13 未来

 目が覚めたとき、隣にいたのはナバルだった。

 どの国どの街でも病院は白いんだな、とルカは思った。

 目覚めたことに気づいても、ナバルは口を開かなかった。

 腕も足も首もよく動いた。眠っていたとしても一日程度だろう。

 自分で窓を開ける。庭木の隙間から入る陽光が眩しかった。

「——あとでソイユも来る」

 つぶやくようにナバルが言った。

「元気なのかな」

「見た目には、な。けどそう振る舞ってるだけだろ。当事者だから好奇の目も多い」

「彼女だけが背負う問題じゃない」

「その通りだ。シエナをどう扱うのかは、俺たちみんなで決めなきゃならねぇ」

化生石けしょうせきから出したのかい?」

「いや。お前が倒れて、シエナが人を襲うのをやめた後、ツルデが何度もそうしようとした。けどあいつはあのままが良いらしい。石に邪魔されて近づけなかった」

「化生石から出されたら、不自由になるからだろうね」

 ナバルは頷く。

「正直みんなは怯えてる。いつまた人を襲うか、わかったもんじゃねぇからな」

「彼女に理性があり、人間のルールを守ることが出来るということはすぐにわかるはずだ」

「人間だってルールは破る。あいつがどこまでも人間であることが、むしろ不安要素になってくるかもしれねぇ」

「ただのオブジェになれって?」

「違うな。他人だから怖いんだ。何をするかわからない。どんな人間かもわからない。だが、そいつのことを知って、友達になればそうじゃねぇ。シエナが俺たちと同じ人間だってのは、もう、わかりきったことさ。だから俺たちは、シエナという人間についてこれから知っていく」

「そうか——そうだね」

 ナバルの理想が成し遂げられたときには、もう自分はいない。

 通り過ぎていく旅人としての、当たり前のことだ。

「お前には、どこまで見えていたんだ」

「何がだい」

「未来が、だ」

「俺には何も見えてない。そんなことが出来るのは風域ふういきだけだよ。彼は時折俺たちの肩を叩くけれど、何をすべきかはすべてヤドリの判断に任されている」

「それじゃ俺たちとほとんど変わんねぇんだな」

「違うとすれば、俺たちは経験から何をすべきかを判断できるということかな。人は、そう頻繁に国の存亡をかけた大事件に巻き込まれることなんてないしね」

「そりゃそうだ。これっきりで終わりにして欲しいぜ」

 だが一度危機を回避しただけで、永遠の平和が訪れるなんてことはあり得ない。

 いつかまた別の問題が起こって、たくさんの人が死のリスクを背負うことがあるかもしれない。

 そのときはまた、別のヤドリが未来を変えに来るだろう。

「どうしてエナクは俺に頼ってくれなかったのかって、考えてよ。俺は本当の意味で信頼できる友人じゃなかったのかもしれねぇ。ソイユのことだって、実は、遺言にはカムファの名前が書かれてたんだ。それを俺が無理矢理世話するって言い通して、認めてもらった。

 シエナだって、もしエナクが俺を信頼していたんなら、任せてくれたんじゃねぇか。化生石に入れて、暗い土の中に埋めるなんてことは……」

「ナバルは、イリ研究所に戻るつもりはないのかい?」

 彼は顔を上げたが、口はしっかり閉じていた。

「日記を読んでみると良いかもね」

「俺が読んだら怒りそうだしな。やめとくよ」

 エナクとナバルには、ルカの知らない関係性がある。

 そこに横たわる問題も、彼がこの街を出てから、何らかの変化が生まれる。

「俺のことを、無責任だと思わないか」

 ルカはヤドリとして話している。

 ヤドリは人間だ。

「俺は確かに、シエナの暴走を防ぐために少しは役に立ったかもしれない。だけど、それだけだ。この街はこれからも長く発展し続けるだろうけど、そこには多くの問題が横たわってる。ナバルが言っていた採掘場の労働の問題。ツルデの名誉が未だに回復されていない問題。シエナの事件がこれだけ大事になったんだ、必死になって隠してきた嘆きの泉の真実も、もう明らかにするしかないんじゃないか。

