石川宰

あいつと私

 雨の日は静かで、何故だか落ち着く。落ち着く様でいて色々な事を思い出し、或いは思い巡らしては哀しくもなる。それでも、雨が好きだ。

 雨が降ると匂いが変わる。雑音は掻き消され、其処に自分の世界が生まれる。周りと隔絶された様な錯覚を覚えるのだ。気分の良い日なら、私は外の世界を思う存分駆け巡り、新たな冒険に胸を高鳴らせる妄想に更ける。そこは日常と懸け離れた世界で、世界は全て自分の思い通りになるのだ。


 だが、今日は何故だか、外で降っている雨が気になって仕方が無い。窓辺から庭を見ると昼下がりだと云うのに薄暗く、庭に咲いた紫陽花が雨の中で揺々と揺れている。紫陽花の葉は溜まった雨水を時折大きく跳ね揚げる。跳ね揚げられた雨水は、勢いよく空に戻って行こうとするが、重力に逆らいきれず、やがて力を失って全て地に打ち付けられていく。軒先に溜まった雨水は至る所で雫となって少しずつ膨張していくが、膨張しきった雫は自身の重さに耐えきれず、軒先から地に落ちていく。

 私はこの雫を眺めているのが好きだ。私は気に入った一雫が落ちない様に祈ってみるが、私の祈りも虚しく、どの雫も例外なく地に引き寄せられその姿を消していく。雨はまだまだ止みそうにも無い。こんな日はいつも物思いに更けるのだ。

 昼下がりの家には誰も居ない。みんな朝から出かけてしまっている。どこに行っているかは知らないが、きっとあいつは今日も辛そうな顔で帰って来るのだろう。そういえば、今朝は泣き出しそうな辛い顔をしていた。私は紫陽花を眺めながらふと思い出した。


 今朝、空腹で眼が覚めると、私は寝床から起き出して、先ずはいつもの様に誰も起きていない事をそっと確認した。其れから洗面所に行って、いつも綺麗に汲んである水を飲んだ。

 ––なるべく誰にも会いたく無いのだ。私は人が嫌いだ。我儘で横暴で気分屋で暴力的で、例を挙げればキリが無いが、兎に角嫌いだ。私は独りで自由に過ごしていたい。好きな物だけを食べて、一日中碌々(ごろごろ)していたい。誰にも干渉されたく無いし、「同じ物ばかり食べて身体に悪い」とか聞きたく無いのだ。––

 一頻り(ひとしきり)水を飲み終えた頃、あいつが起きて来た。

 人は嫌いだが、あいつはまあ例外だ。あいつとは昔、よく喧嘩をしたものだが、いつの間にか喧嘩をしなくなった。多分、お互いに分かり合えたとまでは言えないが、嫌いでは無いし、まあ適度な関係なのだろう。

 私は洗面所に入って来たあいつと軽い挨拶を交わして、朝御飯を用意して貰った。

 あいつの良い所は、ごちゃごちゃ言わずに私の好きな物をたっぷり用意してくれる所だ。他の奴らみたいに、いちいち絡んで来ないので、気が楽だ。


 そう、その時もちょっと感じたのだ。何となく様子が変だったから、今も少し気になっている。

 庭の紫陽花は休むこと無く、その葉に雨水を蓄えては跳ね揚げている。私は急に昔のことを思い出した。


 いつ頃からだろうか、私はカツヲ節を一日二食、食べている。正直、これ以外は無くても良いくらいなのだ。

 それこそ昔は何でも食べた。本当に何を食べても美味しかった。カツヲ節を初めて食べた時も勿論美味しかったのだが、別に他の物は要らないと言う程でも無かった。

 その頃はお姉さんと二人で暮らして居たのだが、或る日を境に知らない奴が来る様になってから、私の生活は一変した。私は其奴の事を特に気にしていなかったのだが、其奴は何故か私のことが疎ましかった様で、段々と緊迫した空気を醸し出して来る様になった。日が経つに連れ、それは段々と激化してきた。私は其奴にいつ狙われるか分からなくなり、用意して貰った食べ物も段々と信じられ無くなってきた。いつか殺されてしまうかもしれない。ずっと逃げ出したかった。お姉さんも其奴が怖かったのか、何も言わず縮こまっている様だった。私は身体も勿論痛かったが、心はそれ以上に辛く苦しい日々だった。それから数年経ち、辛い日々が終わりを告げ、どこかに引っ越した後も、私は人を信じられなかった。

