第3話共同生活
話が決まると早かった。
荷物も微々たる物の私だ。ボストンバック1つもない。…それが私があの家で暮らしていた全て。
だから……取りに行く程でも無いのだが。
確かに今日着替える下着も無いのは嫌だと、なけなしの恥じらいが働いたのも、正直な愛の心だった。
だから、荷物取りに行ってこい、との雇い主の命令が有り難いのか、傍迷惑なのか、愛自身にも解らなかった。
「今日から暮らすなら、荷物を取りに行く必要が有るだろう」
翡翠は珍しくて槍でも降りそうな台詞を、表情に笑いは無いもののそんな優しい言葉を愛にかけていた。
本人には自覚がない。無いものだから、黒猫のリリスは驚きを隠せなかった。他人を寄せ付けないのはリリスも一緒だが、翡翠だって負けてない。
気に入らない相手は自分のテリトリーに入れたりしない。
何度愛が、荷物は少ないからと言っても翡翠も引かない。だから……。
「バック1つ分の人生です」
愛は悲観する事なく答えた。
「それでも無いよりはあった方が良いだろう?」
翡翠の言葉に、何処か心が満たされた気がしたけれど、それが何なのか?愛には解らなかった。
「それもそうですね」
買い換える余裕なんて無いから、とは言わなかった。
何故だか翡翠には知られたくなくて。
◇◇◇◇
翡翠が車を出してくれ
ので、普段の電車と徒歩での帰宅よりも、思ったより早く家に着いてしまった。…この時間は家にいたくないから、何時だって避けていたのだが、今回ばかりはそう言っていられなかった。
繁華街から大分離れた閑静な住宅街。
大きな家が目立つ。比較的裕福な人間が集まり暮らしているのだろう。
お洒落な家。…
でも何故か暖かさがそこには感じられなかった。
夕焼けに染まった空がもうじき夜だと教えてくれるのに、ひっそりとした空間に今も愛は馴染めていない。
「ここか?家は」
「……はい。今荷物を取ってきますね」
何処か家に近づく程に暗くなる表情に気付かない程鈍くもない翡翠だったが、どう声を掛けるべきか迷っていた。
愛の事を何も知らないからだ。
話したがらないと言うことは、少なくとも幸せでは無かったと容易に想像出来てしまう。
「一緒に行ってやろうか?」
普段なら絶対に言わない台詞に、後部座席にちょこんと座っていたリリスが驚く。
「有り難うございます。…でも大丈夫です」
家に入っていくのを黙って見ている。
愛の悲しそうな背中に、翡翠は目が離せなかった。
綺麗な家だと思う。手入れも良く行き届いている。でも暖かさは翡翠も感じられなかった。
愛が大丈夫だと言っても、ついていってやれば良かったか?
等と考えても後の祭りと想い知る。
◇◇◇
愛が家に入る。「ただいま」これでは聞こえないだろうと思うが、元々聞いて欲しくて言っている言葉じゃない。
礼儀だから言っているけど、それはこの家族相手にでは無かった。
広々とした玄関で靴を脱ぐと、廊下を音を立てずに歩く。
2階の部屋に行くにはダイニングの横の廊下を通過するしか道はない。
すると、すでにダイニングで夕食を家族は食べていた。
勿論愛の夕食何て用意されていない。
おじさんとおばさん。
子供2人。一人は愛より年上の女子大生。もう一人は愛より2歳程年下の男子高生。
おじさんと、うちの父とは兄弟だそうだ。それも仲が悪いと言うおまけ付き。
母方の親戚の家を転々とし、行く場所がなくなって、やっと渋々引き取ったのだ。
愛は何時ものように気配を消して2階へと上がった。
突き当たりの北側の四畳半の物置小屋が愛の部屋。そこしか部屋が無い訳じゃない。使っていない部屋なんて他にも余っている。でも愛に与えられたのは、その部屋だと言うことだ。
特に名残惜しい事なんて無いから、既に用意してあったバックだけを持つと愛は階段を下りた。
ダイニングを横切る時に不覚にもおじに見付かり呼び止められてしまった。
「愛、この時間から何処に行くつもりだ?」
「バイトです」
嘘ではない、でも住み込みだとは伝えるつもりもない。
「何でそんな大きなバックを持っていくんだよ?」
次に声をかけてきたのは、この家の長男。
でも愛はそれには答えずスルーした。
「愛、答えなさい」
自分の息子の言葉を無視したのが気に触ったのか、おばが重ねて聞いてくる。
「住み込みで雇って貰える事が出来たので、今日で出ていきます。お世話になりました。さようなら、お元気で」
感情の籠らない声で一息もつかずに言い切った。
言い切ったそのままの勢いで、玄関に向かった。
ガタンと椅子から立ち上がった音がする。
「待ちなさい!!…家が追い出した見たいで外聞が悪いじゃないか!…迷惑ばかりかけて、少しは考えたらどうだ!」
どんな言い種だろう?
「これ以上邪魔はしないと言っているんですよ?何が不満です?」
愛はこの家に来て初めて反抗に近い言葉を彼らに伝えた。
でも帰って来た言葉は肯定じゃなく否定。
言葉が通じない。
困り果ていたところに、玄関の来客を伝えるチャイムがなった。
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