ってニヒルに笑ってみせる彼女の首の付け根辺り――えらから小さな気泡が零れ、天へと昇っていく。それは大きく揺らめく空へと届くことなく、どこまでも続く海の中へと消えていった。


 僕ら人類が海で暮らすようになったのは、だいたい四百年ほど前らしい。

 なんでもそれまでは、この地球の約三割は陸地であったらしく、そこで地に足をつけ、肺だけで呼吸をして生きていたそうだ。


 しかし数十年にわたって大雨が降り続け、この星は名実ともに海の惑星となったという。陸は水に沈み、住処を追われた人類に残された術は、母なる海へと還ることだけであった。


 科学者たちは、後に鰓となる器官を人工的に生み出し、それを移植された者だけがこの海の星で生き残った。その子孫にあたるのが、僕たちである。鰓でも肺でも呼吸ができる――今の人類はそうやって進化を遂げ、ここまで命を繋いできた。


「いいじゃないか。僕もあんな風に空を泳ぎたいよ」

「なにがいいのよ空の」

「人の魂は空に昇る、って言うだろ。人はやっぱり空に焦がれてやまないんだよ。人が行きつくところ、それはきっと空なんだ」


 かつて地上で生きてきた人類にとって、『空』とは大気のことであった。

 だが海で生きる今の人類にとって、『空』とは水面のことである。


 微かに淡く揺らめく陽の光なぞ、僕らにとってはあまりに遠い存在だ。僕らの身近にある『空』とはつまり、遥か上空に見える水面に違いない。陽の光を覆ってしまう空を泳ぐクジラは、『雲』といったところであろうか。


「馬鹿馬鹿しい。ピンク、相変わらずあんたは変わり者だわ」


 大きな気泡を吐き出しながら溜息をついた彼女は、僕の股座またぐらをちょんとつつく。僕の下腹部を隠す布の上からでも、彼女の細い指先の感覚が確かに伝わってきた。


 ピンク。

 僕のあだ名だ。


 そう呼ばれている理由は、実に単純である。


「ちょっと。このトランクス、貴重なんだからね」

「あなたくらいなもんよ。服着てる人間なんて」


 光が僅かにしか届かないこの海で、目に痛いほどの色彩――ピンク色のトランクスを履いているからに他ならない。


 海で生活する上で、衣類など邪魔なだけだ。人類は陸を捨てたと同時、肌を覆うものの一切も捨ててきた。何度目になるかわからない気泡を吐いた彼女を見ても、その肌を覆うものは何もない。波たたぬ水面のようになだらかな肢体だけがそこにある。


「どこで手に入れてきたのよ」

「この間、ハカセが陸に上がったろ。必死に頼み込んで、その時に持ち帰ってきてもらったんだ」


 人類の九割九分は海で生活をしているが、ごく一部の人間がごく稀にごく少ない陸へと上がることがある。そのほとんどは、研究者の人間だ。ハカセとは僕の旧友のことで、彼もまた地質か何かの研究のため、一年に一度陸へと上がる。


 かつて『日本』と呼ばれていたここら一帯にある陸と言えば富士くらいのもので、彼はそこへ行くらしい。かつては『富士山』という大きな山であったらしいが、その頂上付近のみが空の上にあるのだ。


「この暗い海の中、ピンク色は目立っていいじゃないか。誰も彼も、すぐに僕だって気が付くよ」


 そしてそこには、かつての人類と同じように生活しようという変わり者もいる。彼らはそこで、四百年前と変わらぬ生活を送ろうと努力しているのだ。そこでは勿論、今では貴重となった衣類もある。


 そこから何とかして、僕はピンクのトランクスを手に入れてきているのだ。物心ついたころから、これを履いている。今まで履いていたものがとうとう海の藻屑となったので、こうして新調してきたのだ。


「そうね。皆あんたの存在に気づくわよ、『ピンクがきたぞ』ってね」

「でしょ。いいことじゃないか」

「笑われてるのよ」


 この話になると、彼女は決まって呆れた素振りを見せる。その表情には、苛立ちにも似た何かすら感じてしまう。だから僕は彼女の機嫌を損ねる前に、話題を変えることとした。


 何かないかと見上げてみれば、そこには未だ空を泳ぐクジラがいる。餌を求めてやってくる、夏の風物詩が。


「夏と言えばね、昨日本を思い出したよ」

「ピンク。あんたまた図書館に行ってたのね」


 ぽんと手を打って彼女の方へと向き直ると、笑みを浮かべる僕とは対照的に、実に冷めた表情をしていた。相変わらずあんたは本の虫ね――とでも言いたげだ。つまらなそうな顔のまま僕から視線を外し、優雅に体を一回転させてみせた後、近くを通りかかった鰯の群れにちょっかいを出し始める。