 その頃からだったと思う、カツヲ節だけを食べるようになったのは。今思えば、幼い頃のトラウマと言う訳でもないと思う。ただ、それが楽だったのだ。今日は何を食べようとか、これは美味しいのかな?とか考えたく無かった。或いは不味い物を食べさせられて後悔したくなかったのかもしれない。そのうち、習慣となり麻薬の様に止められなくなったのかもしれない。或いは、何度か死にそうになった時に、いつ死んでも良い様に後悔のない生き方をしようと、達観したのかもしれない…。いや、そんな高尚な物じゃない。ただ単に、好きな事を思う様にやろうって思っただけな気がする。


 雨は止むことなく、外は私の記憶の様に暗く、紫陽花はそんな私の記憶など知る由もなく、知らん顔で綺麗に咲いていた。

 それから更に数年して、私達とあいつが一緒に暮らすようになった。それからは、穏やかな日々が続いている様な気がする。最初は私も恐る恐るといった付き合いだったが、今になってみればそれなりに穏やかな日常を手に入れることができたのだ。

 だが、いつ頃からだろうか、何故だか、あいつの顔が悲しく見える様になった。何故あんなに悲しい、苦しい顔をしているのだろうか?それほど辛い事をしているのだろうか?

 ––そんなに辛いなら止めればいい、好きな事だけすればいいだろう。––

 話せるものなら話してやりたかった。だが、私の声はいつも喉から出掛かって、いつもそこで止まる。解っているのだ、それが出来るなら苦労はしない。

 あいつも私に同情していたらしい。––こんな家の中に閉じ込められて気の毒だな––と何度となく聞いた。


 ––ただ生きているだけなのに、何故、こんなにも苦しむのだろう。好きな様に生きていけず、辛い思いをするだけなのであれば、なんと悲しい事だろう。––

 ––辛い事などする必要は無いのだ。嫌なことも、誰かに遠慮などもする必要は無いのだ。––

 ––自分の人生なのだから。––


 窓から外を見ると、雨はまだ降っている。軒先から落ちてきた雨の雫は、真っ直ぐに下に向かっていく。空気抵抗を受けながらもその圧力に逆らって綺麗な形を保ち続け、やがて、地に落ちて、その瞬間に弾けて消え去るのだ。地に当たる迄が雫の最高の時だろう。

 ただ只管(ひたすら)真っ直ぐに落ちていく…。

 地に落ちていくことが分かっていながら生まれ、地に落ちて、弾けて消えるその瞬間まで、ずっと抵抗を受けて苦しみ続け、真っ直ぐ落ちて死んでいく。まだ死んだことは無いのだが、そう思えてならないのだ。

 この雫の姿こそ命そのものではないのか?

 今朝もあいつは寂しそうな背中を見せて出かけて行った。黒い傘に雨水が跳ねて流れていく姿が、黒い涙を見ている様で辛かった。他人を同情したことはないのだが…。何故だか、あいつのそんな姿を見るのは嫌だった。そんなに嫌なら、出かけなければいいのに…。


 ふと、いつだったかあいつが言った言葉が頭に過る。

 ––俺が不自由な分、お前は自由に生きろよ。––

 この言葉は、私の頭の中で波が押し寄せる様に溢れてきて、波が引くかの様に離れては、また押し寄せて…、ひたすらそれを繰り返す。消える事はない。


 私にとっては穏やかな日々だが、あいつは辛いのだろうか。

 そう、私が働きもせずに一日中だらだらとカツヲ節だけ食って生きながらえているのはあいつのお陰なのだろう。だから、偶には自慢の毛並みを触らせてやるのだ。少しはあいつの傷だらけの心も癒されるかもしれないのだから。それがあいつにしてやれる私の精一杯だ。

 私はあいつの唯一の知己なのだから。


 窓から外を見ると、いつの間にか雨は止んでいた。

 紫陽花は雲の隙間から射してきた陽の光に照らされて、キラキラと揺れていた。


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