 そしてこれから二人以上の子供が同時に産まれたとき、扱いをどうするのか。これは落珠らくじゅの扱いを考え直さなきゃならない、きっかけにもなるだろうね。クワッカをみんな、まだ食べ続けるだろうか。

 多くの変化が起こるのは間違いない。

 だけど俺は、それには全く関与することなくこの街を出て行く。それがヤドリというものなんだ。俺たちは大きな仕事をこなすけど、小さな仕事には構ってはいられない、と言える。ひどい話だと思わないか。一人一人は、本当は、小さな仕事を積み重ねて、その中で巻き起こる問題を解決していかなきゃならないのに。それが生活で、現実なのに、俺は無視する」

「誰かにそれを非難されたか?」

 ナバルが真剣な面持ちで言う。

 ルカは首を横に振って、窓の外を見た。

「お前は大きな仕事を完遂した。それだけで十分だ。そんなことが出来るやつなんて、他には中々いねぇ。これは——くそったれ、アユタのやつが良いそうな台詞だがな。お前はお前の強みを活かして、お前だけが出来ることをやり、結果を出した。それが全てだし、そのことにお前は自信を持つべきだ。

 お前がいなけりゃ、俺たちはシエナのことをうやむやにしようとし、見ないふりをしてるうちにあいつは暴走しちまって、みんな死んじまった。お前がいなければ、ソイユはシエナと話し合おうなんて思わなかった。シエナのそばに近づくことも出来ず、あいつを止められなかった。お前がもしあそこで銃を撃ち、シエナを殺していたら、俺たちは助かっただろう——だが、俺たちはまた悲劇をなかったことにして、将来、同じことを引き起こしちまったかもしれない。俺はエナクにも、ヨルハにも、ソイユにも、合わせる顔がなくなったに違いねぇ。

 ありがとな、ルカ。感謝しかねぇよ。他のことは俺たちに任せてくれ。労働、落珠、その他もろもろ——全部ここで生まれ、育ち、これからも生活していく俺たちが考えるべきことだ。

 風域とか言う神さまみたいなやつを味方につけて、良い格好しやがって。それくらい俺たちにやらせやがれ」

 ルカは、傷ついた自分の体を改めて確認した。

 ナバルの薬だ。よく効いている。

 本当に、心にも、効く薬だ。

「ひとつ頼みがあるんだけど。オルトラを一台、もらえないかな」

「タダってわけにはいかねぇな」

「ひどいな。さっき散々褒めてもらって、結構良い働きしたんじゃないかって思ってたのにさ」

「どの運び屋もみんな、ちゃんと自分で荷物を運んで稼いだ金で、オルトラを手に入れる。お前だけ特別ってわけにはいかねぇよ。

 でもな。お前は、うちの運び屋でいる限りは、クフタ商会からオルトラを借りる権利を持ってる。運び屋ってのはハードな仕事だから、ずいぶん遠くに荷を運ぶことだってあるんだ。

 ルカ、お前はこの短期間で、俺もびっくりしちまうような実績をつけた。そろそろ自立するときだ。これからはいちいち、お前がどこでどんな荷を運んでいるのかなんてのは確認しねぇ。ただすっかり仕事を終えて帰って来たときに、あの駐輪場に置いといてくれりゃそれでいいのさ」

 ナバルの優しさに、目頭が熱くなる。

「ったく、ソイユのやつ遅いな。悪いが俺は仕事があるんでな、先に失礼するぜ」

「ああ。ありがとう。色々と、世話になったよ」

「なんだよ、今生の別れみたいじゃねぇか」

 ナバルは最後には笑顔で出て行った。

 ルカはそのことが嬉しかった。

 彼はエナクの後を継いで、リトリテの研究をするだろう。

 窓から入ってくる風が心地良い。


 ソイユが病室を訪れると、ルカはすぐ彼女を外に連れ出した。オルトラに乗って風域を目指す。

「約束だからね。見せてあげるよ」

 シエナのいるところはまだクレーターになっている。そこから少し離れたところでツルデとクエン、そして自警団の面々が侃々諤々の議論を繰り広げていた。一度溶けた化生石はまた硬化してしまったようで、黒い化生石の膜で周囲の地面は覆われている。