 海の中にはもちろん、本などない。

 だから、聞くのだ。


 遥か昔の著書、そのストーリーを語り継いできた『司書』と呼ばれる人たちに、賃金を払って本を聞かせてもらう。僕はたまらなくそれが好きで、司書の働く『図書館』へと足を運んでいる。


「ロバートなんとかっていう人が昔に書いた本らしくてね。過去と未来を行き来する話なんだ」

「ああ、私、そういう難しい話苦手なのよ」


 彼女はそう言うと実に苦そうな表情を浮かべ、顔の前で手をぶんぶんと振ってみせる。その動きに驚いた鰯の群れが、僕を通過していく。何匹かがピンクのトランクスにぶつかってきたので、少したりとも傷つけまいと必死に水を掻いて上昇した。


「そんな君でも気に入るんじゃないかな。昔地上にいた『猫』っていう哺乳類が度々出てくるんだけど、これがもう可愛らしくてね」

「ふうん。どんな風に可愛いのよ」

「猫はね、冬になると家中の扉を開けるよう飼い主にせがむんだ。家の扉のどこかが夏に通じてるんじゃないか――ってね」


 そう言いながら、僕は改めて空を見る。

 この世界に扉などなく、あるのはどこまでも開けた水の世界だ。のんびりと空を泳ぐクジラだけが、空という果てしない扉の向こう側に夏が広がっていることを伝えてくれていた。


「夏に続く扉、か」


 ただでさえ暗い水色が広がるこの海に差す唯一の淡い光が、今は空の覇者に遮られている。それに同調するかのような深く暗い笑みを浮かべながら、彼女はそう呟いた。


「私は、夏も冬もない暗く静かな世界へ続く扉を見つけたいな」


 空と大気とを隔てる天の扉を見つめながら、彼女は海の中でゆっくりと寝転んだ。実に健康的な乳房が目の前を通り過ぎ、実に滑らかな下半身が僕の眼前へと躍り出る。薄い闇が広がるこの海の中でも、その白く透き通った肢体はよく目立つ。


「私たち人類は、陸を捨てて海へ来たのよ。なのにピンクみたいに、旧人類の真似事をする人間も少なくない。夏だの冬だの、陽の光がどうだの、空がどうだの。前時代的にもほどがあるわ。あのクジラだってそう、未だに空から出られない可哀そうな奴よ」


 その白い裸体が、段々と赤らんでいくように感じられた。彼女の周囲にある水だけ、どこか熱い。そんな気さえしてくる。そんな異常事態もお構いなしに、クジラはただのんびりと初夏の空を泳いでいた。


「人類をもう一歩先へ進めるためには、そういう一切合切を捨てるべきなのよ。人らしさを失くして、ただひたすらに海に生きるべき。夏も冬も、光も陰もない、そんな世界へ続く扉を、私はくぐりたい」


 震える唇から泡を幾度となく吐き出しながら、彼女は両の手を掻き、ずんずんと深く潜っていく。光すら届きそうにないところまで彼女が進んだところで、僕はハッとして彼女の意図に気づく。