 ルカは風域の前でオルトラを停めた。高濃度の風が空間をゆがめている。

 今ようやく、彼は自分が成功したのだとわかった。一歩ずつ近づくにつれて、風域が作り出している壁から風が外に抜け出し、密度を下げていく。彼が右の手のひらで壁に触れると、一気に風は霧散し、周囲にごく短い突風が吹いた。

 中に現れたのは廃墟のような何かだった。崩れた壁や煙突は黒く、積み重なっている。かろうじて建物らしき外観を維持しているものの、指先で触れただけで灰燼に帰してしまいそうなもろさだった。しかしルカが風域の範囲内に入ると、瓦礫の一つ一つが宙に浮かび、色を変え、まるで崩壊の歴史を巻き戻しで見ているかのように組み合わさっていった。瞬く間に作り替えられたその姿は、さっきまでの崩壊した姿からは想像も出来ない、巨大な変形オルガンだった。

 全体としては塔のように縦に長く、地面から四分の一ほどの高さの位置にある鍵盤は扇形に広がって前に突き出ている。鍵盤の蓋は海の高波のように豪快な曲線を描き、足鍵盤は丘の起伏に沿うよう並んでいる。背中からは五十本のパイプが伸びており、それぞれが違う方向を向いていて高さも異なる。よく見ると一本一本のパイプの中にも筒が入っていたり凹凸で文様を作っていたりする。先端はラッパのように外側に反り返っていた。色は透き通ったエメラルドグリーンで、奥の景色を映している。

「すごい……」

「これが風域のシンボル。ここまで大きいものは滅多にないね」

 ルカがシンボルに触れると、そこから薄紅の波紋が全体に広がって消えた。触れる度に色は変化し、触れ続けるとその色はしばらく定着する。

「声がする」

 手を通して伝わってくる声をルカは聞いた。

 しかしそれは言語ではなく、新しい行き先を示した地図だった。

「なんて言ってるの?」

 ソイユが尋ねる。

「頑張れって、そんなところだ」

「誰がこんなものを作ったのかな」

「風域だね」

「そんなことも出来るの?」

「『——はじめに風があった』」

 ルカはオルガンに背を預けて言う。

「『風は、その心を内に秘めていた。風の心が地を産み、生命は地から芽吹いた。風は、花の中で最もふさわしいものをあなたと呼んだ……』」

 一つ一つの言葉が、彼の体に宿っている。

「風域の伝承だよ。シンボルは、風の心が可視化されたものであり、風域自身が形作ると言われている。『あなた』がヤドリを指している」

「ふさわしいっていうのは、どういう基準で決まるの?」

「さぁね。誰も知らないし、どこにも書いてない」

「私にはわかる気がするな」

 ソイユが微笑む。

「行こう。また風域が形成されて、閉じ込められたらたまらないからね」

「ルカは、どこまで行くの」

 ソイユは動かなかった。

「遠いところだ」

「——嫌だって言ったら」

「俺は行くよ。君の薬膳が食べられないのは残念だけどね」

 ルカは一人で歩きはじめた。

「旅の途中には驚くほど何もないんだ。出る前に色々と買っておく必要がある」

「私は——ここでシエナと話していくわ」

 ソイユはルカを追い越して。

 目一杯の笑顔でそう言った。

「わかった。ソイユ、ありがとう」

 うまい別れ方が、ルカには未だにわからない。

「君を信じてよかった。それじゃあ」

 ルカはオルトラに乗って風域を離れる。途中でシエナの像がこちらを見ていることに気づき手を振った。その像は白と黒のマーブル模様で出来ていて、周囲には赤い化生石の花が咲き乱れていた。

 一通りの買い物を済ませ、アユタの家に寄ったが不在だった。また大量の荷を運んでいるのだろう。

 この街の硬貨を詰めた巾着袋をポストに詰め込む。

 そしてルカは風域の地図に従い、オルトラを南に走らせた。

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風の領域 ―—顔のない蛇 平沢うづな @uzuna_hirasawa

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