「深海に行きたいのかい」


 深海。

 淡い光すら届かぬ、未知の世界。


 海で生きるのに順応してきた僕らの目ですら、何かを捉えることも叶わぬ闇の世界だ。彼女はそこへ続く扉を開けんとしているようだった。


「だめだよ。僕らの体じゃ水圧に耐えられない」

「そうやって陸地にしがみついてきた旧人類は滅んで、勇んで海に飛び込んだ私たちの祖先が生き残ったのよ。やってみなければわからないじゃない」


 彼女の意識は、もうすでにこの海には、空にはないようだった。深く暗い底を地とし、ここを空にしようとしている。


「ねえピンク。あなたも一緒に行きましょう」


 彼女の甘く苦しい囁きが、無限に広がる水を伝って僕の耳へと届く。自らの声が作った波紋を打ち消すよう、彼女はこちらへと舞い戻ってきた。


「私たちで新しい人類を始めるのよ。それをするのは、ピンク、できればあなたとがいいわ。夏も冬も光も陰もない海の底で、子を作り、命を紡いでいきましょう」


 ぬるりと水中を這う彼女が僕の背後へと回りこみ、つうと首筋を撫でる。彼女のふくよかな乳房の感触が背中へと伝わり、思わず僕は口元から気泡を吐き出してしまう。


 彼女と愛し、彼女と子を為し、新たな人類を始める。

 それは、なんて魅力的な提案だろう。


「できないよ」


 それを必死にはねのけた瞬間、薄く淡い光が僕たちの目を焼いた。空を泳ぐクジラの尾の先から、波打ち揺らぐ太陽が垣間見える。その光は僅かなものではあるが、僕をこの空の下へと縛り付けるには十分なものであった。


「僕は、この海が、この空が好きだから」

「私よりも好きなのね」

「君とこの空の下で生きるのが好きなんだよ」


 それは僕の本音でもあったし、僕なりの引き留め方でもあった。けれども、こんな言葉に揺らいでしまうほど彼女は簡単ではないことも、僕は知っている。彼女はきっと、僕よりも新たな世界へと続く扉を選ぶことだろう。空を泳ぐクジラの存在を忘れるほどの深みへと、進んでいくに違いない。


「ねえピンク。そのトランクス、私に頂戴よ」


 ここに残るとも深海へ行くとも言わず、彼女は淡々とそう僕に告げる。


「暗い海の中でも、ピンク色は目立っていいんでしょ。光も届かない深海へ潜っていくのに、うってつけのお守りになると思うのよね」


 彼女の決心が揺らぐことないことを悟った僕は、黙ってトランクスを脱ぐ。久しぶりに外界へと晒す下半身に違和感を抱きつつも、それを口にすることはせず黙って彼女へそれを差し出した。


 彼女もそれを黙って受け取り、粛々と足を通していく。彼女の白く美しい肌に、ピンクの衣類はよく映える。彼女が足を上げる度、腿が僕の眼前へと晒される。それを見れば見るほど、彼女を抱えてでもこの空の下へと留めておきたい気持ちが湧きたったが、唇を噛み締めてなんとか堪えた。


「気が向いたら、ピンクも深海へ来てね」


 そう言って彼女は、ずんずんと深く潜っていく。

 今日こうして出会った際にも思ったが、やはり彼女の泳ぐ様は曲芸のようであり、動く芸術のように見える。



「私、ずっとこれ履いてるから。すぐに見つけてね」



 何度も手を振った彼女が作った波紋は、僕の下へ届く前に消えていく。そしてやがて、見慣れたピンク色すら、見えなくなっていった。



 それからしばらくの時が流れた。

 いったい幾つの朝を迎えたか、もう僕の記憶には残っていない。

 僕は旧友のハカセへと頼み込んで、また新たにピンクのトランクスを手に入れ、四六時中それを身に着けている。


 淡く光る水面を僕が『空』と呼ぶように、深海へと潜った彼女にとってはここが『空』なのだ。


 空に昇る太陽を拝むことが叶わないのならば、空で泳ぐクジラの姿を見ることが叶わないのならば、せめて僕の姿だけでも見つけてほしい。その思いを込めて、こうして僕は『ピンク』を続けている。


「おや」


 彼女のことを思い出すと、胸が張り裂けそうになる。それを少しでも和らげようと、僕は以前にも増して図書館へ足を運ぶようになった。

 その道中、この空の下には不釣り合いの色をした何かが浮かんでいくのが、遠くの方で確認できた。


「これは」


 それに近づいていくにつれて、心臓の鼓動はどんどんと大きくなっていく。淡い空に向かって浮かんでいくそれに、僕は確かに見覚えがあった。


 ぼろ布のようになってしまっているが、それは確かにピンク色をしたトランクス――僕が彼女に手渡したものに違いない。


 恐る恐る下を覗いてみると、どこまで続いているのかもわからない、深く暗い海溝が長く続いている。どうやらこれは、地の底からこの空の下まで浮かび上がってきたようだった。


「人の魂は空に昇る、か」


 彼女にとっての空とはつまり、ここである。

 ここまで彼女は、昇ってきたのだ。


 空にはもう、クジラは泳いでいない。

 空に広がる扉の向こうには、きっと冬が広がっているに違いなかった。

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クジラの泳ぐ空の下 稀山 美波 @mareyama0730

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